〜〜 ち(八章) 〜〜  
 
――ここは……どこ?  
 
 
 二人を出迎えたのは日中の明るい日差しではなく、いや最初はそうだったのだが次第に鋳物で  
固めたような紫がかった空に変わっていった。  
 それとは対照的なまでの、磨きあげた碧玉を思わせる滑らかな、そして透きとおった水の面。  
 他の客の姿は見えない。  
 
 
「なんだこりゃ。海か? あれ」 眼前の水を驚いて見つめている。  
「それにすごい空よね……」  
「……空?」  
 ハルヒに指摘されて眩しそうに見上げた彼は、疑問形で言った。  
「ラヨークにようこそ……」  
「ええ?」  
「あれよ、空に文字が。浮かんでるじゃない」  
 指差す方向には、見たところ何も書いていない。  
 
「なんも見えん。お前には見えてるのか?」  
「…………」  
 何も言わず少女は見上げている。  
 それぞれ異なる情景が映っているらしい。ちなみに淡い曇り空にまだ異変は見られないようだ  
が。  
 
 しばらく空を注視していた彼が溜息混じりに告げた。  
 
「俺にも見えてきたらしい。なるほど、あれね」  
 
 彼の言葉をきっかけに、次第に堅くなっていくように見える空。先述したような異様な夕焼け  
色に徐々に変わっていく。  
 
 恐るべき夕景に。  
 
 
「なに、何なのこれ? 綺麗っていうより怖い……誰かの心象風景が見えてるのかしら」  
 ハルヒは少年に体を寄せ、両手で彼の腕を握っている。  
「まったく……こいつは誰の演出だ?」 少年は強がりを言ってみせた。  
 
 異様な空は此処がただならぬ場所であることを声高におらんでいるようにみえる。天頂は青み  
がかっているが地平に近づくほど赤みを増していて、嵐をはらんで走る積乱雲を夕日が照らすと  
きのように輝いていた。"最後の夕日"というテーマで風景画を描かなければならないとするな  
ら、まさにこの空はふさわしいように思われる。  
 
 ここは本当に『中庭』なのか?  
 見取り図にはそう書かれていたと思うが、もちろんこんな演出はありえない。  
 
 そして説明書きにも載っていない鏡のような湖面の広がり。  
 ただただ果てしない――そうとしか形容できない我が語彙の乏しさを許していただきたい。静  
かな岸辺からは対岸はおろか、この岸の端も見えない。ひょっとして海なのか。  
 後ろを見れば、たった今出てきた"怪鳥(?)のフレスコ画と漆黒の柱の部屋"につづく連な  
りも、やはり長大で終端が見えなかった。  
 
 
 《ラヨークにようこそ》  
 
 
 幾千人という規模の斉唱によるかのような荘厳な声が、遠大な空間に響き渡る。まさに殷々と。  
 そして低く、同時に高い声が歌を歌い始める。混声合唱のようだった。言語ではないのかもし  
れないが、きわめて大規模に聞こえる。  
 フィグーラだとか音楽修辞学などに通じているわけではないのでよくわからないが、知識を  
持った人なら込められているかもしれない意図を汲み取ることができようか。  
 いわゆる教会旋法で短調に似ている。  
 いったい誰が仕掛けているのだろう。『機関』にこのような仕掛けを造ることがが可能な人物  
がいるのか?  
 何のために? それはわかる気がする。おそらく、こちらのハルヒが何らかの形で存在するの  
であろう場所に続く、これはいわば難所なのだろう。  
 つまり、眼前に広がる異常な光景そのものが、二人が目的地に近づいている証拠ともいえそう  
だ。  
 
 あいかわらず鏡のような湖面は固まった空の色に染まらず、また鋳物の空の頌栄になびくこと  
なく、静寂を具現化した姿のまま目の前に広がっていた。  
 
 
 
「ここに長門の言ってた"アクセスポイント"ってやつが……」  
「すっごい、変な感じ。だいたい広すぎてどこにパソコンがあるか探すだけで大変そう」  
 東京ドームだと何個くらい入りそうですかね。甲子園でもいいけど。  
「こりゃあれだ、」 やはり空の様子に気を取られながら言った。「局地的非侵食性融合異時空  
間だか位相がずれてるだかいうやつだと、思う」  
 それにしてもややこしい表現だ。元は長門有希の言葉だが。  
「"閉鎖空間"なの? これって」  
「似てるけど違うものらしい。詳しいことは俺にはわからんが、少なくともここは灰色じゃない。  
それに、」  
 耳に手をやる。  
「コンサート機能までついてるし……」 軽口を叩いてみたもののふたたび真顔で「けど広すぎ  
るだろ、ここ」と付け加えた。  
「そうね」と頷いた少女も考え込むふうに見えたが、すぐに閃めいたらしい。「そうだ、キョン、  
確かめてみたらどう?」  
「どうやって」  
「有希に電話してみたらいいじゃない」  
「……つながればいいけどな」  
 冷静そうだが同時に厳しい表情の少年だった。彼の危惧はもっともだと思われる。  
 しかし、もちろん試してみる価値はある……といって異空間化しているのだろうこの"中庭"  
から果たして通じるのか、やはり疑問だけど。  
 
「……………」  
 
 幅の広いダークメタリックな外見の携帯電話をじっと耳に当てている。わずかにそよいだ長い  
髪が彼の肩口をかすめる。ハルヒも耳をそばだてていたから。  
 電波状況を示すアンテナマークは、そこが圏外ではないことを示していた。したがって二人は  
期待していたのだろう。  
 
 が、通じなかった。  
 
「もう一度……」  
 患者の安否を問う家族が一縷の望みにすがるかのような表情で少年は言った。  
 
 だが、届かなかったようだ。  
 
 心なしか彼の顔は蒼ざめていた。前半戦絶望を告げられたプロ選手のような表情を、さすがに  
隠し切れない。  
「…………」 無言でもう一度かけなおした。  
 そのとき。  
 
「キョン、あれ見て!」  
 
 ハルヒに揺さぶられながらも、まだ電話機を耳から離してもいなかった男の目にどう映っただ  
ろうか。  
 紫の空の彼方から、赤く輝いて見える鳥がこちらへ向かって飛んでいる。  
 
