〜〜 ほむら(五章) 〜〜  
 
 例のマンションへは自転車で15分程度で著いた。  
 ハルヒの豪速を追いかけている間に二人とも着いてしまったわけだ。まあかなり早い。  
 来客用駐輪場に自転車を置いた二人はエントランスに入った。長髪の涼宮ハルヒ嬢はすでに眼  
鏡を外している。  
 708号室に再び連絡をつけるとドアはすぐに開き、いつぞやのような足引っ掛けは当然せず  
に済んだ。  
「やあどうも。おう、今日はまた一段とめんこいの、お嬢さん」 やたら大きな声で管理人の方  
から声をかけてきた。  
 よく覚えておいでで。休日だけどいらっしゃるのね。  
 ハルヒも頭を下げ、よそ行きの声色で「あ、お仕事お疲れ様です。今日は友人と約束してい  
て」と答えた。  
 ハルヒの言葉がちゃんと聞こえたかはわからないが、おなじく会釈をする男の方が通り過ぎる  
際、“うまくやっとるな、少年”とばかりに管理人氏は目配せする。ニコニコお笑いだ。  
 取り逃がすんでないよとまでは言うのも野暮ってもんなのだろうね、見ているかぎり取り逃が  
すどころか彼女の方が逆にがっちり捕まえている雰囲気だし。  
「キョン」  
 7階に向かうエベレーターの中でハルヒが声をかける。  
 ボタンのそばで背中を壁につけている男は  
「なんだよ」と素っ気なく彼女に答えた。  
「あの人、あんたのことよく知ってるようだけど」  
「……らしいな。おまえだって。で、なんだ」  
 相手の意図を誰何しているような躊躇があった。  
「……別に」 彼女も同じような間で言葉を返す。  
「そうかい」  
 やはり彼はつっけんどんだ。しかし一瞬、2万点の構造写真の中から互いに矛盾する二枚を見  
つけだすような目をハルヒは彼に向けた。  
 7階まであがり渡り廊下に出ると、長門有希が部屋のドアを半分開いて佇んでいた。  
 ハルヒを見る時の表情は普段となんら変わらない。  
「入って」  
 抑揚の少ない、やはりいつもどおりと思える口調で二人を招き入れた。  
「ああ、俺はこれから一度北口にいかなきゃならんので、ここで。あとでまた邪魔すると思う」  
「……そう」 了解したらしい。  
 まだ彼の後ろにいたハルヒと目が合うと、有希は小さくだが頷いて彼女に意思を伝えた。  
 モノローグでときどき彼の語るところである『ピコ単位』だとか『ナノグラム』などとという  
のはあくまで比喩であり、大体はいわゆる誇張表現であることをいちおう指摘しておこう。  
 そこ、『だから何?』とか言わない。  
 ええと、そんなどうでもいいことは置いといて。  
 涼宮ハルヒは、やはりというべきか、こちらの長門有希の言葉遣いや反応におおいに興味を抱  
いたようだ。彼女の知っている長門有希とはなにかと違うので、これは当然だろう。  
 玄関に入っていく彼女に  
「じゃあな、また戻ってくる」と言い残す。  
「早く行きなさいよ」と逆に急かされながら、普通人を自任する少年は長門有希の家を一旦あと  
にした。  
 
そういうお茶を濁すと言うか煙に撒くような言い回しを好まれると  
つい最近まで長文でこのスレを荒らしていた自称批評家の作品だと勘繰ってしまうから黙って投下だけしてくれ  
 
***  
 
 さて――――  
 
「はい。え……あ、そうか」  
 何かに気づいたのか、少女はそうひとりごちた。  
「それに部屋はきれいに片付いたのでこれから。今日はいい天気でよかったわ」  
「はぁ?」  
「……ですから――」  
 何度か聞き返されながらも少女はニコニコして答えている。  
「あーなるほどねぇ。へえ、もう荷解きも済んだっていうんか。まったく手際がいいわあアンタ  
んとこは」  
「はい、ご無沙汰しておりました、またよろしくお願いしますね管理人さん」  
 笑顔の少女が言った。清潔感のあるセミロングの、微笑む顔が印象的なとても美しい娘だ。  
「おうおう、なんかあったらいつでも言ってくださいよ、お嬢さんなら大歓迎ですよ。いやー、  
今日はええ日だわあ」  
 エレベーターに向かう少女を見送りながら管理人の爺さんは大きな声で言った。後ろのほうの  
テーブルには、受け取った菓子折りだろうか、包みが置いてあった。  
 
 考えてみればここの管理人さんって耳が遠かったんですな。  
 
 玄関先で待つ長門有希の姿を、訪ねる二人がちょうど認めた頃のこれは話。  
 
***  
 
「朝からお邪魔しちゃって悪いわねって、あれ!?」  
 長門有希の家に入り、居間の窓や脇に置いてあるグッズ類を見回すハルヒ。  
「……そこ、座って」  
 座布団をやんわりと指差してハルヒに座るよう促してから、長門有希は台所へ入り、ややあっ  
てほうじ茶の入った急須と空の湯のみを持ってきた。  
 というわけで、長門有希宅の居間には長髪の麗人というか美少女とオカッパ頭の有機端末――  
硬質な雰囲気にして白皙の肌の、やはり美しい少女型――の二人がいた。  
 ちなみに外見の特徴はモンゴロイド系――といいつつハルヒは目鼻立ちのすっきり通ったわり  
と深みのある造形ではあるが――なのに白皙であるというイメージが湧きにくい人は(まあそう  
いう人もあまりいないと思うが)いわゆる北日本などの健康な若い娘さんにはそんな表現が当て  
はまりそうな人も確かにいるのだと思って頂ければいいのかもしれない。  
 だって作者が『白皙』って書いてるんだもん……  
「あ、ありがと――」  
 向かい側にちょこんと座って二人分のお茶を入れている有希を、そこはかとなく可笑しそうな  
表情を浮かべてハルヒは観察していた。  
 一般的なこの手の部屋のインテリアからすれば、ここが殺風景で生活感に乏しいことには変わ  
りないが、冬に新調されたペイズリー柄のカーテン――つまり冬用のもの――や脇にいまだ固め  
て置いたままのツイスターゲームといった違いをみることができる。カーテン一つであっても有  
希の部屋の印象を違ったものにしており、それはこのハルヒから見てもそうなのだろう。  
 彼女はあの世界の長門有希の部屋にも入ったことがおそらくあるわけだ。  
 あちらはいまだ殺風景、ということなのだろうか。  
「長門さん……有希でいいんだっけ。こっちのわたしもそう呼んでる?」  
 湯気の立つ湯のみを両手で持ちながらハルヒが尋ねた。  
 対面する有希はほうじ茶の入った湯のみを口元に寄せたまま少し止まってから、カクンと小さ  
く頷いた。視線をテーブルに向けたままの仕草はとてもかわいい。  
「……」  
 有希に会わせるようにと言うわけではないだろうが、長髪のハルヒも黙ってお茶を二口ほど飲  
んでから、  
「アルバムとか映画とかでしか見てないんだけど、あっちの有希と一緒のように見えてやっぱ違  
うわねー」  
 そう言ってまじまじと見つめながら、  
「へぇ。それで、どう? こっちのわたし。けっこう仲良くやってるみたいだけどさ」  
 楽しそうに尋ねた。  
 長門有希は怜悧なような単なる無表情のような視線を目の前の少女に固定させていたが、相手  
からの追加の説明がすぐには期待できないと思ったのか、少しして口を開いた。  
「どう、とは?」  
 どこかで聞いたような台詞だ、要するにもっと具体的に頼む、ということらしい。  
「うーん、だから、簡単に言っちゃえばこっちのわたしのこと有希は気に入ってる? ああ、そ  
りゃ腹立つこともあるだろうと思うわよ、でもこっちのわたしはあなたたちといられて楽しそう  
だし。すっごく」  
「…………」 返答に窮しているのか、ピクリとも動かずテーブル上の湯飲みを両手で抱えたま  
まじっとしている。  
「へえ」 そういう無表情プラス無言という反応もたぶん新鮮なのだろう。  
「やっぱ変わってるわね。ほんと無口キャラに磨きがかかってるみたい」  
 育成ゲームでひとりでに育ったお気に入りのキャラクターを愛でるような感じでハルヒは感想  
を述べた。  
 
「『朝比奈ミクルの冒険』はキョンの家で見せてもらったんだけどね。あの、ラストの桜のシー  
ンなんだけど、あれってあなたがやったの? 異常気象で咲くにはあれ満開すぎるもん。第一タ  
イミングが良すぎておかしいし、こっちじゃあんな風にはならなかったはずだし……覚えてない  
けど」  
「わたしや他の有機インターフェイスによるものではない。言語で説明するといささか正確を欠  
く恐れがある……」  
 ハルヒを見たままいっとき言いよどんだものの、  
「端的に言えばあの局地的生体情報の改竄は涼宮ハルヒの情報創造能力に由来すると考えられて  
いる」と、彼女らしい語彙を、つまりこのハルヒにはおそらく新鮮な語彙を用いて説明した。  
「なんでそんなことしたのかしら、わたし。そりゃ画面映えはするしそっちのほうが良いって  
思ったんだろうけど」 なんとなく言ってみただけのようだが、たしかに不思議ですよね。  
 若干タイムラグを置いて、「……詳細はなお不明」と有希は答えた。古泉一樹が彼に説明した  
ような内容なりおおまかな理由はおそらく知っているはずだが、それは言いたくないのかもしれ  
ない。  
 情報の伝達に齟齬が生じるからか、あるいは彼女の中で――  
「ふーん。不明ね、不明……」  
 ズズーッと音を立てて湯飲みのお茶を飲む。  
「最近のマンションの水って臭くないわよね」  
 湯飲みに鼻を近づけながら、どうでもいい……というわけでもないが、そんな当たり障りのな  
い感想を付け加えた。  
 性能のよい直結増圧式給水ポンプで上水道から引いてきた水を上階に直接送ったりしますので  
ね、最近は。長門さんたちのこのマンションがそうかは詳しく知りませんし意外に長門さん個人  
が浄水器とか使ってるのかもしれませんが。  
「有希は眼鏡はしないの?」 一見しての違いはまずそこですな。  
「わたしの時空間帯域内情報連続体……異時間同位体は掛けていた。一年ほど前まで」  
「そうよね、写真にも……。ええと、つまり前は近眼だったりしたわけ? コンタクトに替えた  
の? じゃなきゃなんで外したの?」  
「この有機インターフェイスの光学的情報受容体にかかる生体情報には元来修正すべき問題はな  
かった」  
 やたらまわりくどく、普通に表現すれば眼鏡はもともと不要とだけ説明し、つまるところ逆に  
言えば有希は外した理由を説明しなかった。  
 
「ふうん……? それじゃあ、なんで……というのは置いといて、こっちでも文芸部ってことは、  
あなたも本好きなのよね?」  
 少し引っかかったようだが、あくまで軽い口調でハルヒは聞いた。  
「…………」 こく。やはり小さい動きだが肯定の仕草をする。  
 休日の朝にもかかわらず、この文学少女の格好――その実態は人類よりも、いや地球のどんな  
科学技術とか兵器だって軽く凌駕してしまいかねない超人類的存在だが本人に言わせれば同時に  
『インターフェイス』にすぎないという、わけのわからない背景設定かつ超人スペックにして美  
少女高校生――が相変わらず北高の制服姿であることは不思議ではないのだろうか?  
「どんなの読んでるの? なんか分厚いSFものとか、ミステリー小説だとか、題名読むだけで  
舌かみそうな哲学の本とか、」  
 一回分くらい呼吸を置いて、  
「……恋愛物なんかも?」 ハルヒはそう付け加えた。  
「…………」 こくり。  
 今度はハルヒを見て頷いた。こちらもちょっとだけ時間があいた気もする。  
「へえ。あなたにしてみたら人類が持ってる知識なんて最初から常識だとか、考えてることのレ  
ベルが違いすぎて面白くないとか――ええと、そういうわけでもないんだ」  
「ない」 オカッパ頭は即答した。  
 お互いにお茶を頂いた。微妙にタイミングがいいのはどちらかが合わせてるのか、まあ同じよ  
うなこと考えてるのかもしれない。どんな同じようなことかは知りようもないけど。  
「ありがと有希」  
 空になるのを待っていたかのようにすっと手を伸ばし、急須から二杯目のお茶を注ぐアンドロ  
イド的少女存在。  
 
