雪山での死の行軍を何とか乗り切り鶴屋さん提供の別荘へと帰り着くと、ハルヒは長門をベッドに放り込み、古泉はハルヒに  
事の真相を気づかれないよう嘘八百な解説を行い、最後にアイコンタクトを俺と交わして古泉がその口を閉じると、団長からの  
粋な計らいによって今日の残りは全て各個の自由時間と言う事になった。  
 ハルヒが自由時間という概念を知っていた事に対し、俺は驚きの念を禁じ得ない。是非ともその政策を冬休みが終わるまで、  
願わくば俺たちが無事に卒業するまで延長していただきたいものである。  
 
 俺は北高全男子生徒の実に九十五パーセントが羨む事であろう、朝比奈さんのひざに抱かれ眠る妹に気をやった。  
 その幸せそうに浮かべる笑みは、自分の心が睡魔と共に既に南海諸島のあたりまで航海中である事を示している。  
 俺は妹の頬を軽く撫でて睡魔を船から叩き降ろし、近場の港へ緊急入港させる事にした。ほれ、起きろ。  
 
「気持ちよさそうですよ。このまま寝かせておいてもいいんじゃないですか?」  
 朝比奈さんが妹には勿体無いぐらいの優しい心遣いを見せてくる。その愛くるしい外見だけでなく、内面までもが優しさ成分で  
構成されているこの朝比奈さんのような存在こそ、天使とも女神とも呼ばれるに値するお方だろう。  
 しかしこのまま妹を眠らせていては朝比奈さんがいつまでたっても動く事ができないし、どうせ部屋へと放り込むなら室内の  
暖房で幾分身体が暖まったとはいえ、日中は雪の中で遊んできた身、ちゃんと風呂に入ってその冷えた身体をしっかりと芯まで  
暖めるべきだと思う。と言うわけで  
「寝るなら先に風呂に行ってこい。それから自分のベッド行って寝ろ」  
「ふぁぁ……うん、わかったー」  
 妹はもっそりと起き上がるとぺたぺた歩き出した。ちょっと待て、そこな妹どこへ行く。お前の部屋はそっちじゃないぞ。  
 部屋まで連れて行こうと俺が溜息混じりに腰を上げようとした所で、だがそんな俺を朝比奈さんは微笑みながら制してきた。  
「わたしが連れて行きます、キョンくん。大きなお風呂みたいですし、そのまま一緒に入れてきちゃいますね」  
 少しだけふら付きながら立ち上がる。妹の膝枕で足がしびれていたようだ。そのまま眠りの神に翻弄される妹に追いつくと、  
後ろからそっと肩を掴んで自分たちの部屋へと誘導し始めた。  
 全く以って羨ましいぞ、妹よ。  
 
「あっ、みくる待ったっ!」  
 どうにかして俺が妹になる方法が無いか、せめて妹に風呂場で見た朝比奈さんについてのレポートを書かせる術はないものか  
などといった健全たる男性なら誰もが考えるだろう命題に対し思索を練っていると、軽快な声が朝比奈さんの事を呼び止めた。  
 つい先日、我らがSOS団の名誉顧問の称号を与えられたハルヒに匹敵する元気の代名詞的な存在、鶴屋さんである。  
「お風呂ならわたしも一緒に行くよっ! ハルにゃんもどう?」  
「もちろん一緒に行くわよ! みくるちゃんが夏からどれだけ成長したかじっくりと確かめないとね。あ、あと有希も一緒に  
連れて行ってあげなくちゃ」  
「よし、きーまりっ! それじゃ男性諸君っ、レディファーストと言う事で先にお湯をいただかせてもらうっさね」  
 あれよあれよと言う間に物事が決定していく。まあ、風呂の順番程度に拘らなければならないような理由など一つとして  
持ち合わせていないので特に構わない。  
 古泉もその辺は俺と同じなようで、いつも通り爽やかな笑みを浮かべながら爽やかな模範回答を示していた。  
 
