〜〜 エピローグ 〜〜  
 
 休日明けのことである。  
 弁当とおまけにケータイまで家に忘れてきたことに気づいたのは麓の私立高を通りかかった頃  
だった。門の付近でときどきニアミスするそこの生徒を見るたびにうらやんでみたり己の不明を  
恥じてみたり目が泳いだりは毎度のことだが、いいやそんなに目は泳いでないと思うが、今朝に  
限って言えば別のことが気になった。  
 理由はわかってくれるよな。  
 プレートに書いてある文字に万が一異変はないかとか、ひょっとして詰襟の男子生徒が紛れ込  
んじゃいないだろうか、などと探りを入れたその瞬間、大事な時にはなかなか働いてくれないイ  
ンスピレーションが今更のように閃いてふと自分の足元を見つめ直させたのだ。その結果"弁当  
がなくては勉強ができぬ"というマイ格言が脳裏をよぎった次第である。  
 あん? 食ってもできないくせにって? あーあーなんにも聞こえないよーだ。  
 泣いていい?  
 完全に私見な上に話のついでで思い出しただけだが、ジプシーキングスの『インスピレイショ  
ン』ってのは実にいい曲だと思う。  
 このようにまったくもって人間の記憶っつうのはよくできてるようでいて、一部の人間には融  
通の効かない困った子であることよの越後屋と、意味のない擬人化と責任転嫁をしてみたり、そ  
んな自分がすこし嫌いになったりもした。  
 といっても幸い財布は忘れていなかったのでそのまま放置することにする。出費はきついがさ  
すが俺だぜ。  
 ……自己嫌悪部屋があったら二時間くらい入りたいです、母さん。あいつに……だいぶ前から  
古泉に借りていたDVDは鞄に入れたのに。  
 そんなごくごく私的な気鬱の種を抱えてみて、もう一つ思いだすのは朝比奈さんのいつぞやの  
憂鬱だった。というのも先週にはナース服――女性用看護士衣装――から解放されて一息つけた  
はずのわりに、どことなく週のある日以降憂鬱そうな雰囲気を纏っておられたようにお見うけし  
たのだ。  
 ハカセくんの一件の時ほどでは全くなかったけどさ。  
 あのときの朝比奈さんの温かい感触を思い出す。  
 ナイスフォローだったな俺の記憶。  
 しかしてハルヒとの視察名目の小旅行の件以外で朝比奈さんを悩ます不届きなきっかけがある  
とすればなんだろうかとつらつら考えてみると、ニヤケ顔した小策士のあいつとあの謎着信の件  
が何ゆえか浮かんでくるのでやっぱ考えるのはやめておこう。  
 いらぬことをしっかり覚えていやがる海馬組織どもだ。  
 くさされたり褒められたりする俺の記憶メカニズムだが、基本的には感謝しているのでこれか  
らもよろしく頼む。  
 
 と、たった今教室に入る俺を後ろの席の腐れ縁娘が睨みつける。厳正謹直代官と悪代官のボー  
ダーラインのような目だ。はて御公儀に後ろ指さされることをしでかした覚えは……というのは  
冗談で、むしろ予想通りだなおい。なんにせよ朝は挨拶からだな。  
「よっ」  
「おはよ」  
 やはり怒っているわけではない。どういう顔をすればいいかわからないときのお決まりの造形  
なのだ。  
「教室であんまりニヤけた顔しないでよね」  
 恥ずかしいから、とまでは俺のハルヒはまず言わない。  
 ええと……ここは"俺の知ってるハルヒ"って意味だからな。勘違いしないでよね。  
 俺は誰に言い訳してるんだろう。  
 ケータイが繋がらないだのと言い出すもんだから、弁当忘れてきたこともあっさりばれちまっ  
た。日頃の行ないがろくでもないくせに勘のいい奴だ。日々の善行と直感力の因果関係は知らん  
が。  
 