 自分の手元に湯のみが置かれるまでの、無駄のないというかぜんまい仕掛けのお茶はこび人形  
をどこか連想させるそんな有希の仕草を興味深そうに見届けてから、ハルヒはまた尋ねた。  
「わたしも有希の――あっちの有希ね――部活というか、いっつも読書してるし、『それ面白  
い?』って聞いても『わりと』みたいな簡単な返事だけで内容とかあんまりしゃべんないからさ、  
そんなら読んでやろうって思って、けっこう読んでるのよねー最近は。自分で栞をだって作った  
し……あなたも使ってるたりするの? お気に入りの栞なんか」  
「……」 最小限の会釈で肯定を表明する。  
「じゃあ、あなたも小説とか、短編とか、創作したことある? 文芸部の機関紙とか、そんなん  
じゃなくてもいいんだけど」  
 爛々と目を輝かせるハルヒさんだ。  
「…………」 かくり。ハルヒを見てわずかに頷いた。  
「へえ。ぜひ読ませてもらいたいわね……ああ、」  
 彼女はすぐに見せてとは言わなかった。  
「それでさ、読ませてもらったんだけど」  
 え?  
「…………」 じっと見つめる読書好きの宇宙人。  
「あっちのね、あなたの……有希の書いてたやつ。偶然みつけちゃったわけ。ちょっと悪いと  
思ったんだけど、文芸部のパソコンに入ってたし部活の一環の創作だろうと思って読ませても  
らったのよ」  
 さらりと事実だけを追うようにハルヒは言った。  
「…………………」  
 
 わあ。  
 有希さんってば緊張しているような。  
「大丈夫、読んだのはわたしだけよ。……その、不可抗力ってやつで」と、あまりフォローに  
なってないようなことを言うハルヒ。  
 しかもかすかに可笑しそうな表情にも見受けられ――って、ひょっとしてこいつワザとか?  
 一方の無口属性はというと、いやこっちがそういう目で見てるからそう見えるだけかもしれな  
いが、ストンと落とした視線が据え置きテーブルの一つところを急速フリーズさせそうなほど留  
まってとにかくまったく動かない。  
 そんな有希をよそに、  
「まさかこっちの古泉くんが、ねえ……?」 窓の方を長い睫毛の奥から見つめる少女がつぶや  
いた。  
 長門嬢をひょっとして一時凍結に追い込みながら、別のことが気になってるかのような余裕の  
ハルヒさんだ。  
 だるまさんが転んでいるように動かないシャギーの入った髪の毛に目を戻す。  
「ねえ有希、新しい市立図書館ってあんたもよく通ってるの?」  
 質問された長門さんの睫毛がほんの少し動いた……うん、わずかに動いたように見えた。  
「…………」  
 カタリ、とテーブルの湯飲みを音をさせながら手にとって、  
「そう」と、ハルヒが有希の返事を待たずに答えた。“わかった”とでも言いたげに。  
 そうして合間を置くように湯飲みを口にした。  
 文庫本を半ページほど読む程度それを置いてから、「有希」とハルヒは声をかけた。呼びかけ  
られると、湯飲みを持っている手が止まった。暗いが透き通った長門の目線がすうっと上がり、  
再び二人の目が合う。  
「それって……ひとりで?」  
 ちゃんとお見通しよといった風情にも、尋ねているハルヒは見える。  
「……ときどき」  
 あまり答えになってないような気がします、長門さん。  
「ときどき……」と有希の台詞を繰り返したハルヒは、息をすうと整えてからその言葉尻をとら  
えて聞いた。  
「キョンと?」  
 返事はなかった。  
 
 何も答えず、少し固まったように見え、それから有希は――自分から視線を落とした。  
 なんか言ってることは双方の性質に応じていろいろ飛びまくってるが、やろうとしていること  
は女同士の駆け引きというか何かのさやあてとかそんな有象無象にみえるのは錯覚だろうか。  
 
「あ、そうだ、有希の書いたの読ませて!」  
 突然明るく要請したハルヒに動かされるようにして、小柄な有機インターフェイスはどこで自  
重を支え上げているのかよくわからないくらいにひょろりと立ち上がる。  
 肩越しに「ちょっと待って」と言い残し、短かすぎるボブカットを揺らしながら自室に入り、  
分厚過ぎるために結局紐で綴じ直したらしい文集を持ってきた。  
「へえ、えらいぶっといわね。ありがと」  
 有希の右手から「これ」とだけコメントつきで突き出されたその文集をハルヒは手に取った。  
 
 そういうわけで彼女が今ページをめくっているのは、学年的には前年度である今年の初春に繰  
り広げられた敏腕編集長涼宮ハルヒ膝下の副産物というか予想外の人気を博した読み物集である。  
 涼宮ハルヒと一部不愉快そうな仲間たちによる文芸部室の不法な(としか言えないと思う)占  
拠状態の看過(見て見ぬふり)を賭けた、SOS団vs生徒会会長ということに表向きの構図は  
なっている文芸部機関誌作りの成果とも言えた。  
 あーだこーだと言っても一応その目的は達成されたので、勝利の記念であるとの某ハルヒ氏の  
認識もそれほど間違ってはいないかもしれない。……やっぱ若干おかしいかも。  
 
 少しのあいだ、一人暮らしには広すぎる高級マンションのリビングで向かい合う二人は沈黙し  
て、手渡された読み物集をハルヒは主に読みふけりつつ、ときどき二人そろってお茶を飲んだり  
していた。  
 難しそうな顔をしてみせたかと思えば急にニヤニヤしだしたりと、どうやら他の人の作文も読  
んでいるようで、なかでも堪えきれずにといった勢いで吹き出し、  
「ブワハハハッ、みくるちゃんのお友達よね、この『気の毒! 少年Nの悲劇』書いたのって!  
 バッカみたい、ちょっとこれ天才じゃない!?」  
 いっときに相反する感想で同じ作品を評しながらハルヒが爆笑したのは、長髪の女傑(だって  
古武術とか身につけてるんでしょ、たしか)鶴屋嬢から提供を受けた外注作品である。彼と同じ  
ような感想だったということは、やはりかなりの娯楽性を秘めた出来なのであろう。ぜひ一般読  
者にも披露してもらいたいものである。  
 ハルヒが何か言うのを待っているというわけでもないだろうが、そんなハルヒの時々の反応を  
なんとなく伺っている様子の有希自身は何も読んでいない。  
 ちなみに、気温も天気も過ごしやすさ抜群といっていい建物外環境情報でもあり、さきほどか  
らベランダ側の窓は半分くらい開いている。  
 
「お茶、飲む?」 「…………」  
 有希の言葉に顔を上げたハルヒは黙って空の湯飲みを差し出した。今はどのあたりを読んでい  
るのだろう、内容について考え込んでいるようにみえる。  
「ふうん……?」  
 秀麗な眉間に浅くシワを寄せている。何がそんなに難しいのだろう。  
 ま、だいたい予測は付くが。  
 いったん自然に呼ばれに行って戻ってきてから、ずっと同じあたりを開いているようだ。  
 しばらくそうしていたハルヒは、つぶやくように疑問を口にした。  
「『彼』って――」 チラリと向かいの少女を見やる。  
「…………………」  
 湯飲みを持ったまま、ふたたびテーブルを急速冷凍する体の有希さんだ。凝固したままだと変  
だと気づいたのか、そのあと思い出したようにぎこちない(ように見える)まばたきを三回つづ  
けた。いかにもとってつけた感がある。  
 一見したところその表情には変化はないけれど、彼が見ればそうでもないのかもしれない。  
 ひょっとすると恥ずかしいということ?  
「やっぱり、こなかったのかしら」 窓の外に黒真珠のような瞳を向けてハルヒが言った。  
 どういうわけか緊張して固まっているとおぼしき向かいの万能アンドロイドだが、どことなく  
お姉さんの雰囲気をかもし出すハルヒは別のことが気になるようだ。  
 あれ、さっきも似たような場面あったっけ。  
 
***  
 
 ほとんど意味のなさそうな変装未満なことをそれでも自転車で移動中は試みていた涼宮ハルヒ  
と、光陽園駅近くのマンションに自分の自転車も置いていったん別れた私服の男子高校生――い  
わずと知れたハルヒの前が指定席の男――は、ちょうど9時前に北口駅に降り立った。  
 ぎりぎりセーフではあるが、これがもしSOS団指定の集まりならば自分を含めた5人分を確  
実に喫茶店で奢らされているという意味で、確実に手遅れの時間でもある。  
 しかし今回はそのような危惧よりずっと大きな不安が彼を占めているものと思われる。  
 このあたりの心情は容易に想像できよう。“そこにハルヒがこなかったら”という、ほぼ間違  
いなくそうなるであろうことをやはり心のどこかで否定しながら、同時に理性的な判断が重くの  
しかかってくるという、不安と焦燥のさなかにいて当然なのだ。  
 平日とても行く人来る人で日中人通りのたえない場所だが、さすが休日、とくにこれから都市  
部へ向かう人を中心にさらに駅前は喧騒を増している。  
 目印となる大時計の前にほぼ定時に着いたのは、湯飲みの熱い苦丁茶180mlに砂糖を2g  
くらい入れて飲んだとき相当には渋い表情の彼一人であった。  
 たぶん。いや飲んだ事ないので想像ですが。  
 二つの時計を見比べ、携帯電話まで取り出しておそらく時刻を確認している。  
 一度はそれを戻したものの、ふたたび取り出した男は今度は電話をかけた。  
 今回の件でもっとも怪しいとされる、『神人』出現空間特化型赤玉戦隊の現役高校生隊員、古  
泉一樹が相手である。ちなみに彼の変身姿になにか正式名称があるのかはわからない。  
 
「……ああ。俺だ。聞こえるか、もしもし、うん、いま駅前にいる。お前も知ってるんだろうが、  
ハルヒがいない」  
 少々苛立った口調でそう言った。  
『さて。あなたはどちらから電車に乗ってこられましたか?』  
「……光陽園からだ。ああそうだ長門の家に寄ってきた」  
『そのようですね。長髪の綺麗な人と一緒だったとか』  
「ふん。まあな」  
『あなたと一緒ですよ、僕個人に感知できる範囲に、あなたがともにいた彼女以外の涼宮さんは  
おられません』  
「…………」  
『もしもし? もう一度言いましょうか?』  
「いいよ。とぼけんじゃねえ、お前が仕組んだことだろ、おまえの『機関』とやらの狙いはなん  
だ、このままでハルヒが入れ替わっちまった――のかどうしたのかは知らねーが、そのほうが都  
合がいいってことか!?」  
『どうか落ち着いてください。それに、こちらは少々聞き取りづらくて。まず、あなたも良くご  
存知のはずですが、僕にそんな真似はできま(ギュポ……)……そんな真似はできませんよ?   
それに、(ギュピキュ……ピ)』  
「おい? もしもし、もしもし!?」  
 