「それじゃあみくる、ハルにゃんっ。いざ雪山山荘湯煙旅情巨乳少女殺人事件にちょろんと出発しようじゃないかっ!」  
「さ、殺人っ!? つつつ鶴屋さん! それってどーいう事ですかあっ!? またわたし何かさせられるんですかぁ!?」  
 朝比奈さんが両手をこぶし状に握り胸の前で合わせてオロオロし始める。確かに先ほどの怪しげなタイトルじゃどう考えても  
真っ先に狙われるのは朝比奈さんだろう。  
 というか勝手に殺人事件とか起こさないでください。そう言うのはまだ控えている古泉のイベントだけで充分ですから。  
「ふっふっふっ、甘いよキョンくん。事件はもう始まっているにょろっ! そう、みくるの発言によってっ!」  
「ふえっ!? わ、わたし!?」  
「そうっさね! いいかい、みくる。わたしはさっき巨乳少女殺人事件としか言ってないにょろ。それなのにみくるはどうして  
自分が殺されるって思ったんだい?」  
「……えっ」  
「なるほど! つまりみくるちゃんは自分で自分の事を巨乳だと認めていると、そういう事なのね鶴屋さん!」  
「ハルにゃん大当たりっ!」  
 ……なんちゅー罠だ。朝比奈さんをフォローしてあげたいが、流石に女性人が胸の話題を語っている状態に対して突っ込みを  
入れることは俺にもできん。心に浮かべた両手で合掌し、朝比奈さんの無事を祈る事にしておこう。  
 しかし朝比奈さん自身も自分の事を巨乳だと思っていたとは。もうそれだけで暫くいろんなネタには事欠かなさそうだ。  
「そっか、みくるちゃんがねぇ……うんうん、実に興味深い話だわ! さてみくるちゃん。そんなみくるちゃんが心に描いている  
あたしたちのバストサイズのランキングとかそのあたりについて、今から行くお風呂でじっくり聞かせてもらおうかしら」  
 朝比奈さんが涙目で助けを求めてくるが、今の俺にはどうしようもない。心の中で合掌しつつ、俺は目で言葉を返した。  
 ──ご愁傷様です、朝比奈さん。  
 
「あ、そうそうキョンくん。わたしたちのあられもない姿を覗こっかなーとか、もしかしたらそんな不埒な事を考えてるかも  
しれないんで先に言っとくねっ! もしばれたら比喩でも何でもなく本当に命を落とすから、それくらいの覚悟でねっ!」  
 物騒な発言で釘を刺されるがちょっと待ってもらいたい。先の山荘でのハルヒといい今回の鶴屋さんといい、どうしてこう  
どいつもこいつも俺が覗きに行くのを前提にして注意を促すんだ。  
 こう見えて女性には紳士的なキャラ作りをしてきたつもりだったのだが、実はまわりから見たら俺は谷口ばりのエロキャラに  
認定されているとでも言うのだろうか。俺が気づいていないだけで。  
 驚愕の事実に思わず苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。  
「にゃーっはっはっはっ、中らずといえども遠からずっさねっ!」  
 そんな俺に対して鶴屋さんが指を指しつつ腹を抱えて大笑いしてくる。どうにも俺が苦虫を噛んだような表情は、鶴屋さんに  
とっては単なる笑いのツボでしかなかったようだ。  
 
「いやぁ、ひっさびさに大笑いしたよっ! 安心しなさいなキョンくんっ、キミが風呂の覗きだなんて大胆な行動を起こすような  
甲斐性持ちじゃないって事はここにいるメンバー全員が知ってるからさっ!」  
 それはそれでどうかと。詰まるところ甲斐性なしと言われてるだけじゃないですか。  
「にゃははははっ、そーとも言うねっ! あ、そーだっ、もうどうせならわたし達と一緒に入っちゃうってのはどーだいっ?」  
「キョンくんも一緒にはいるの? わ〜い、キョンくん頭洗ってー」  
「お、それいいねっ! わたしも頭を洗ってもらおっかなっ! みくるやハルにゃんもどーだいっ!」  
「キョンくん相手だったら、みんながいーっぱいサービスしてくれると思うにょろよっ! ねっ、ハルにゃん!」  
「えええっ!?」  
「んなっ!?」  
 ハルヒも朝比奈さんも驚きのあまり絶句する。大問題発言をぶちかました鶴屋さんをただポカンと見つめ、そのまま視線を  
ゆっくりと俺の方へと移してきた。  
「え、あ、いや、その、それはほらなんていうかこの時代ではそういう文化があるのかもしれないけれどやっぱり女の子には  
男の子にたいして禁則事項や禁則事項や禁則事項がいっぱいあるじゃないですか」  
「……本気?」  
 顔を真っ赤にしながらあからさまにパニックを見せる朝比奈さんの横で、ハルヒが視線を交わした相手を瞬殺できるのでは  
ないだろうかというぐらい殺気付いた眼差しを送り続けてくる。正直視線が痛いし胃も痛い。  
 