 朝のHRまでは特筆すべきことは何もなく、いやそのHRで突然の転入生の話があったのだが、  
まあこれは特筆すべきと言えなくもないな。そのあとといえば国木田はじめ中学の同級生同士で  
二時限目あとの休み時間ダベってたっけそういや。  
 一応説明しておくと、春休みにもちあがった同窓会の相談で旧交を温めて以来、廊下で時々ダ  
ベリング(※)会が開かれるのだ。  
 転入生というのがなんでも帰国子女とのことで、具体的に言うと帰国女子生徒だそうだ。「あ  
とは本人が来てのお楽しみ」などという意味不明なエクスキューズを残して担任が去ってしまっ  
たので詳細は不明である。  
 なにも好きこのんでこんな毎日がハイキングコースのような、着いたら着いたで夏くそ暑く冬  
寒すぎるオンボロ校舎の県立高を選ばなくても良いのにと思うのだが、他のメンバーの言葉の  
端々から察するに彼らは青春のリビドーやらなにやらが大いにくすぐられている様子で、期待と  
いうか妄想に胸を膨らませているらしい。  
 何度か「お前はいいよな」などと憎まれ口を叩かれたのだが、何のことやらさっぱりだ。  
 まったく仕方のない奴らよなあ。  
 まあその話題でクラス内はほぼ持ちきりだったわけだが、さっそく席が用意されたのはいいと  
しても案の定その場所は教卓の真ん前のある意味ベストポジションだ。気の毒なことにオチオチ  
眠れやしない。他方、新クラス最初の席替え時に己の不幸を嘆いていた特等席の前任者は、それ  
はもう喜色を満面に浮かべながら窓際のベストポジション近くに意気揚々と移っていった。長期  
的・大局的に見て学業面に逆効果を及ぼしたら意味がないのにな。あまり羽を伸ばしすぎるなよ  
と言いたい。  
 ま、ないとは思うが転入生氏の恵まれぶりに嫉妬した同級生からの陰湿なイジメ、なんてこと  
が実際にないことを祈ろう。万が一の場合には、なんなら不肖の身ではあるが偶然にも真後ろと  
なったこの俺が親身で相談にのってやってもいい。  
 その場合、その娘の外見如何にも左右されるだろうが、後ろの席の女子生徒の承諾やら監視網  
突破に成功しなければ高確率で俺が肉体的暴力に晒される危険を冒すことになるだろうから、十  
分な用心深さが必要なのは言うまでもないだろう。  
 
 (※"ダベリング" 『しゃべる』の名詞的変化の一。『駄文』の「駄」また英語の〜ing動  
名詞との混交だろうか。"我ながらくだらない話であることよ"と自嘲気味の文脈で使われるこ  
とが多い。いや多くはない。というか日本語の乱れっぽいし死語だったらごめん。つか26,000件  
も検索に引っかかるなよ……)  
 
 四時限目、ハードル走などをそれなりのテンションで俺たち男子はやった。やりすぎてハード  
ルを蹴り倒しまくった一部の馬鹿が授業の最後体育教師に説教ついでで頭を小突かれたりもして  
たが、そんな愚かな真似などしない俺は汗ばんだ服を着替えようとこれから教室に戻るところだ。  
 ああ、腹減ったな。  
 そんな俺の前(上)方から、遠目にも目立つ体操着がぐんぐん近づいてきた。  
 あ、あいつ。  
 スタイルのよい、本来のグラマー度がかなり忠実に再現されたブルマ姿は見まごう事なきハル  
ヒだ。ちょんまげよりは長くまとまったポニーテールなのはこの際どうでもよい。  
 本当だぞ。それ以前に出てるとことか目が行くんだって。  
 いや女性諸氏にはまことに申し訳ないのだが、下半身が一瞬モコりそうになったふがいない俺  
を誰が責められよう。ちなみに"モコる"とは男の象……一生悔やみそうなので解説やめ。なん  
かもう死にたくなってきた。  
「キョン!」  
 バカ恥ずかしいだろ他の男子もいるんだし。  
 精一杯のボディランゲージが通用するはずもなく、かといって逃げ出す理由もなく、あいつが  
手に持ってる物が忘れてきたはずの弁当とケータイ、あとなぜか折り畳み傘だというのもすぐ  
判ったので、周りの目をやりすごしつつここは歓迎するほかない。  
 ごめん、先行っててくれ。恨めしそうな同僚に合図する。  
 おいどこ見てんだよさっさと行けって。  
 自分のことを棚に上げてるような状況だが青少年の健全育成のためだし気にしない。  
「これあんたの忘れもんよ!」  
「それ、おふくろか」 わかりきったことだが一応な。  
「そーよ」  
 で、なんでおまえが持ってるんだよ。  
「鳥が教えてくれたのよ。あれ、あんたには言ってなかったんだ」  
 あからさまにニヤニヤしている。ちなみに一緒に教室に向かっている最中だ。  
「あんたに直接渡すことにしたら『恥ずいからやめてくれ』とかなんとか言いそうだし。だから  
あたしが代わりに受け取ったげたのよ。感謝しなさい」  
 ありがとうよ。  
 背に腹は代えられぬってのを実地に味わってたところだしな。あ、俺は決してハルヒの胸など  
に目をやってないぞ。揺れてる…とかまったく気づいてない。  
「それでさ、『中間のテスト勉強も涼宮さんに監督してもらえたら嬉しい』とか『娘も喜ぶから  
いつでも遊びにいらっしゃい。いっそ娘の家庭教師をお願いしたいくらい。予約していい?』  
だって。アイロンも上手にあたってたって褒めてくれたわよ。『涼宮さんは才色兼備ねえ』って。  
まあ事実なんだししょうがないわよね」  
 可愛げというか謙遜のかけらもない。  
 ハルヒ……恐ろしい子! ちょっとちがうか。  
 