 電波状況が悪いのようだ。ノイズキャンセラとかなにかだろうか、どうもあまり周囲の音を拾  
わないようで状況をつかみにくいが、ひょっとして移動中か?  
『……長門有希……長門さんのマンションに彼女がいるということですし、あなたも長門さんか  
ら聞くほうがはるかに正鵠を射ることができるのでは?』  
 あの、正鵠を得るとかそんな難しい言い回し使わんでも、電波状況が悪い時にはできるだけ平  
易な表現にした方がいいのではないだろうかと、どうでもいいが筆者は愚考しますが。  
「ふん、そういうつもりならそれまでだな。お前がこの前言ったばかりの『運命共同体』とやら  
も、“かくして脆くも崩れ去るのでした”ってわけだ」 怒りをあらわにして文句を叩きつける。  
「……おい、聞こえてるよな? くそ!」  
『聞こえました。ですがそれは――それは心外です、どうか気を悪くしないでください。ご期待  
に添えないことは謝ります。それがよいと思われるのでしたら鉄拳制裁も甘んじて受ける覚悟で  
す。ただ、僕にもでき(ピギュ……ギュ)と、言えることと言えないことがあるんです。いまは  
それくらいしか言えませんが、それだけは了解していただきたいと……』  
 言葉を濁した言い訳そのものだが、やたら寂しげな口調だった。といっても相手からの同情は  
あまり期待できそうにないが。  
『とにかく、僕が知覚できる程度のことならば、彼女……長門さんならばとっくにそう出来てい  
るはずです。彼女に聞くことをお勧めします』  
「そうかい。で、お前今どこにいるんだ? ……今どこだ?」  
『はい? ああ、意外にそちらの近くに行くかもしれませんよ? いずれは。なにしろ今日は各  
自涵養に努めるようにとの団長の指示もありましたし……フフ、お言葉に甘えて今日は私用に充  
てるつもりです。なにしろ近頃は大変でしたから……』  
 にやけ顔が眼前に浮かぶような口調でさらりと言う。当然イライラしたままの通話相手だ。  
「もういい。じゃーな、オーバー」  
『――はい?』  
「……いや、言ってみたかっただけだ。そいじゃ切るぞ」  
 周りの目線を気にするようにチラ見して電話を切った。  
 憤然としてた割にはどうでもいいことを思いついてたりするのはなぜだろう。しかも周りの目  
を気にするくらいならやめといた方がよかったような……。  
 たしかに長門さんに聞くというのはしかし非常に有力かつ合目的的でもあるように思われる。  
これまでの経緯からしても、彼の認識も当然そのはずだ。つまり現時点ではまだ有力な当てがあ  
るわけで、ついにハルヒが現れなかった以上、二の足を踏むような意識が薄れて目的が明瞭に  
なっているのかもしれない。  
 しかし、彼女の自宅には、涼宮ハルヒが確かにいるのも事実だった。  
 長門有希のマンションにたった今も実際にいて、たぶんお茶でも飲んでいるだろうその彼女は  
どう思うだろうか。  
 実際のところ、彼はどう考えているのか――  
 
 電話を切ったあと彼は10分ほどなおその場にとどまったものの、やはり彼女は現れなかった。  
彼の近くにある三つの時計をふたたび確認してから、厳しい表情のまま男はふたたび駅の改札口  
へと向かった。  
 
***  
 
 涼やかな風が静かに舞い込んできた。  
 半分くらい空けたハルヒの湯飲みのなかの茶は、けっこう冷めてしまっていることだろう。  
「あのさ、有希?」 風に誘われたように切り出した。  
「あなたは『対地球人類コンタクト用ヒューマノイド型有機インターフェイス』なのよね?   
あってる?」  
 文芸部の機関紙を机に置いて、こめかみあたりにかかる前髪を軽くなでながら聞いた。見た感  
じ、あくまで興味本位な長髪のハルヒさんだ。  
「そう。涼宮ハルヒを観察するという目的でわたしは造られた」  
「うーん? なんか不思議な力とかそれっぽいの、見てみたいわね……。あ、あれ」  
 居間を見回して目ぼしいものがなかったのだろうか、いったん玄関へと向かいそこからすぐに  
持ってきたのは……いつぞやの紙飛行機2号だった。  
 こっちのハルヒさんがご機嫌斜めだった際に作ったのだろう、それにしても2号機の作者は有  
希だったのだろうか。  
「ねえ有希、これを飛ばしてみて?」  
「…………」 無言で、しかしやはり小さく頷いて紙飛行機を受け取ると、静謐な眼差しで見つ  
めたそれを飛行させるように胴体で持ち――  
 つい、と飛ばした。  
 白魚のようなその手で。  
 ええと。たしかに美しいフォルムで曲線を描くように飛んでますよ、飛んでますけどなんか意  
味が違うような……  
 ハルヒは「へ?」と口を半開きにして見ていたが、  
「ああと、その、よく飛んだわねってそういう意味じゃなくて、こう手で飛ばすんじゃなくてさ、  
ひとりでに浮いて部屋中飛び回るとか、そんなん期待したんだけど」  
 2号機を回収しながらちょっとニヤニヤしてツッコミを入れた。  
「え……」 飛行機とハルヒを交互に見ている。  
 なんというかその、意表を突かれたのだろうか。もちろんボケたわけではないらしい。  
 どちらにせよ彼女は無表情だが。  
「ま、いいか。そうよね。あたしたちの観察が任務なんだもんね、無意味なことはしちゃいけな  
いとか、そんな制限があってもなんら不思議ではないわ」  
 うんうんと勝手に納得しながら紙飛行機を玄関に戻しに行った。  
「…………」 もしかしたら自然の恵みをそのまま使ってる感を表現する時のような謳い文句で  
ボケていたのかもしれない。そんな気がする。  
 任務とか役割を言いだしたら、目の前の有希お嬢さんによる『世界改変』とやらはどうなるの  
かと愚考するのですが、まあいいか。“起きてしまったことは仕方ない、次のこと考えま  
しょ!”ってのが涼宮さんらしいのかもしれないし。  
 
 急須の茶葉と湯を入れなおしに台所に有希が入った。彼女の好みなのか一般的かつ簡単なもの  
を選んでいるだけかわからないが、ふたたび熱いほうじ茶を急須に入れて戻ってきた。今度は電  
気ポットも一緒に、それから空の湯飲みをもう一つ。  
 
「それより、もしもだけど、わたしの力ってのが無くなったらどうなるのかしら。ちょうど今み  
たいに。てかさ、有希はどうするつもり?」  
 自分の湯飲みに急須から有希が注ごうとしたところを充分とばかりに手で制してから、ハルヒ  
はそう言った。  
「自律行動の可否・与奪は情報統合思念体の意思による。われわれの存在は彼らと地球人類との  
コンタクトのために必要だった。あなたを観察する必要がなくなった場合は、長門有希という個  
体を有機インターフェイスとしてここに置く理由は無くなる。その場合、相互に連関のある環境  
情報に影響しないような形で消去されるか、有機生命体と変わるところのない存在として残され  
るか、あるいは別の目的が与えられるかもしれない。どうなるかはわからない。いずれにせよ、  
情報統合思念体の意思にわたしは従うことになるだろう」  
 彼女にしてはかなりな長口上を他人事のように淡々と語った。  
「……ふうん」と、すこし眉をひそめて答えるハルヒ。わかったのかどうか曖昧な返事だが。  
 ハルヒは自分で注いだ茶を少し飲んでから、  
「それはまあ、造った親御さん次第ってことよね。わかるんだけどさ」  
 そう言いながら有希の表情を観察するように見据えて言った。  
「有希、あなたはどうしたいの?」  
「…………」 うんともすんとも言わない。  
 湯飲みを口に運んで、有希はただテーブルを見つめていた。一応注記しておくと『親御さん』  
というハルヒの表現がふさわしいのかは疑問だ。  
 正面に座る寡黙な少女を見ていたハルヒは、ふたたび有希の持ってきた文集をペラペラとめく  
りながら思案顔を作っている。  
 そうして、まったくなんとなしにといった調子でつぶやいた。  
「夢――有希も見るの?」  
「…………」 その無表情から何を思っているのかは推測しにくいが、沈黙の長さが彼女の微妙  
な困惑を表していたようだった。ようやく口を開く。「この星の有機生命体と同種のプロセスの  
ための睡眠をわれわれは必要とはしない。だから文字どおりの意味で夢を見る過程も不可避なも  
のではない。でも、それを認識した事象は過去にあった」  
「文字どおりの夢ね……」  
 思いついたようにハルヒは再び尋ねた。  
「有希、よかったらあなたの言葉で教えて。あなた自身やわたしたちを造り変えた理由、という  
か、もっと大事な……てか、あなたの夢、願いはなに?」  
 その時機だと思ったのだろうか、おそらく一番聞きたかったことを言葉を選びつつハルヒは尋  
ねた。  
「…………」 口を開きかけたが、また閉じてお茶に口をつける。  
 沈黙の雲が垂れ込める。外の景色は明るいけれど。  
 もともと良い姿勢だったその背筋を、向かい合うオカッパ頭の少女に合わせるようにさらに伸  
ばし、正座をさらにきちんと取り直した長い睫毛の少女は正面の相手を見つめていた。  
 その間ふたたびダンマリを決め込んだのかと思いきや、まとめ終えた考えをようやく告げるよ  
うに有希は切り出した。  
「あなたの情報創造能力を盗み、当時から過去およそ一年間に及ぶ世界の情報改変をわたしが行  
なったのは事実。わたしは自分の意志でそれを行なった。ほかの誰にも責はないし、またなかっ  
た。加えて、わたしの行動を回避することはできなかったと、結論として彼に言った」  
 病院に見舞いに訪れた際の自分の言葉をトレースするように語る。  
「“それを不可避ならしめたエラーの原因は不明である”とも、その時のわたしは告げた。いま、  
それが必ずしも事実ではないことをわたしは認める」  
 
「あなたがそうしたのは――」  
「そう。あなたが考えているとおり……と、思う」  
 有希の口調は静かな湖面に投じられた小石から広がる波紋のようだ。彼が録音したいと語った  
ときも多分こんな調子だったのだろう。  
「今でも?」  
 深く踏み込んでいる自分に躊躇しながらも、訊かずにはいられない様子のハルヒ。  
 直接の答えはなかった。  
 そのかわり短髪の華奢な娘は己の意思を表明した。  
「あなたと……彼の保全がわたしの最優先事項。ただし、それがいつまでも継続するとは保証で  
きない。しかしわたしは自分の意思で動くだろう、それが必要な時に。わたしはわたしのすべき  
ことをする。統合情報思念体でも――誰の指示でもなく。わたしのこの意志は変わらない」  
「有希……」 ハルヒは目を見張っていた。  
 有機端末であるはずの少女は、自分の夢あるいは未来への望みにも言及する。どことなく、強  
い意志を外套にして纏っているような雰囲気で。  
「わたしの夢――将来の希望という意味においてのそれ――については、」  
 ゆっくりと、だが最後まで表明しようという強い意志をどこか感じさせた。  
「わたしの未来はわたしに属している。あなたの未来があなた自身の意思に属しているように」  
 自分のもとにもっとふさわしい言葉を集めたがっているかのようにたなごころを上に向け、さ  
らに言葉を継ぐ。  
「彼の未来がまた彼に属しているように。それがわたしの希望。そしてわたしは、自分という個  
体の未来に……」  
「もういいわ」  
 ハルヒが制止するが、有希の髪がわずかに左右に振れた。つまり、わたしは言うのだと。  
「いまのわたしは、あなたにそれを闡明することが自分の責任であると感じている。成すべきこ  
ととして、わたしはこの責任を果たそうと思う。だから言わせて」  
 変わらず無表情なのに、彼女にとって決定的な告白をすることがわかる、その顔にはそんな強  
さがあった。  
「わたしは、自分という個体の未来に、彼の……」  
 また詰まる。  
 彼女にとって恐れるものなどこの世にそうそうあるとも思われないけれど、今の彼女の内面で  
は葛藤が渦巻き、また非常な勇気を振り絞っているようだった。おそらく、どんな巨大な敵に対  
する時にも感じなかったほど恐れていたものに向かう時のような。  
 長いあいだ沈黙が支配したかに思われた。しかし長門有希は打ち勝ち、そして言った。  
 