「えっと、一介の甲斐性なしな男性としては鶴屋さんの申し出はもの凄く嬉しいのですが、丁重にお断りさせてもらいます」  
 俺はまだ人生に終止符を打つつもりは毛頭ない。なので妹の洗髪作業は鶴屋さんたちにお願いします。  
 ハルヒに頼むぜと言った意味合いの視線を投げ返すと、そこでようやく俺の気力体力を根こそぎ削り取る殺人光線を伴った  
面立ちを、いつもの玩具を与えられて喜ぶ子供のような輝きを込めた、喜色満面の笑顔へと戻していった。  
「あんたに言われなくてもわかってるわよ。見てなさい、頭だけじゃなく全身ピッカピカにしてあげるんだから!」  
 後ろの方では朝比奈さんもほっと肩を撫で下ろし、慌てて俺に向けてぶんぶんと首を振りながら否定してくる。  
「へえ、ほう、ふーん。まぁいっかっ。それじゃまた後でねっ!」  
 鶴屋さんは鶴屋さんで何やら含んだようなモノを見せてくるが、それ以上は何も言わずにハルヒと部屋へ戻っていった。  
 
 
 ハルヒたちを見送りつつ俺はずっと沈黙を続けていた副団長に尋ねる。なあ古泉、一つだけ聞いていいか。  
「何でしょう」  
「俺ってそんなにエロキャラに見られているのか?」  
 古泉は答えず、いつもの俺を真似るかのようにただ肩をすくめてきた。  
 
- * -  
 リビングで古泉とトランプで対戦しつつ時間をつぶす。流石に《神人》との戦闘で瞬間の判断力と瞬発力は鍛えられて  
いるのか、スピードならばある程度勝負になることがわかった。それでも俺の勝率は八割越えだが。  
「キョンくんあがったよー」  
 妹を筆頭にハルヒ、鶴屋さん、朝比奈さん、長門が湯上り姿で戻ってきた。可愛らしい絵柄のパジャマ姿だったり  
タンクトップに短パン姿だったりとみなが思い思いの格好をしている。  
 こういった何気ない所にこそ、それぞれ着る人の性格が表れていると言っても過言でもないだろう。  
 ところで一つだけ気になるのだが、長門が着ている裾に流暢な筆使いで『鶴や』と大きく書かれたその浴衣は、  
はたして何処から調達してきたモノなのだろうか。  
 
 そんな事を考えながらも古泉に行くかと合図を送る。古泉も軽く頷き、広げられていたトランプを片付け始めた。  
 それじゃ俺達ものんびりと風呂に行かせて貰うとするか。俺が準備に部屋へ戻ろうとすると、  
「あ、キョンくん。お風呂行くまえにアレお願いー」  
と妹が何かを思い出したかのように告げ、慌てて自分の部屋へと戻っていった。  
 
「……?」  
「興味深いですね。アレ、とはいったい何の事でしょうか」  
「ふぇ? キョンくん。アレって何の事ですか」  
「おやキョンくん、アレって言うのは何の事かなっ」  
「ちょっとキョン、何なのよアレって」  
 それぞれが思い思いの言葉で質問をぶつけてきた。こういう所にもそれぞれ質問する人の性格がだな。  
「御託はいいから答えなさい」  
 俺の性格診断講座があっさり中断させられる。何、大した事じゃない。妹が戻ってくればすぐにわかる事さ。  
 その言葉に全員が妹の上がっていった二階へと視線を向けて帰りを待った。  
 
「はい、キョンくん。持ってきたよー」  
 妹はすぐに戻ってきた。その手に白く短い棒が詰まったプラスチックケースを手にして。  
「なあんだ、めん棒じゃない。何、アレってもしかして耳掃除?」  
「うん。これしてもらうと、すっごい気持ち良いんだよー」  
 仕方無く俺はソファーに座る。ほれ、こっちこい。ちゃんと耳の中湿気らせてきたか。  
「してきたよー」  
 妹は俺にめん棒を渡すとソファーに飛び乗り、俺の膝元へ頭をコロンと横にした。  
 
