〜〜 はる(三章) 〜〜  
 
 朝比奈みくるや長門有希には内緒にして頂戴、というのが涼宮ハルヒのたっての願いでもあり、  
懇願された形の彼も部活後の一件以降それを踏み越えようとはしなかった。未来人というわりに  
現時点における近未来のことはほとんど何も聞かされていないらしい朝比奈みくるはともかく、  
長門有希にはとっくのとうに知られていると推測できるとはいえ。  
 技術的にはともかく性格的には有希がそういったことをあれこれ詮索することはないものと思  
えるだろうし、なにかしら勘ぐって自分や男を問い詰めるような真似など想像もできないのであ  
ろう。涼宮ハルヒの常識的判断から考えるなら。  
 随行予定の彼からすれば、ハルヒならこのように判断するのが当然であるとこれまた容易に理  
解できるはずで、その判断を尊重するつもりもあると思われる。  
 いつだったか、朝比奈みくるの想像している長門有希の心情を聞かされて、そのとおりなのか  
と聞かれた際に有希本人が言った、「わたしが彼女の立場なら、同じことを想起しただろう」と  
いう言葉がそれこそ想起されるのだ。  
 
 和睦……というか仲直りというか、青春には良くありそうなことというか、とにかくちょっと  
日々の悲しみを背負って憔悴していたかと思えばいきなり地球大接近時の火星を数万倍くらいに  
したような熱っぽさを帯びつつ隠し切れないハッピースマイルをふりまいている近頃の涼宮ハル  
ヒである。  
 黒板消しを当番でもないのに「おりゃ〜」などとおらんで無償でせっせと済ませたり、授業が  
そんなに待ちきれないのか「2分遅れてるから」とクラスメイトを巻き込んで瞬く間に教室の時  
計を修正したり、ほとんど手の挙がらないことで有名な数学教師の質問に突き上げるような挙手  
で答えたり、通常の彼女を知る者にとって驚くべきことには、昼休みに女子生徒らの談笑の輪に  
なんと自分から加わってお互いの休日の過ごし方について意見を交わし合い、後学のためかほか  
の女子のお出かけ話にフンフンと相槌しつつ熱心に聞き入ったりしていた。逆に質問して欲しそ  
うなそぶりもところどころ交えながら。  
 クリスマスの予定をやたら友人に聞いてきた時の軟派師匠・谷口氏を想起させる。  
 周囲にも晴れやかな笑顔を分け与えることを遅まきながら覚えたのは良いことだろうが、もう  
すこし出し惜しみしてもいいんじゃないだろうかと思うレベルにすでに達しており、その幸せ  
オーラの発散ぶりはもうアホかというくらいわかり易いものだった。  
 いやでも知れ渡ろうというものである。  
 ワザとかもしれんな。  
 一部の口さがない女子のあいだでは、「そろそろ籍を入れる決意を固めたらしい」 「ご両親  
には挨拶を済ませている」などと冗談なのか本気なのかつかぬ事実無根な噂が飛び交っており、  
とにかく彼女らがハルヒのアッパー気分の原因をほぼ完全に特定していることを窺わせる。  
 ごめんちょっと誇張も入ってます。  
 とにかく、おかげで肩身の狭い思いをしているのは振り回されぶりばかり上達していく前席の  
男子の方で、とくに同級生という有機生命体どもの暖かい目線や煩悩まみれの野郎どもの妄想を  
相手に通常の3倍程度は少なくとも耐えなければならなくなっていた。  
「どこまでいったんだ」などというアホでありがちな質問をされた際など危うく椅子から落ちそ  
うになる狼狽ぶりだったし。  
「そんなんじゃねへよ」 声、裏返ってますよ。  
 実に役得――もといとばっちりであるといえよう。  
 
 間近に休日を控えたそんなある日の昼休みのこと。  
 食堂の屋外テーブルに座る彼になにやら気難しい表情を向けられながらも付き合っているのは、  
他の女子団員約二名のいずれでもないことは当然で、やはりというべきか謎のペアチケットを提  
供した本件の仕掛け人と目される古泉一樹である。  
 そばを通りかかる女子生徒の視線がときどき彼ら――おもに一樹――の近くを逍遥するのが見  
て取れる。  
「ですから、不肖ながらSOS団の副団長を務めさせてもらっている身として、不思議探索ツ  
アー等の活動への一助になればと涼宮さんに紹介した、そういう説明では不十分でしょうか」  
 いましがたしゃべっていたことをしれっと繰り返す一樹である。  
「んなあからさまに怪しい催し物だ、それなりに宣伝してりゃ何一つネットで引っかからんって  
のも逆におかしいだろ」  
 コーヒーの割り勘分を押し付ける目論見の成算の低さと同様に、有益な言質を得ることにも成  
功しないだろうと観念しているように見えるが、一応食い下がる努力を見せる。  
「そうですね。おっしゃることはもっともです。あなたが懸念しているようなこと、つまり第三  
者の伝聞情報が主催者も含めインターネット上で拾えないことについては、おそらく局地的かつ  
期間の限定された催しでは致し方ないとも思えます。なにしろあの涼宮さんのように『マイノリ  
ティレポート』(少数派報告)がお好きな特定の方の関心を惹くために用意されたような謎めい  
たアトラクションですしね。そういう、人を選ぶ内容の口コミなので、文字通り『知る人ぞ知  
る』という形で静かに進行しているのだと思いますが。付け加えれば、僕自身もいわば偶然知っ  
たようなものですし」  
 忘れがちではあるが、何が謎といってこの古泉一樹自体が謎の転校生にして超能力者だったよ  
うな気もする。  
「主催している『催行実行委員会』というのも、おそらくこのために結成されたものなのでしょ  
う」  
 返事が予想の範疇だったのだろうか、呼び出した男は鼻で笑った。  
「ふん。まあいい。もう一度聞くが、おまえらの『機関』が噛んでるんじゃないだろうな」  
 なにかあれば相手に突っかかる心づもりなのがみてとれる男とは対照的に、古泉一樹はあくま  
で落ち着いた物言いを崩さない。  
「先ほども言ったように、関係ないとも関係あるとも言えません。このイベントに参加するかど  
うかも含め、涼宮さんに僕は判断をゆだねました。僕の心中をそのまま言いたくない、という気  
持ちも正直なところあります。ですが」 やや声を潜めたものの手振りを交えて丁寧に説明をつ  
づける。  
「思い出していただきたいのは、閉鎖空間・夏合宿・雪山の件・それに朝比奈みくるの誘拐事件、  
それらすべてにおいて『機関』の最重要任務はなんだったかということです」  
 それらのいくつかは、“世界の現状維持”という大層なテーゼを掲げたわりにはバカバカしい  
までのセコい仕込みだった。  
 誘拐事件についていえば、詰問する彼のほうも感謝するほかないだろうが。  
「生徒会長の野郎もそういや仕組んでたんだよな」  
 テーブルの上を凝視する。  
「それがおおまかにいって『組織』の総意だというのを認めたとしてもだ。誰もが共有してると  
は限らないんじゃないのか? 長門の親玉筋にいろんな派閥があるようにな」  
 ひっかかりをたぐる漁師のようだ。  
 細めた目は相変わらずの一樹だったが、鋭さが増したように見えないこともない。  
「古泉、おまえ自身が言ってたことだよ。『僕も少数派になりつつある』って」 コーヒーを口  
にする。「……俺は何も知りやしない。だからこうしておまえに聞いてるんだ。俺達は、不本意  
かもしれんが仲間だろ」  
 まっすぐ相手を見る。  
 