「彼の……意思、そして未来がともにあることを望んでいる――――強く」  
 
 平素の彼女を知る者にとっては異例なことに違いない。漆黒の瞳の奥から熱と光が湧き出たよ  
うに、その時の彼女は見えた。  
「そして、自分自身のこの願いからわたしは逃れることができない。おそらく、同じ時空上に彼  
が存在する限り、ずっと」  
 告白する彼女を見つめるハルヒの目は揺らいでいた。動揺というより、これは……  
「このことを告げるのがわたしにとって正しい判断かわからない。おそらくわたしはいま自分を  
恥じている。もっといえば、あなたに顔を向けることにわたしは非常な困難を覚える。他でもな  
いあなただから。けれど、」  
「…………」 これは、そう、告白を強いた自分について悔悟するような痛んだ面持ちでハルヒ  
は聞いていた。  
「あなたに向かってわたしの願いを言わなければならないと考えた。だから言った。あなたには  
それを聞く権利があると思うから」  
 訴えるような光がこのときの彼女の瞳にはおそらくこもっていた。  
「それに、あなたに聞いてもらいたかった――――」  
 
 印象を強める手助けをするように彼女のシャギーを風がなでる。  
 湯飲みをそっと包むようにして両手を置き、制服姿の少女は言い添えた。  
「たぶん、告げることのない夢だから」  
 先入観なしにそう見えるかどうかはわからない。  
 けれど、そう言ったときの彼女は寂しくて美しかった。  
 群れからはぐれて愁雨に打たれる雁のような、夏の最後に聞く法師蝉の声のような、本棚のあ  
いだから落ちてきて偶然目にとまった未開封の愛の告白のような、そんな愁いの響きが有希の声  
に、澄んだ表情がその眼差しに降りて翳っているようだ。  
 
「わたしがそこに書いたものは、自分が恐れるもの。――それは、」  
 澄んだ瞳の奥から声なき声が聞こえる錯覚を覚える。  
「“そこに還るべき”なにものかを求める、わたしに生まれた郷愁。それを自分自身の思いに見  
つけたこと。光や闇…空間、矛盾。そして、もっと近くに――」  
 
 そこで終わった。  
 聞いていたほうの少女は、お茶を口にする有希に一言「ごめん」とだけ言って、その目は所在  
を求めてさまよい、さればと文集をあてなく開き、そうしてハルヒはページをめくる仕草に移り、  
かと思えば時計が気になったりもしている様子だ。  
 
 何かに気づいたように有希が顔を上げる。  
 するとすぐにインターホンの呼び出しが鳴り、彼女はおもむろに立ち上がってその呼び出しに  
無言で応じた。  
「キョン?」 ハルヒも立ち上がった。  
 無言で応対する有希にそう尋ねると、静かな目線は表情を変ないままハルヒを一瞥してまた戻  
る。  
「……そう」  
 おそらく訪問者の言葉を了解したのだろう、有希はオートロックを開けて受話器を置くやすぐ  
に玄関の扉を開け、そのまま半身を乗り出した姿勢で、写実的な彫刻像とか絵の中の人のように  
そのまま動かなかった。通り抜ける微風に髪の毛が揺れる以外は。  
 有希のそんな様子をハルヒは後ろから静かに眺めていた。下駄箱の上には紙飛行機二号機の姿  
もある。  
 
 有希の目線がわずかに動く。近づいてくる足音の主は……  
「…………」 やはり彼であった。  
「…………」 有希も同様に無言で招じ入れる。  
 どことなく思いつめたような彼の困り顔だが、それが比較的通常状態のようにも思われるのは  
なぜだろう。貴かんらん石の劈開面に反射する光のようにきららかな春の日のあの出会いを発端  
とした、アルカイックスマイルをたたえた彫刻の顔さえ引きつるような一連の経験が目に焼きつ  
いているために余計にそう思うのかもしれない。  
「やっぱ来なかったみたいね」 「……ああ」  
 腕を組んで傲然とハルヒはにらむ。苦みばしった表情で彼も答えた。  
 見慣れた顔のように感じるのは、やはり本編中の事件において東奔西走することになるのは大  
抵の場合彼だからであろうか。といっても、たとい彼の知らないところで誰かが困難に直面して  
いるとしてもそれは描かれることもなかったので、彼ばかりが気苦労を背負い込んでいるのかど  
うかは不明である。  
 いや、長門有希については世界の有様を造り変えたことで彼女の大規模な気苦労――エラーも  
しくはバグ・感情・実は……?――の表白を見た。ここでその心中をハルヒには明かした。  
 それに古泉一樹が種々雑多な雑事を遺漏なく果たしてきたことは間違いないだろう。シャミセ  
ン二号探しや生徒会長選挙の裏工作、突然入用になった妹ちゃん用スキー服・道具の一式、アロ  
マテラピーもどきの道具集め、その他もろもろ。詳細は不明であるけれどそれらは彼の手配によ  
るものだった。  
 まったく頭の下がる思いだが、具体的に描いても退屈極まりないものになるのは目に見えてい  
るのでこれからも裏で手配してもらうとしよう。  
 申し訳ない気もするけれど、便利だよな。  
 ああ、長門さん――  
「座って」 二人に席をすすめ、自分は台所に入った。  
 台所から有希が持ってきたのはビスケットの絵柄の入った箱である。未開封のものだ。  
 免税店にでも買いに行ったのか、どこか専門店なり巨大マートから取り寄せたのかはたまた欧  
米村で買ったのか不明だが、どうも舶来らしい。外箱を見る限りではそれっぽい。  
 テーブルの上でそれを開け、「どうぞ」と言って二人にふるまった。  
「どっから買ってきたのこれ!? なんかアメリカンね!」 フランス語っぽい気もする。  
 やたら元気に応じたハルヒが早速手をつける。窓のほうを向いてテーブルの手前側に座った彼  
は自分で注いだ茶をとりあえずすすって、左前に座っている彼女を少し和らいだ表情で見ていた。  
 と、テーブルの文芸部機関誌に気づいたようだ。  
「これ読んだのか」  
「……あんたさ、書くんならもっと気の利いた話にしなさい。だいたい世の中異常な性癖の人間  
も増えてんのよ。『ミヨキチ』っていうかミユキチが変なのに付きまとわれたりしたらアンタど  
うすんの?」  
「だから一応偽名にして」 「ニックネームで丸分かりじゃない」 即行で打ち消されてしまう。  
「……だよな。てかお前が『恋愛小説』っていうから、あ」 気づいたらしいがもう遅い。  
「ハァ!? それ聞き捨てならないわね! あっきれた、まさかあんたソッチ系の気があるわ  
け? ちょうどいいわ、あそこのベランダからあんたを逆さ吊りにしてあげるからせいぜい悔い  
改めなさい! 何よその目、あたしがまっとうに更正させたげるってんのよ、もう遅いかもしれ  
ないけど」  
「ちょ、待て待て、てかそんなに年は……冗談、冗談だって!」 「問答無用!」 ギリギリと  
音がしそうなほど首筋を締め上げられている様子が痛々しい。  
「とりあえず光陽園界隈のみなさんにそのバカ面を晒すがいいのよ! 有希、悪いんだけどベラ  
ンダ借りるね、あ、ロープない?」  
「グェ、とりあえず…そっちもコッチも一切ない! どちらかっつうと、逆の心配をされ……」  
「はぁ!? どういうこと?」 ギラギラとした大きな目が彼を至近距離で睨みつける。  
「いや、だから頼むから離せ、離せって」  
 大窓の手前で助けを求めるように制服姿の家主を見たものの、  
「………………」 こちらは冷ややかな視線で見守る有希さんだった。  
 
 そんな痴話喧嘩がひとしきり展開してようやく落ち着いた。まあハルヒも彼女なりにじゃれて  
見せたのではないだろうか。あっちじゃそんな相手いないだろうから加減がわかってないっぽい  
が。  
 
「長門……」  
 右前に座る少女型の宇宙人に、息を切らした男が話しかける。  
「さっそくだが、この……ハルヒを入れ替えたのは誰なんだ? 教えてくれ」  
 有希ではないと思うからそう聞いたのだろう。  
「…………」  
 わずかに顔を彼のほうに向けながらも、少しうつむいた。ビスケットにやろうとする手を一旦  
止めた涼宮ハルヒも彼女を見ている。  
「平行世界を模擬した存在によって設定された次元(時限?)遷移プロセス。電子情報ネット  
ワークを経由する形で用意された起動プログラムがその契機となった」  
 男のほうは表情を変えないが、ハルヒは驚いているようだ。  
「パラレルワールド? きっかけはあのサイトか……やっぱりな、って納得するのもちょっとど  
うかと思うがどうせそんな話だろうと思ってたとこだ。誰がやったんだ? 『機関』の連中か何  
かか?」  
「詳細はわたしにはわからない。引き起こした存在も不明」  
「…………」 彼の表情が示すとおり、事は厄介らしい。  
 長門有希にもわからないとなると……。  
「ねえキョン、『やっぱりな』ってどういうこと? 『あのサイト』って何?」  
「こういうことだよ。ハルヒ、チケット見せてくれ。そこに書いてある」  
「あ……」  
 何かを思い出したようにつぶやいて、彼女は例の入場券を取り出した。自分も凝視しつつ「も  
しかして、これ?」と言ったのは期間限定・要認証というウェブ上の自称特設サイトのことだ。  
「長門、ここにログインしてなんとかすれば……」 言いかけた彼は、長門有希と目が合って言  
葉に詰まる。  
「いや……、もし言いたくないのならいいんだ」  
 その口調と表情にハルヒの瞳が揺らぐ。彼には見えなかっただろうが。  
「……いい」 まっすぐ彼を見つめながら有希はそう言った。  
「プログラムは限定的なものだった。あの部屋の端末からの、決められた暗号を入力した特定時  
点のアクセスにのみ選択的に反応し、かつ対象者を同定して起動したものと思われる。異時間か  
らの介入による時空修正を限定的に阻害するプロセスも同時に発生した」  
 物問いたそうな顔で自分を見るハルヒに対する説明をかねて、この部屋唯一の普通人は答えた。  
「すまん……。つまりこれな、こっちのおまえがあの部室のパソコンで――新しいパソコンをお  
隣さんからおまえが強奪したんだが――そのサイトを覗いたんだろう。それもおまえ専用だった  
わけだ。あいつ……古泉の野郎、問い詰めてやらんとな。まったく」  
 ひとりごととの境界あたりの台詞も混じってるようだが、彼には良くあること。  
「…………」 何も言わず、ハルヒはただ二人を交互に見た。  
 二人ともジョークではなさそうだ。  
「まあ、あとで俺も見たが、もともと内容がアレなこと以外には何の変哲もなかった。長門の説  
明によれば、過去に戻ってこっちのハルヒにそれを見させないってのは、どういう理屈か知らん  
が無理らしい……と、いうことだよな」  
――コクリと、彼女にしては明瞭に頷く。  
 そよ風に、ストレートの長い髪がさらりと揺れた。揺らいだのは、しかし髪の毛だけだったろ  
うか。  
 彼の湯飲みが空であることに気づいた有希がすぐにお茶を注いだ。ややあって  
「見せて」  
「……ああ、これ」  
 ハルヒから入場券を受け取った長門は、実際にはいつもどおりなのかもしれないが、解析して  
いると言われても信じてしまえるくらいにそれを見つめていた。  
 ハルヒと彼の間にチケットを置く。  
「……記載されている場所に限定アクセスポイントが存在する。しかるべき管理者権限を認めら  
れた者なら、そこから『模擬存在』にアクセスできる可能性がある」  
「…………」 男は窓を見る。  
 雲がかかってきたのだろう、窓からの光はやや陰っていた。  
 