「ってちょっと待て。お前拭いてもらったとはいえまだ頭が湿ってるだろ」  
 こいつの頭でズボンをしっとりと濡らされるのは流石に困る。これは明日も履く予定なんだ。  
 仕方なしに俺は部屋へ戻るとネマキ兼用として考えていた短パンへと履き替えた。  
 リビングに戻り再度ソファーの一角を占有する。ほれ準備できたぞ、改めてこっちこい。  
 さっきと同じ体勢をとり、妹の頭が太ももに乗っかる。  
 受け取ったケースからめん棒を取り出すと俺は妹の耳たぶを軽く引っ張って中を確認した。  
 
「まったく相変わらず汚れてるな、お前。少しは自分でできるようになれ」  
 穴の周囲をぐりぐりとめん棒でこすり、表のしわに隠れた部分から耳掃除を始めていく。  
「キョンくんがしてくれるからいいもーん。うひゃ、うにゅにゅるー、あひゅーん」  
 なあ妹よ。耳掃除をするたびにいつも思っていたのだが、いったいそれは何処の国の言語だ。  
「わかんないけど、きっと気持ちいー国だよ」  
 わけわからん。俺は動くなよと注意してから耳穴の中にめん棒を差し込むと、中の汚れをこそぎ取ってやった。  
「あひゅ、あひゃ、あひゅるん……うひゃあ」  
 やっぱりわけわからん。  
 
「で、何あんたたち。耳掃除するためにわざわざこんなパックごと持ってきたわけ?」  
 ハルヒがめん棒を一つ取り、自分の耳掃除を始める。俺はそれ以外使った事がないのでよくわからんが、我が家の  
家庭を取りまとめる人生雑学経験がムダに豊富な母親いわく、それが一番耳掃除に具合が良いんだそうだ。  
「ふーん……あ……お? これ、確かにいいかも……」  
「ハルにゃん、あたしにもちょーだい」  
 いいわよと快く答え、ハルヒがめん棒を一束持ってみんなに配り始める。  
 別に配るのは構わんが何でお前が答える。それ俺らのだぞ。  
「ほぉー、こりゃ……わたしが使ってんのより具合が良いっさね……ほほぅ」  
 めん棒を受け取った鶴屋さんは早速試し、俺の母親の目利きというか耳利きを褒め称え始めた。  
 
 
 さて、ここで問題なのが二名程いる。  
 
「えっと……これで耳掃除ができる、んですか?」  
「…………」  
 
 まるでフライドチキンを食べる際に、どうぞとレンゲを手渡された様な表情で困惑する朝比奈さん。未来での耳掃除の  
方法は、きっと今と全く違った画期的な方法なのだろう。つまり明らかに生活文化が違うのだ。  
 そして受け取っためん棒をただただじっと見つめ続ける長門。何だか視線だけで先端に火を生み出しそうな雰囲気だ。  
 こいつにはそもそも耳掃除を行うなんていう概念すら無いのではないだろうか。  
 
 二人は受け取っためん棒と俺が妹にしている行為を何度も見比べている。  
「あれー、みくるちゃんもユキちゃんも耳掃除が苦手なのー?」  
 妹が素晴らしい勘違いで二人の行動をフォローした。ナイスだ妹、家に帰ったらアイスでもおごってやろう。  
「だったら二人もキョンくんにしてもらうといいよー。すっごい気持ちいいんだから」  
 前言撤回、アイスは無しだ。これ以上無いぐらい余計な事を言うな。俺は耳に息を吹きかけ残ったゴミを飛ばす。  
 そのまま妹の身体をぐるりと反転させて逆の耳を覗き、耳掃除を始めようとすると。  
 
「…………」  
 
 長門がめん棒を手にしたまま俺たちのそばへと寄ってきた。その眼にブラックライトで白い生地を照らしたかのような  
輝きを宿しつつ、俺たちの事をただじっと見つめてくる。どうした、耳掃除の学習か。  
 長門はわずかに頷き、すっと手にしためん棒をこちらへと差し出してきた。  
「耳掃除という行為は気持ち良いと言っていた。興味がある。わたしも体験したい」  
「あ、じゃあわたしの後ユキちゃんー。んきゃうっ」  
 俺が驚いた勢いで妹の鼓膜を突き刺さなかった事を褒めてくれ。長門のやつ、よりにもよってとんでもない事を口走りだした。  
 