 しかし胸だけでなく弁当の包みが大きく見えるのは目の錯覚だろうか。  
「ああこれ? 『息子が迷惑かけてるからこれくらいは喜んで』そんなふうに言ってた。ていう  
かあたしが弁当じゃないって言っちゃったんだけど。そしたらお母さんが用意してくれるって」  
 まあ嬉しそうなこと。  
「あの様子じゃあたしの評価ポイントはもう出世魚の頂点を極めてると言っても過言では」ない  
んだって。種類で言うと伝説のクエ級だとさ。  
 クエってどんな魚だ?  
「そうね、一匹釣ったらbP釣りポイントの座は確実! って感じかしら。あんたも見倣いなさ  
い!」  
 どうやら俺の母親はこいつに丸め込まれているらしい。このハルヒが釣り仲間の噂で極北を極  
める伝説の巨大魚に見えるくらいに。"このさき鐘や太鼓で探しても"レベルに見えてるんだろ  
う。"印象"偽造とは卑劣な真似をしやがる。  
 まったく、警戒はしていたがこれほどとは。知らないうちに着々と手は打たれていたんだな。  
 何のために打ってる手かは俺にはさっぱりわからないのだぜ?  
 好奇の視線を向ける下級生どもにあまり効果のない睨みを利かせながら、  
「今日雨なんて予報出てたか?」と聞く。  
 いつお袋と連絡取り合ったのかも気になるが、まあいいや。  
「さあ。あたしは持ってきてないんだけどね」 たしか20パーとかだったな。  
「ま。今日はアトラクションと講演のレポート書いてもらうからあんた残りなさいよ。あたしが  
納得するレベルに仕上げるまで帰っちゃダメだからね!」  
 そういうことかい。  
「わかったよ」と言って、それぞれの着替えの教室に入った。  
 もう少しで女子のほうに入るところだったが。すこし勿体なかったような気もする……なんて  
のは冗談だ。  
 だから冗談だって。  
 
 食うぞ食うぞ。弁当がこうして手元にあるってのは想定外だが慶事には違いなく、着替えを済  
ませた俺はさっそくそれをパクついた。ハルヒはというと、当家の弁当の片割れをこれ見よがし  
に持ってクラスの女子生徒と教室を出て行く。  
 視線で合図を送られても困るだけだってばよ。ま、今更いいけどさ。  
 学食の予定だったらしい女友達に付き合ったのだろう。本来はハルヒが学食な訳で、それにと  
きどき弁当持った女子生徒が付いてくって構図みたいだから今日は逆パターンだ。  
 わが母の慈愛に感謝しながら、ハルヒの作ったサンドイッチを思い出す。「会心の出来よ!」  
というのは、まあ、あながち誇張でもなかった気がするね。  
 本当になんでもない今日だが、後ろの席にロングで睫毛の異様に長い、黙っていればどこの御  
令嬢かという美少女が後ろの席に座る、ちょっとだけ別の今日があったんだな……。あいつだけ  
どあいつじゃなく、あいつじゃないけどやっぱりあいつとしか言いようのない、今思えばまだど  
こかぎこちないハルヒが。  
 思い出だけが残ってるって、きついな。きつい。  
 あいつにとっちゃなおさら――  
 ほとんど同時にあの野郎の顔まで思い出しちまった。まあ、ヤな奴ではあるが、敵という言い  
方には疑問を差し挟みたくなるような。  
『オルガン(器官)』、そして『先生』とあの絵。  
 ケータイが手元にあることも咄嗟に思い出した俺は、この一件のキーパーソンに連絡をつけた。  
あいつなら聞かなくてもいろいろしゃべってくれそうだしな。今日ならなおさらそうだろう。  
 べツト・ミドラー主演の『ローズ』は放課後に返すことにする。  
 