 ビスケットを口にするときもどこか気もそぞろな彼だったが、なにか思いついたらしい。ティ  
ッシュの上に3枚半ほどビスケットを確保しつつチケットを眺めていた一方のハルヒと、他方小  
ぶりなその口を湯飲みにつけていた有希とを等分に見てから、オカッパ頭の少女に言った。  
「長門、あの栞……いや短冊か、まだあったらこのハルヒに持ってきてほしいんだが」  
 有希の短い髪が揺れ、それからハルヒのほうにも顔を向けた。了解したのだろう、ゆらりと立  
ち上がってから自重をちゃんと支えているのかその必要がないのかわからないような足取りで自  
室に入り、数十秒たってから同じようなステップで戻ってきた。色づきかたがなんとなく年季を  
感じさせる短冊を手に持っている。  
「ありがとう」と言って彼が手にしたそれを、横から覗き込んだハルヒは  
「あ……」と、驚いた声を上げる。  
「ハルヒ……というかほとんど俺だが、あんとき校庭に描いたのとそっくりだろ?」  
「『わたしはここにいる』」 宇宙乙女がタイミングよく翻訳した。  
「あの日の?」 「そうだ。あの日、俺はこいつを持ってた。そして、もう一人の俺が――」  
 右前の少女を一瞬見る。その有希は背筋を伸ばした姿勢のままだ。  
 もう一人の少女に向きなおって  
「おまえの前から消えたあと、4年前のあの日に戻ったのさ。いきなり夏に跳んだからすぐに汗  
だくだったっけ……それから帰る途中のおまえに声をかけた」  
「なら、わたしの聞いたあれって」 「おまえの教えてくれた言葉をなぞったんだよ」  
 二人はほぼ同時に息をついた。  
 
「…………じゃあ、はじめから別れなきゃいけなかったってこと?」  
 短冊に描かれた《文字》を指でなぞりながら、ハルヒはそうつぶやく。  
 
 返事はなかった。  
 
「あなたに話しておきたいことがある」  
 男友達からと思われる突然の誘いらしい電話に断りを入れながら、彼が席を外している間のこ  
とだ。  
「……なに?」  
「わたしの責に帰すべきこと」 明瞭にそう告げ、さらに言葉を継いでいく。「わたしは……こ  
の時間連続体の涼宮ハルヒに対し事前に警告することもできた。たしかに原因は不明だったがこ  
の事態を予想していた。しかし事前に何も言わず、何もしなかった」  
――ハルヒはただ沈黙している。  
「今ここにいるあなたがこの時空連続体に固定されることを望んだ……そうすればわたしの願い  
の蓋然性を増大させることになると考えた」  
 生徒会書記氏の忠告が思い出される。どうやらこれが理由らしい。  
「あなたにこうして対面して、わたし自身の動機をこのように理解した。あなたに感謝する。そ  
して叶うなら、」  
――有希を見つめたままのハルヒ。  
 
「どうか許してほしい」  
 
 冷ややかな漆黒の瞳を縁取る睫毛が、ハルヒが彼に対し朝見せた時を想起させるような感じで、  
かすかに揺らいで見えた。  
「もう一つ。わたしは『彼の未来が共にあることを望む』と言った。今はっきり理解したことが  
ある。『彼の願うことをわたしもまた願いたい』と、同時にこの個体は思っていると。そして」  
 一瞬だけ迷ったようにも見えたが、続けて言った。  
「わたしは彼の願いを知っている。それは――」  
 
――それは?  
 
「涼宮ハルヒと共にあること」  
 
 あくまで口調は変わらない。しかしその思いはどうだろうか。  
 
「だから、あなたが選ぶことになる未来にかかわらず、わたしはこの時間連続体のあなたを保全  
することを第一義としたい。それが彼の望みだから。このことを話しておきたかった」  
「有希……」  
「でも、あなたの選択をわたしは受け入れる。統合思念体にも介入はさせない」  
 その目は強い意思を感じさせた――  
 
「有希、そこまでキョンの……どうして?」  
「…………」  
 何も言わなかった。  
 そのかわり、少年が戻ってくるまでうつむくその姿は、祈っているようにも見えた。  
 
 彼女は目を閉じて待っていたのだ。  
 
「……いけるわ、このビスケット」  
 なんとなく手持ち無沙汰になって、かつ口がさびしかったのだろう。  
 たしかに美味そうなクッキーである。  
 
 電話と、それから自然の欲求にも呼び出されていた彼がコタツ机に戻ってきて、真剣な顔で有  
希に尋ねた。  
「あのニヤケ顔がどこにいるかわからないか、長門」  
 古泉一樹の所在を知りたいらしい。ことここに至っては当然だろう。  
「へぇ、有希ってそんなのもわかるの?」  
 さあ、どうだろうか。  
「…………」  
 普通の人間にはわからないような方法で探索を行なっているのかもしれない、少し顔を上げ、  
殺風景な壁のほうを見つめながら有希は黙り込んでいる。  
「どう?」 先に聞いたのはハルヒだ。好奇心かその目も輝いている。  
「どうだ?」  
「…………」  
 彼に向きなおった有機端末。男とハルヒは無言で有希を見守る。その表情は何を?  
 答えはなかった。  
「おまえにもわからないんだな……」 落胆した声だ。彼女の表情を読み取ったらしい。  
「そうなの? 有希?」  
「……特定はできなかった」 淡々とした声に思える。  
「正確な位置は不明。だが《ジャミング》強度分布の解析から誤差666キュービット内外の範  
囲で推測可能」 ジャミング? 一樹が?  
「ジャミング? 大体の場所はわかるんだな? どこだ? あいつは北口に近いようなこと言っ  
てたが」  
 はやる気持ちを抑えているのがわかる。  
「有機生命体固有の制約があるために地球人類の技術体系では獲得困難な、また我々の見地から  
も高度な手段で、一定の範囲が球状に《ジャミング》されている。現時点の我々に対してそれは  
特異的に有効にはたらく」 そう答えてから、「したがってその中心付近に確実に彼がいること  
も保証はできない。またこれは古泉一樹の能力ではない。彼の意思によるものかも疑問。ただそ  
れら情報の瑕疵を度外視すれば、川辺の公園に向かっている可能性が高い」と彼女は説明した。  
「ええとだ、たとえば俺たちがあいつのそばに近づくとして、あいつはちゃんと『見える』の  
か? そんなステルス機能付きだったら全くわからないんじゃないのか?」  
 たしかに。  
「有機生命体同士が認識できる視覚・聴覚情報にはなんらの隠蔽もなされていない可能性が高い。  
我々の走査に対する選択的防衛措置と思われる」  
「古泉くんは見た目も声も古泉くんなわけね」 ハルヒだ。  
「そう」  
「なーる。早い話が行きゃわかるってことじゃん」  
 物分かりの異様に早いお嬢さんであるといえよう。  
 ハルヒの威勢のいい言葉に促されるように彼も同意する。  
「そうか、なら見つけられそうだな。長門にも見つけられないんじゃどうしようもないとつい思  
い込んじまった。しかし公園のどの辺りなんだ? 広いというか長いし」  
 このマンションにほど近い私鉄ローカル線と、その私鉄の三つある主要路線のうちの一つとの  
連絡駅を指名した有希は、  
「おそらく彼は歩いて移動しているものと思われる。公園内をそのまま南北いずれかの方向に縦  
断するのかもしれない……」  
 そう言ってふたたび虚空を見つめる。ちなみに南へ向かうと市の中央図書館がある。  
「……古泉一樹がその中心部に存在する可能性のある球状《ジャミング》の中心は、分速50m  
程度で公園内を北に向かっている模様」  
「ねえキョン、川沿い下っていけば会えるんじゃない?」  
 隣駅から南に向かうということだろう。  
「そうだな……」  
 “あの野郎見てろ”とでも言いたそうな彼だ。  
「うん? 大丈夫、心配ないって。いきなり殴りかかったりしないって。俺そんなに怒ってるよ  
うに見えるか?」  
 ハルヒがどことなく心配そうに窺うくらいには。  
 古泉一樹に問い詰めたい気持ちで明らかにはやっている彼なのだった。  
 
「しかしなんで公園に一人で行ってるんだ? あいつ……」  
「さあ? 散歩かなんかじゃないの?」  
「あいつのプライベートなんて想像したこともほとんどないししたいともまず思わんが、まあそ  
んなとこかもな。そういやあいつ自叙伝か何かを書きたいなんて言ってたっけ……いや、」  
 ちいさくかぶりをふった。  
「ひょっとして……意外にベタベタな線でデートかもしれんな」  
「デート? 誰と……ってあんた心当たりあんの?」 「…………」  
 ハルヒのみならず、有希も彼を見つめている。ひょっとすると彼女も興味があるのかもしれな  
い。  
「いやあ、なんとなく」  
 自分の後ろ髪をかるくなでてそう答える。まあ、状況証拠だけだしね。  
 ただ、彼の推測の通りだと《ジャミング》というか特殊な隠蔽を誰が何のために仕掛けている  
のかが、いまいちわからなくなるのだが。  
 本気で隠れるつもりならわざわざ近づいてはこないだろうし。  
「まあなんにせよ、急がないとニアミスして終わりってなことになりかねんな」  
 焦燥感をにじませながらも別のことを彼は口走る。  
「すまないが、長門、もう一人……こっちの朝比奈さんはどうしてるかわからないか?」  
「なんで?」 ハルヒが疑義を呈した。  
「いや……、おまえは未来人の朝比奈さんとまだ会ってないだろ? 今度のことが済んじまった  
ら、その、話す機会が、」  
「そんなの有希に頼まないでみくるちゃんに――そう呼んでたわよね?――直接電話したらいい  
じゃない、なんならわたしがするわよ?」  
「それはそうだが……、こういう状況だし、あの人とは直に連絡をとりづらい気がしてな。話が  
無駄にややこしくなりそうな気もするし」  
 彼には彼の考えがあるのだろうが、実のところ筆者思いの男子であるといえよう。  
 二人のやりとりの間、彼女のやり方で《走査》していたらしい有希は、彼に向けてその結果を  
告げた。  
「……朝比奈みくるは現在時空上に存在しない」  
 
 憂慮すべきだろうことを、しかし淡々と口にして、さらに  
「ただし、古泉一樹と同様に隠蔽されている可能性もゼロではない」  
「なんだって!? どういうこったそりゃ。まさか……」  
 彼にとっての「まさか」とはどういう意味だろう。  
「おそらく、TPDD非破壊プロセスを用いて現在時空を一時的に離れているものと思われる」  
「…………」 説明をうながすハルヒたちの沈黙だ。  
「もっとも可能性の高い理由として、着替え用の私服をやりとりする目的で《架橋された安定的  
次元回廊》に留まっていることが考えられる。残留ノイズがそのことを示唆している。同様のパ  
ターンが過去にあった」  
「は……?」 口をあんぐり開ける二人。な、なーんだ。  
 時空の狭間というか橋の真ん中のような場所で営業(?)しているクリーニング屋さんに衣服  
を預けたり引き取ったりしに行っている、朝比奈みくるにとってはそんな感覚なのかもしれない。  
 イメージがいまいちというか意味不明だが、実は筆者もよくわかっていないので許してほしい。  
 
 ほうじ茶をすすってから、男はハルヒに尋ねた。  
「どうする、チャリの方がいいか?」  
「駅前に路駐もなんだし、歩いて……ダッシュで行きましょ。ほら、どうせ行かなきゃなんない  
んでしょ? ここ」  
 手に持ったチケットをハルヒはひらひらさせた。  
「……そうするかな。長門、すまんがそういうことで頼む。あと、また電話するかもしれん」  
「…………」 有希は無言で首を縦にふった。  
 