 それを受ける代わりに机の上のものに手を付けた。  
「そうですね。我々はまさに運命共同体……とまで言い切れるかはともかくそれに近い関係です。  
好む好まざるにかかわらず。ですから……」  
「それなりに愛着のあるこの世界を安定した状態に保つために、つまるところ涼宮ハルヒ……涼  
宮さんやあなたにはできるだけ平穏無事であってもらわなければならない。それを逸脱すること  
はないはずです。過激な主張をする人も、現状が実際に安定しているのであれば能動的なアクシ  
ョンを起こす必要もない。だからこそあなたと涼宮さんとは……怒らないで聞いてください」   
怒るようなことを言うらしい。  
ケースバイケースだと視線で答える彼の様子に苦笑気味で告げた。  
「まあ、フレンドリーな関係でいてもらう必要があるのです。以前も割のいいバイトを紹介する  
と言いましたよね。……ククッ、同じことです」 クスクス笑っている。  
「で、はじめから俺とハルヒを組ませるつもりだったってことか。あいつのご機嫌取りにつき合  
わされてる身にもなってくれ」 いかにもな口調で愚痴を言う。  
 おおげさに溜息をついて見せた一樹が、クスリと、さらにニヤニヤ笑いながら提案した。  
「どうしてもイヤなら仕方ありませんね、どうにかしてあなたの代役を探してみましょうか?   
大変ですが、全国津々浦々を探せば、ひょっとするとシャミツー以上の逸材が見つかるかもしれ  
ません。それでもダメなら荷は重いですが僕が……」  
 名状しがたい形相で睨まれ、これ以上の戯れは無理と思ったのだろう。両手で制止する仕草を  
みせて  
「……冗談ですよ。ほんのジョークです。なにより涼宮さん自身があなたと行くものと決め込ん  
でいるようですし」と弁解する。  
「彼女の精神はそれこそ見事に安定……もっとはっきり言えば高揚しています。一時は落ち込ん  
でおられたようですが」 今度はククッと喉を鳴らす。「あの夕方以降はそれはもう笑ってしま  
うくらいに……ね」  
 相談依頼人に探るような視線を送るにやけ顔。  
「こうまで彼女の精神を左右できるあなたにはもはや嫉妬するしかありません。ふふ。もちろん  
『機関』としては願ったりかなったりですよ。それにしても……」  
 やれやれといったいかにも困惑気味の表情を一樹がつくった。  
 
「あなたももう少しこう……ね」  
 
 と、ここで幻想的な……といってもかわいらしい場違い気味の着信音が響いた。  
 普段落ち着き払った態度の微妙超能力者にしては珍しく少し慌てた様子で小ぶりな携帯電話を  
とりだし、「では失礼します」と言い残してコーヒーの入った容器を掴むとその場を後にした。  
 こぼしかけていたところを見ると本当に焦っていたらしい。  
 野郎二人のシリアスな会話だったような気もするが、尋問役だったはずの彼はニヤついていた。  
 高く売れそうな話のきっかけをたったいま仕入れた情報屋というのがいれば、ひょっとすると  
こんな顔をするのかもしれない。  
 
「よほっ、キョンくんじゃないか!」  
 かつて熱い魂をひめていたであろうコーヒーの残滓を飲み干そうとする彼を、すこしアレなニ  
ックネームで呼ぶ元気な声は情報屋というより鶴屋さんである。  
「どうも」 首筋のあたりをなぜか気にしながら会釈する。  
 最近その辺りを掴まれて教室から引きずられクラスメイトからドナドナされてたのは記憶に新  
しい。  
 狂おしい石の火のかけら、たぎり落つ乙女のガラス……ってなんかのフレーズで聞いたかしら  
ん。そんな日本形容詞学会の夜を自家発電させる、黒曜の帳のような長髪も見目麗しい弓のよう  
にしなやかな乙女がそこにいた。  
「ふふ〜ん? どしたい、なんかニヤけちゃってさぁ」  
 条件反射のように両頬をさする。  
「ちぃっす。あれそんな顔してましたっけ俺」  
「してたしてた! げっついしてたさ、ま〜るわかり! ね、みくる!?」  
 朝比奈みくるにもそう見えたらしく破顔してうなずいている。  
「うん。あ、いま古泉くんとすれ違ったんだけど……」  
 なんとなく様子をいぶかっているのかもしれない。  
「ちょっと用があって食堂であいつに声掛けたんですよ。そんで」  
 ほぼ空の容器を持って立ち上がる。  
「なんかその、あいつもやることやってんじゃんって。そんな感じですね」  
 顔つきが内容を暗示している……というかそう見せている。  
 みくるが「え、うそ」と一瞬きょどってみせたのはどうしたことかと思うけれど、  
「そうなんだ〜」 「おっとこまえだもんね〜古泉くんは! でさ、どんな子どんな子? どっ  
か変わった子とか、ひょっとしてハルにゃんみたいなめんこい感じかな〜」  
 ふたりとも目を輝かせて続きを促がした。ちなみに挙動不審の行動をきょどるという。  
「え……」  
 言葉につまるのも無理はない。  
 “やることやってる”といってもプライベートらしい相手からの着信をいかにもそれっぽい曲  
にしていただけという、はなはだしく状況証拠のみの想像上の色恋話である。漢字で書く『麒  
麟』くらいの想像上ぶりだ。無難にやり過ごそうと振った話題にここまでノリノリで食いつかれ  
るとはぶっちゃけ思いもしなかったのだろうが。  
「えーとその、あいつのケータイからえらいファンシーな曲の着信が鳴って、とたんにあわてて  
席を外しただけなんですけどね。あ、あとコーヒーこぼしそうになってました」  
 付け足すように  
「……どう思います?」  
 “それだけ?”と言われる前に逆に質問してやろうという見え見えの手口だ。  
「えー、どんな曲だったの?」 みくるの瞳は夜の海ほたるのように爛々としている。  
「うーん、聞いたことはあるんですけど……」  
 知らないらしい。  
「うん……? するってぇと、用って古泉くんのらぶらぶラバーズじゃなかったんだね! いっ  
たいなんの相談だったんだい? なんかおもろそうだな〜」  
 相手が長髪の不思議方言人だけならよかったのかもしれないが、下級生のような上級生も一緒  
ではハルヒと約束した手前もあって話せないわけで。  
 
 らぶらぶラバーズて。  
 
 
 漆黒の髪の才媛は、返事に詰まる目の前の匹夫を憐れんでくれたらしい。  
「うふ〜ん? ま、混ぜてくれるってんならハルにゃんや一樹くんから言ってくれっさね。そん  
ときゃキミも遠慮しないで寄っといで。生徒会とまためんどいことになったらあたしも呼んどく  
れってこれは言ったっけ? あ、言った言った! もちみくるやキョンくんに加勢すっからさ」  
「ハ…ハハ、すんませんいつも」 さばけた先輩を前に後頭部が痒そうな匹夫(失礼)。  
「えと、どんな感じだったの? 似てる曲ってわかる? 誰だろう?」  
 まだ言っておられるわけで。  
 
 
 彼の知らない曲名を明かすと、古泉一樹が謎の相手用に設定していた曲はグリーグ作曲「ペー  
ル・ギュント」組曲第2番より「ソルヴェイグの歌」、日本語の詞で『みずうみ』として歌われ  
てもいるものだった。  
 
   ―― 逢いたいのは あなたよりも そばかす気にしていた日のわたし ――   
 
 この部分である。  
 
 
〜〜 にぬき(四章) 〜〜  
 
「あ〜た〜ま、ぼっさぼっさ〜、おひさ〜まにっこにこ〜」  
 
 朝の寝覚めのよさにかけては定評のある小学生。  
 母親の忠実な手先、伝令兼強制執行担当者と化して猫もろとも彼からふとんという名の安息の  
地を奪い去るのが平日なら彼女のいまだ日課なのだが、今日に限っては彼女の兄のほうが先んじ  
て洗面台の鏡に己の姿を映していた。  
「おはようさん、お茶碗運ぶの手伝ってくれってよ」  
「は〜〜い、ヒヒ、デート楽しみ〜? キョンくん?」  
 ニカニカ笑いながら兄者を困らせる妹君。  
 涼宮嬢との外出のため、彼はすでに服の着替えをすませており、予想外に早くふとんをひっく  
りかえされて割を食った感のあるオスの三毛猫も、とっくの昔に移猫申請を受理された安心感に  
浸るかのような風情で二度寝に入っている。  
 よく寝る子であるが別に育ち盛りだからというわけでもなさそうで、実際のところシャミセン  
の年齢は不詳だ。  
 休日の朝にも関わらずなどと書くべきではないのかもしれないが、どういう心がけの賜物かや  
たら健康的な朝を自発的に迎えた視察小旅行当日の彼である。  
「早起きキョンくん、かんしんかんしん〜ガブビボゥガブビボゥ」  
「……ペッ」  
 妹君の即興はみがきの歌からもそのことが如実に見て取れよう。  
 いやまあ、それにしてもいい朝だなと代わりに言ってあげたくなるような爽快な目覚めを記録  
したのは事実のようで、鳥人間コンテストでいうとすでに折り返し点はクリアしてあとは竹生島  
に落っこちても悔いはないぜ! くらいの意気込みを漂わせているのも本人以外には自明といっ  
てよいだろう。  
 上機嫌だなこの野郎。  
 これから降りかかる数奇な運命にも気づかずにせいぜいワキワキしておるがよいわ……  
 ゲフンゲフン。  
 といっても、小一時間ほど着ていく服に悩んだり髪型を延々と微調整したりとは無縁で、彼の  
ほうはとうに出かける用意を完了している。  
 していたのだがほんの少し後ろ髪が……まあいいけど。  
 
