〜〜 へそ(六章) 〜〜
少女は朗々と諳んじた。情感を込めて。
「(……悪意を秘めた「運命」がほくそ笑んでいるとも知らずに。そして鉢の滑りやすい縁に脚
をとられ、あっという間に転落していったのだ、真っ逆さまに……)」
「運命だとしたら、それを捨てるのですか……彼女のために?」
少年の返事を待つ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥
そぞろ歩きの二人連れのうち細身で背の高い男性は、カジュアルな出で立ちで下はチノパン、
白地に格子柄のカッターになぜかネクタイ(無地だ)を合わせた朗らかな表情を崩さない古泉一
樹でまちがいない。彼に話しかけ(ようと努力し)つつ並んで歩いている女性は、誰あろう同級
生の巻き毛の少女だった。昼休みの食堂で、ハルヒに例の特別入場券を渡す算段をつけていた古
泉と隣りあわせただけでもじもじしていた、あの娘。
あのあと廊下で出会った朝比奈みくるを見て固まっていた、鶴屋さんいわく“かーわいいなー
♪”な、あの少女。
いまもそう、いくぶん恥ずかしそうな仕草がかわいらしさを増幅させている。[淡い色合いの
ツーピース]の私服姿も控えめな、しかし並んで歩いている姿はかなり見栄えのよいものであり、
一樹だからこそ似合っていると認めるほどにいまいましい気分になる某同級生の気持ちもわかろ
うというものである。おそらくハルヒたちはすでに現地に向かっていることだろう。こちらの二
人にとっても晴天に恵まれたのはなによりである。
普段ハルヒの抑え役を自任するわりには何かときっかけを与えてしまう、古泉からすればいさ
さか要領の悪い彼がこれまたアイデアの発端となった、涼宮ハルヒプレゼンツみくる(&有希)
杯チョコレート・ツーショット争奪あみだくじの当選者が彼女だった。長門有希による人類一般
のレベルを超えた即座の判断と一本の横線という作為があったらしいが。思えばこの少女が参加
していたのはみくるや有希よりも同級生のこの男に惹かれたからなのだろうか。
小豆色の電車のとある停車駅、SOS団名物の集合場所からもそれほど遠くない、日差しを受
けて踊るように反射させつつ流れる水面を臨んだ川辺の緑を増す並木道は、ひと月ほど前の桜の
時期とは比較にならないけれどそれなりにさまざまな年齢の人や愛玩動物(ほとんどは犬)が行
きかう、絶好の散策日和である。不思議探索ツアーなるよくわからない活動ではおなじみのルー
ト。
知り合ったいきさつなどはともかく、ハルヒやキョンたちさらには「機関」とは別のところで
過ごす私的な時間がそれほどあるとは思えない彼にとって、邪魔されないですみそうな貴重な時
間をこの少女と過ごすことに一樹は決めたのだろう。
駅前からここへくるまでの道中、女の子はなかなか声がかけられないのか、すこしうつむき加
減で黙ったままついていく。二、三言言葉を交わすとそれ以上続かない。
「まったくいい天気ですね。清々しい、いい陽気だ」
「……はい」
「……こっち行きましょうか」
「はい…………」
「あの……ここへはよく?」と少女。
「ええ。わりと」
「…………」
「あ……かわいい」
「ミニチュアダックスですか……よしよし……あ、どうも。人懐っこいですね」
「…………」
二匹のミニチュアダックすを連れた主婦らしき人と一樹が会話している。
嬉しそうにペットを擬人化して、古泉はいいお兄ちゃんだから喜んでいる、などと自分こそ嬉
しそうに会話を交わす。自分の足元にすがりつかれた時はもちろん喜んでいるようだったけれど、
少女自身はじゃれる二匹の犬たちと一樹を見つめて終始微笑んでいるだけだった。
…………。
会話が続かないことを気に病んだりしないようにと願おう。
おそらく、古泉一樹にとってはこの時間が心地よいのだ。そうでもなければこの日に少女と連
れ立つ約束をとりつけたりはしないだろうから。
ただ一緒に歩くことを楽しむのも散歩の意味。
いや、意味と呼ぶようなものはいらないのかもしれない。