 そのフィクサーに間違いないだろう男は(当たり前だが)ちょうど飯を食ってたところで、  
「では、旧館横のテーブルで。そのかわり……」という話になり、いま座ってる。  
 
「あなたが僕を呼び出し、こうしてその疑問に思い当たること、それ自体が半分……いえ答えの  
過半と言ってもいいのです」  
 放課後のチェスの相手を条件提示された俺の質問は、こいつの中のバーチャル予想問題集でと  
うに予習ずみとみえる。  
「未来人……そう思い込んでいるだけという可能性は今は排除してよいでしょう、彼らにとって  
は互いの存立基盤を揺るがしかねない"分岐"こそ、『この時間平面』……と彼らが呼ぶものに  
存在する最大の危険です。その一方をかけて対立する以上、互いに妥協することはありえないし  
出来ない。考えてみれば簡単ですね。彼らの知る"分岐"を巡る戦いに敗北することは、すなわ  
ち『無』という結果を生むからです。『無』がどの程度に及ぶかはその"分岐"の強さ、大きさ  
に左右されます。彼らはそう信じている」  
 朝比奈さん(大)の説明をややこしくまぜくってるような話だ。  
「であれば、これはまさに恐怖でしょうね。守るべき世界、存在する理由そのものを一瞬にして  
変容させ消し去ることも想定される対決ですから。過去を調整するというのはまさにアポリアで  
す。敵味方という枠では語れないことも多い。お互いの共通の土台を守るべくときに援護する、  
そういう事態もたびたび起こり得ます。端的に言って、まさにそういう事態だったのでしょう…  
…」  
 語尾に微妙な余韻を残す。  
 やはりというか、何かと説明するのが好きなんだろうな、この男は。それはそうと此処にいる  
と女子生徒の視線がよくこやつに注がれる。なのに完璧なスルーぶりは結構すごいことなのかも  
しれん。慣れてんだろなこんちくちょう。  
 出費予定だった分で飲み物をおごってやろうかと一瞬思ったがやめた……とさっき考えてたっ  
け。  
 だがそれもやめてやっぱおごることにする。なんとなくそうしただけさ。  
 で、食堂を出ようとするハルヒに出くわした。正直言うと遭遇する予想もあったが。  
 ただ、空の弁当箱を押し付けられるという想定は外れた。  
 ハルヒは、なんていったっけ、運慶快慶の彫った仁王像の目のように俺を睨みつけた。目だけ  
な。それで上機嫌らしいことが俺には判った。隣の女子がクスッと笑いかけるとハルヒのほうも  
笑いを隠さず、  
「え、うぁと、キョン! 弁当もいいもんよね〜おいしかったわよ! ほうれん草巻いた卵焼き  
一つとってもなんていうか長年の経験は偉大って感じね。あたしもまだまだ研究の余地がある  
わ」  
 なんとなく含んだ笑いを見せるクラスの女子と一緒にそのまま手を振って去っていく。  
 料理研究家でも目指しているのだろうか。  
 コーヒーの抽出中、クラスメイトとこうして昼を過ごすハルヒをなんとなく目で追いながら、  
巣立ちゆくヒナを見守る感じというか、どことなくむず痒いような、また秋風めいたうら寂しい  
ような気分になってた。記憶と詮索と感情の入り組んだ重奏というか。  
 人の記憶によって生まれるイメージ……心象って不思議だね。気がついたら妹が「おにいちゃ  
ん」とふたたび呼んでくれる日になんか既視感な新郎の顔を一発だけ殴らせろと暴れて顔のハッ  
キリしない誰かにえらい力で羽交い絞めにされてる親族席の俺を想像してるし。  
 アホみたいに腕力あんだよなあ、あいつ。  
 