 現時点までの彼の様子については以下の情報が参考になるだろう。たとえば朝食での妹にから  
かわれる兄の図。会話にはなってない。  
 
「にひひひ」  
「……」 じろ。  
「ハルにゃんのお弁当〜ひひひ」  
「……」 ぎろ。  
「はい、あ〜〜んして。あ〜〜〜ん。えっへへ『あやかりたい!』」  
「…………」  
 泣くな兄貴よ。  
 
「あんまりキョンくんからかったらだめよ〜?」  
 困らせたらダメなどと実にゆるい注意を受けている無邪気な児童。  
「だから部活……みたいなもんだって言ってるのに」  
「何か持っていく? おにぎりでも。あ、後ろの毛ちょっと立ってるわよ」  
「あ、ほんとだ、キョンくん寝ぐせ恥ずかしーよ、ハルにゃんに嫌われるよ?」  
 聞いちゃいねえ。  
 家族に周知させる必要を感じないかかる私事を彼女が知っているということは、つまり彼がそ  
れを仄めかしたかもう一人の当事者によるリークがあったかのどちらかであろうが、  
 実は両方だったりする。  
 涼宮ハルヒは前日にわざわざ電話してきて「キョン、ちょっとお母さんに代わって」などと公  
共性やら健全ぶりをアピールする一環なのか事前連絡を欠かさずに行ない、電話口に出た当のご  
母堂の口からは「息子から聞いてます〜、ええ、たしかお弁当とかいらないのね〜なんか楽しみ  
にしてるみたいよ〜ふふふ」との証言が得られている。  
「にひひ〜。あ、代わって代わって」 妹さんのにやける顔もそばにあった。  
 彼女らは気が合うらしい。  
 といっても気質がマッチングしているだけではない。  
 被害者本人のみが身に覚えのない階段転落事件で昨年のクリスマス前に半ば緊急入院を余儀な  
くされた際、凄絶なまでの“24時間つきっきりでいさせてほしい”権利請願をハルヒが行ない、  
そのときの彼女のあまりの熱烈さに母御前がほだされてしまった感もある。  
 ちなみにハルヒが自分とこの家族にどう説明したのかは不明だ。  
 
 伸び盛りのこと、屈託のない性格は変わらない彼の妹君も身長は順調に伸びており、ほんの数  
ヶ月前に雪山合宿への参加を強行した際に比べもて兄との差を少しばかり詰めているように見え  
る。  
 このまま健やかに成長してくれれば、いつの日か彼女の心を射止めるような殿方はとてつもな  
く果報者ではないだろうかと推察する。その人となりも、気後れすることなく誰ともスキンシッ  
プをとれる、とってもいい子である。  
 兄貴にとってそれが喜ばしいかどうかはまた別のことであるにしても。  
 
 思えば、元私有ゲレンデに臨む鶴屋家別荘の部屋割りで涼宮ハルヒは自室に妹氏を誘っていた  
ものだった。  
「あんたと違って素直でいい妹」というのが気に入っている理由なのかどうかは判然としないも  
のの、とりあえず本人の発言ではそのように妹御の素質を高く評価していたことが記憶に新しい。  
 そんなに新しくないかもしれないが、ここはどっちでもいい。  
 よもや断られるまいと踏んだであろう部屋割りでの妹ちゃんご招待がどうなったかといえば、  
当の妹氏が「みくるちゃんとこがいい」などと三方一両損のようなことをのたまったので思惑通  
りには行かなかった。  
 前後の経緯からすると、妹御というよりその兄貴に対してなんらかの含むものがハルヒには  
あったか、むしろ彼女としては配慮してあげたつもりだったのかも知れないけれど。  
 年齢よりさらに幼くみえる小学生の発言が邪心のない素直な心情だからこそハルヒにはちょっ  
としたショックだったようだ。  
 というのも、「みくるちゃんとこがいい」発言のあとキョン妹と鶴屋さんが雪だるま作りに従  
事することになった際、その末席にでも参加したいと示唆するスキー初心者朝比奈みくるの意向  
をジェラシー気分漂うハルヒさんはあっさり却下し去り、みくるもろとも団員たちを上級者コー  
スへ駆り立ててあわや遭難に至ったのであった。  
 そのような段階を踏んだあとであることを考えると、謎の雪山館での彼との口喧嘩だって、今  
にして思えば涼宮ハルヒのジェラシックパークな気持ちの延長が発端だったのかもしれんなと、  
思うのもちょっと無理があるけどめちゃめちゃ無理をすれば思えないことはない気がする。  
 ごめん、なんかどうでもよくなってきた。今の考察はみくるのホクロばりに忘れてください。  
 とかなんとか、なんだかんだといっても、ハルヒのそういう行動は実にかわいらしいものであ  
る。生来の気質が陽気というか死語でいうと彼女はおキャンなのだろう。  
 
 そうそう、一応礼儀としてツッコミいれとこか。  
 あのさ、妹ちゃんよ、「あやかりたい」て……  
 でっかい雪だるま作りのときにでも変なお姉さんから教わったのだろうか。  
 
 今回は休日出勤ということもあり、“いやいつでも休日出勤だっただろあの不思議探索ツアー  
とやらは”などという指摘はこのさい無しでお願いしたいとのことだったが、とにかく本来自主  
連(どんな練習だろう)だの涵養に充てる日であったとのことで、罰金ないし喫茶店のおごりを  
遅れた方が命じられるという縛りはない(ってハルヒが言っていた)。  
 ないが事態がどのように変化するかは予断を許さないだろう。なにしろ自分が奢るときに限っ  
て財布を忘れてくる御仁なのだ。あの娘は。  
 そうそうのんびりもしていられないぜ。  
 などといったところが、7:00にはいつでも出る準備が完了していた彼の、外聞を考慮した  
言い分である。  
 
「…………?」  
 さすがにまだ時間も早いので、2階の自室で三毛猫の相手かあるいはボーっとするかと考えて  
いたらしい高校生を呼ぶのは、さきほど彼を困惑させていた妹氏だ。  
「キョーンくーん」  
 つまり、たったいま鳴ったインターホンの相手が彼に関わる人物ないし宅配業者なのだろう。  
「はいよ」 誰だかわからないが返事をしながら階段を下りる。  
「お・きゃ・く・さ〜ん! にひひ」   
 このニヤニヤぶりはなんとしたことか……  
 いや、彼も当然思ったことだろう。  
 
 まさか――  
 
 光速の寄席……もとい寄せもかくやというばかりの勢いで階段を下りる。すでに玄関で屹立し  
ている彼女の震える瞳にたった今とらえられた男は、しかし言葉のとおりの意味で驚愕していた。  
 予想だにしていなかったのだろう。  
「……!?」  
 すぐには言葉が出ないくらいに。  
 
 二人のあいだで小学生があいも変わらずニコニコしているのも構わず、二人はお互いに真剣な  
顔で見つめ合った。目を逸らしたら負けらしい雰囲気だけで言えば、にらめっこの一種のような  
感じなのかもしれない。「う〜んん?」 ニコニコしながらもなーんか変だなといわんばかりに  
二人を交互に見比べる妹ちゃん。  
「あら? お久しぶり……? いらっしゃ〜い」と暖簾をくぐった店主が大事な客を思い出すよ  
うな口ぶりで、母親もまたにこやかな表情を送る。  
 玄関に立つ相手は母親に黙ってお辞儀をした。  
 どちらが言い出すでもなく、いまにもハグハグしたそうな妹を置いて玄関先に男女二人は出る。  
 