リラックスした表情かどうか、あまり変化を見せない一樹の微笑顔について判断はしかねるも
のの、すくなくともしばらくはこのまま歩いていたいのだろう。たぶん、本心から。
そうしてとぎれとぎれの会話を数回繰り返したのち、歩きながら一樹が少女に切り出した。
「ちょうどこの辺りが去年の文化祭の自主制作映画のラストシーンの撮影場所です」 前を向い
たままつぶやく一樹がやや苦笑混じりで自嘲気味の表情を作っているのは、まあ諸般の事情から
鑑みてむしろ必然といえよう。数十メートル先のベンチもちょうど空いていた。
近くにはトイレがある。川床の敷石を伝って両岸を行き来することもでき、もう少し先まで行
けばローカルな駅前らしい喧騒だ。まさに散歩にはあつらえ向きだろう。護岸工事や川の生態系
の変化やその考察については、ここでは置いておくとしよう。
「今年も……ちゃんと咲いたんですね」 すでに毛虫たちの行進シーズンに突入している付近の
桜の息災ぶりを巻き毛の少女はそう表現した。
SOS団自主制作の映画――
第三者視点で回顧してみよう。
ただでさえその一人語りにリストラ後の人生のような哀愁を漂わせる男子高校生が、その中で
もけったくそわるいトラウマ集大成のように扱ういわくつきの代物である。
昨秋の撮影時に実にマルチにこき使われた彼は、撮影係兼荷物運びおよび編集・CGエフェク
トないしSFX(?)・軟着陸誘導etc...を実現すべく汗をかいたり北高に泊り込んだりし、ま
た超監督(呆)の叱咤役・保護者役までこなすことを余儀なくされたものである。
そうまでしてできたものの完成度はどうかといえば、『起承転結』の『起承』皆無にして
『結』は強引、ほとんど『転』だらけという驚嘆すべき青春思い出迷子風強引さであり、まるで
ヘリコバクターピロリが暴れまくったあとの胃痛の苦悶のようなものだったのだからたまらない。
とはいえ――
同情に値するのは認めるとして、それでも撮影係はまだいいではないか。
己の変な姿を公の面前で二重に(一度は撮影時に二度目は上映時に)晒すといった思春期の若
者にとってはほとんど公開刑を罪なくして受けることはなかったのだし。
ミクル役の朝比奈みくる嬢の気の毒さには到底及ばないにしても、超能力者古泉イツキ役だっ
た古泉一樹もまた、アホな演出の犠牲者として公衆にその姿をさらしてきたのである。しかもラ
ストシーンは露出過多な『未来からきた戦うウェイトレス』とのツーショットシーン。同級生の
娘と歩いている現況からみてもできれば触れたくない話題であったにちがいない。
だが、秋まっただなかに季節はずれの花が咲き乱れた経緯をもつ、トンデモ作品の上映ラスト
を飾った桜並木を望む川辺の道を歩いていたために、思いがけず一樹の口をついて出たのだろう。
少女は桜の話題を続けた。
「ニュースで言ってました。季節はずれの満開の桜並木のこと。見には行けませんでしたけど…
…ほんとに満開で、わたしも驚きました」
ベンチの前で一樹が、その二歩幅ほど後ろで少女も立ち止まった。ズボンのポケットから青い
ハンカチをとりだし、「いま綺麗にしますから、座りませんか……それから何か飲み物を買って
きます。あなたは何がいいですか」と言いつつ、おそらく少女の座る部分の埃や葉っぱを払いと
ばす。何度もそうした。
その姿はどことなくハンカチ王子である。
[清潔感のあるツーピース]姿の少女――整理券番号56番さん――は古泉の横顔に向かって答
える。
「すいません……でしたらわたしが買ってきます」
「僕が買ってくるのが筋かと」 彼女を制止して彼は言った。「いえ、正直そういう役回りの方
が慣れているというか……落ち着くんですよ、待っていてください」
にこやかに笑う一樹を目の当たりにして、慌てて少女は視線を落とす。そのままベンチに彼女
を座らせた若者は「冷たい日本茶でいいですか」と言い添え、控えめにうなづく少女を待たせて
一旦ベンチを離れた。