 まだゴマ粒のようにしか見えな……と思いきや、見る間に大きさを増し、この岸のほうに近づ  
いてくるのがわかる。  
 パースが狂っているように見えるくらい。要するに間違いなく大きい。とても。  
 
「うわ。でけ……」 素直な感想だ。  
 
 飛んでくる際には赤く染まって見えていたその巨鳥はとんびのような毛色だった。  
 
 鳥の到着に合わせるように合唱が止んだ。終わったというより止んだのだ。  
 
 翼長3メートルにもなろうかというほどの大鳥が二人の目の前(10メートルほど先)の岸辺  
に降り立った。音を立てないミミズクのように静かに。そしてするどい鷲の目を思わせる視線が  
正面を見据えていた。  
 その様子を口を半開きにしながら見ていたザンバラ頭の少年は声もなくその場に立ち尽くす。  
やはり目を見張ってその姿を凝視していたハルヒはというと、かばうように自分の前に出てくれ  
ていた少年の腕を、寄り添う背後から強く握り締めていた。  
 正面を見据える巨鳥の目が彼女らをとらえたかに見える。  
 するとそれは震わせながら翼を開げ――やはり大きい――はばたくかに見えたが、支える力も  
ないらしく再び閉じてしまった。  
 明らかに弱っているようだ。  
 
 
 二人を見据えた大きな鳥は、人語を発した。  
 
 
 しかし言葉を理解することはできなかっただろう。  
「おい、あれなんて言ってるかわかるか?」  
 日本語や英語ではなかったのだ。しかし現代使われている言語ではあった。  
 
「…………」 少女は左右に首を振った。  
 
 韻を踏んでいるようにも思える。余力を振り絞った声が少しのあいだ続いたが――  
 口から赤いものをしぶきのように吐き、言葉を終えた鳥は静かに突っ伏した。  
 
 思わずハルヒが走り寄る。「ちょ、おい――」  
 
 二人がそばに寄ると巨鳥はうっすらと目を見開いた。苦しそうな息遣いが聞こえてくる。口元  
からは深紅の流れが糸の様に顔面を伝い、真下の青草を茶黒く染めていた。  
 
 
「――――」  
 鳥は最後の言葉を残し、そのまま目を閉じた。沈痛な眼差しのハルヒが巨大な胴を何度か揺さ  
ぶったが、もう動かなかった。  
 
「"Burns with love"……」 ハルヒがつぶやく。  
 
「そんな風に聞こえたような気もするが……」  
「そうよ。『愛に燃えている』って、英語で」  
 謎のダイイングメッセージのようなものを怪鳥は残した。倒れ伏したまま放置するほかないの  
かもしれない。  
 
 一陣の風が二人の背中に届く。その場から幾分離れるようにというメッセージを受け取ったか  
のように、二人は倒れ付した大鳥から離れた。  
 
 かの鳥に吹きつけた風は周囲に次第につむじをつくり、巻き上げられたしぶきが霧のようにそ  
れを覆った。  
 二人に吹く風はそよ風程度だ。眼前の超自然的な情景を驚いて見つめている。  
 
「あれ……」 ハルヒが視界の物を確認するように言う。  
「俺にも見えてるよ。たぶん」  
 
 つむじ風が止むと、そこに鳥の姿はなかった。だがそのすぐ先、鏡のように静かな水のきわに、  
一艘の手漕ぎの櫂の付いた舟がほぼ陸に乗り出した状態で用意されていた。  
 
 そういえば、見る者すべてに異変を思い知らせるかのように変容していた天蓋――鋳物の型の  
ように堅く終局を告げる夕景のよう鮮烈な空は、まるで湖面の静けさに従うように穏やかな蒼穹  
に戻っていた。白く眩しい。  
 
 なんだよ――  
 
 肩を落として少年がそうつぶやいた。  
「ここじゃないってことか?」  
 鳥が変化(へんげ)して生じたかのようにも思える手漕ぎのボートから想像するに、この広大  
な湖を漕いで渡れと示唆しているのだろうか。  
 
「もう時間がねえよ……」  
 と、腕時計を見た彼は異状に気付いた。  
「ハルヒ」 「え……あ」  
 少年は携帯を取り出して背面の表示画面を見つめる。少女も己のPDCを確認しつつ彼に見せ  
る。  
 
「こりゃ……俺たちの都合に合わせてるのか?」  
「時計だけがゆっくり進むなんて、つくづく変ね」  
 
 そういうことらしい。  
 
「これ見てるとなんか自分が加速してるみたいだな」  
「そうね。……けどあんまり時間ないわ」  
 少年の腕時計は4時30分をそろそろ指そうとしている。古泉一樹の言を信じればリミットは  
5時ということになっていた。  
 時間はなお進む。ただし、今はごくごくゆっくりと。  
 
「キョン。あそこに島がある。見える?」  
 指差した先には浮島のようなものが確かに見えていた。  
「ああ。でも島なんてあったか?」  
「さあ。霞が晴れて見えるようになったんじゃない? 空も晴れたし」  
 遠目には向こう岸も見えている。もともとこうだったのが見えるようになったのだろうか。  
「とにかく、どこをどう見てもどう考えてもあの島が怪しいわ。こっちに来いって言ってるみた  
い。行くわよ、キョン」  
「…………」 同意せざるを得ないのだろう。  
 衆議一決、というわけでもないが彼はそれに従った。漕ぎ役の覚悟はできたようだ。  
 
「よっ! ……せーの、よっ!」  
 
 二人で声を合わせて舟を押す。そこのあなた、微妙におっさんくさい掛け声だなとかできれば  
思わないでくれ。  
 ずず……と船が前に動く。けっこう重そうだ。  
 ハルヒを一足先に乗せたあと、オールで漕ぎだせるあたりで彼も乗り込んだ。観光名所にあり  
そうな感じの二人乗りのボートは外側も普通に青く着色してあった。オールは木の色だ。  
 