 ドン。  
 
 扉を閉じたあとの狭い玄関先には二人だけがなお視線を交し合っていた。まだ勝負はついてい  
ないらしい。あくまでシリアスな、口にはしないがいろんなことがお互いを行き来しているよう  
な。  
 
 そして―― 彼に向かって開口一番、  
 
「殴っていい?」 右手でグーを作ってみせる。  
 
「…………」  
 男はなおも黙ったまま。  
 作ったゲンコツはそのままで、思いのほか静かに女は言い添えた。  
「一発だけ……」  
 
 モスキートンも殺せないようなゆるゆるのゲンコが彼の左ほほに触れる。  
 いままでこらえてきたものを抑えることが出来なくなったか、次の瞬間、彼女は男の胸に飛び  
込むようにして体をぶつけた。  
 男の胸板のあたりから嗚咽が聞こえてくる。  
 ご近所の目などいっさい気にしていない、それどころではないほどの思いがあったということ  
なのだろうか。  
 男の両手が一瞬迷ったように広がり、ためらいがちに彼女を両肘の上から包んだ。  
 
***  
 
 ずっとそうしていたいと、どちらか、あるいは両方が思っていたかはわからない。ただ男が彼  
女の両肘をそっと押すようにして、抱き合っていた二人はようやく体を離した。  
「……とりあえずこれ使え。鼻水でてるぞ」  
 渡されたティッシュでグシュ、グシュと水洟を拭う。  
「服……」 「ああ。べつにいい」  
 彼女の涙やらで少しだけ染みた上着のまま、二人でふたたび玄関に入った。  
「とにかく上がってくれ」  
 その言葉にしたがった途端、待ちかねたように  
「わ〜い、ハルにゃんいらっしゃーい!」  
 全身で熱烈歓迎ぶりを表現して彼女の懐に飛びこんでくる元気な妹氏。  
 きゃらきゃら笑いながらじゃれてくる小学生の娘を、笑い顔をみせながらもどこか思いつめた  
ような難かしそうな表情で見下ろしているその女は、たしかにまぎれもない涼宮ハルヒその人で  
あった。  
 だが……。  
 
「朝飯は食ってきたのか?」  
「……いちおう」  
「食うか? ごはんに味噌汁だが残ってるはずだ」  
「……少しなら」  
 娘と同じく何かの花が咲いたような笑顔の母親が「すぐ用意するから」と彼女に言い、宣言ど  
おり台所からあっという間にごはんと味噌汁を用意した。  
 あとおしんこと味付け海苔にゆで卵……これ旅館の朝ごはんのまんまですやん。アジの開きま  
たは焼き鮭がないけどさ。  
 
 その間、顔を洗ってさっぱりした様子のハルヒは打ち合わせるように小声で彼と話していた。  
「あんたの妹のこと……」  
「『妹ちゃん』」  
「そう。それじゃお母さんは……」  
「そのまんまでいいんじゃないのか」  
「『キョン』でいい?」  
「……どうぞ」  
 最後はやや不本意感をにじませていたようだが。  
 センシティブなメンタルのまま、どこか夢を見ているような雰囲気をきわめて珍しくも彼女は  
醸している。  
 たとえるなら、あまりに物語に入り込んだためにエンドテロップの最後まで食い入るように見  
つめて名残を惜しむ観客のような感慨を心に抱いているようだ。  
 ともあれ張りのあるきめ細かい化粧不要のお肌でよかったね、涼宮さん。  
 
「母さん、悪いけど上着。ちょっと汚したんで」  
「……たらいに入れといて」 微妙な間だ。鋭いよね女って。  
 長男氏は着替えてきたようだ。  
「申し訳ありません。わたしのために用意していただいて」  
「いいのよ〜、いつもだったらまだ起きてこないくらいだし。いつもこれくらい早起きだったら  
助かるのに」  
「ハルにゃんのお弁当が楽しみで早起きしたんだよね〜キョンくん」 ニヒヒと笑う。  
「そうそう。ふふ。涼宮さんウチに来るのまでは聞いてなかったけど。息子をよろしくお願い  
ね?」  
「……うるせえ」 実にか細い抗議である。  
「その髪型も似合ってるわ、ほんとに涼宮さんはきれいで」  
「いえそんな。お母さんこそ。それに妹ちゃ、あ…妹さん、そのうちとても美人になると思いま  
す」 個人的には同感だ。  
「てれるてれるえっへへ。ねえねえハルにゃん、ミユキッちんとどっちがきれい?」  
「……??」 返事が見つからない涼宮さんだ。ま、そうだろな。  
「いやその、妹の同級生のあの子だよ……って忘れててもしゃあないよな」  
 少し慌てる兄貴。  
「そうね……。あの子は大人っぽいきれいで、妹ちゃんはかわいいわね。どっちも将来の有望銘  
柄よ! うん、確実だわ!」  
 彼の気配りをよそに、ハルヒはさらりと言ってのけた。あとサムズアップしてる。  
 へ? いやこれは彼の表情だ。  
「ゆうぼーめーがら?」 「そうよ」  
 いい意味だろうとは解かったらしい。  
「わーいおかーさん、あたしゆうぼーめーがらだって」  
「よかったわね。うふふ……そうそう」 そう言って笑顔でハルヒに話題をふる。  
「『涼宮さんは成績抜群で親御さんがうらやましい』とか言ったら怒るしね。また勉強の仕方教  
えてやってほしいわ。予備校のチラシ置いてても無視するし、この子親の言うことぜんぜん聞い  
てくれないのよ」  
「はい! ……え、いえ、そんなこと、わたしなんて全然まだまだですぅ」 なんだその甘えた  
「ですぅ」は。  
「…………」 グウの字も出ないらしい兄貴。  
 そんな彼をよそにというか肴にして、女三人は意気投合したように笑いさざめいていた。  
 
 いつもと様子の違うハルヒさん。  
 さきほどの会話からするともしかしたら彼の家族に会った記憶がないのかもしれないけれど、  
いやそれにしては妹御の友人まで知っているらしいので面識はあるのだろうけど、とにかく迅速  
にギャップを取り戻したあたりはさすがと言えよう。  
 むしろマジでこの三人は気が合うってことの証左なのかもしれないが。  
 とりあえず打ち合わせのつづきがあるらしく、男が自分の部屋に案内した。  
 明らかに緊張した表情を浮かべつつ入るハルヒ。  
 まあ、男の部屋だし。  
 かと思えば部屋の様子を数瞬で睥睨したのち、つうかほとんど高等監察官とかガサ入れとかそ  
んな単語を思わせる不遜きわまりない上から目線で「ふーん、こんなもん」と言わんばかりなの  
が恐ろしい。  
 このあたり偏見が入っているかもしれないことをお詫びします。  
「シャミセン元気そうね、こらシャミー!」  
 そう言いながら、できれば構ってほしくないと目で訴えていたように見えるふとんの上でうず  
くまる三毛猫の両手を持ち、吊り上げた。  
 こやつにしてみれば不快なポジションを取られているのだが、逆らっても無駄だと思ったか抵  
抗らしい抵抗も見せない。  
「……な〜ぅ」  
 気力に欠けた生返事にもほどがあるぞ猫。発情期はどこへいった?  
 だれたシャミセンの伸び具合や肉球の感触を楽しんでいるハルヒに、座ったまま部屋の住人が  
言った。  
「ああ、あいかわらずしょっちゅう寝てる。……ん? おまえ、なんでウチの猫の名前知ってる  
んだ?」  
 