 
 ややあってミルクティーとコーヒーを持って戻る。どちらも『微糖』のはずだ。どうでもいい  
ことだが微糖ってのも変な言い方だなと思う。  
 えーと、どこまで話してたっけ。  
「こうしておまえに俺が質問してる事自体がすでに答えだ、とか言ってたな。どういう意味かわ  
かりやすく教えてくれ」  
 何かと技巧に走るからな、この古泉の説明は。  
 当人は苦笑した顔で両手を広げ、  
「ああ、まさにそうですね。気をつけてはいるんですが。ミルクティー、ありがたく頂きます」  
 紅茶の入った容器の腹を慎重に掴む。  
 こぼすなよ。  
「先ほどは『未来人』というカテゴライズに限定したかのようにお話しましたが、あなたのよう  
な現代人にも同じようなことが言えたのではありませんか? 一週間程度の未来から来た朝比奈  
みくる……」 呼び捨ては俺の前ではやめとけって。「そうでした。朝比奈さんが誘拐されたと  
きには、あなたはそれを目の前で見たはずです。涼宮さんと一緒にいた朝比奈さんが仮に誘拐さ  
れていたら、おそらく問題は拡散しもっと大きくなっていただろう事を」  
 らしいね。なにか引っ掛かったままだが。  
「その点、同じ出来事であったとしてもあなたと歩いていた朝比奈さんが誘拐されたとすれば意  
味が違ってきます。現実に起きたのはそちらなのですが、さしあたって深刻な問題には発展して  
いません。言い換えればその事件はまるでなかったかのように未来に……つまり現時点に続いて  
いるわけです」  
 それが俺の質問の答えか。  
 エスパーでもあるまいし、そんな脈絡のない話を聞いて真実の糸を見つけたり解いたりはでき  
んのだがな。  
「いえ、簡単なことです。“未来が変わる”というそれだけの話ですから。ただ、何がどう変わ  
るのかを理解しているかそうでないか。それがあなたの質問の発端であり、僕の返事の意味で  
す」  
「あなたには三つの『今』があり得たのですよ」 本題らしい。  
 どうぞ続けてくれ。  
「一つは、超自然的な出来事――つまり涼宮さんが別の涼宮さんとなること――を何も記憶せず  
今に至ったあなた。それを経験したかどうかは問題になりません。記憶にないのですから。彼女  
との見学は本当に見学そのものとして完結し、あなたにとっては疑念をいだくとっかかりもな  
かったでしょう。つまりこうして僕に質問することもなかったと」  
 それが答えか。  
「二つ目は、あの髪を伸ばした美しい人がそのまま涼宮さんである今。重要なことではありませ  
んが、長髪のほうが魅力的だと思う人もいるかもしれませんね。すくなくとも僕はそう思いまし  
た」  
 いまさらそれはねえだろ。関わった身としてそんな言い方は気に食わん。  
「すいません。あまり軽々しく語ることではありませんね。三つ目はもうお解かりでしょう?  
……そう、この出来事を知っていて、しかも彼女を元に戻したあなたがいる、つまりたった今で  
す」  
 なんか生暖かい風が耳の裏をくすぐる。……雨、降るかもな。  
「これら三つの『今』のうち、一つ目と三つ目は――そして三つ目が選択されたわけですが――  
同一のものと考えてほとんど不都合はありません。あなたが僕に問いただしているという“たっ  
た今”があるかないか、その程度の違いしかないでしょう。あくまで現時点ではそうです。同じ  
ように、あなたの目の前で朝比奈さんが誘拐された過去の存在する今と、何も起こらなかった  
『今』に、現時点においてはほとんど何の違いもありません。……将来にわたってそうとは限り  
ませんが」  
 記憶が残ってるんだしな。  
 ん? 待てよ。  
 さっきのこいつの言葉からすると、この男はあのハルヒを覚えてるのか……?  
 