「ボートなんて久しぶりだわ! ねね、水すっごくキレイよ!」  
「まさかここで乗るとは思ってなかったけどな」  
 通常ならありえない状況だ。透き通った湖水は数十メートルの底が見えているかもしれないほ  
どで、思わず吸い込まれそうになるほどだった。  
 
 当初ぎこちない動作だったものの漕いでいるうちにすぐに馴れたようで、彼の動きはなかなか  
様になっている。島を指差して方向修正をあれこれ指示しながらもニコやかにはしゃぐ黒髪の少  
女は、ボート遊びをわりと満喫している様子だ。  
 
 岸からかなり離れた頃、前から気になっていたらしいことを少年は口にした。  
「なんだろうな、これ」 ボートの縁、彼の斜め後ろあたりに何か書いてある。  
 それに目をやった。  
「あ……」  
 縁取りの入った金色の文字が彫りこまれていることにハルヒもようやく気付き、対面に座って  
いる少年の懐に潜りこむような格好でそれを読んだ。  
 
 それは簡単な短文だった。  
「"We were together" けどなんで過去形――」  
 言いかけたハルヒの表情が少し曇る。  
 
「……おい。きついって」  
 彼の膝に手を突きそこに体重をかけて半身をゆだねるような形であるのに気付く。あわてても  
との位置に少女は戻った。  
「はあ……なんかのメッセージか?」 あらためて文字を見ようと視線を落としながら少年は  
言った。しんどそうだが、替わる気はないようだ。  
「…………」  
 
「ね、代わろうか?」  
「いや。いい」  
 三度ほどこの会話が繰り返されたものの、男は頑として交代に応じずじまいであった。  
 
 
「わ。あれ見て」 オールを漕いでいる男の肩をかまわず掴んで、長髪の少女が声を上げた。  
「……なんつーんだっけ、あれ」  
 疲労した顔のうちにもいくらか安堵した様子がうかがえる。  
「藤棚よ。すごいきれい……」  
 その通り。花盛りの藤の色がわかる。どういうわけか島の真ん中あたりに藤棚(かその近縁種  
の棚)がしつらえてあるのが見えてきた。  
 いかにも"ここでおくつろぎください"といわんばかりだ。  
 
 さらに、小さな島嶼であるにもかかわらず進行方向に向かって3時方向には船着場のように突  
出した部分があり、ボートをそこに泊めるように誘導しているようにすら思えた。  
 それらの存在が少年の活力を呼び覚ましたようで、ボートを漕ぐペースも若干速まったようだ。  
 体感時間ではそのあと数分くらいで"船着場"に到着した。小島は見たところ不穏なところは  
感じられない。静穏そのものである。  
 
「っと」  
 下手に揺らさぬよう配慮してか、ハルヒはわりと慎重に小島に乗り移った。水は透き通ってい  
てすこぶる静かだし、何度か小さな魚影も水中を横切ったように見えたのでおそらく普通の湖と  
変わらない組成なのだろうが、やはりずっこけてずぶ濡れになるのも相手を濡れねずみにならせ  
るのも避けたいところだろう。降り立った彼女は来た方を大きな目で見やる。  
 思えば結構遠くへ来たものだ。  
 通称キョンくんは先に降りた彼女にロープを渡して、やはりゆっくりと立ち上がった。  
 
 ここが目指しているポイントなのかもしれないし、そうでなくともずっと漕いできた彼は一息  
つきたいに違いない。少年はおあつらえ向きな岩にロープを結びつけ、ボートが漂流しないよう  
に互いを強く縛った。時計を確認することも怠らない。  
 
「おーーい、誰かいませんかあーー!」  
 
 手をメガホンのように口にあててハルヒがひとしきり叫んだ。耳をつんざくような大声だ。  
「こらぁ! 隠れてるんなら返事しろおー!」 これもハルヒだ。  
「おい! すげー声だな!」  
 耳をふさぎながら疲れた顔をした少年は言った。  
 もちろんというべきだろうか、彼女らのほかには誰も見当たらない場所からの大音量での呼び  
かけに返事はなかった。  
 
「とりあえず休ませてくれ……」  
 ほうほうの体を目下のところ見事に体現する団員その1が提案した。  
 
 大木の類はなく起伏もない。オリーブと柑橘系の木が数本植わって葉を茂らせているが、それ  
でも鬱蒼とではないので全体がぐるりと見渡せた。浮草の島のように足元は背の低い草が茂って  
いる……というより芝生のようだ。  
 そして島の真ん中あたりには藤棚が作られていて、その下にはやはりたった今用意したかのよ  
うな真新しい、核家族サイズの白い円卓に白い椅子があった。  
 金色の水差しに金色の杯――いずれも本物の金かもだ――が円卓に、そして皿の上にナツメヤ  
シと干しイチジク、さらには新鮮そうなブドウの大きな房など、数種類の果物がテーブル上に仕  
度されていた。  
 
 予定調和のような感もあるが、とにかく二人は藤棚の下のテーブルを二人で囲む。  
 陽光をいい具合に遮りかつ完全には埋まっていないその葉の間からはまだらに光を射し、ぞよ  
風はときおり藤色の花の房々を揺らしていた。  
 緩慢であるとはいえ時刻は確実にリミットに近づいているが、それを忘れてしまうほど二人も  
健忘症ではなさそうで、とくに少年のほうはここに座るまでに二度ほど時計を確認する仕草を  
とっていた。なお、ハルヒの携帯もすでに圏外となっていた。  
 実際のところはどうかわからないが、まるで携帯を使うことを二人が意識してから徐々に電波  
強度が減衰していったようにもみえる。  
 いつから異変が始まっていたのかはわからないものの、中庭に入ってからはとりわけ不思議な  
空間と化していた。ただし当初の異様な夕景や『ラヨークにようこそ』というサインはすでなく、  
畏怖を抱かせるような情景ではまったくない。  
『ウェルカム・インザラヨーク』または『ラヨークにようこそ』という隠しテーマのような副題  
が、なにがしかのヒントだったのかもしれないが。  
 