「有希、これどこで買ったの? あたしも行ってみるから教えて」  
 いたく気に入ったらしいビスケットの入手元を知りたがった。そんなハルヒにつられたのか彼  
もサクサクと音を立てて美味そうにかじっている。  
「もらいもの」  
「へえ、誰に?」  
「…………」  
 なぜか答えてくれなかった。  
 
 
 隠れていた日差しが戻ってきて、窓の外が明るさを増す。  
 そんな明るい外を眺めて、男は立ち上がった。  
「……なあ、そろそろ」 「そうね……」  
 見た目平凡な男子高校生に続いてすらりと身軽そうに立ち上がった気高そうな美少女は、テー  
ブルの上の古びた短冊を見ていた。結局、何も言わないことにしたようだが。  
 
「長門、朝っぱらからお邪魔しちまってすまん」  
「いい」  
「それじゃ、あいつの居場所のことで電話するかもしれないがそん時はよろしくな。行くか、ハ  
ルヒ」  
「うん――ちょっとキョン、そこで待ってて」  
 そう言って、ドアを閉める前にハルヒが有希に声をかける。  
「じゃあね、有希。あれが古泉くんに殴りかかりそうにでもなったら力ずくでも抑えるわ」  
 ニカッと破顔する。  
「……そう」  
「あと、あなたとあたしの ヒ・ミ・ツ ってことで。ふふ」  
 ハルヒはニヤつきながら人差し指を唇の前において、奇妙な口調でそう言った。  
「…………」  
 きわめて稀有なことに、有機アンドロイドの少女も同じ仕草で了解してみせる。  
 
「ああ、そうだ。仲良くしたげてよね!」  
 元気にそう言って、そのあとやさしく微笑んでみせた。  
 
「……こっちのあたしと」  
 
 聞き取れないくらいの声だったが、ドアを閉める瞬間、振り返る動きで長髪をなびかせながら、  
乙女は確かにそうつぶやいた。  
 こんな表情にもなれるんですね、涼宮さん――  
 
「ドンッ」と低い音を立てて、頑丈そうな扉が閉まる。  
 靴入れの上の紙飛行機二号機が、閉まった時の風圧でだろうか、少し動いた。  
 
――防音設備と沈黙にふたたび空間を掌握された708号室には、こうして長門有希だけが残さ  
れた。  
 
***  
 
「なんだよ、秘密って」  
「べつに」  
 すました表情で少女は答えた。  
「そうかい」 彼も追求はしなかった。「そういやあのシャミセンな、こっちじゃお前が映画用  
にって拾ったんだ、ここの裏で」  
 下りのエレベーターの中で男が回顧してみせる。  
「ふうん、それで外国に行く友達から預かったってことになってんのね」  
 違う時間というか記憶が両者に刻まれていたわけだ。  
「そうだったっけ」  
「妹ちゃんがそう言ってたわよ。ほんと、あんたと違って素直でいい子だわ。健気で、だから  
こっちじゃ余計にかわいそう」  
「……。まあ、何匹かいた中でお前が適当に指名して決めたんだが、それがオスの三毛猫だっ  
た」  
「それがどうしたってのさ」 「いや……」  
 咎めるような視線から逃げるように、男は顔をそらせた。  
 
 マンションの前はローカル線沿いの道が続いている。  
 川辺の公園までダッシュも十分可能……といっても、ここからだとまあ結構な距離ではある。  
ギャザースカートというハンデを考慮してもハルヒのペースに男がついていくことになりそうだ  
が、さて大丈夫だろうか。なにしろマラソン大会では長門さんと涼宮さんとで校内ワンツーフィ  
ニッシュを飾ったほどの健脚ぶりだから。というかそもそも陸上部は何を練習してきたのかと不  
思議に思うのだが、それだけ彼女らが変態的に飛びぬけているということなのだろうか。  
 念のためとか言ってふたたびノンリムの色つき伊達メガネを装着し、エレベーター内で、玄関  
ホールで、さらには玄関先でもハルヒは準備体操のようなことをしていた。  
 かかとやももの屈伸を特に念入りに。  
 管理人室のほうには目もくれなかったようだけれど、ちなみにいうとお茶をしておられた。  
「遅れずについてきなさい! こういうのはスタートが大事なのよ、スタートが!」  
 長い髪をたなびかせて颯爽と位置につく。まあお召し物との兼ね合いも大事だと思いますが。  
「……へいへい」  
 息巻く少女を見ながら、男は肩をすくめた。  
 疾走するには(見えちゃうかもという意味で)ちょっと短すぎるスカートの丈っぽいのに、グ  
ラサン姿のハルヒはほとんど気にしていないらしい。そんなつまらないことを気にせざるを得な  
い世の中のほうが本来はおかしいのかも知れないなどと、彼女を見てると逆に考えさせられるく  
らいだ。  
 
「Haa…ハア、はあ……あいつ」 「Hyuu。えらいあっさりね。なんかそのまんまだわ」  
 どうやら目標を捕捉したらしい。  
 さすがにひとしきり走るとさわやかな春の陽気も熱量と汗に変わる。男のほうは当然のように  
いまだ息を切らしているが、一方のハルヒは一息ついただけでほぼ平常に戻った。  
 動きやすそうなバレーシューズをトンッと鳴らすさりげない足さばきも実に流麗で、このあた  
り彼女の身体能力の高さを如実に示している。わずかに汗ばんではいるようだが、少年と比べれ  
ば汗をほとんどかいていないといっていい。  
 長門有希の住んでいる――ついでに指摘しておくとその裏が“こっちの”オス三毛猫シャミセ  
ンと友猫たちのなわばりでもあった――高級マンションから線路沿いを急いで南下し、およそ1  
2分ほど経過した頃のことである。ちょうど踏み切りの手前あたりから呑気そうに歩いてくる微  
笑キャラを、駅前のリカーショップの前あたりまで半ば駆け足で来ていた二人はあっけなく発見  
した。  
 ちょうど現在位置の捕捉を長門有希に頼もうかと呼吸を立て直しながら彼が提案していたとこ  
ろで、どちらの携帯を使うかに話が移行しかけてもいた。  
 古泉一樹だ。見たところ連れはいない。  
 
 
 ローカル駅とはいえ休日の駅前は人が多数行きかい、コンビニの前や改札口のあたりで立ち止  
まっては当然のように通行する人たちの妨げとなるのだが、一樹につかみかかる勢いの彼は少々  
頭に血が上っているようだ。  
「こらキョン!」  
 いつぞや彼に見舞ったローキックも事情はともかく俊敏にして華麗そのものだったが、今回は  
腕の関節をすばやく取って彼の動きを制していた。よほど痛いツボでも抑えられているのか、見  
た目以上の苦悶に男の顔が歪む。  
「放せハルヒって……うぉ!」  
 
 一方の長身の美少年のほうは、薄く笑ったまま“おやおや”といった口の形を作ってかまわず  
自分から近づいてくる。とっくに二人に気づいていることだろう。  
「古泉くん、わたしよ」  
 ハルヒはメガネを外した。  
「これは……『はじめまして、涼宮さん』というべきでしょうね。『ここ』では」  
 軽く会釈する姿も様になっている。すくなくとも古泉一樹が高校生として長髪のハルヒの姿を  
間近で見るのは初めてのことだろう。  
「そのまんまねえ、やっぱ。どう見たって古泉くん以外の何者でもないわ」  
「そりゃそうだろうよ。もういいだろ、放してくれ」  
 全身を眺めてそう感想を漏らすハルヒの手からようやく解放された。  
 さっそく一樹に詰め寄る。  
「なんでこんなことを企んだ? 古泉、説明しろ」  
 目の前ににじり寄って吐き出すような口調で問いただした。往来の人々の怪訝そうな目線は眼  
中にないらしい。  
「『説明しろ』とは、どういうことでしょう?」  
「どういうって……見りゃわかるだろう、“ハルヒがいない”ってことだ、そのことを5W1H  
を駆使してわかるように説明しろと言ってるんだ。解決編も込みでな」  
「…………」  
 心配そうな、もしかすると少し悲しそうな表情にハルヒは見える。  
「いえ。現に涼宮さんはここにおられるのではありませんか? この長髪の女性は彼女そのもの  
です。それとも、この現実を否定なさるつもりですか?」  
「てめえ、いけしゃあしゃあと……!」  
「あ! キョン!」  
 静止も間に合わない。ネクタイの結び目をひっつかんで少年は一樹を締め上げた。  
 
「す、涼宮さんはどう思っておられるのか、お聞きになったのでしょうか」  
「……聞けない状況にしたのはお前らじゃねえのか?」  
「キョン! 落ち着いて」  
「ですから……いま、あなたを静止しようとしている、そちらの涼宮さんは、涼宮さんそのもの  
ではないのですか?」  
 そのハルヒに見据えられると男も何も言えないらしい。  
「ただ、本人の知らないところで過去が変わってしまっただけの。見方を変えれば、小さな記憶  
違いというのは誰にでもあることでしょう」  
 二人に対して問うように一樹は語る。  
「涼宮さんは原状回復を望んでおられるのですか? それとも……」  
「それとこれとは話が別だろ?」 「…………」 ハルヒは無言だった。  
「長門さんから聞いているはずです」  
 あくまで無抵抗で、まだいくぶん苦しそうに一樹はそう言った。  
「だから、古泉くんから手を放しなさいって言ってるでしょ!」  
 二人の間に入って真剣に訴える長髪の娘と目が合った彼はようやく手を放す。ここでは強制手  
段より嘆願に訴えるほうを選んだハルヒだったが、ようやく功を奏したらしい。  
 古泉一樹のほうはネクタイを直しながらもいつもの調子で、  
「彼女から……聞いていると思いますが、あのイベント会場に“アクセスポイント”があるはず  
です、そこから連絡をつけることができるはず、と」  
――ふぅ……  
「あそこに行きゃ何とかなるんだな!? 古泉」  
 表情というより形相というべき厳しい顔だが、一息ついてから、声量を抑えてそう詰問した。  
 とはいえこれ以上ここで話していると第三者の介入を覚悟しなければならなくなりそうな勢い  
だ。  
「開門時間内なら、そのはずです。その時間内という制限があるようですが」  
「もしかして時間制限って……チケットに書いてあった夕方五時ってこと?」  
 ハルヒはそう言って通称キョンと顔を見合わせ、二人して一樹を見た。  
「そのようですね」  
 
「結局『行けばわかる』って寸法かい。ふん。ところで……長門の妨害してたのはお前か?」  
「…………」  
 無言で両肩をすくめながら、一樹は両手を軽く広げた。“さあ?”とでも言いたげに。  
「隠れる気はなかったらしいな。まあいい。でだ、お前は――来る気ないんだな」  
「さっき電話で話したとおりですよ。それに……」 腕時計を見る仕草をした。  
「すいませんが、人を待たせていまして。ですので僕はこれで失礼します。涼宮さん、短い時間  
でしたがお会いできて光栄です。……そっちの僕によろしく。ですが」 一瞬だけ眩しそうな目  
をしてハルヒを見た一樹は、「長門さんもおそらくそうでしょうが、『あなたの判断にゆだねま  
す』よ、僕個人は」  
 にこやかな表情でそう言ってから、反対方向へ歩みだした。  
「ちょっとまって」  
 ハルヒの声を聞いて、一樹は振り返らずに立ち止まる。  
「古泉くんの能力ってどんなのか、見てみたかったんだけど」  
「……そうですね、僕のもうひとつの属性はそういうことみたいですし。考えておきましょう。  
ああそれから、未来……朝比奈さんたちはなんとかしたいと考えるでしょうね」  
 どこか他人事のように言って、そのまま歩いていった。  
 