「そうかもしれんが、変に思い出したりしたらつじつまが合わなかったり、あとでいろいろおか  
しなことになるんじゃないか?」  
「そのとおりです。極端な話、一つ目の『今』に至る経緯が三つ目の“たった今”と変わらなく  
てもよいのです。不必要あるいは不都合な記憶を消去し、場合によっては別の記憶を潤色するこ  
とによって同じ結果を得られれば良いのですから。それに、そうしなかったという保証はありま  
せん。もっとも、」  
 かわいい下級生がチラ見……エレガントきわまりないとか言いたくねえがそんな手振りの奴を。  
腹が立ってくる自分も情けないな。しかし。  
 これはどうでもいいか。けど似たようなことを言ってたっけ。  
 あのときの長門も。  
「……続けていいですか」  
 おっと。ついよそ見してたな。  
「もっとも、記憶に多少の誤差があってもたいした問題にはならないでしょう。フフ、人間もま  
た己の中にある記憶の整合性を滅多やたらとは疑わない生き物ですから」  
 これは解かる気もするね。その辺しっかりしてたら弁当忘れてこないし。  
「しかし、二つ目の『今』だった場合には決定的な違いが生じるでしょうね。たとえ同じような  
会話をあなたと僕が今日この時間このテーブルでしていたとしても――つまり一見ほとんど何も  
変わらないとしても――……あのとき涼宮さんの目の前で朝比奈さんが誘拐されていた場合と似  
ています」  
「つまり、ハルヒの力を無くしたままで放っておいたら、未来が変わってたって訳だ。そりゃ助  
かる人も多いだろうな。『機関』は万々歳じゃないのか?」  
「いいえ。『機関』が総意としてそのような事態を望むことは本来ならばありません……」  
 考えてみりゃ、あの部屋でもそれらしいこと言ってたっけ。歯切れが悪いのはつい最近の事件  
のことも念頭にあったからだろう。  
「涼宮さんは『機関』にとって計り知れない爆弾であると同時に切り札でもあります。自分たち  
だけが切り札を失ったナポレオンゲームを考えてみてください。王侯派だろうが革命派だろうが、  
スペードのエースや表ジャックを失った時点でゲームそのものまで失いかねません」  
 こいつなりに熱心な口調ってのもあるんだな。  
「それに、いわゆる未来人についてそれなりに分析し蓄積してきたデータが“拡散”し、不明瞭  
にあるいは『無』になることは、現時点の『機関』にとってはデメリットのほうが多いでしょ  
う」  
 と、いうことはだ。俺は考える。  
 あの髪の長いハルヒと俺が現実に机を並べていたとしたら、おいしいお茶やときにはどくだみ  
茶のようなけったいな飲み物を朝比奈さんがてづから用意してくれる現実が、霧にかすんだよう  
に消えていってたかもしれないってことか? それとも未来人の自覚を記憶喪失のように失った  
可憐な少女があの部屋で呆然と立ち尽くしている……とか?  
 待てよ。  
 実際途方もないことだったらしいエンドレスオーガストでは、未来がそもそも存在しなかった  
んだっけ……  
 存在しなかったはずの未来から来た人間がそのまま居たんだし、『無』といっても朝比奈さん  
が消えるとかそういう意味ではないのかもしれない。  
 たとえそうだとしてもどこぞの誰かが獅子のごとく奮迅してそうならないように頑張ってくれ  
てたから……てなことも考えられる。任務半ばで刺されちまった俺の尻拭いを俺自身が正月に  
やったように。  
 
 肝心なところは朝比奈さんと長門任せだったけどさ。  
 ミルクティーをだいぶ減らしてから古泉は次に進んだ。  
「彼女を封じることで利益を享受するのは、“『機関』の総意”とは別の存在だといえます。あ  
まり詳しいことはお話できません、ですが……」 さっきみせたような語尾の心残り。  
 詳しい話ならあの部屋で聞いたように思うんだが、こいつは覚えていないのかもしれん。  
「もっと個人的な動機かもしれませんね」 遠くを見つめるような表情で顔を上げている。  
 
――それはお前のことなのか?  
 
 普段は如才ないスマイルを崩さないこいつの顔に浮かぶニュアンスの意味をとらえようと、俺  
は無言のまま試みる。  
 あの先生の言葉も、今思えばこいつの内心を代弁していたのかもしれない。  
 立場上の敵の中に理解者がいる話というのをどこかで読んだ記憶がある。深い哀調に満ちた話  
だった気がするが何で読んだか思い出せない。  
 
 長門の面影がよぎる。あえて何も言わないことにしたらしいと喜緑さんは言ってたっけ。あい  
つがこのことに無関係だとはどうしても思えない。だが同時に関係があるとも思えないんだ。  
 この矛盾。  
「長門は……」  
 これ以上は言葉にできなかった。たぶん、したくなかった。  
「……彼女にとっては……あの世界に触れることは禁忌かもしれません」  
 朝比奈さんの憂鬱が乗り移ったのか古泉よ。  
「彼女が望んだことと、この出来事は似ている部分があります。もっと言えば――似たような願  
いを感じます。長門有希についてはこれで十分でしょう? 以前にも言ったように、彼女はおそ  
らく特別なのです。涼宮さんに非常に近い場所にいることもそうですが……ほかのどのTFEI  
端末ともおそらく違う」  
 古泉らしくない弱い声だ。いいから、言いたくないなら飛ばしてくれ。  
「いえ。個人的な意見を言えば、彼女には……」  
 続かないらしい。つもりがあるんだったらとりあえず最後まで言ってくれ。  
「――そうですね。語弊があるかもしれませんが。彼女には、いわば“宿す力”がある。……僕  
はそうみています」  
「…………」  
「……といっても、情報操作……同期能力の制限も含めて、このまま、いわば普通の女子高生に  
なる、いつか話したとおりの過程を、彼女はたどっている途上なのかもしれません」  
 わずかな溜息のあと、いかにも思わず漏れ出たような古泉の一言に、俺は静かに驚いていた。  
 どういう意味だったんだ、「うらやましい」って……。  
 