***
一樹が戻ってくるまでのしばらくの間、ほんのわずかに口元を緩めるいかにもやさしそうな表
情のまま、殷々とした静かな居住まいで彼女は薄く目を閉じていた。川床さらいなどを定期的に
おこなっているのか、川のせせらぎは一見したところ清流のきらめきにも似た美しさで午前のや
わらかい日差しに答えている。
そばを行きかう人たち。なかには同年代の男女の姿もある。同級生もいたかもしれない。
♪キョロンキョロンチリリリ
キョロンキョロンチリリリ……
その声はまだ、控えめな美しい彼女には届いていないようだ。
「スケッチブック、あったらな――」
目を開け、みどり萌えたつ川辺の木立ちを眺めながら、[水色のツーピースの]少女はポツリと
つぶやいた。
***
飲み物をふたつ買ってそろそろ一樹がベンチに戻ってこようかというころ、無垢な色地の携帯
電話の画面を少女は見ていた。少しまぶしそうな目をして。小指の爪くらいの大きさの朱色とピ
ンクのハートがテンキー側の背面に大小入っている。彼女が自分でつけたものだろう。
やや弱いといえ照り返しもある屋外ではあまり視認性はなさそうだが。
とん…とん
ベンチの背もたれを缶の角っこで古泉一樹はこずいた。すこし慌てたように顔を上げる少女と
目が合って、おかしそうにククッと笑う。
「お待たせ」
一樹はそう言ってベンチを回り込んで、恥ずかしそうにしているウェーブヘアの少女の隣に
座った。
緑茶の缶をそっと娘の腰のそばに置く。
「ありがとう……古泉さん」
一樹のほうを向き、自分のために置かれた緑茶の入れ物に右手でそっと触れて、ようやく声に
できたように囁いた。
はたと気づいたように手のものを横に置いて、彼女は彼の首筋に両手をやる。すこし戸惑った
ような一樹が制止する間もなく、曲がっていたように見えたのだろう、ネクタイの結び目をきれ
いになおしてから、「ごめんなさい」と言って一樹との距離をまた戻した。
何も言わず水面の辺りに目をやったままの少年。
そのまま静謐の詠唱に聞き入っているかのように二人とも押し黙ったままだ。
プロモーションの撮影かと思えるほど並んで座っている様子は見栄えのよいもので、むしろ
こっちをスケッチしたい人がいるだろうと素人目にも感じる姿だった。
「読み返したくなったんです」
今は閉じている膝上の携帯に目を落として少女は言った。
「嬉しかった」
それ以上何も言わなくとも当人たちは了解できているのだろう。何も言わず一樹は緑茶に口を
つけ、見たところまぶたを閉じている。
♪キョロンキョロンチリリリ
キョロンキョロンチリリリ……
どこからやってきたのか、さかんに鳥が鳴いている。
「あ。この声って……」
彼女は顔を上げた。
「赤い子……」
赤い子?
ヴォゴン人による詩歌鑑賞椅子とは対極に位置するような、グリーンスリーブス幻想曲のよう
な、それは美しくて淡い声だった。
「赤い子が……ほんのちかくでないているの」
歌っているようにも聞こえる声で少女はささやいた。
どことなく儚げで、控えめなエレジーにも似た楽をひめる声で。
「ないている……」
少女の独語に促されるように一樹が顔を上げた。
「……」
鳴き声の主は視界の中にはいないようだ。といって熱心に姿を追うつもりでもないらしい。
「古泉さん」
儚い声。
目が合うのを待つように少年を見つめる。
「あのにぎやかな人……涼宮ハルヒさんのこと……」
疑問形とも已然形とも女の勘ともつかない口調だった。
「明るくて美人で、頭もすごくよくて。体育祭のときもマラソンも……球技大会のときも。ただ
もう、すごいなって」 素直な気持ちなのだろう。
「そう。絵だって。わたしにはああいうふうには成れないなって……」
「そうだね」 もう少し気の利いたことは言えないものか。
ふう
同じようなタイミングで息を吐く二人。どちらも前方の護岸のあたりを見つめている。
「でも……だから」
緑茶に口をつけ、それを傍らに置いた少女は言った。
「……嬉しかったわ!」
彼女にしては大きめの笑顔を思い切ったように向ける。