 どこか他人事のように言って、そのまま歩いていった。  
 その姿をすこしだけ目で追ったあと  
「ねえ、こっち行きましょ、そんな変わんないわ」  
「…………」  
 そのまま踏切を渡り、川沿いの公園にハルヒたちは向かった。次の駅まで徒歩でいくのだろう  
か。  
 意外にあっさり一樹を見つけられたのは僥倖だったに違いないが、問題はほぼそのまま残って  
しまった。さらに『午後五時完全閉鎖』のこともある。  
 長門有希の走査能力に制限を加えうるような存在がこの事態に関わっている可能性がある。彼  
女の精査をかいくぐるような相手だとしたら、突破口だろうが糸口であろうが本気で隠蔽されれ  
ばどうしようもないのではないかという予感も、特に彼のほうにはあるだろう。なにしろ過去に  
も彼女の認識を超えた事態を経験しているのだから。一度は有希自身が自分からその力を手放し  
たとき、二度目は彼女の造り主以外の宇宙規模存在の作為によるものだったらしい空間で。いず  
れの場合も、少年にとっては己の無力さに打ちのめされそうになった経験でもある。  
 まして彼女は消失しているわけではない。現に自分のそばにいるという、古泉一樹に指摘され  
るまでもない事実をどう考えるのか、彼の心にはその難問がのしかかっているはずだ。  
 他方で、涼宮ハルヒにとっては同じテーマであっても自分の問題として考えるべきことがある  
だろう。真相がわからないことには容易に判断しかねることかもしれないが。  
 
 取り急ぐ必要もあるが、考えをまとめる必要も二人にはあるのだ。歩きながらそれらを整理す  
るつもりかもしれない。  
 加えて、気候のよい散歩日和でもあった。風薫るという表現の似合うような。  
 とまあ、要するに電車を使わなかった理由をそれらしく推測してみたわけであるが、深刻そう  
にはあまり見えずむしろ満更でもなさそうな娘の様子からすると、映画のハッピーエンドのシー  
ンを撮った場所でもある公園を彼女は二人で歩きたかっただけなのかもしれない。  
 
   
 向こう岸には今は緑を蓄えている桜並木が並んでいる。壮年だからだろうか、枝ぶりもよく、  
開花時期にはさぞ華やかだったに違いない。映画から察するに、あの季節外れの満開のときも壮  
観そのものだった。  
 もちろん花見の時期には遠く及ばないが、晴れの休日でもあり人出は結構あった。犬を散歩に  
連れだした主婦たちや動きやすそうな格好をした年配の人たち、さらには二人と変わらない年代  
の若者も歩いている。  
 ベンチでうつらうつらしているらしい姿を認めた彼がやや焦って顔を背けていたが、  
「なに焦ってんのよキョン、てか今の子知ってるの? クラスメイト?」  
「いや……北高の同級生だよ。顔知ってるだけだって」  
 ということらしい。  
 山から下りてきたのだろうか、耳なれない鳥のきれいな鳴き声がどこからか聞こえた。  
 
 何者の仕業か――懇意というべきか――はわからないが、放たれた錦鯉がやや深めの場所では  
泳いでいる。  
 ミニチュアダックスと一緒に敷石を伝って対岸に渡る女性がいたり、浅い場所ではなにやら川  
遊びをする少女少年の喧騒もあった。遊んでいたのは三人だけどもやたら元気のいい娘一人の声  
で思いのほか賑やかだったのだが。ひょっとして錦鯉を捕獲しようとでもいうのだろうか。その  
友人であろう少年と少女の妹らしき娘は、どちらかというと振り回され役かもしれない。こちら  
の少年のように。  
 そんな楽しそうな様子や、並木を眺めたりしていた少女が切り出した。  
「こっちの未来人のみくるちゃん、もう帰ってきてるんじゃないかしら」  
「……かもしれんな」  
「なら電話――わたしがしてもいいんだけど、しようか?」  
「…………」 消極的同意らしい。  
 電話を掛けたものの、数十秒たっても応答がない。  
「あ……留守電」 「やめとこう。ていうか携帯のほうでいいだろーに」  
「わかってるわよ」  
 
――携帯電話はつながらなかった。  
 
「なんか圏外みたいね……どうしたのかしら」  
「さあ、まだ帰ってないとかじゃないのか? 着替え取りに行って」  
 彼のほうは心配そう……というより、すこしホッとしているようにも見える。  
「キョンあんた、なーんか繋がらなくてよかったみたいな顔してるわね」  
「え……。あー、そうだな。何か聞いても『禁則事項です』ばっかりだし、未来人にしてはほと  
んど知らないもんだからお前の聞きたそうなことの答えもあんまり期待できんし、どうも機械系  
は苦手らしいし……」 もっともらしいことを並べ立てた。「お前がいろいろ知ってるのを朝比  
奈さんが知ったら、なにより本人が一番混乱しそうだし」  
 ハルヒは訝しげな表情で  
「ふううん? いろいろ言ってるけど、みくるちゃんにわたしたちが二人でいるのを知られたく  
ないだけじゃないの?」  
 二人の関係について勘ぐっているらしい。  
「そうじゃない、どっちかというとお前が『秘密にしろ』って。いや、こっちのお前が言ったん  
だが」  
 慌てて否定に入った。  
 そりゃま、先日の喧嘩の原因にも関わることだし、あまり掘り返したくはないでしょうね。  
「わたしがねー……」  
「べつにお前となんかあったわけでもないぜ。そこはもうまったく心配しなくていい」  
 そう言い切るのも侘しい気がするが。言ったご本人もそんな気分らしい。  
 
「ふむ、まあいいわ。それより」 真面目な顔でハルヒが言った。「いろいろ知られたらまず  
いってのが大前提なわけね、こっちのわたしに。有希と話してて、あの子もそこんとこ結構気に  
してるなとは実感したわ」  
「まったくだ、まあ俺も『苦労すること、しばしばです』ってな感じだ。徒労感も多々あるが」  
「そう。なんていうか、あんたたちもいろいろ大変よね。まあわたしが気にしたって始まらない  
んだけど」  
「買って出たこともあるから今更恨みごとなんて言う気はねえが」  
 恨みつらみというより、悩み事を打ち明けた爽快感の漂う彼だ。  
「その分野じゃとくにあいつが――」  
 そう言って前髪をなでる一樹のしそうな仕草をして見せた。判ったのだろう、くすりとハルヒ  
も笑う。  
「苦労性というか仕方ないんだろうが、古泉なんかはいろいろ先回りしておまえの苛々が爆発し  
たりしないようにずいぶん気を使っててな。生徒会選挙ではおまえがイメージしてるとおりの人  
物に生徒会長を仕立てるために画策したり、離れ小島でわざわざ殺人事件を自作自演したり」   
「へえ。そんなことまでやってたの」  
「写真見たんだろ? いろいろ撮ってるはずだ」  
「ははーん。あんたが気持ちよさそうにマヌケ面して寝てたやつ、その時のでしょ」  
「そんなのもあったな。行きのフェリーで朝比奈さんに撮らせてたっけ」  
 ふふん、と笑いかけるハルヒを前に、苦笑して続ける。  
「生徒会長を影で操るとか生徒会との抗争なんかは、あいつに言わせりゃ、学園生活にあいつ自  
身が内心求めていたことだったらしいぜ。考えてみりゃ古泉も結構変なとこあるよな。『それを  
実現させてもらえて、ひざまずいて涼宮さんを拝みたいくらいです』なんて言ってたぞ」  
「なによそれ。でも、たしかに楽しそうだわ」  
 ツッコみながらも興味津々といった表情で黒髪を揺らす少女。  
「あの会誌も生徒会長との取引で無理やり書かされたみたいなもんだし。『編集長』の腕章つけ  
て大張り切りだった。こっちのお前が、ってことだが」  
「なる。わたしが編集長なわりには有希の『無題』はちんぷんかんぷんだったけど、って……え、  
それであんた『恋愛小説』なんか指名されたわけ? なんでそんなアホな人選、わたしに人を見  
る目がないみたいじゃない」  
「うるせえ。俺だって嫌だったんだ。だいたいあいつの解説によるとお前……こっちのハルヒが  
『俺の恋愛模様が知りたい』から、クジ引きでそれが当たるようにしたってことらしいんだが、  
文句ならハルヒ、というか自分だろ」  
 着眼点の問題というより、業務にかこつけた微妙すぎる素行調査みたいなもんですな。  
「ちなみに長門が『幻想ホラー』・朝比奈さんが『童話』・古泉が『ミステリー』ってな。それ  
で俺が『恋愛小説』だ」  
「あんたに恋愛物ね……。じゃあわたしの人選に――」 言いかけたとき、何かに気づいたよう  
に「やっぱりそういうことなの」  
 そうひとりごちた。  
 うつむいた彼女はちいさく「ふふふ」と笑いを漏らす。  
「なんだよ」  
「ふ……、目が覚めたときもいきなり“あんなの”が目に入るわけね。まったく趣味悪いわね、  
わたしも」  
 値踏みするような目をして彼を覗き込み、いわゆる“何か企んでいるときのようなのようなニ  
ヤけ顔”でハルヒは言った。  
「なんだよ。気持ちわるい」 ぜんぜん気持ち悪がっていないっぽい。  
「べーつに……ふふ」  
 こういうのチェシャ猫笑いっていうんだっけ。  
「そうかい」  
 二人して変な顔。  
 
 
 頭上に大き目の雲がかかって日射しがしばらく遮られる。ちょうどありがたい具合に日が翳っ  
て、さわやかな風を少女の長い髪がはらむ。幾分涼しいくらいで、実に気持ちがいい。  
 
「俺がいなくなってから、長門とどんな話になったんだ?」  
「どうって……」 一瞬だけ考えるような素振りをみせたが、「口は割らないわよ。『ヒミ  
ツ』って言ったでしょ。あんた気になるの?」  
「いや、そりゃ気にならないことはないが。聞いてるのはそのことじゃなくてだな、あっちの長  
門のことだ」  
 そう言って、遠い目で前方を見ている。  
 ウォーキングらしい男性とすれ違う。「おやおや」とばかりに目を細めて白髪の男性は二人を  
見ていた。なかなかいい雰囲気というか連れ合いだと、歩く二人は他人の目に映っているようだ。  
「うーん。あの子とはあの日からしか付き合いないし。そうね、あっちの有希も笑わないけど、  
悲しそうだったわ。それに――」  
 言いかけたことを飲み込んで、  
「っと、最初あの子の家に行ったのも、なんか見てて心配になったからだし」  
「…………」  
 自然、足取りがゆっくりになる。  
「あんたのクラスの朝倉さん――あの子の方がよっぽど普通だわ――同じマンションに住んでる  
んだけど、いろいろとウザいくらいに気を遣ってくれて。いっしょに晩ご飯食べたこともあるわ  
よ」  
 その晩もおでんだったりしたのだろうか。  
「あいつとは……つくづく嫌な思い出しかないな。まさか二度も襲われるとは思わなかった」  
「二度もってなに?」  
「あのあと、4年前の七夕に戻ったあとのことだ。こっちの朝比奈さん……の何年後かバージョ  
ンと一緒に『時空修正』の現場に戻った時。思い出したくもないが、あいつ本気で俺を殺そうと  
しやがったんだ。しゃれにならん。ま、」 それから事情について補足した。「“お前の知って  
る朝倉”にはおでんを食わせてもらっただけだよ。あと、コッチの心配もされたっけ」  
 そう言って自分の脳天の上で人差し指をくるくる回す。  
「その話は聞いたわ」 少女は面白そうに答えた。  
「でも、結局、そんなことになっちゃったの……。ならキョンにとってはアレかもしれない。け  
どわたしの印象じゃどうみたって面倒見のいい、今時珍しいくらいの委員長タイプよ、朝倉は」  
「まあな。あいつから見たらあの時は俺が長門に危害を加えてるように見えたんだろう。ピスト  
ルみたいなもんを持ってたし」 相手の不安を払拭するつもりでだろうか、加えて言った。「そ  
うでもなきゃ刃物向けたりしないさ、だからお前も心配しなくていい。それよりハルヒ、」  
 少し間をおく。  
 テリア種のスマートでかわいらしい犬――連れていたのは若奥様風のこれまた美人だった。ど  
うでもいい事だね、すまん――を目で追ってから尋ねた。  
 