 さっきのハルヒの姿を思い出す。嬉しいような、寂しいような気分で見送ったっけか。いずれ  
は俺たち全員に訪れるはずの巣立ち――  
 
 の、ようなもん。  
 
 朝比奈さんには帰るべき未来がある(はずだ)し、いろいろアレだがハルヒも古泉も前途はま  
ずまず洋々といってよい気がする。  
 少なくとも俺から見て。  
 心がけが(かなり)問題なだけでハルヒは本来的にIQ・EQ・容貌・身体能力のどれをとっ  
ても堂々たるトップクラスという不公平極まりない恵まれぶりであり、見てくれもさることなが  
ら特進クラスの古泉は現になんか育んでやがるしな。  
 その一方で自分自身を省みるとだ……。  
 まあ、なんだ、皆まで言ってくれるな。  
 とりあえず、国語辞典の“平凡”って字の定義に俺のことって書いてあっても受け入れる用意  
はある。いやないけどさ。  
 やつらとは違うのだよ、分はわきまえてるつもりだ。  
 が、しかし。  
 敢えて最後に考察する女子生徒は?  
 そうだ、近似的万能超人であることを俺は疑わない、長門有希は……?  
 明らかに“平凡”からかけ離れた、だが同時に寡黙が少女の姿で現れたらきっとこんな感じだ  
ろうな、なんて思いたくなるようなあいつは?  
 たとえば、あくまでたとえばの話だ。もうハルヒを見続けなくていいという未来があるとして。  
 そう、あいつにとって無関係ではありえない、“あの時の”ハルヒのように。  
 長門は知っていてなにも告げなかったのだ。  
 なぜ?  
 結構重要な疑問なんだろうな、これは。  
 ああだめだ、問題を俯瞰したフリはよそう。だってこれは俺のせいなんだろ……?  
 でも、直接聞けない。  
 白すぎるくらいに白い顔がこちらを向き、深奥まで透き通ったその眼が俺を見つめる。  
 やたらと鮮明な、そんな想像が脳裏をよぎる。  
 
 “ここにいてくれと言ったら、おまえは……”  
 
 ハルヒのいない、しかし長門と俺の交わるような、そんな未来が……?  
 長門の沈黙は長くは続かない。口元がわずかに動く。  
 
 そして――――  
 
 コーヒーの入れ物をかざしてみる。  
 液体は三分の一くらい残っていた。  
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥  
 
 沈思黙考する俺の耳に、ふっ切れたようにさわやかな口ぶりの、いつもの古泉の声が届いた。  
 
「実のところ、もしあのままだったら……元に戻っていたかもしれないんですよ」  
 
 なにがだ。  
 
「……僕の命のローソクが」  
 
 俺を見て「フフ」と笑い、表向きなんともないように付け足した。  
 
「今のは、ほんのジョークです」  
 
 おいおい。  
 俺たちゃ高校生だぜ。エンディングの前にメインキャラが――脇役でもいぶし銀でもこの際関  
係ないね――命を張ってぶっ倒れるなんざ困るんだ。守られる側でもな。そんなあつらえた感動  
シーンでお涙頂戴なんつうのは、ハルヒも言ってたがおかしいじゃねーか。お前だろうが誰だろ  
うが、そんな役どころもそんなオチも御免こうむるさ。もちろん俺だってな。  
 そんなふうに思ったが、結局言葉にはならなかった。  
 咄嗟にそんなことを考え、つぎに戦隊アクションものの白とか黒というのがなぜ数奇な運命に  
翻弄されるのかについての考察に進みかけたとき、古泉の電話がブルブルと己をアッピールしだ  
した。スムーズな手つきで確認する。  
 どことなくいわくありげな目で俺を見て  
「ではのちほど。失礼」  
 いいよ、カップは俺が捨てとくから。  
 空いてるほうの手を軽く挙げ、若き陰謀家の男は上品な歩様で立ち去った。  
 学習したとみえる。  
 