 重厚で荘厳ではあったが興味なければぶっちゃけ喧しい騒音だっただろう岸辺での声や音楽と  
はうってかわり、ここではメシアン『鳥たちの小スケッチ』がBGMのように小さい音で流れて  
いる。二人が岸に上がってから音楽は始まったように思われる。  
 どこから響いてきているのかは特定できないけれど、選曲は仕掛けた主体の趣味なのだろうか。  
 この曲の内容についてひらたく言えば鳥のさえずりそれ自体を採譜したものらしく、それらを  
ピアノで表現しているらしい。  
 
 ズペペッと皮を飛ばしながらハルヒは卓上のブドウをさっそく食べている。  
 水差しから注いだ中身にまず鼻を近づけた彼は、喉が渇いていたのだろう、中身への不安を脇  
において一気に杯を干した。  
 まあ問題はないだろうが。  
「レモネードみたいな味だな。いける」  
 つられてハルヒも十秒ほどで杯を空にして、気に入ったのか「おかわり!」と彼に空のカップ  
を差し出した。にんまりと笑いながら。  
「……あれ。ぜんぜん減ってないぞ、これ」  
 注ごうとした水差しをちいさく上下に動かしながら言った。  
「ほんと? 貸して!」 受け取った容器を同じように持ち上げた。  
「あんたも飲むでしょ?」と言って少年の杯にまず注ぎ、続けて自分にも入れたあと確認できた  
らしく、「ほんとぜんぜん減ってないわ、なんて便利な。……ね、これ持って帰りましょうよ。  
材質も本物の金みたいだし高く売れるわよきっと!」  
 などと提案する。  
 これにはさすがに彼も苦笑しつつ、腕時計を確認してから、  
「ここの備品なんだろうよ。とにかくまずゴールしないとな」と彼女をたしなめた。  
 ごく小さく起伏もないこの島を見渡すかぎりでは、この場所以上に可能性のありそうな場所は  
とりあえず確認できない。  
 
 口にはしなかったが、向こう岸を見やって彼は軽く息をつく。それから黒髪の麗しい少女に目  
を移して、別の意味合いを込めたような息をついた。彼にはあまり持ち合わせのない溌剌さを天  
から授かっているのであろう目の前の娘を、目を細めて。  
 
――――  
 
 干しイチジクの果肉を健康そうな歯で割いて食べている少女を、男がじっと見ている。  
「なによ」  
「……いーや、べつに。口にものを入れたまま話しかけるんじゃありません」  
「はいはい」 「"はい"は一回でいいの」 「はーい。……うふふ」  
 なんか楽しそうだ。  
 
 人心地付いてリフレッシュしたのか、それともレモネードのような液体にドコサヘキサエン酸  
エキスが即効性になったようなものでも入っていたのか、少年の顔もさきほどまでよりも活気付  
いて見える。  
 
「え。ちょ、なに」  
 
 身を乗り出してきた少年に驚いてわずかにのけぞるハルヒ。  
「……これ、付いてたぞ」  
「あ、」  
 藤の花が長い髪に一つ落ちているのを取ってやったのだ。顔をほころばせるハルヒの表情がと  
てもかわいらしい。"小憎たらしいの間違いではないか?"と思われるかもしれないが、手にし  
た花をそっと回しながら実際に微笑んでいる。  
 もはや傍から見れば真正のラブラブに映るだろう。好きにしやがれと。  
 
 何をしにここにいるのかと問われれば、一見したところは舟遊びにすこし疲れた男女が用意さ  
れた屋外テーブルでランチを楽しんでいるようにしか見えない。  
 
 しかし時間の制約が無くなったわけではない。  
 男の腕時計の針は――その精確さを確かめる方法はないが――4時45分を示している。体感  
時間ではどのくらいになるのかハッキリしないものの、舟を出す直前の時点では4時30分で  
あった。  
 
「途中のチェックポイントみたいなもんなのかもね、ここ」  
 快適ではあるが目指すアクセスポイントではないのだろうとハルヒが言った。時計を確認しな  
がら渋い表情を作っていた少年の言いたいことを代弁したようにもみえる。  
「……認めたくないけどな。ああ、またボート漕ぎか……」  
「なんなら代わろうか? わたしはいいわよ?」  
 彼は首を振って不同意を示した。  
 
「いいよ。だいぶ元気になったし」  
 そう言って杯の飲み物をもう一度飲み干した彼は、たしかに顔色も目の輝きも回復しているよ  
うに見えた。  
 イチジクを噛みながら立ち上がる。蜜のあふれ出そうなくらい豊満なオレンジにかぶりついて  
いた  
 ハルヒも、「ぉぐ、んむぁ」とか呻いて口の中の分を飲み込みつつ、  
「くはあぁ。これだけ片付ける」  
 残りをたいらげにはいった。  
 ナイフが一本あったので彼にも切ってやりその残り三分の二くらいを大胆にもかぶり付いて食  
べていたのだ。それもやけに上手に。  
 
 ハルヒがおおぶりなオレンジの食べかけ――まだ三分の一くらいはあった――を30秒ほどで  
腹に入れきり、二人ともが出立しようとした途端のことだ。  
 それまで背景に溶け込んでいた音楽が切り替わった。  
 
「これ聴いたこと……」 「ない。あんたは?」 「たぶんない」  
 小舟を繋いだロープを解いているときの会話からすると、二人とも知らないようだ。  
 それはメシアンの『彼方の閃光』の10番目"見えざる世界への道"という管弦楽曲だった。  
きららかで色彩に富んだ音楽が何処からともしれず流れてくる。誰の演奏だろうか。  
 
 これはもう、演出してる人(かなにか)が三度のメシくらいメシアン好きなんだろう。  
 ……などとダジャレを入れるのはやめておこう。  
 
「途中休憩はいいから早くゴールさせてほしいのだが」とは困った表情の少年の感想だ。  
 
 出立を見送るファンファーレ代わりであるかのように、音楽は二人がボートに乗り込んで小島  
を離れるまで続き、そのあと止んで付近に静寂が戻ってきた。空はあいかわらず明るいままだ。  
 
 それにしても静かな湖面だ。  
 透き通ったその水に浸した指先を見つめているハルヒは何を思っているのだろう。  
 残りも自分が漕ぐと言い張った彼は、方向を時々確かめながら黙々とオールで水をかいていた。  
 クィーコクィーコと櫂が鳴いて、それに合わせまたは跳ねあるいは押し出される水が、軽やか  
にもしくは深みのある音を響かせている。時間の感覚を失いそうになるくらいの静寂と平和が、  
二人の乗るボートをやわらかく包んでいるようだった。  
 