「ああ、これが精一杯ね!」 「え……」
ほんのすこしキョトンとして、それから二人して笑った。
“あなたと一緒にいられて”とは口に出せなかったのだ。
透き通った翠瞳の奥に宿る彼女の声なき声が聞こえるようだ。
わたしは彼女のようにはなれない……。
大きな雲が日差しをしばし隠している。楽しそうな二人連れが目の前を通ったのをなんとなく
見送ってから、一樹の唇が動いた。
「彼がいるから」
「……」 言葉はなく、少年に首を傾げて微笑みかける。
「そう、あの人にはね」
「…………」
また押し黙る。
少年は自分の発言を悔やんでか、少女はその心情を慮ってだろうか。
小さく息をつく美少年の黒い瞳に少しだけきらめいたものは、
地上に届かずに蒸散する定めを待つ、寂しい粒のようだった。
「彼はね、とってもいい奴なんだ」
少し目を上げる。
「邪険にされたりもしょっちゅうだけどね」 ククッと笑いをこぼす。「ああ、そうだ、あの映
画を撮ってたとき、彼女と喧嘩になってしまって」
「本来上級生でもある朝比奈さんへの彼女の扱いに我慢しきれなかったんだ。そこで彼が思わず
手を挙げそうになったところで、朝比奈さんと僕がなんとか止めた。そうしたら、彼に怒られた
あとの彼女は……それは悲しそうだったな」
「涼宮さんが悲しそうな顔って、あんまり想像できないなあ」 少女が口を挟む。
いや全く同感である。
「うん。表情には、それほど出さなかったんだけどね。けれどそれはもう……フフ。でも」
参ったなと言いたそうな仕草を見せる。
「たった……彼のたったひと言で別人のように生き生きして。本当に別人のようにね。呆れると
いうか、もう少し別な仲直りの仕方はないのかと、つい愚痴を言ったよ」
「ひと言で……」
「そう、ひと言で。謝ったり謝らせたりじゃなく、ただ“一緒にやろう”と言っただけ。それだ
けで彼女は桜が満開……になるくらいに明るさを取り戻して。参ったよ。でも、彼らしいと思っ
た。もっと言えば……」
ややためらうような様子を見て取った少女が目でうなずく。
“つづけて”
「……もっと言えば、そう、羨ましいと思った」
「羨ましい……」 控えめな声が相手の言葉を繰り返す。
「そんなに想われてる、彼が?」
「そうだね。……きみの」 視線を向ける。
え……驚いたような表情を見せた彼女と目が合った。
「あの絵のこと。『先生』が自分のことのように誉めてた。僕も同感」
少女の顔が赤らんだように見える。
少しの間。
大きな雲のかかった空を一樹は見つめた。お気楽そうな顔であるが、わずかに考え込むような
目線だ。
おもむろに口を開く。その口調にはそれまでにない重さがあった。
「僕には……」
「え……」
「選択の余地なんてなかった。目が覚めたら別の自分だと知っていた……」
それは旅の果てに天を見上げた人の子の告解のようだった。
「古泉さん……?」
少女はそっと顔を向けた。
気づいてか、少年は薄く笑ってみせる。
「転校して……気がついたらあのにぎやかな人の輪にいて。そんな一年だった」
雲との境目あたり、薄いヴェールのかかった蒼穹に何を見ているのだろう。
ふぅ……と小さく吐息をもらした。
「選ばれたからには、与えられた役を演じきろうと……僕なりに」
持っていた緑茶缶を口にはこぶ。
「自分なりに忠実に。青色吐息にもなったけれど、僕自身もそれなりに楽しんでこれた、と思う。
あの映画も……いろいろあったけどね。あの二人も。フフ……見ていて飽きなかったな」
巻き毛が左右にゆれる。言葉を差し挟んでいいものか迷っているようだ。
「中学生の頃には考えもしなかった。荘厳な……殺伐として終わりを告げる人もない嵐がずっと
自分には降りかかるものと諦めていた。ほんの小童にすぎないのにね。そうじゃなかった。忘れ
ていたけれど、こうすることもできたんだ」
若い二人で逍遥する、そんな時間のことだろう。要するに今のような。
「けれど、どうしても拭い去ることのできない考えにさいなまれる時があるんです」
それはどんな?