「“あっち”に戻れなかったら……どうする?」  
 
―――― 。 ハルヒは黙って前を向いている。  
 
「いや、何とかする……というか何とかなるだろうが、一応聞いとこうかと思って――」  
 どこか弱気な彼を、気の強そうな目になって睨んでみせ、鼻の奥で笑ってから  
「そんなのわかりきったことじゃん!」  
 そう彼女は宣言した。  
「ああ、そりゃそうだよな。心配だろうが、いや俺が心配してただけかな」 弁解めいたことを  
言う。  
「はん? なーにグニャグニャ言ってるの。『戻れなかったら』って? そんなもん決まってる  
でしょ」  
 “はぐれハイビスカス”とでも形容したくなるような咲きほこる笑顔で言った。  
 
「もちろんわたしも北高通うわよ! 制服もあるし」  
 
――そっちかよ。  
 
 はい? なんで“はぐれ”ハイビスカスなのかって? いや開花場所とか時期なんて涼宮お姉  
さんには関係ないっぽいじゃん。なんか強そうだし。  
 変に気を回したのがバカバカしくなるようなハルヒの笑顔を見て、溜息まじりに男が言った。  
「……それもそうだな。まあ、そんときゃ頼むぜ、団長さま」  
 安堵している様子にもみえる。  
「何しんみりしてんの、そんなの当たり前じゃない。言われなくてもそうするわよ」  
 二〜三歩ほど先で立ち止まって振り返り、指鉄砲を彼に向ける。  
「だからね、覚悟しなさいキョン。付いてこないと『死刑』だから!」  
 白熱電球がパワー全開で点りそうな笑顔のまま、どこかで聞いたような台詞入りで彼女はおど  
かしてみせた。ジャケット着てるおっちゃんにすれ違いざま聞こえたのではないかと心配になる  
くらい、元気に。  
「そりゃ勘弁」 両手を挙げる。  
「素直でよろしい。…あ、髪切らないといけないんだっけ。肩まででいいの?」  
「そうだな、最近はこれくらいで揃えてるんだが、もういっそそのままでもいいんじゃない  
か?」  
 娘の長い髪を、肩甲骨にかかるあたりで男は撫でた。再び並んで歩きだす。  
 たぶん、彼女はわざと無邪気に振舞ってみせたのだろう。てか、お互いか。  
 笑顔がそれを呼んだかのように、辺りにはふたたび日射しが戻ってきていた。  
 
 川のべの遊歩道を語らいながらそぞろ歩いて、二人の距離感のギャップをいくらか埋めること  
ができたようにみえる。相も変わらず水量は少ないが、水の踊りを川面に見出すことはなお可能  
であった。揺らめき光って、遠からず海に還る水の流れ。  
 
 
 ひとり歩きもいいものだが、こうして二人で歩くのもよい。  
 あまり例えとしてふさわしくないけれど、国を追い出された危険分子扱いの著名人が、そうい  
う影響力のほとんどない無名だった青年を、亡命していた先であるジュネーブ市中の散歩に連れ  
まわしたときの動機やらなんやらも、こうして見ていると少しわかるような気がする。個人的に  
はジュネーブなどに行ったことはないが。  
 例えついでで、散歩と語らいについてのこの感覚について補足しておきたい。『イル・ポステ  
ィーノ』※という映画をご存知だろうか。映画版は南イタリアの小さな町での物語なのだけれど、  
筆者はあの風景がなぜか思い出されてやまない、というかこの感覚を思い出すためにもう一度見  
たくなった。臨時雇いの郵便配達人と、亡命中の著名な物書きとの会話のシーン。知りすぎるこ  
とも知らなすぎることも本質的に重要ではなく、二人の人が共に歩く時間とその美について思い  
起こさせてくれる情景がそこにあったと思う。“知らないけど気になる”とか“気に入りそうな  
感じ”なら試しにご覧くださいませ。  
 え、営業や出張・部活・野良仕事・それらの帰り道なんかでいやでもそうしてるけどちっとも  
美しかねーって? そりゃたしかに。海の波やざわめく木々・目にとまったメジロの姿を一緒に  
眺めていようなんて、よっぽどでなけりゃ普段はだれも思わないもんな。そういうことに気づか  
せられるというか。  
 
 そう。ちょうど近くの枝にとまったメジロがなかなかの美声で啼いていた。聞こえているのか  
もしれないが二人はとくにそれを探すこともなく、黙って歩いている。少女のほうが何か言いた  
そうな目を向けるが、まだ少年には言い出せないでいるようだ。  
 
 (※『イル・ポスティーノ』“郵便夫”“ポストマン”ほどの意味。原作の題名は“ARDIENTE  
PACIENCIA(El Cartero De Neruda)”つまり“熱烈な忍耐”だそうだが、出版された邦訳小説  
の題名は映画と同じ。ただし原作の題からもうかがえるとおり登場人物たちの知る母語が映画と  
は違う。物語の舞台や主人公自身・その結末も映画版と小説とではいくらか異なっている)  
 
 大概において、よい聞き手であることはよい話し手であることよりも難しい。  
 他愛のない話でお茶を濁している間には、あえて気づかないふりをしていることだろうが、避  
けて通れなくなった重大な話題でそれは表面化するのである。ましてや自分の利害、“運命”に  
関わることで自分を抑えることができたなら、その人はもはや達人と言っていいだろう。今は黙  
然と歩いている涼宮ハルヒにとってはまさにそういう話だったと思うのだけど、彼女はしなやか  
に受けてみせ、やはり目下のところ没個性的に歩いている彼もまたそうしたのだった。  
 
「こうして一人だけ別の世界に放り出されたのって……あの時のあんたもそうだっけ。なんか思  
い出しちゃったわ、この感じ」  
 思いとどまっていたらしいハルヒがようやく切り出した。  
「あんたさ、自分が世界の中でどれだけちっぽけな存在か考えたこと――」  
 途中まで言いかけたものの躊躇う少女に、相方が答えた。  
「いいよ。そのまま続けてくれ」  
「……わたしにもあったわ、けどずっと前にもね。……忘れもしない、あれは小学六年のときだった――」  
 それからハルヒは、自分の知らない自分がかつて彼に対して告白したほぼ同じ内容を早口で、  
ただしまくし立てる口調ではなく語って聞かせた。恥ずかしいのを思い切って質問する生徒のよ  
うな、彼女にとってはほとんど稀な表情が印象的だ。  
 両親と共に満員のプロ野球場で観戦したときのこと、そのとき実感したあの感覚――大観衆の  
中の一人に過ぎない米粒のような自分の存在、ありふれた日常に漫然として甘んじていた事実、  
“価値あることから切り離されていることに気づいていない周囲の人たち”にたった一人気づい  
たという彼女独特の疎外感……  
 
 黙って聞いていた男はというと、彼女の揺れる眼差しに向かって最後に一言だけ、  
――そうか。  
 そう言って静かに口元で笑った。どこか恥じらうようなハルヒを目の端にひっかけながら。  
 きっとあの時の自分をトレースしていたのだろう。それ以上のリアクションも結局思いつかな  
かったらしい。  
 
 ところで、ルノホートのような月面探査用移動機械を取り上げるまでもなく、それぞれの肢足  
が独立して動くという戦略を昆虫含め多様な動物が取っていることの利点はその卓越して大きな  
自在性また応用性だろう。  
 たとえ20インチ程度の、自家用車としては大きめなタイヤをデカデカと履いていようと、現  
実の走破性は人間やカモシカのそれに比べて極端に限られていると言わざるを得ない。ジャング  
ルジムを使った高鬼ごっこをタンデムのバイクで楽しんだり、市販のRV車で縄梯子を昇り降り  
できたという報告は現在までのところ残念ながら無いと思われる。  
 何が言いたいのかこの野郎と言うと、物理的にそうできるのならできるだけ歩くことを楽しも  
うじゃないか、ということだったりする。  
 あれ、さっきもそんなこと書いてたっけ。  
 
 とにかく、歩くリズムで心は弾み、自分の中にある整理のつかないモノにも時には新たな視点  
で臨むことができたりするのである。  
 同行者(や訪問者)と議論をたたかわせたり、その意見を求めるのでは必ずしもなく、ただた  
だ、聞いてくれればいい。まあ、ときどき相づちくらい打ってもらえればそれはそれで嬉しい。  
 さて、いまだそんな場所は残っているだろうか。むせるような草木の匂いやライムの香り――  
いわば故郷の息吹き――はないにしても追放された人たちを散歩に誘う、あのジュネーブのよう  
な町は。比喩的な意味で。  
 
 閑話休題。  
 それはまあともかく、筆者の見たところ、川辺を歩く若い二人とも、お互いにとって良い聞き  
手になれる存在でもあるのだろう。まさにそのことが、自分ではなかなか気づかない精神面での  
成長の証拠といえるかもしれない。  
 ほんと、微笑ましいことです。  
 
「ところでさ。こっちのわたしのクラスって、文系だったの?」  
「ああそうだ。そっちじゃどうなんだ?」  
「内緒。でも、あんたに合わせたんだわそれ。あたしならどっちでもよかったんだけど、たぶん  
理系奨められてたはずだしさ」  
「こっちの古泉は特進コースの理数クラスだ」  
「特進クラスの理数系? そんなの北高にあったかしら」 不審そうに彼を見る。  
「そっちじゃ無くなってるんだっけ。こっちの光陽園はお嬢様学校だから、その分出来のいい男  
子とかも北高に流れてるんだろ。その受け皿になってる……いやこっちがオリジナルだから逆に  
なるのか。にしてもハルヒ、」  
「なに?」  
「あのハイキングコースはイヤにならないか? 着いたら着いたでスキマ風校舎に冷暖房皆無だ  
ぜ」  
 訊いた本人はイヤになってそうである。  
「べつに。ぜんぜん平気」  
 さっくりと答える。確かに冬モードなどと言ってほんとうに即時対応できるくらいだから、交  
感・副交感神経なども彼女の場合ビンビンに働いてくれてるのだろう。うらやましい限りだ。  
 言っとくがストーブくらいはあるぞ。  
 あと、考えてみるに、彼女にとって“ぜんぜん”はとくに口癖ではない。下手に触れるといわ  
れのない冷気を帯びた視線と言葉で返される、そんな苛立ち分過剰な涼宮ハルヒとして名をはせ  
ていた時代は、ひょっとして頻出していたのかもしれないが。  
「ねえキョン、さっきのあの白いモワモワした犬、なんて種類だか知ってる?」  
「さあ。俺はわからんが、谷口なら知ってるかもしれん」  
 タニグチという苗字の人物に思い当たるには数瞬を要したようだが、  
「――あれね。そういえばあいつ犬飼ってたっけ。それよりキョン、さっきの犬、毛をまるごと  
刈ったらどうなるか見てみたくない? きっと大爆笑よ」  
 いたずら盛りの少年のような、というか今時そんな子いないのではというくらいの無邪気さで  
笑いかけ、少女は言った。  
「そうだな。ちょっと見たい……ことねーよ」  
 すこし困惑の混じった笑顔で彼も答える。  
「そう? ぜんぜん?」 「うーん、まちょっとは」 「でしょ!?」  
 
 祝川の上方を横断する線路が見える。私鉄本線との連絡駅がもうすぐそこにまで近づいていた。  
 

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