 岸辺までの旅程も半ばという頃、手元を見つめたままハルヒがひとりごちた。  
「なんていうか、結構いい奴かもね――」  
「……これを仕掛けた野郎が?」  
「…………」  
「古泉か?」  
「…………」 水に浸した指を見つめたまま、ハルヒはただにやりと笑っただけだった。  
 
 クィ…ぼちゃ…、わずかのあいだ止まっていた櫂を動かす。  
 クィーコクィーコ――  
 
 返事を待つのを少年があきらめたころ、  
「"あたし"の趣味がよ」 ハルヒは湖面に映る顔に向かってそうつぶやいた。  
 
「へ?」  
「……なにも。ふふふ」  
「って、つめてーな!」  
 笑いさざめいている少女が指にしなりを利かせた。跳ねた水は少年の顔を見事にとらえる。  
 
「なにしてんの、ちゃっちゃと漕ぎなさい!」  
 しかめっ面の若者を可笑しそうに眺めながら彼女は言った。  
 
 向こう岸からそれほど遠くないあたりに、どれも見た目は同じような扉が左右一列にずらりと  
並んでいるのが見える。人の姿はやはり見当たらない。  
 
 近づいてくる建物の姿を認めたハルヒが、ひたすら漕いでいる彼の脇の下の辺りを目を細めて  
見つめる。  
「…………」  
 思案している様子だったが、それを少年に話すことはなかった。ただ後景に去っていく水の面  
を惜しむかのように指で触れ、なぞっていた。  
 
 体感時間にしても、間もなく岸辺に乗り上げようかというところまで達した頃、  
 まだ十分に白く明るい空を見上げて男が腕時計をふたたび確認して言った  
「時間がねえな」  
「……そうね」  
 そのことを憂慮しているのかどうか微妙な返事をした。二人での舟遊びの余韻を惜しんでいる  
のだろうか、少女の横顔が寂しそうに見える。  
 
 ボートが砂地に乗り上げてついに止まった。  
 結局最後まで娘の助けを借りずに漕ぎきったキョンさんは、島に着くまでに消耗していた様子  
と比べれば随分体力も残っているように見える。やはりあのジュースに精力剤か何か即効性の活  
力源が入っていたのではないかと思えるくらいだ。  
 といっても疲れてはいるだろう。  
 それを慮ってか、ハルヒはねぎらいの言葉の代わりに彼の肩を揉んでやっていた。  
「……いた、もう少しやさしく頼む」  
 言いながら、喉下をみくるに撫でてもらっている時のシャミセンのように目を細めている。お  
義理にではなく気持ちよさそうだ。  
 にしても、彼の方は明日あたり筋肉痛でえらいことになりそうだな。  
 
 岸辺から"東の宮"、要するに来た方から中庭を渡ってきた反対側の建物までは湖岸から20  
メートルくらいだ。「諸般の事情からみても、もうここへ入りなさいという意思表示以外の何も  
のでもないわねこれは」と長髪を風にそよがせてハルヒも言った。  
 何の諸事情かはわからないがまさに図星のような気がするのはなぜだろう。  
 
 白いベンチが一つ、目の前の東宮のほうに向かって左の先の方に見える。その先に続く部屋に  
は、見るところ出入りできそうな扉がなかった。  
 どれかを選ぶ必要があるのかもしれないが、まったく同じように見える木製の扉群。  
 等間隔に並ぶずん胴の柱は、先ほど中庭を横断してきた湖の反対側と造形も似ているようだが、  
 扉自体は端が見えないほど数知れず続いているわけではなかった。建物そのものはともかく。  
 多くて30枚といったところか。  
 思案しどころなのかもしれないが、何度も指摘してきたようにもうずっと時間的には厳しさを  
増し続けている。  
 体感にしたがえばとっくに夕暮れの色を増す時間帯なのだろうに、彼の腕時計もハルヒの携帯  
もまだ5時を指してはいなかったが。中庭に注ぐ微妙に弱くなってきた日の光もこの日の長い季  
節に彼らの時計の示す時間帯にふさわしいものではある。  
 それでも少年の腕時計の針はあと数分で5時を指す場所にまで達していた。正確に言えばほぼ  
4分。体感時間ではどれくらいだろうか。  
 
「どれも同じに見えるが……」  
「とりあえず行かないと。真正面の部屋からとりあえず入っちゃえば?」  
「…………」  
「なに、なんか当てでもあるの? なら言いなさいよ」  
「いや、思い当たらない」  
 ふん、と鼻を鳴らしたハルヒは  
「なら行くわよ!」と言って一番近い扉へとずんずん歩いて行く。  
 染み付いた団員根性というべきか、ハルヒの指令に自然と男の体が動いた。やはり彼女の一喝  
に付いていく習性が彼にとって条件反射レベルにまで達しているのだろうか。まあ焦りもあるの  
だろうが。  
 徒労に終わりそうな雰囲気がぷんぷんだ。  
 
 案の定、時間だけを浪費する結果になったわけで。  
 ただはっきりしてきたことがある。  
 扉からいったん中に入た場合、その部屋から完全に出てから、あるいは次に進もうと意識した  
時点ではじめて、そこがいわば正解だったのか振り出しに戻されたのかが二人に判るようになっ  
ているらしい。  
 失敗するたびにイニシアチブを交代して再度挑戦する。  
 しかし――  
 
「きりないわ、ぜんぜんダメじゃない」  
「なんつうデタラメな……こんなトリックがあるか」  
「トリックってんならなんかヒントがあったんでしょ。だいたいさ、」  
 不満を口もとの造形と吊り上った眉目で表現しながらハルヒが言った。  
「あんたも考えなしに次々飛び込んでないでアタマ働かせなさいよ!」 「何言って――」  
 言い返す寸前で彼は言葉を呑みこみ、  
「――どっちもどっちだったろ? こういう時は……」 胸に手をやって続けた。「お互い落ち  
着こう。時間がないもんだから焦ってるんだ」  
「その、キョン……」  
「なんだ、なんか思いついたか?」  
「……ううん」 首を小さく左右に振る。だが本当にそうなのだろうか。  
 