「すべてはあらかじめ予定されていて、それを覆すことはできないのだと……」
風になびいて睫毛にすこしかかった髪を、一樹は脇に寄せながら言った。
少女も缶のタブをようやく開けていた。次の言葉を待っているようだ。
「自分の役割には、では一体いかなるオチがつくのか。演じていてそう考えることがある。そう
するといつも、一つの結論がこの心に入りたがるのもわかる」
何もないはずの空に何かを見ているように視点を定めている。
キョロンキョロンチリリリ……
まだいた。
それに応じるように、ようやく口を開く。
「それは甘い声で同じ言葉を繰り返す。『この杯を受け入れよ』ってね」
また沈黙。
「綺麗な声……ううんやっぱり」
話がふたたび転じることを、彼女はちいさく首を振って自分で制止した。
眉を少しひそめて。
おそらくずっと躊躇っていたことがあったのだ。
それを言おうかどうかと迷っていたことが。
「あの、9組の劇を……観てて思いました」
憂いを帯びた目で語る。
「いえ。それから何度も考えてました。あなたが……」
一樹はその劇でスポットを浴びる役だった。逃れられない運命の象徴のような人物の。
「とても似合ってたので、だから……余計に」
「余計に?」
「はい。ギルデンスターンって、とてもかわいそうだなって」
一樹に倣うようにお茶を口にやってから
「どうしてコインの表しか出ないの? どうしても運命は変えられないの?って……」
うつむく。
「でも言ってしまったら、わたしの中に浮かんだ悪いことを言葉にしたら、それが本当になって
しまったらどうしようって……。だけどさっきのあなたの話を聞いて……やっぱり思った、『言
わないと』って。だから」
隣の男は静かに耳を傾ける。だから……?
「古泉さん、あなたは……その杯から飲んだとしたらどうなるの?」
再びきらめきだした水の流れの方を見つめて言った。
「……あなたはどうなるの? 運命って?」
真摯で透き通った深緑の瞳が彼の横顔を見据える。いかなる者も今の彼女を欺くことは出来な
い、そう思わせるほどに。
語らない彼を思う心が、碧の炎となって彼女の静かな両目に宿っているようだ。
「ありがとう」と、一樹はにこやかに返した。
「幸い、僕は決定論者じゃない」
自然な感じで顔を彼女に向ける
「悲観論で心を満たす……なんていうのはあまり柄じゃないな。高校に入ってからはそれまでよ
りずっと状況は良くなった。こっちに来てからはとくに。それなりに楽しんでこれたのは本当に
ありがたいと思うんだ。ただときどき不安になるだけで、それをどうこうしたいなんて贅沢を言
い過ぎてるのかもしれないね……」 温和な口調だった。
そして首をカクンと後ろに逸らして少し空を眺め、その後うつむいて、さらにはついと彼女の
眼を見て言った。
少女はその視線を受け止める。
「心配してくれてありがとう。うれしい。本当に」
前に向き直った一樹は、手に持った緑茶の缶のあたりを見る。
「わたし、知ってます。古泉さんは……」
彼女は強い目のままだ。
「あなたはいつでも――涼宮さんを見ているって」 彼の横顔は固定されたまま。
その横面を、輝線を放つような少女の瞳が見据える。
「それはあなたに必要なことなんでしょう? でも……」
決然として言葉を加える。
「きっとそれは危険な、普通じゃないこと。でも大事なこと。『劇』の本筋に関わることなの
ね」
「…………」 目の前を年配の男性が通り過ぎるあいだ、少しの間があく。
「あなたはどこかで思っているの。『待ってるのは「受難の杯」かもしれない』って」
そして――
「 『 'Twas on a lofty vase's side
Where China's gayest art had dyed
The azure flowers that blow,
Demurest of the tabby kind
The pensive Selima, reclined,
Gazed on the lake below.
Her conscious tail her joy declared :
The fair round face, the snowy beard,
The velvet of her paws,
Her coat that with the tortoise vies,
Her ears of jet, and emerald eyes――
She saw, and purr'd applause.
Still had she gazed, but 'midst the tide
Two angel forms were seen to glide,
The Genii of the stream :
Their scaly armour's Tyrian hue
Through richest purple, to the view
Betray'd golden gleam.
The hapless Nymph with wonder saw :
A whisker first, and then a claw
With many an ardent wish
She stretch'd, in vain, to reach the prize――
What female heart can gold despise?
What Cat's averse to Fish?
Presumptuous maid! with looks intent
Again she stretch'd, again she bent,
Nor knew the gulf between――
Malignant Fate sat by and smiled――
The slippery verge her feet beguiled ;
She tumbled headlong in!