「え、何? キョンくんが耳掃除してくれるの? それじゃわたしも並ばせてもらおっかなっ! ほらみくるもおいでよっ!  
 その表情から察するに、めん棒を使っての耳掃除ってした事ないんでしょ。だったらこういうのは習うより慣れろっさね。  
 わからない事は実際にやってもらうのが一番にょろよっ!」  
「え? ええ? そういうもんなんですか?」  
 悪徳商法に捕まった善良主婦のようなうろたえぶりを見せながら朝比奈さんがめん棒と俺、そして横に並ぶ長門を見る。  
「そーいうもん、そーいうもん! 髪の毛洗ってもらうってのはダメだったけど、耳掃除なら別に問題ないさっ。キョンくんが  
どれくらい耳掃除が上手なのかてろっと見せてもらっちゃおうよ」  
「そうよね……そうよみくるちゃん。そう、こういう事は何事も経験が必要なのよ! いい、キョン。妹ちゃんがここまで  
べた褒めするあんたの耳掃除の腕前がいったいどれ程のものなのか、あたし達全員にしっかりと見せてもらうわよ!」  
 
 鶴屋さんに引っ張られ、ハルヒに背中を押され、そのまま三人とも長門の後ろへと並びだす。  
 っていうかちょっと待て。俺はいつの間に行列のできる耳垢取なんて職業にジョブチェンジを行ったんだ?  
 
「ほほう。ではキョンくんは今日こてっと倒れてしまった長門っちが、こうして元気を取り戻そう思って恥じらいながらも  
『キョンくんに耳のケアをして欲しいの』と頼んできている儚げな乙女心ってヤツを、酔っ払った親父さんが家族に対して  
当り散らすが如く極悪非道にも無碍にするって言うのかね?」  
 何ですかその例えは、いくらなんでも装飾しすぎでしょう。口では軽く返すも、今日倒れたというところを突かれると正直弱い。  
 確かに今日一番の功労者は長門だ。それは事情を知る者ならば誰だって認めるところだろう。その長門がこうして自分の意思で  
耳掃除して欲しいと言ってきてるのなら、ここは長門への労いの意味を込めて耳掃除ぐらいしてやるべきではないだろうか。  
「そーそー。んで、キョンくんに限ってまさかとは思うけど、長門っちにだけ気持ち良い耳掃除をしてあげるだなんてそんな  
ずるい事はしないよねっ! せっかくみんなに恩返しができるっていうのに拒否するなんざぁ、添え膳食わねど高楊枝っさね!」  
「それはずるいよキョンくん。えっと、えこひーきってヤツだっけー? あひゃうん!」  
 うるさい、お前は黙って耳を掃除されていろ。俺は顔を下ろして妹の耳をぐりぐりと掃除する。  
 
「では、僕は一足先にお湯を戴かせてもらうとしましょうか。どうぞ、皆さんはごゆっくりと」  
 あくまで爽やかに語る声の主へ視線だけ投げつけ助けを請う。古泉は去り際に一瞬だけ俺へと視線を返しながら頷いてきた。  
「ご愁傷様です。ですがこれもまた涼宮さんが……」  
 そのアイコンタクトに込められたメッセージは、どう好意的に解釈してもそうとしか取れなかった。  
 ダメだこいつ、思いっきり役に立たん。つい数時間前に洋館で下したヤツへの評価は再考せねばならないようだ。  
 全く何てこったい。俺は下を向いたままがっくりと肩を落とすと思いっきり不本意に白旗を揚げた。  
 
「……わかりました。不肖ながら皆さんの耳掃除をさせていただきます。っと、とりあえずお前はこれで終わりだ」  
 耳の裏も掃除し、最後にふっと穴に息を吹きかける。  
「うきゃははっ! キョンくん、そのふってヤツくすぐったいよー!」  
 俺の内心うごめく感情など全く考えもせず、妹は俺から解放されるとシャミセンの元へ走り寄って行った。  
 