 このあと二人して三度突入を敢行した。  
 落ち着こうにも時間がなさすぎたのだろう、戦略を練る余裕がとくに少年の精神的になく、め  
くら滅法に決めた部屋に入るだけ。ただ三度目には偶然に二部屋目まで進めたらしいのだが、三  
部屋目の選択がまた誤りだったため扉を開くとそこは岸辺の最初の場所であった。  
 つまり、一つ間違うと振り出しに戻されることがわかっただけに結果は終わった。  
「…………」  
 二人とも言葉がない。  
 ちょうど土の露出した部分に立っていた少年が悔しそうに地面を蹴った。  
「痛っ」 何やってるんだ少年。  
「キョ……え?」  
 あくまで真剣な面持ちのハルヒが思い切ったように彼の名を呼ぼうとしたとき、思いもかけな  
いものを少年は見かけた。  
 息も上がり焦燥感と失望で俯いていた彼の上目遣いの視界に一人の人物が現れたのだ。  
 
「おまえは――」  
 彼には面識があるらしい。ハルヒは知らないようで、一人の若者がまっすぐ二人の方へ歩いて  
くるのを怪訝な顔で見つめている。  
 
「ずいぶん苦労してるらしいな」  
 神経を逆なでするのが彼の趣味だろうか。まさにそんな耳障りな言い方で話しかけてきた。  
 見た目はすらりとした、不敵な表情の似合う少年だ。  
 朝比奈みくるがそう推測し本人の言葉からも窺えるところに従がえば、未来から何らかの使命  
を帯びてやってきたであろう少年。まだ厳冬の時期に彼らのグループは朝比奈さんをワゴン車で  
連れ去ろうとした、敵性組織に属すると思しき人物の一人が彼だった。皮肉な口調で憎憎しげな  
言葉を投げ付けてきたことが記憶に新しい。  
 それ以来の顔見知りだ。  
 
「何しに来やがった」  
 挑戦的な言葉で応じる。少女の肩を右手で押えながらなのは、連れ去られるような事態を警戒  
してのことに違いない。  
「あんたらを連れ出すために来た。それだけ」  
「仲間はどうした?」  
「仲間?」 フンっと鼻で笑う。「ここにいるのは僕だけだ」  
「これはお前らの仕業か? 朝比奈さんはどこにいる!?」  
「答える義理はないね」  
「何を――」 にわかに顔を紅潮させた男だったが、  
「キョン!」  
 二人の間にハルヒが割って入りキョンをなんとか抑える。本日二度目になるな、これ。  
 未来人の少年はほぼ無表情でその様子を眺めていた。まるで他人事のような顔をして。  
 
「とにかく付いてきてほしい。事情はいずれわかるはずだ」  
 それだけ言って糸を巻き戻し始めた。  
 
「――これもあんたらの『既定事項』なのか?」  
 
 平静を保つ努力だろう、声のトーンを落として彼が尋ねた。  
「いいや、」 ぶっきらぼうに答える。「ここで会うのはイレギュラーだよ」  
 めんどくさそうな口調の誘拐グループの少年。たぶん面倒だったのだろう。  
 もう少し愛想よく答えても何かが減るもんじゃなし、損はないと思うのだが……。  
 
 自分が手に持つ糸が切れないかぎり、巻きながら進めば"アクセスポイント"に辿りつくこと  
が出来るはずだと彼は説明した。  
 非常に不愉快な記憶を呼び起こされて板に違いない少年は、やはり口を歪めて厳しい表情のま  
まだ。とはいっても誘拐されたお姫様を――朝比奈みちると名乗っていたみくるを――救出した  
経験のある彼としても、現状では背に腹は代えられないだろう。  
 
「……おい、どうやって俺たちを先回りできた?」  
 自然ハルヒをかばう体勢をとりながら、男は糸を巻きつつ歩く少年に尋ねた。  
 いろいろと食って掛かりたい気持ちもあるだろうが、事を荒げるのは得策ではないだろう。自  
分を抑制しているのが見てとれる。  
「簡単なことさ――」  
 フンッと馬鹿にしたような鼻息を漏らす一方で、たこ糸を手繰りながら几帳面に巻きつけてい  
る少年が答えた。  
 
「出口から入ったんだよ」  
 
‥‥‥‥・!!  
 
 (とくに通称キョンの)開いた口がふさがらないとはこのことか。  
 
 そんな手があったとは筆者もぎりぎりまで気づかなかった。かといってキョンさんたちが同じ  
手を使ったところで果たして上手くいったのかはわからないが。  
 
「正解の部屋さえ選べば道のりなんてたかが知れてるはずだ。あんたのマーカー……座標を特定  
することはできなかったが、逆に言えばそれがヒントになった。この手は、フン、入り口に説明  
書きがあったはずだ」  
 どうでもいいけど鼻を鳴らすタイミングがおかしくないか? 未来人さん。  
「糸つかって出たっていうあれ?」  
 不承不承付いていく男にハルヒが言った。  
「あれがヒントかどうかなんてわからねーよ」  
 ミノタウルスの迷宮伝説のなかに出てくる迷宮脱出譚の説明書きを思い出していたのだろう。  
たしかに入り口にそのあらましが書かれていた。  
 つまり、未来人の少年は牛面人身の怪物ミノタウルスを打ち倒しかつ迷宮脱出にも成功したテ  
セウスの故事に倣ったというわけだ。  
 話はそれるが、在りし日のクノッソス宮殿の姿をTPDDなどを用いた時間遡行によってこの  
目で見学できればどんなにいいだろうと思う。現時点においては涼宮ハルヒの情報爆発における  
次元断層のためにそれはできないらしいけれど。  
 なおこれ以降、文中で彼を指す際《テセくん》《テセの野郎》などという仮の表記をする場合  
があるかもしれないのでそのときはご了承願いたい。  
 