(ああ、何という大胆な乙女であることか! 眼をきらきらさせ、彼女
はまたもや身をくねらせ、またもや体ごとのり出した なんと、そこ
に深淵が横たわっていることも知らず)
(悪意を秘めた「運命」がほくそ笑んでいるとも知らずに。そして鉢の
滑りやすい縁に脚をとられ、あっという間に転落していったのだ、真っ
逆さまに)
要するに詩の引用らしい。一部入れているのは訳詩である。
あくまで真剣に、情感を込めて巻き毛の少女は続ける。
Eight times emerging from the flood
Seh mew'd to every watery God
Some speedy aid to send : ――
No Dolphin came, no Nereid stirr'd,
Nor cruel Tom nor Susan heard――
A fabourite has no frind!
(水の中から浮かび上がること八度、水を司る神々に向かって 助けを
求めて啼くことこれまた八度。だが、イルカも来なければ、水の妖精
も現われず、薄情にも、トムもスーザンも聞きつけてはくれなかった)
(ああ、みんなに見放された三毛猫よ、いとしの猫よ!)
From hence, ye Beauties! undeceived
Know one false step is ne'er retrieved,
And be with caution bold :
Not all that tempts your wandering eyes
And heedless hearts, is lawful prize,
Not all that glisters, gold! 』」
――失礼を承知で。なにそれ?
さすがに一樹もキョトンとして彼女を見ている。
通りかかる人がちょうどいなかったのはもっけの幸いであった。
「いまのは、『金魚鉢で溺死した愛猫を悼む』という詩」
(Ode on the Death of a Favorite Cat, Drowned in a Tub of Gold Fishes
Written by Thomas Gray)
真面目な顔で彼女がそう言うものだから、かえって堪えきれずに一樹は喉の奥で笑った。
いやこれを笑っていいともあまり思えないのだが、深刻な問いかけの意表を突かれてしまった
のだろう。
つられて少女も顔がほころんだ。
耳の辺りの髪を指で梳いた彼女は、けれどすぐに表情を戻して言った。
「運命だとしたら、それを捨てるのですか……」
さきほどの、あの真摯な目で見つめている。
「彼女のために?」
揺るぎない目が一樹に問う。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「その……すいません」
申し訳なさそうに、また恥ずかしそうに少女がうつむく。
沈黙がしばらく続いたのち、ふうっと大きく息をついた一樹が、おもむろに語りだした。
「映画の撮影のとき……」
また唐突な話の切り替えぶり。
「近くのマンションの裏で拾ったのが、あの長門さんの肩にのせられた三毛猫でね」
シャミセン氏の話らしい。
「監督の指示だった」
「監督って――涼宮さんの?」
「そう。涼宮さんの。監督が適当に選んだのが、驚いたことにオスの三毛猫だった」
言葉がろくに続かなかった時と違い、巻き毛の娘は自分から口を開くようになっていた。
といってもデートの最中に“他の娘ばかり見ている”などという話になるのは正直どうかと思
うのだけれど、あまりそういうことに嫉妬するような雰囲気ではない。むしろ真摯に気づかって
の言葉でもあるだろう。
控えめに見えるというだけではなく、どこか浮世ばなれしたというか世間擦れしていない娘の
ようだ。
別のものが直観的に見えているような、あるいは鋭い洞察力だとも言えそうな気もする。
こういうのを芸術家肌というのだろうか。
「本人は黒猫をほしがっていたようだけど、偶然拾った猫が数万匹に一匹のオス三毛だったなん
てね」
「すごい確率……」
一樹が買ってきた緑茶を少女は少し飲んだ。まだあまり減っていない。
幅の広い雲が太陽のあたりにさしかかっていた。今日は日中ずっと晴れときどき陰といった天
気なのだろう。
「三毛猫だってそんなにいないから、まさにそう。すごい確率。そのうえ彼は物のよくわかった
演技派猫で」
彼女に笑いかける。
「いい役者さんだったのね」 「まさに」 微笑んだ顔がいい絵になりそうな二人だ。
「似たようなメス猫だってなかなかいないのに。つくづく、ああやっぱり『変な人』と思う」
思い出したように一樹が苦笑いした。
どうでもいい話の代名詞といえばペットの話だと誰かが書いていたけど、互いに好きだと盛り
上がれるんですよね。
木目のものを拭くときのくるみ油くらいにはなるんじゃないでしょうか。