- * -  
 長門が俺の隣にそっと座り、ひざを曲げて足を抱える。ソファーの上で体育すわりをしているようなポーズをとると、  
そのまま俺のひざの上へとゆっくり倒れこんできた。  
 普段と違い身体全体から染み出してくるヒノキの香りは、先の風呂で湯の暖かさと一緒に身体へ纏ってきたものだろう。  
 ところで長門。別にポーズまで妹を真似る必要は無いんだぞ。  
 頭さえちゃんとひざに載せてくれていれば、そんな体育すわりじゃなくもっと楽にしてもらって構わないからな。  
「……そう」  
 告げると長門はそっと足を伸ばし、浴衣の袂から一冊の文庫本を取り出して読み始めた。  
 いや何ていうかそれは流石にやりすぎだ。  
 お前ならその状態でも耳掃除学習ぐらい簡単にできてしまいそうだが、とりあえず読書は後にしてくれ。  
 
 さて諸賢に尋ねたい。  
 耳に汚れや耳垢が一つ存在しないヤツに対して耳掃除を行うには、はたしてどうしたら良いだろうか。  
「…………」  
 俺のひざに頭を埋める長門の耳たぶを軽くつまんで中を覗く。予想通りというか何というか、長門の耳の中は普通に  
新陳代謝を行う人間からしてみればありえないぐらい綺麗な状態だった。もしかしてこいつの身体からは老廃物なんて  
不要なモノは何一つ排出されないのだろうか。  
「そんな事はない。わたしは汗をかくし涙も流す」  
 汗をかいてる姿も涙を流してる姿も俺は見た事無いけどな。とりあえず耳の構造や耳垢ついては自分で適当に調べてくれ。  
 俺がお前に教えられるのは俺がどういう風に耳掃除してやっているかだけだ。  
「わかった」  
 
 全く汚れていない耳のしわにめん棒を当てて軽くこする。しわに沿ってめん棒を流し、穴の中も一通り撫でる。  
「うわぁ、流石は長門っち。全然表情が変わんないねぇ」  
 鶴屋さんが長門の表情を覗き見ながら呟く。ちなみに耳掃除をされる人間はソファーに乗るなり俺と並んで座るなりして、  
ひざの横から頭を乗せる形をとっている。なので長門は今みんなに向けて顔を向けている状態となっているのだ。  
 朝比奈さんとハルヒも俺たちの事をじっと見つめているようだ。「ほぇ……」とか「うわ……」と言った朝比奈さんの呟きと  
「ふーん……」というハルヒの妙な納得が耳に届く。  
 
 汚れ一つ付いていないめん棒を手にし一通り掃除を終える。逆にめん棒の糸くずとかばら撒いただけじゃないのかね、これ。  
 俺は耳から手を離すと顔をあげて一息付いた。  
「よし、こっちはおしまいだ。身体を反転させて反対を向け」  
 俺の指示に、だが長門は答えない。おいどうした。  
「ふう」  
 ふう?  
「まだ息を吹きかけていない。あなたは先ほど、行為の最後にふうと息を吹きかけていた」  
 長門のまじめとも駄々っ子ともとれる訴えに俺は喜ぶべきか、それとも頭を痛めるべきか。  
 もう少しで悟りが開けそうな気分に陥りながら、俺は吹き飛ばすゴミ一つ無い長門の耳にふっと息を吹きかけた。  
 
 息をかけられ満足したのか、長門がくるりと身体を反転させて俺の方へと顔を向ける。  
 ショートヘアな上、外向きに少々はねているクセ毛な長門の髪が太ももを微妙に刺激してきた。  
 短パンに履き替えたのは失敗だったかもしれん。こんな事になるのなら例え濡れてでも長ズボンのままでいた方がよかった。  
 お前もそう思わないか、長門。俺の太ももに頭を乗せて不快感とかあるんじゃないか。何だったら今からでも履き替えてくるが。  
「大丈夫」  
 できれば肯定して欲しい場面だったのだが、長門はあっさりと否定してきた。  
 もう一度今度は視線だけで語りかけてみるが、その頭をどかして俺を立たせようという気は一ミクロンもないらしい。  
 諦めて耳掃除を続行する事にする。こちらの耳も全く以ってメンテナンスの必要なしというぐらい綺麗な状態だった。  
 それでも一応とめん棒を手に取り、耳たぶを軽くつまむ。さてさっき同じように耳掃除を始めようかねと思っていたら。  
「むしろあなたの温もりは」  
 長門が囁くような小さな声で呟いてきた。生活音に沈む長門の言葉はおそらく俺にしか届いてないだろう。  
 