 それはともかく。彼の言いかけた"マーカー"とはいったい何のことだろうか。相変わらず小  
憎らしい口ぶりで少年は続けた。  
「言っておくが入場料金は自弁ですでに支払ってる。ああ、あんたらに別に請求はしない」  
 追突未遂(おそらく)から誘拐未遂まで幅広く犯罪行為を手がけてるくせに、微妙なところで  
正規の手続きを主張してくる。  
 この少年のポリシーもよくわからないな。  
 
 会場に来れば一目瞭然だったのだが、当日入場料は学生千円だった。学生証の提示もとくに要  
求されていた様子はないので、未来からきたらしいご機嫌斜め風少年もおそらくはそれだけ払っ  
たものと思われる。  
 それより、特別招待券なんてたいそうなもん用意しなくてもSOS団全員で来れるじゃねーか  
と普通人の少年も突っ込みたくなっただろう――などと言ったところでいまさらどうにもならな  
いし、ハルヒと二人でここに来てもらうための、一樹くんたちによる妙に甘い罠だった、もうそ  
ういうことにしとこう。  
 あと、ホームページに入場料くらい載せてなかったのか?――との指摘については、それが明  
示されていなかったのだ。  
 なにしろ特別入場券を持つ人しか閲覧できない作りだった。たぶん彼女専用に作られていたの  
だろう。  
 
 
 向かって左から数えていくと実は26の入り口が左右に並んでいる。そして部屋を抜けるたび  
に同じ数の出入り口がまた現れる。"東宮"を進むための仕掛けは明らかに"正しい部屋に入る  
こと"なのだが、どんな規則性がここにあるのだろうか。  
 
「行ったり来たり……面倒なことだな」  
 たったいま出てきた部屋(ヘビの意匠の大きな燭台があった)の出口から、手にしているたこ  
糸が斜め方向に遠く伸びている様子を見てつぶやいた。  
 出口からたどって来た自称未来人の少年にとっては、中庭へはまっすぐ部屋を進んでいくだけ  
でよかったらしい。  
 
 空間が伸縮しているように見えるのに、決まった長さであるはずのタコ糸がどうして切れない  
のか不思議ではあるが、とにかくその作戦がうまくいきそうなのは否定しようがない。  
 躍動的なイルカのフレスコ画のある部屋や、中庭に入る以前に見たのと似たタコの図柄を大胆  
に描いた壷が印象的ではある殺風景な部屋、エジプト風にも思える花を持った若者の絵、白く  
塗った太い柱が出口側に配された部屋、渦潮を思わせるようなたくさんの幾何学模様が描きこま  
れた壁の部屋、アトラクション入り口にも説明書きのあった『パリジェンヌ』と呼ばれるフレス  
コ画の複製が目立つ部屋など。  
 途中に牛を連想させる造形物が多いのは相変わらずで、後代の異国人などからすれば牛を元に  
した妄想を膨らませる素地となったのも頷ける気がする。  
 
 こうして見所をダイジェストにしたようなさまざまな部屋と部屋を行ったり来たりする三人で  
ある。案内する方の彼は比較的淡々としているものの、煮え湯を飲まされそうになったいくつか  
の事件を覚えている側の少年としては当然のように面白くない顔にもなろう。  
 目下のところ彼と手をつないで後を付いていくハルヒはというと、それら部屋の様子を興味深  
そうに眺めながらも時々心配そうな顔を見せていた。男二人の関係に対してというよりも、おそ  
らく自分に待ち受ける事態について思案していたのかもしれない。  
 
 
「ここが出口の部屋だよ。あんたの探していたのはここにあるはずだ」  
 
 時計を見る目が厳しさを増す。時刻はすでに5時を回っていたのだ。タイムリミットを決めて  
いる誰かがきっちりと時間を計っていたとすれば、たとえ未来人の少年の言うとおりだとしても  
どうにもならないかもしれない。  
 
 
「俺はこの涼宮ハルヒを元の世界に戻すために来た。お前に付いてきたのもそのためだ――」  
「キョン……」 戸惑いのこもったハルヒの声だ。  
「確実に戻れるんだろうな? あいつは、古泉一樹は時間制限があると言ってたが」  
「そんな心配は試してからでいいと思う」 テセくん(仮)が前向きなことを言う。「たしかに  
5時を回っているのは事実だけど」  
「ここは……位相がずれている空間なのか? 時間がゆっくり進んでるみたいだが……」  
「……答える必要を感じないね」 手を振って会話を打ち切った。  
 禁則事項に関わるからなのかもしれない。もしそうならちゃんとそう言えば良いのに、なぜか  
相手を苛立たせることを選んで言う男だ。  
 
 出口の部屋、一見して『王座の間』という名称がふさわしく思えるそこは、これまで見たどの  
部屋よりも壮麗なものだった。  
 繊細な模様の美しいきめ細かな切石が床面を覆っている部屋。ここは特別なのだろう。  
 優美な曲線美を見事に組み合わせて描かれているのは気質の穏やかそうな伏臥したグリフォン  
であり、赤茶色に塗られた四方の壁面に何頭も描かれている。儀礼用に装飾されたものだろう黄  
金色の両刃の斧が椅子のそばの壁に掛けてある。イルカを複雑に造形して造られた繊細な陶器が  
脇に置かれていた。  
 いずれも手の込んだ作品だ。  
 部屋の真ん中あたりに鎮座している真新しい赤銅色の水盤には、蛇と女官・牡牛・ざくろなど  
の浮き彫りが入っていて、これもまた工芸的価値が非常に高そうだ。もしこれらが幻でないとし  
て、このようなものをいったい誰が製作したのだろうか。水盤には液体も張ってあった。この謎  
の液体――といっても見たところはただの水だ。  
 
「"アクセスポイント"ってのはどれなんだ?」  
 後ろ髪のわずかに立った筋肉痛予備群が周囲を見回しながら声を上げる。  
「名前はどうだっていい。ここに《窓》があるのは間違いないことだ」  
「え、窓ってなに?」 ハルヒが尋ねた。  
「フン、」と嫌味に笑った少年が答える。「《窓》ってのは、あんたを招待するための仕掛け  
さ」  
 