「それに彼女は、」
お気楽な笑顔を絶やさずに一樹は続ける。
「あの人はコインをひっくり返してしまうかもしれない」
「…………」
翠瞳がやや鋭くなった。
「ふふ……。なんせ、オスの三毛猫を一発で拾うような、」
「変な人だから?」 先に言われてしまう。
缶を右手に持ったまま、少年は両手を広げてみせた。ご名答、というジェスチャーだろうか。
「そのとおり。変な人だから」
復唱して彼女に笑いかける。
一樹にあわせるように、ククッと喉の奥を鳴らして少女も笑った。
そこに白くてぼわぼわした毛並みのシーリハム・テリアがふんふんふんと挨拶するように寄っ
てきた。
涼宮ハルヒがそれを見たらバリカンが落ちてないか探しそうな感じである。
邪魔しないようにとリードを引っぱる飼い主と、引かれていく気の良さそうな犬。
犬とその飼い主を微笑みながら見送ったあと、
「あの……お昼は?」
おずおずと尋ねる巻き毛の少女に一樹は、
「イタリアンで問題なければ、考えてたところが――それにリーズナブルなのでね」
そう言って北口駅近くのレストランの名前を告げた。まだ寒い季節に、貝と海老のクリームス
パを朝比奈みくるがナイフとスプーンで苦労しながら食べていた、その店である。
ちなみにあれはそういう食べ方をするものだったのか、それとも未来でそうなのだろうか。い
まだ不明なことの一つである。
あの店、ひょっとして気に入ってたのか一樹くん。
「ああ、なんて言ったっけ、あの、」
缶を額に押し付けて何かを思い出そうとしているらしい。
「『金魚鉢で溺死した三毛猫――』だったかな?」
自信なさそうだ。
「『金魚鉢で溺死した愛猫を悼む』、トマスグレイの」
「そう、それ。あれほど長いのをよく暗唱できるね」
「いえ……そんな。『ハムレット』のこと調べてたんです。あと英語とか、外国語の勉強にもな
るし。それでいろいろ……つい」
もじもじして答える。気恥ずかしいのだろう。
「好きなんだ」
「……え?」
「詩とか、音楽……絵ももちろん、だから描いてるんだよね、きみも」
「――ええ」 妙な間で答えた。両手でつかんだ緑茶の缶をじっと見つめている。
「気に入ったのがあったら、ぜひ」
「『ハムレット』で?」
「どんなのでも」
「それなら――」
しばし陰っていた彼らの近辺に光が射してきた。何者かの演出かと思うような瞬間だ。
「オフィーリアが幸せだったとき、こんな感じだったのかなと思って」
そう言って、巻き毛の女の子はふたたびそらんじて見せた。
「『 We were together, I remember...
The night was agitated and the violin sang...
Then you were mine,
More beautiful each hour...
Through gentfy murmuring streams,
Through the secret of a woman's smile,
A kiss seizes the lips
And the sound of the violin seizes the heart...』」
「『わたしたちは一緒だった、わたしは覚えている』――」
どちらともなく、二人はそうつぶやいた。
平易な英語で訳されているので、容易に意味を追うことができると思う。
悲しみのあまり狂気に陥いる登場人物に寄せた『オフィーリアの歌』ではじまる、『アレクサ
ンデル・ブロークの詩による7つの歌』の一つからとった訳詩だった。余談だが、一連の詩はブ
ロークが二十歳になる前に作ったものであるらしい。一つを除いて。
以下、おおまかに意味を追った例をひとつ、参考に載せておく。
(わたしたちは一緒だった、わたしは覚えている…
夜を打ち破ってバイオリンは歌っていた…
わたしとともにいたあいだ、
どんなときもあなたは美しかった…)
(しずかにささやく言葉の流れ
女のものなる微笑みのなかで
くちづけはわたしの唇をとらえ
バイオリンの音色はわたしの心をとりこにする…)
思うに、これをそのまま口ずさむのはかなり恥ずかしいわ。
だから英語で、そういうことだろうか……
「『 To wake a dream by my heart, bare,
With exultation, shy and air,
To cue your love that's left behind. 』」
え?
「…………」 少女はただ微笑んでいた。
彼女がそう諳んじた意味は一樹にもわからないだろう。そして問おうともしなかった。
「それでは――」
「あ、はい」
少年がベンチから立ち上がり、少女もそれに倣った。
昼食を共にしたあと、観光名所として広く知られたとある場所に行く予定があるのだと一樹は
言った。彼女も知っている場所に。