「……とても安らぐ」  
 
 身体を回転させてからずっと俺の腹辺りを見つめ続けていた、深海にまどろむ様な瞳をゆっくりとまぶたに閉じ込める。  
 同時に太ももに乗せられた頭が少しだけ重さを増す。それはまるで身を委ねて眠りに付くような感じだった。  
 もう大丈夫だとさっきは言っていたが、やっぱり今日の疲れがまだ残っているのだろうか。  
 俺は特に言及する事も無く、ただ静かに心を込めて長門の耳を掃除してやった。  
 
 最後に息を吹きかけ、耳掃除の終わりを伝える。  
「…………」  
 それが目覚めの合図だと言わんばかりに、静かに眠っているようにしか見えなかった長門が目を開く。  
 身体を起こすとソファーを降り、そのまま妹の元へと歩み寄っていった。  
 シャミセンを抱きかかえて遊んでいた妹が長門に気づいて尋ねる。  
「ユキちゃんどうだった? キョンくんの耳掃除、気持ちよかったでしょー」  
 長門は珍しくいつもより大きな首肯をみせる。  
「あなたの言う通りだった」  
 そのまま妹の隣に座るとただじっとこちらを見つめ、今度は俺に、いつものようにわずかな首肯を見せてきた。  
 
 満足しているようなので、とりあえずよしとしておこう。  
 
- * -  
「それじゃキョンくん、ちょろんっとお願いするっさね!」  
 二番手のお方がどさっとソファーに飛び乗ると、そのまま勢い良く俺の太ももへと倒れこむ。  
 まだ湿気の残る柳髪から仄かに柑橘系の香りが鼻をくすぐった。髪に何かを馴染ませているのだろうか。  
 もし整髪料とかだったとしたら同じような匂いが長門からも感じられたはずだ。  
「ああこの匂い? どうだい、めがっさいい香りだと思わないかい? これはね、ちょっとしたヘアケアオイルを髪に振って  
馴染ませてあるのさっ。こんな風に髪を伸ばしてるとそれなりにお手入れが必要なんだよ。だから時々思うよ、長門っちや  
ハルにゃんぐらいにばっさりと切っちゃおうかなぁってねっ」  
 せっかくここまで伸ばしたのにそれは勿体ないんじゃないでしょうか。あくまで個人的主観ですが。  
 ちょっと尋ねる意味合いを込めて俺が他のメンバーに視線を送ると、三人はそれぞれ自分の髪を摘みながら思慮に  
ふけっているところだった。ハルヒに至っては何やら髪の後ろを小さく束ねてみたりしている。  
 ……何だか地雷を踏みそうな感じがする。この話題はとっとと流すのが得策のようだ。  
 
 さて鶴屋さん。そのご自慢の髪で耳が隠れてしまってるんですが、ちょっと髪を上げてもらえますでしょうか。  
「おっと、こいつはすまないねぇお父っつぁん!」  
 鶴屋さんは手で翡翠の髪をさっと流すと形の整った耳を露にした。  
「これでいいかなっ? でもキョンくんもまだまだ甘いね。そういう時は微笑を浮かべながら断りを入れずに相手の首筋へ  
そっと手を差し入れて、髪をゆっくりと梳きながら後ろへと流してから「失礼」とか言うもんだよっ」  
 それは古泉のような容姿を持つ人間にのみ許された行為です。俺がそんな事をしたらまず間違いなく犯罪ですから。  
 これでも分を弁えているつもりですので、そういうプレイボーイ的行動は全面的に辞退させてもらってます。  
 そんな俺の答えに、鶴屋さんは一つまみだけ深い意味合いをブレンドしたような声で笑い出した。  
 今の会話の何処に笑いのツボがあったのか、わかる人間はどうか答えて欲しい。問題配点は十五点ぐらいとしておいてくれ。  
 
 鶴屋さんの耳はしっかりと手入れされていた。最初にめん棒を貰った時に自分で掃除していた事もあり、目立った汚れも  
特には見当たらない。俺としてはこのまま何もせずに『合格』とだけ伝えて終了させたい気分だ。  
「もちろん、そんな逃げは認めないからねっ。そんな事したらきっと後悔する事になるにょろよ〜」  
 口の端をあげながら含み笑いを浮かべてくる。鶴屋さんはハルヒと同じ趣向性を持ってはいるのだが、そのアグレッシブな行動は  
ハルヒとはまた違った方向に発揮されるので、実際問題何をしでかすか全く読めない。  
 今日何度目かの溜息を吐きつつ鶴屋さんの耳たぶを摘むと、俺はめん棒でケアを開始した。  
 