「……はん? あんたあの喫茶店でその話してたじゃない」  
「え、そうだっけ。……いやその辺の細かい話は端折ってたはずだ」  
「……このボケナス、鳥ガラ頭、天然。変なウイルス頭にもらってるんじゃないの?」 「…  
…」  
 当たらずと言えども遠からずかもしれないが、それにしてもあんまりである。  
 それに頭に変なウイルスのようなもんをもらってるらしいとごく一部で評判なのは、アンタに  
引っ張り上げられていかにも投げやりな声を出してみたり目を細めてみせたりもした、基本グニ  
ャってるそちらの獣のほうなんですがね。  
「フフ」 ちょっぴりしょげた彼の様子が面白いようだ。  
 ベッドの枕元あたりを目で追いながら続けて言った。  
「あのね、わたしは必死だったのよ。だからあの時の会話ならほとんど全部ソラでいえるくらい  
覚えてるわ。それに……」  
「いろいろあったのよ。こっちじゃね。あんたが目の前でいなくなってから。あんたの両親や妹  
さんがどれだけ……」  
「え、あ……すまん……」 なぜか謝った。  
 そこまで思い至らなかったのだろう、家族の動転ぶりをいくつか聞かされて今度は男が驚いた  
色を目に浮かべている。  
「わたしにも責任あったし、何度も訪ねたわ。ほんというと今日だって」  
 家に来るつもりだったとまでは言わないで、  
「あんたの妹……『妹ちゃん』、あんなにはしゃぐとこ初めて見た」と付け加える。  
「こっちじゃあれがデフォルトだがな」  
「そう。やっぱりね。こっちでもそうだけど……カラ元気ってすぐわかっちゃうものよね」  
 いまの彼女のようなのが『遠い目をしてる』ってやつだな。  
「…………」 兄者の思いはどのようなものだろう。  
「あんたの部屋も入ったけどさ。……ここはほとんど変わってない」  
 だろうとは思うが、入ったあとの不遜な目線はそれか。  
 それにしては机や枕元が気になるのか、ときどきそのあたりに目をやっているのはそういえば  
なぜだろう。  
「キョン、あんたの部屋相変わらず殺風景だけど、写真とか飾ってないわけ?」  
 こういうわけだった。  
「男の部屋だしな、こんなもんじゃないのか普通」  
「…………」  
 少年のほうが何か気づいたらしく、  
「ということはだ、おまえの部屋は飾ってるのか? なんの……ああ。いや別にいい」  
「え? わたしの部屋に入ったことないの?」  
「ねえよ。招かれたことなかったし。家も見たことないしその辺に行ったこともないね」  
 行きたくもないとは当然言わない。  
「そ。めちゃめちゃ早く目が覚めたんだけどね。起きてすぐに気づいたわ。『なんでかわからな  
いけどこっちに来たんだ』って。いろいろ違ってたから。あんたとかSOS団のとか、その……  
アルバムにしてたのを一気に漁ってみたし……」  
 なんとなく言い淀んでいる。  
「ひとつ言えるのは、こっちのわたしの趣味はあんまり褒められたもんじゃないってことかしら  
ね。寝つきにも目覚めにも精神衛生上も良いとは思えないのに」  
 なにかの品評会に立ち会った賑やかし目的のバイヤーが3品めくらいを見るような目で男を睨  
んだ。……そう見えて実は骨董品屋のオヤジが持ち物全部売って手に入れたコレクションを鑑賞  
するときのような気持ちなのかもしれないが。  
 というか自分の趣味に文句つけても侘しいだけのような。  
 
 たたた……階段を上がってくる音がする。トントンッ  
 ドアをノックするとはこの子にしては殊勝な心がけだ。  
「入っていいぞ」 すぐにドアが開く。  
 いったん床に置いていたお盆を再び持って妹氏は全天候型の笑みをみせる。  
「キョンくんハルにゃん、お母さんのさしいれ」  
 にへらっとハルヒに笑顔を向け、お盆のものを彼の机の上に静かに置きながら寝そべっている  
ウイルス持ちの猫属にも笑いかける。  
「あ、おはようシャミー、ごっはあだよ」 ごはんだよ。  
 さすがに少しはうれしいのか、三毛猫はのそりと起きあがった。  
「そいつ連れて下に行っててくれ。部屋に入る時はノックしてからたのむ」  
 一向に効果の上がらないお願いだが、これで通算何度目なのだろうか。  
「ありがと妹ちゃん、お母さんにも言っといて」  
 彼の向かいで正座するハルヒが付け加える。  
「は〜い……ゆうぼーゆうぼーっ」  
 変な語彙ばかり増えて。  
 明るい妹さんをすこし眩しそうに見つめる長髪の乙女。  
 猫をドアから外に出してお盆を抱えて戻っていく妹氏を、やさしい義理のお姉さんのフリでも  
心がけているかのような微笑みでハルヒは見送った。  
 この娘の過去の行いを知り尽くしていると言っていい部屋の主にとっては「こいつぁ陰謀のに  
おいがプンプンするぜ」と勘ぐりたくなるのかもしれない。  
 今日はちょっと違うようだけど。  
 
 小学生の歌が届かなくなってから、思いついたようにSOS団員その1(無役)が暗色基調で  
メタリックカラーの携帯電話を取り出した。  
「あっちじゃ繋がらなかったんだよ」と言いつつ電話をかける。  
 10秒ほど黙っていた涼宮ハルヒの携帯電話が振動して己の存在理由を問い始めた。マナー  
モードにしていたようだ。  
 コンパクトなシルバーメタリックのそれを取り出してハルヒも確認する。  
「やっぱこっちので間違いなさそうだな」 眉をひそめて言った。  
「あっちにあってこっちにないはずのものって、おまえ自身以外で何かあったか?」  
「わたしもいろいろ探してみたけどね。一つだけあったの」  
 セカンドバックからごそごそと取り出したのは例のチケットと――  
 一枚の栞。  
 それを差し出すように見せる。  
「これなんだけど、ジョ……キョンが消えたあとで自分で作ったのよ。間違いないわ」  
 シンプルな長方形の、ただし手描きで花の挿絵を描いているものだった。  
「タッチも何もかも一緒の物をこっちのわたしが作ったとは思えないし。ほら、ここのところ色  
を迷って一回塗りなおしてるでしょ。これはだからわたしが描いたので間違いないわ」  
「これ……なんて花だ?」  
「……クロッカス」  
 さきほどの母親のそれと似たような間を置いていた。  
 
「ふうん。なんかで読んだような……。まあいい、それよりこれだなんだが」  
 栞を戻すハルヒに男が指摘したのは、本来二人で行く予定を立てていた謎のペアチケットの方  
だった。  
「なんか面白そうよね。部屋のカレンダーにも赤丸して書いてあったわ。『雨天断固決行』だっ  
て」 なるほど気合入ってんな。  
「要するに、こっちにはおまえ一人しか涼宮ハルヒはいないってことなのか」と、文法的には正  
しくても使った人が正気を疑われそうなことを後ろ髪のちょっと立った冴えない男(本人談)が  
言う。  
「…………」 考え込む表情の二人。  
 これだけ絶対完遂の意思を表明している本日の予定である。仮に“こちらの”涼宮ハルヒがど  
こかに居るとすれば、そして今の彼らがそこにいける範囲であればなおさら、あらゆる手段を  
使ってせめて彼にはなんらかの連絡をつけることだろう。  
 その程度の行動力と機転が彼女に備わっていることを、彼は微塵も疑っていないのだ。  
 それがないということは、すなわちほぼ間違いなくこの世界においての涼宮ハルヒはいま彼の  
目の前にいる彼女一人と考えてよさそうだ。  
 しかし、あるいは――  
 存在しているとしても彼が知っている彼女ではないか、どこかに閉じ込められているか……。  
 しかしこの世界にいる限りにおいてなんらかの状態異常が彼女に発生していたなら、通常の人  
間がとりうる手段を超えた力を持つ幾人もの人物に少なくとも感ずかれているであろうし、  
 雪山での遭難のような力が働いているなら、これは普通人である彼には確実に手に負えない。  
知覚できないという意味で。  
 こういうとき、どうすりゃいいんだ?  
「この事態を生じさせた張本人を突き止め、問いただすこと……誰にだよ」  
「キョン、それなんだけど」  
 いましがた腰掛けたベッドになんと今度は寝っころがり、ハルヒが答えた。  
 どうやら彼女も考えていたことがあったのだ。  
 男は視線のやり場に困っている様子。  
「あのとき古泉くんがいろいろ言ってたでしょ。あんたも聞いてるはずよ。パラレルワールドか  
世界改変か、とにかくこの事態を発生させた当事者になら説明できるはずだって。それを突き止  
めるのが手っ取り早いんじゃない」  
 思い出を復習しながら、ハルヒは服を整えなおしつつ彼の前にまた正座した。  
「言ってたな」  
 あぐらをかいたままの部屋の原住人は、彼女の膝元に目を落としつつも同時に胡散臭そうな表  
情をつくる。  
「でもな、今回はあいつが一番怪しいんだよ」  
「あそう。ま、それはまた考えるとして、あのあとあんたは元の世界に戻ることができたんで  
しょ? だったら誰があれをやったのか知ってるはずよね? ぜひ教えてほしいところだわ、誰  
がやったの、やっぱりわたし? それとも他の何者か? ひょっとして異世界の侵略者か何か  
だったの? スリルがあるのはやっぱ銀色の頭でっかちな異星人かしら!?」  
 口角泡を飛ばすってのはこういう感じですかね。  
 容疑者について「あそう」のひと言で片付けてしまった不思議好き。  
 この方は今回わりと当事者のはずなのに、むしろ他人事に全力で首を突っ込む時のノリで好奇  
心いっぱいの目を輝かせている。  
 若干あきれ気味の表情ではあるが、面と向かって彼は答えた。  
「期待させて悪いが、俺にはちっとも笑えないことだった。ま、おまえの推理もまんざらじゃな  
い」 淡々と続ける。  
「スリルはないが宇宙人だった」  
「へ? どういうこと?」  
 