 途中までしか聞けなかった。まあいい、いずれじっくりとご教示願おう。  
 
 それにしても、だ。あいつ……  
 こっちも気づかなかった、いや気づいてたんだが放っておいたというのが正しいか。いつも呑  
気そうな顔して、いつのまにか裏方の仕事も策謀も片付けてしまうあの“古泉如水”に、俺たち  
もついつい甘えてたってこと。  
 
 そう。あいつも疲れてたんだな――  
 
 寂寥そのものだったあの表情を、俺はそれ以来見ていない。  
 
***  
 
 こうしてテーブルには俺だけが残っている。  
 
 一気にコーヒーの残りを飲み干してここを立ち去ろうかと考えなかったわけではないが、ベル  
が鳴るまでの間くらい邪魔の入らない時間もいいかもなとたぶん思ったのだろう、そのまま俺は  
座っていた。  
 物思いにふけりたかったって言うと思った?  
 ま、そうなんだけどさ。  
 古泉のカップもそのままにしてな。転がったらそれまでよ、などと考えてた。  
 
 見えない何かに足止めされ、そのまま数分ほどたっただろうか。  
 写実的な絵の中に実によくはまった花瓶のような存在感を漂わせるきれいな顔立ちの同級生が、  
めずらしくも俺に興味があるのかテーブルに近づいてきた。  
 ああ、顔は知ってる……。ええと、何て言ったっけ。  
 名前を思い出せないが、ふわふわした天然パーマ(と思う)の同級生。  
 透き通った深い碧色の瞳が見つめている。  
 多分に当方の事情ではあったものの朝比奈さんの手作りチョコレート――長門作と言ったほう  
が正解に近いが――を見事に獲得したのはこの女子生徒だった。  
 焦ってたなあ、あんときは。  
 あと……最近見たような気もするんだけど。  
 微量のデジャブを解決できないものかといささか頼りない己の記憶のバッファとインデックス  
にあたりをつけていた俺に、女子生徒が声をかける。  
「すいません、あの」 引っ込み思案なのだろう。どこか儚げな声だ。  
 そのわりには……まあいいか。  
 えーと、俺に用?  
「はい……ここにいるって聞いたから」 誰にだろう。  
 すうっと同級生の手が伸びた。  
「……これ」  
 差し出したのは栞だ。  
「預かってました」と言い残して、女子生徒はすぐに立ち去った。託された手描きの花。  
 
 
 クロッカス――――  
 
 
 結局、自分が食った分の空き弁当箱をハルヒは食器洗い用洗剤で徹底的に洗ったうえに乾かし  
てから返してきた。  
 たぶん使用前よりもきれいになってたはずだ。  
 洗った本人はそう言ってた。  
 近くに住んでるのに電話じゃ失礼だとかなんとかで、口頭での弁当の御礼はそれはもうねんご  
ろだった。たいそう気を良くした母親は秘伝の味付けを伝授してやろうといま意気込んでいる。  
 やはりあいつ、古泉以上の聞き上手ぶりだ。  
 その情熱が我が家にも還元されるんなら、まずは歓迎すべきなんだろうな。  
 加えて、妹への家庭教師の件も実現に向けて双方が具体案を検討中だ。そろそろ詰めの段階に  
入ってるのだろう、「キョ〜ンく〜ん、ハッルにゃんセンッセのお料理よ〜」とか聞こえるし。  
 まずは家庭科からか。  
 この分だと「サービスであんたの勉強もみてやるから感謝しなさい」とか言ってまたぞろダテ  
眼鏡やら『教官』の腕章やら装着しつつ嬉々として鬼教師ぶりを発揮されそうな予感がする。  
 というよりもはや未来人の『既定事項』を上回る意志の力で現実のものとなりそうである。  
 この手練手管、まったく恐ろしい。孔明あたりの罠にちがいない。  
 ふとそんなことを思った。  
 わが妹とその家庭教師(すでに決定事項だろうな)の出頭要請に応じて階段を降りている、  
たった今の俺が。  
 
 お袋のハルヒ評価ポイントは、そんなわけで鰻の滝登り中である――あれ、なんかいやなこと  
思い出した――まあ要するにすっげー喜んでるってことだ。  
 
 
 ああ、折り畳み傘を使ったかって?  
 ご想像にお任せしますよ。  
 
 
 
 
                       『古泉官兵衛のある種の罠』  おわり。  
 
 

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