 彼がさらに言葉を継ぐ前に、三人が一斉にあたりを見回した。何かに気付いた――気付かされ  
た――のだ。  
 
〈合言葉を〉  
 
 つまり、この場にいる三人の脳裏にこの言葉が女性の声で響いたらしい。どこからというより  
体の内側から聞こえて来るような。  
 おそらく、第三者からすれば静まり返って何も聞こえないことだろう。ただし、つぶさに観察  
すれば水盤の水がわずかに振動していることもわかる。この部屋における目に見える異変はそれ  
くらいで、いまのところ他には識別できる変化がない。  
 
「合言葉か――」  
 少女の方を見ながら彼が言った。  
 
「ハルヒ。チケット出してくれ」 「あ……あれね」  
 
 急いで彼女がとりだしたチケットには特設ウェブサイトに入る際に"こちらのハルヒ"が入力  
したパスワードが書かれている。  
 それを上にかざして数十秒。  
 何も起こらないので口にもしてみる。ハルヒだけでなく男も、二度繰り替えした。三度目には  
テセくん(仮称)も加わってそのパスワードを口にした。  
 
 だが何も起こらない。  
 
〈合言葉を〉 意識に直接語りかける澄んだ声がふたたび聞こえる。  
 
「…………」 未来人であろう少年には思い当たる節がないのだろうか。沈黙している。  
 
「キョン、もしかして」  
「あのボートの……」 ハルヒは頷きかえした。同じことを思いついたのだ。  
 つまり、手漕ぎのボートに刻まれていた文字を。  
 
「"We were together"」 ハルヒがそう言った。発音が合っているかどうかは別にして。  
 
 彼女も少年たちも知らないだろう、奇しくもそれは古泉一樹と連れ立っていた少女の暗唱した  
詩の題名でもあった。『わたしたちは一緒だった』という意味をもつ言葉だ。  
 
 異変はその瞬間に形をとって現れた。  
 
 一度見れば忘れられないと思えるほどに恐るべき紫色だったあの夕焼けに匹敵する荘厳さを、  
それは秘めているようでもあった。しかし畏れよりも先立ってそれから感じるのは、えもいわれ  
ぬ安らぎ――あるいは慰め――という点が異なっている。  
 水盤のあたりから光のもやが音もなく立ち上っていき、それがさまざまな色に変化してきらめ  
きを放ちだす。  
 
〈杯を〉 ふたたび聞こえる声。  
 
 ここまで案内してきた少年も目を見開いて半ば呆然としていたものの、三人の中ではいち早く  
冷静さを取り戻したらしく、  
「そこに入れば、《ウェルカム・インザラヨーク》の招待を受けたことになるはずだ」  
 と説明した。  
 まあ説明なしでもそういう雰囲気だということはわかるが。  
「――――《窓》だとか、あんた言ってなかった?」  
「ああ、それもある。とにかく"あちら"に行くことができるだろう。あまり猶予はない。行く  
のならさっさと行け」  
 おもにハルヒに向かってそう言った。  
 
 一つの選択をたった今しなければならない、そういうことだろう。  
 
 虹色の光のシャワーに入るのか、それともその先に見える出口から迷宮の外に出るか。  
 
‥‥‥‥‥‥‥  
 
 主観でどの程度の時間が彼女らに流れたのかはわからない。  
 ハルヒがキョンの両肩を掴んで自分の方を向かせる。  
 
「ジョ――キョン、ひとつだけ」 懇願するように囁いた。  
 
「…………」  
 男はただ黙っていた。次に彼女が言う言葉はもう解かっているのかもしれない。  
 そして彼女は口を開いた。  
 
「一緒に来て……」 強い願いを込めた瞳で見る。  
 
 今朝二人が出会った時と同じように彼女の長い睫毛が揺らいでいた。  
 
 少年は直接答えず、ただ彼女を見つめかえした。  
 タコ糸を以って二人をここに導いた彼はその様子を黙って見ている。表情が心なしか和らいで  
見えたのは気のせいだろうか。  
 
 水盤の上方に霧のように立ち上った《窓》の顕現が、淡い虹色に揺らめく光となって二人の前  
にたゆたっている。  
 
 二人は手を繋いでその中へと歩いていく。  
 その先に何があるかを知らない者が通常見せるような躊躇は感じられなかった。  
 
 ふんわりと体が中空で制止したかのように見え、美しく淡いグラデーションの光に同化して…  
…同時に二人が消えた。壮麗な光の波はそのまましばらく残っていた。  
 
 
 余談になる。  
 壮大な"中庭"の舞台演出のさなかに二人の見た大きな鳥の言葉について。崩れおち倒れ臥す  
直前にかの鳥が残る力を振り絞るように発したのは以下のような詩であった。それは二人には聞  
き取ることができなかったものである。参考として日本語訳を一つご紹介しておく。  
 
 
            Na gladjakh beskonechnykh vod,  
            Zakatom v purpur oblechjonnykh,  
            Ona veshchajet i pojot,  
            Ne v silakh kryl podnjat' smjatjonnykh...  
 
            Veshchajet igo zlykh tatar,  
            Veshchajet kaznej rjad krovavykh,  
            I trus,i golod,i pozhar,  
            Zlodejev silu,gibel' pravykh...  
 
            Predvechnym uzhasom ob"jat,  
            Prekrasnyj lik gorit ljubov'ju,  
            No veshchej pravdoju zvuchat  
            Usta,zapekshijesja krov'ju!  
 
           (Gamajun ptica veshchaja from 7 Stikhi Aleksandr Bloka)  
 
 
            限りない水の面を覆う空が  
            沈む夕日の紫に染まる  
            一羽の鳥が歌う、予言する  
            力なく、震える翼はもはや上がらず……  
 
            鳥は予言する、タタールのくびきを  
            予言する、血を流した数多の処刑者を  
            戦乱を、飢えを、災害を  
            悪の勃興を、正義の喪失を……  
 
            恐ろしい予言を だが告げねばならぬと  
            美しいその顔は愛に燃えている  
            然り、その言葉は真実  
            かの口からほとばしる 血反吐とともに  
 
 
 幕の下りない幕間を挟んで舞台は転回する。  
 
 

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