「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース……って、あの時ちゃんと言っ  
たっけ」  
 よく空で言えますね。  
「……それって」  
 思い当たる人物を彼女は最大二人しか知らないはずで、彼の指しているのはそのうちの一人で  
あり、おそらくハルヒにも判ったはずだ。  
「ああ。あいつだった」  
「うそ」と言いながらベッドに腰掛けなおすハルヒ。  
 やはり男の部屋であることを意識してはいるのか、両腿から膝頭をやや強めに閉じながら覆う  
ようにスカートを正した。  
 男は全くの素面だ。冗談ではまったくないことをみてとったハルヒは、思い出したことと彼の  
言葉とを繋ぎ合わせてみせる。  
「あ――、『わたしではないだろう』って、やっぱりそういうことだったの……? 時空修正が  
どうとか、『それを知ってる別の長門さんがいるんじゃないか』とか、古泉くんがそれっぽいこ  
とあとで言ってた。でも」  
 あちらの古泉さんもそういうのお好きなんですね。  
「あの有希にそんな力があるなんて」 「思えないだろ? それはそうさ」  
 途中から発話者が変わる。たぶん今のハルヒの言葉はそれを継いだ彼の考えていた通りだった  
のだ。  
 ハルヒが抱いた疑問は当然だった。  
 なにしろ彼女の知っている長門有希はすでに正真正銘の通常人類のはずだから。  
「あいつは全部をなかったことにしようとした。自分自身をなんの力もないただの文芸部員に作  
り変えたようにな。あいつは自分を造った『この銀河を統括する情報統合思念体』まで消しち  
まった。古泉のパートタイム超能力も……」  
 迷った様子で彼女を見る。  
 “お願いぜんぶ言って” 目線でそう告げているように見える。  
「お前の力も。……なにもかも全部道連れにしたんだ。あのあと会ったこっちの朝比奈さんの説  
明じゃ、とんでもない規模の『時空改変』を長門はやってのけたらしい」  
 さすがに涼宮さんも神妙である。  
「……そしてあいつ自身がすべてをもう一度改変して通常の時間の流れに世界を戻したって朝比  
奈さんは言った。ついでに俺もその場面に立ち会ったよ。それまでまあ、いろいろあったけど  
な」  
 だから、どうして“あちらの”お前がいまこうやって自分の前にいるのかわからない……。  
 言語化しなかった彼の本音に違いない。  
「すごい話ね。さすがにこの状況じゃなかったらわたしだって疑うかもしれない」  
 素直な感想をやはり真顔で娘は言う。それはもう大抵そうでしょうね。  
「でも、なぜあの子はそうしたのかしら」  
 思案顔の相手に取っ掛かりを与えるかのように、さらにハルヒが問うた。  
 だが彼の方は何も言わない。  
 ‥‥‥‥‥‥  
 
 その代わり、いつになったら少しは冷めるのかと関係者を悩ますその好奇心に見合った提案が  
ハルヒの側から出た。  
「だからさ、有希の家に行きましょうよ! ついでにあの子の家で『朝比奈ミクルの冒険』のD  
VDも見せてもらいたいわ! って……ああ、あの子の部屋ってつくづく何にも無いのよね。テ  
レビも無かったし。よく考えたらいろいろ変だった。あれでピンとこないなんてわたしの直感も  
まだまだ鍛錬の余地があるわ」  
 どうすれば鍛錬できますか。  
「え……ひょっとして持ってきてるんじゃ、」  
「そうよ。ええと、これよこれ、ぜひ見たいんだけど」  
 セカンドバッグからあっさり取り出したDVD−Rのラベルには、はっきりと『朝比奈ミクル  
の冒険 エピソード00』なる記載がされていた。フェルトペンでだが。  
 あからさまに嫌そうな顔をする男。  
 そうだろう。次にハルヒの口から出る言葉は容易に予想できるから。  
「仕方ないわ、キョン、リビングで見せてもらえるように言って。もちろんわたしも言うわ。二  
人で頭下げたらOK貰えるわよきっと。これ見てから有希のマンションに行きましょ!」  
 ほら来た。しかも大画面をご所望だ。  
 何か用事を思い出そうにも本日の彼の予定はすでに母親たちを通じてカチューシャしてない長  
髪の、要するにたった今立ち上がったハルヒに筒抜けであった。  
 知らなかった可能性があの時まではあったのだが。  
 生まれ持った才能かもしれない聞き上手でもあるハルヒに朝食を振舞ったことが、そもそも裏  
目に出た格好だ。学力不振という付け入る隙を彼がしょっちゅう与えていることを端緒とした迅  
速な意気投合ぶり・話の合わせぶりだったので、結局は自分で捲いた種との見方もできよう。  
 ひねくれたものの見方を幼少時から身に着けていたと思しきこちらの兄を反面教師としたよう  
な、あっけらかんとした妹御からの差し入れであるお茶をグビビと飲み干したハルヒと、「…  
…」と眉をひそめた表情だけの無言の抗議をする斜に構えた兄が、対照的な音を立てて階段を降  
りたのはそのすぐ後のことだった。  
 居間での上映会はどうやら8時またぎになりそうだ。  
 午前だけども。  
「わ〜、みくるちゃんかわいいーー、ねーシャミー」  
 ソファに腰をおろしたハルヒの膝にちょこんと座る妹ちゃん。  
 のっかられている女子高生もなんだか嬉しそうだ。きっと妹に甘えられている気分を楽しんで  
いるに違いない。  
「ウゴゥ……」  
 妹氏の膝に乗せられて耳とか引っぱられている飼われ猫がその限りかは分からない。  
 できれば耳は容赦してやってほしい。  
 かようなわけで、涼宮ハルヒ超監督の製作指揮のもと、制作・機材費等は地元の商店街の資材  
提供・スポンサードを得る形で進められた『朝比奈ミクルの冒険 Episode00』の居間上映は意  
外なほどあっさり許可されていた。  
ちなみに『長門有希の逆襲 Episode00』については新刊……ゴホン。  
 未来から来た戦うウェイトレス役、主演の朝比奈みくる嬢の多大なる羞恥心をもっぱら費消し  
つつ撮影されたこの映画を、撮影・雑用その他もろもろに携わったこの家の長男の家族は文化祭  
二日目にすでに鑑賞ずみである。  
 あるのだが、今よりさらに幼かった期待の新人妹氏やこの映画をきっかけに当家に連れ込まれ  
た(思えばこれもハルヒの命であった)希少なオス三毛たるシャミセン氏の在りし日の雄姿――  
いまもつつがなくダレているけど――を久々に見たいという需要と供給がうまくコミットしたと  
いうことらしい。  
 
 文化祭で鑑賞した日のことを少しばかり説明すると、バニーガール姿で宣伝ビラ配りに精を出  
していた前日とは打って変わって、文化祭二日目の涼宮さんは頼まれもしないのに母娘の観光地  
めぐり半日専属ガイドを一方的に買ってでた。  
 過剰なほどのサービス精神でそれを甲斐甲斐しく勤め上げ、彼女の歌唱力に惚れこんだらしい  
一部の女子生徒らのサイン攻め(なぜか『合格祈願』とか『開運』『千客万来』『第六天魔王』  
などと書かされていたが)に応じたり母娘と兄貴の水入らずにちゃっかり溶け込んでいたものだ。  
今にして思えば深謀遠慮の結果であったのだろう。何かの。  
 文化祭の開催期間中、触ったら祟られると本気で恐れられているどこぞのご神体を相手にする  
かのごとく、なるたけこの映画に触れるまいと心に誓っておられた撮影・編集係氏も、まあ久々  
に自分たちの過去の所業をしかと両目に焼き付けさせるのもなにかの修行のうちと思っているか  
は知らないが、とにかくここはあきらめの境地に達しているらしい。  
「………………」 偏頭痛に悩む主婦のような仕草だ。  
 思えばこれがシャミセンとの男の連帯が生まれた瞬間だった。  
 嘘だけど。いや、心中お察しします。  
 えーとですね涼宮さん、足おっぴろげて膝の間に座らせるのはお召しのギャザースカート丈の  
関係上わりと目に毒なのでこの度は控えた方がいいかと。  
 よく考えてみなくてもデートで映画というのはさもありきたりであろう、しかしさすがにこの  
ような“自主製作映画を彼の自宅で家族と鑑賞”などというパターンはそうそうあるとも思えな  
いので、ありきたり嫌いを公言してはばからない涼宮ハルヒとしてはここはまずまずの滑り出し  
といってよいのかもしれない。  
 それに、変わっているとはいえ古泉一樹いわく『彼女の乙女心』にしてみれば、ついさっき涙  
の再会を果たして抱き合った相手の部屋でずっと過ごすにはさすがに心の準備が足りなかったの  
かもしれず、そういう意味でもちょうどいい気分転換になっていそう――  
 さすがにうがった見方だろうか。  
 それより大事なことがあるだろうとの指摘がどこぞからありそうだ。  
 いまは私的事情で頭を抱える彼にもわかっているはずである。つまり……。  
 ここは彼女とは別のハルヒとその時間の世界。  
 彼女はもう一人の“彼女”を、そして“彼女”とその周囲の世界にあったことを知りたいと  
願っているのだ。  
 許された時間のうちに。  
 そよ吹く風が実に心地よい、雲も出ているものの絶好の外出日和の朝だった。  
 
 
 宇宙人の侵略者長門ユキの初登場あたりから、ハルヒは時々考え込むように画面を見つめ、そ  
こに表現された超監督(凶)の製作意図をつかもうとでもしているかのようであった。  
 やはり様子が違うことが気になるのだろう。  
 そうかと思うと母親の怪訝な顔をものともせずに「ハルにゃんこんどばにい着てみせて〜」と  
か、  
「ここね、前にお母さんと買い物に行ったの」だとか  
「みくるちゃんがんばれ〜!」やら  
「古泉くんがね、あたしかわいいって〜。ね〜シャミー、へへへ」など、  
 足もとでアグラをかいて座っている男の実妹が自分の膝の間できゃらきゃら笑いながら自分に  
話しかける要望から逸話、応援また舞台裏話(なのか?)などに適当に応じていた。  
 滝つぼ修行を真冬に無理やりやらされるニワカ行者のような男の表情を観察するように、斜め  
上からときどき見つめて。  
 はしゃぐ妹さんにとっては見所であるらしい紺碧のミラクルアイから放たれる必殺ミクルビー  
ムのフラッシュ時には、自分も「てやー、みくるびーーむ!」とか言いながら兄貴の後ろ髪をく  
しゃくしゃ鷲掴みにして、さすがにポコリと頭を叩かれていたミドルヘアの小学生である。  
 あのねお嬢さん、あなたのお兄さんあやうく目から焼かれて即死だったんですね。  
 犯人というかまあ、貴女が甘えているそこの女子高校生さんの姿をした人がアレらしいのです  
が……  
 
 そうこうするうちに『転』ばかりの舞台はいつのまにやら後半で、入浴(後)シーンから鶴屋  
家での同棲生活、北高でのラブコメバトルなどに差し掛かったところだ。  
「あ、妹ちゃんね? もっとちっこかったのよねえ、でもかわいいわ!」  
「うへへ! てれるてれる」 言葉遣いにところどころ鶴屋お嬢さまの影響が見受けられる。  
 そうしてハルにゃん大好き〜とばかりに抱きつく妹ちゃん。  
「ほんと。ずっと見てるとわからないもんね」  
 映像と実物を微笑んで見比べる母親の感想だ。  
「…………」 滝つぼ修行でいうともはやどうでもよくなる頃だろうか。  
 
『わたしとともに宇宙をあるべき姿へと進行させるか、未来への可能性を摘み取ることである』  
『なるほど。どっちにしても彼……この場合は僕ですか、僕が鍵となっているのですね――』  
 2階の屋根から入室するつもりだったらしいユキと『鍵』役を模したらしいイツキとの謎の伏  
線っぽい謎掛け合いシーンである。  
 なんかややこしい言い方でごめん。  
 この辺りはとくに気になるのか、ハルヒはもともと大きく輝いてみえるその瞳で彼らの様子を  
凝視していた。  
 ハルヒのほうに目をやる通称ジョ……キョンとの間で、今度はアイコンタクトが成立したらし  
い。  
 おっさんのストーカーに困っているようなはたまた水虫の告知を受けたような表情(って、鶴  
屋さんが言ってました……)でユキからの果たし状を読み、そうして決意を固めたらしいミクル  
はどこで着替えたのかミニスカウェイトレス姿で北高の屋上へ。待ち受けるのは悪の宇宙人のユ  
キさんと肩にしがみついた三毛猫だ。  
 
 最終決戦シーンをやはりケラケラ笑いながら楽しんでいる様子の笑い袋の後裔のような妹ちゃ  
んに合わせてか、楽しそうにハルヒも笑いつつ鑑賞していた。  
 だってシリアスじゃ全然ないもん。  
 とりあえず結果からいうと――悪の陰謀は潰え去り、晴れてイツキとミクルは平穏な日常を取  
り戻す。  
「でゅあ!」 イツキのモノマネまでこなす妹さん。  
「なにあれ、宇宙の果てまで飛んでくってこと!? こんな演出だったっけ、…プッアハハハ  
ッ!」  
 貼り付けたユキの画像がクルクル回って小さくなっていくシーンでは妹ちゃんともどもハルヒ  
も呵呵大笑していた。  
 超監督のハルヒさんがそうさせたんでしょうに。  
 まあ、自分の行動というのも他人事だと思えば結構笑えるもんで。  
 しかし、無邪気に笑う妹氏を見るときのハルヒの視線には、さきほどと同じように別の感情も  
見え隠れしていたようだ。  
 かくして宇宙人の侵略による地球人類の危機っぽいなんやかやは未然に防がれた。よかったね  
チャンチャンなわけだが、考えてみるほどに不思議な場面が目の前に映しだされていた。  
 それ以前の映像やそのシーンでの付近の植生は実に秋めいたものだったにも関わらず、そこだ  
け春爛漫としか思えない満開状態な桜並木の続く川べりで、混沌としたSOS団自主制作映画第  
一作はエンディングシーンを迎える。  
 どうやら季節を全力で間違えたらしい桜舞い散る川沿いの道中、仲良く肩を並べる超能力者イ  
ツキと未来人ミクルは、いまさら指摘する必要もないかもしれないけれどとにかく似合いのカッ  
プルであった。  
 そりゃ嫌そうな顔にもなるわ少年。  
「きゃー、みくるちゃんかわいい。ねーシャミ、『かわいいにゃあ』」 やはり彼女はミクルフ  
ァンらしい。  
 宇宙人もろとも吹き飛ばされる役だったので本猫にとってはアンハッピーかとも思われるが、  
名演だったらしいその三毛猫をふたたび抱っこしつつ期待の新人児童はハッピーエンドを楽しん  
でいた。  
 満足したのか、笑い上戸な女子小学生はエンドロールになるとハルヒのそばから立って手洗い  
場へ行き、それから母親の手伝いに向かっている。  
 さすがに母親の忠実なる手先と呼ばれるだけのことはあるね。  
 エンドクレジットに至るまで、そういった様子をどこか遠くを見るような目でハルヒは眺めて  
いた。  
 
「               」  
 長髪の美少女は小さく唇を動かした。  
 その言葉に気づく人はいなかった。  
 妹氏の拘束から逃れて少し経ち、ソファから降りようとする掘り出し物の名優(猫)が応じる  
ように鳴いた。  
「うにゃあ」  
「……」  
 一声かけるように鳴いた猫と目が合い、彼女も答えるように微笑んでみせた。  
 
 二人だけで会話できる状況になった。  
「そろそろ出ないとな」  
 どこかのんびり構えた言い方だが、彼としてはそろそろ急いだ方がいいかもしれない。  
「北口駅前に行かなきゃならん」らしいので。  
 理由を知っている彼女もそれには異存がないようだが、  
「有希のマンションまで一緒に行きましょ」  
 マンションの来客用駐輪場を使うのだそうだ。  
 というのもハルヒも彼の家まで自転車で来ており、何かというと必ずと言ってよいほど集合場  
所になる北口駅駅前に向かうにしても経路として長門有希の住まいが近いのだ。そこの駅から北  
口駅に向かい、またマンションに戻って来いという。  
 それなりにもっともかと思える提案だったが、「しかしなあ」などと難色を示されて「大丈夫  
よ! それにあの子に会わないとわたしの純粋な知的探究心が納得しないの。なんなら一人でも  
行くわよ?」と答えた。あくまでハルヒは訪問するつもりだ。  
 男の方はいかにも仕方なさそうな顔をして、  
「仕方ないな……。けど途中でクラスの連中なんかに見られたら少しまずい」  
 ハルヒがしたり顔で、  
「対策は考えてるわ。サングラス持ってきてるの。といっても伊達だけどね。それにほら髪型と  
か違うし」 リボン付黒ニットを引っぱって見せながら、「こっちのわたしも着たことないって  
言ってたもん。わたしの計算ではこれでバッチリよ!」  
 最初ためらってみせたものの結局承諾した彼に片目をつぶってグッドサインを送る。  
 別の意味で誤解される可能性は考えていないらしい。  
 なんでもその洋服はこの間、日付でいうとペアチケットの件で二人が基本合意に至ったその二  
日後の夕方買ったばかりのものらしい。買って帰ってすぐ、おそらく同級生の女子生徒とだろう、  
電話でその話をなにやら嬉しそうにしゃべっていたとのことだ。こちらのハルヒの家族から聞い  
たと言う。  
 なのだがアトラクションの内容からして今日の彼女は本来パンツスタイルだった可能性が高く、  
これを何でその日に買ったのかはよくわからない。  
 それにしても涼宮家の皆さんはハルヒの髪がいきなり伸びたことに疑問を抱かなかったのだろ  
うか? ちょっとどころじゃない怪奇現象だろうに。  
「んん? そういえばそうか。変に思うわよねふつう……」と首を傾げてみせたが「でさ、早速  
だけどキョン、あんたから有希に連絡しなさい」  
 こちらの疑問はとりあえずどうでもよかったらしい。  
 やり取りをこのように交わしたあとで居間を借りた礼を家族に言う。  
 二階に子機を持ち込んだ彼は長門有希の自宅に電話をかけた。聞き耳を立てるように顔を近づ  
けているハルヒのそばで。  
 色つきメガネをここで着用しているのは何のつもりだろう。  
 通常なら休日の午前8時過ぎに『今から押しかける』なんぞと電話を掛けるのには抵抗があっ  
てしかるべきかと思うけれど、相手が一人暮らしの対人類コミュニケート用ヒューマノイド端末  
であるとの認識なので二人は気にしていない。  
 まあ実際のところ男の方はすでに躊躇を表明しており相手を端末呼ばわりも好まないかもしれ  
ないし、頬を朱に染めたりするあの長門有希に対してもひょっとするとハルヒは朝っぱらから押  
しかけたりしていたのかもしれないが。  
 
『…………』  
 いつものことだけど、受話器を取る音によって有希が応答していることがわかる。  
「あー、長門、俺だ」  
 ハルヒに目で応答を知らせるというか、伊達サングラスの視線が気になるというか、多分両方  
こめた仕草だ。  
『…………』 次の言葉を待っている。聞いてくれているかどうかという点には不安はないだろ  
う。  
「すまんがこれからハルヒと一緒にお前の家に邪魔していいか。たぶん、事情は知ってるかと思  
うんだが」  
『…………………』  
 ハルヒともども不安そうな表情になる。  
「いいのか?」  
 時が凝固してしまったような一瞬だった。ハルヒが思わず男の腕を強く掴んだのも、微妙すぎ  
る彼と有希との間に気づいてのことだろう。  
 それ一本の願いが彼の表情のほとんどを構成しているようだ。顔をそばに寄せているハルヒは  
いわば『異世界人』なのだ。  
 この世界のハルヒを連れ戻すことができるか、せめて状況を把握するとっかかりを教えてくれ  
そうなのは……  
 だから長門、頼むよ――  
『…………いい』  
 正体不明の意識のわだかまりとして彼らを包んでいた何物かが融解したように感じられた。  
 二人して息をつく。  
 実際には数瞬のことだったのだろうに、関門トンネルを山陽新幹線が通過するのにかかるくら  
いには長く感じられたとか、まあそれに近い感覚を共有したようだ。  
「そうか、助かる。じゃあ切るぞ」  
 なお難しい表情で彼は通話を切った。  
「キョン……あの子と……」  
 怪訝な彼の表情を傍らで見たハルヒは言いかけ、そのまま口をつぐんだ。  
「ああ……その、気になることを思い出してたんだ。でも家に来ていいって言ってるんだからそ  
うしようぜ。それから考えるさ」  
 決まったものは仕方ないということだろうか。意外に積極的だ。  
「それよりお前、あいつもいろいろあったんだ、俺がいない間もおとなしくしとけよ」 冗談っ  
ぽい口調で釘を刺す。  
「あたりまえじゃない! イジイジした辛気くさい真似なんてしやしないわよ。他人の心に土足  
で上がり込んだりとか嫌いだし。それにわたしは公明正大がモットーだから」  
 フフンと鼻で笑いながら言い返した。  
 お互いにその辺りは信頼しあっているようにもみえる。  
「ところでなんでグラサンしてんだ?」 「……なんとなく」  
 
「ハルにゃん、また来てね。キョンくん、にへへ」 如雨露を持った妹氏が玄関先にて笑顔を送  
る。  
「うん、ありがとう。妹ちゃんまたね」 言いながらもハルヒは名残惜しそうだ。  
「んじゃな、行ってくる」  
 自転車を出しながら兄者は言った。からかわれ慣れしてしまったようだ。  
 そんなこんなで二人は家を出ることになった。メモ帳と地図だけ持参しようとした彼だったが、  
母親の勧めもあり折り畳み傘は持って出ることにした。  
 この様子だとおそらく使わないだろうが。  
 外はまずまず晴れの天気で、なにかのアレルギーや五月病の心配がなければ気候もよい、まさ  
しく外出向きの日といえるだろう。  
 あと、「せっかく持ってきたんだし」ということで、長門有希の住む高級マンションまではサ  
ングラス代わりの伊達メガネを掛けていくのだそうだ。  
 いわゆるママチャリ二台が揃ったところで、ハルヒは  
「でっぱーつ!」と高らかに宣言した。  
 聞く人が聞いたらバレバレですって。あと『でっぱつ』ってなんやねん。  
「ひゃは。『でっぱーーつ!』」 妹ちゃんよ……  
 ご近所を気にしてるのかそうでもないのかハッキリさせてほしいところである。  
「…………」 眉をひそめつつ口元をゆがめている彼も同じ思いのようだ。  
 関係ないうえにまったくの唐突だが、彼女には兄がいるのだろうか。いやなんとなく。  
 
「キョン! 交差点まで競走よ!」 ぐんぐん加速するハルヒ号(仮称)。  
 んな親の仇見つけたみたいに張り切ってペダル踏ん張らなくても……。  
 それに見えますって。  
「あ、おい、待てって!」  
 こちらもまったくもって見事な振り回されぶりだ。やれやれ。  
 しかしまあ、ふたりともはたから見ると休日を楽しく過ごす友人ないしオトモダチそのもので、  
見てるこっちが楽しくなる。  
 あれなんか寂しい粒が……  
 

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