「うひゃっ、あ、あひゃあっ! うわ、何これ、すごっ気持ちいいっ!」  
 くすぐったさに微妙に反応してしまう身体を何とか制しつつ、妹と同じ気持ちいい国の母国語を発してくる。  
 もしかして妹が弱いのではなく俺の耳掃除の腕に問題があるのだろうか。  
「いや、ちょ、これは凄いよっ! うへあっ、微妙にくすぐったいけど、それも含めていい感じにょろよっ! キョンくんは将来  
イヤーエステを開設するべきだねっ! わたしなら足繁く通っちゃうよっ! 三十分両耳合わせて四千九百八十円っ!」  
 それは褒められているととって良いのだろうか。  
「もちろんっ、あ、うひゃ、そこいいっ、そそ、ぐりぐりーっと、うひゅるあっ!」  
 鶴屋さんが耳掃除に悶える声を聞いていると何だかむらむらといかがわしい事を想像してしまうのは、やはり俺が  
エロキャラである証拠なのだろうか。耳の中というデリケートな部分を触っているという事もあり、俺はできる限り  
平常心を保つよう心がけながら耳の外、穴の中、そして耳の裏と順繰りにめん棒で掃除していった。  
 
「はい、反対向いてください」  
「キョンくん、ふう」  
 鶴屋さんが笑いと我慢と気持ちよさで瞳を潤ませ、火照った顔を動かそうともせずに注文を飛ばす。  
 ……ふっ。  
「うひゃうおっ!」  
 耳の穴にふっと軽く息を吹きかけて、取り残したゴミを飛ばす。リクエストを出した鶴屋さんはその行為に身体を  
びくっと震わせ、やはり謎言語な声をあげて笑い出した。  
 
 一頻り笑い終えた後、鶴屋さんが俺の膝元でくるりと反対を向き、再度髪を流して耳を出す。  
 耳たぶを摘んで少しだけ前かがみになる姿勢を取ると、まずは耳の穴周りからめん棒を走らせた。  
「うみょ……うわ、うわ……うひゃはっ……ふぉっ」  
 耳掃除を始めると再び鶴屋さんは悶え始める。ただ先ほどよりはその反応が小さく感じられた。  
 何かあったのだろうかと表情を覗き込んでみると、鶴屋さんは顔を真っ赤にしながら視線を一点に集中させて耐え忍んでいた。  
 
 あの、もしもし鶴屋さん。そんな真剣な目で何を見つめているのでしょうか。  
「うわあっ! い、いや別に何にも見てないよ? やだなぁ、ちょっと耐えてただけじゃないかねっ! にゃーはっはっはっ!」  
 挙動不審とはまさにこのような状態の事を言うのだろう。  
 鶴屋さんはその後もじっと一点に集中したかと思えば、不自然に目線を泳がせるといった行動を繰り返していた。  
 本当、いったい何なんだろうね。  
 
「終わりましたよ」  
「…………」  
 耳が敏感だったのか単に笑いつかれたのか、鶴屋さんは顔を赤らめ口を半開きにしつつうつろな視線になっている。  
 俺の声にうつろだった瞳がすっと俺の方へと向けられるが、長門ばりに沈黙を決めつけ動こうとしない。  
 その心中は「まだ終わってないにょろよ、キョンくん」とでも考えているのだろう。やっぱりしなくちゃならんのか。  
 耳たぶを再び摘み、耳穴に風が入りやすいようにちょっと引っ張る。  
「くん、っ……」  
 そして期待通りにふーっ、と息を少しだけ長く吹きかけた。同時にその柔らかな耳たぶを少しだけ強く摘む。  
「あっ、あひゃああああっ!! ……キ、キョンくん……そ、それは、反則にょろ……」  
 鶴屋さんはごろっと身体を転がしソファーからそのまま落下する。床に倒れ付したまま更にごろごろと転がっていき、  
遠くで眺めていた妹と長門の元へと流れ着いた。  
 
「おつかれさまー。どーだったー?」  
 バンザイ状態でうつ伏せたままの鶴屋さんに妹が尋ねる。  
「将来四十分八千八百円で世の女性から料金を毟り取る、カリスマエステティシャンの姿が見えたにょろ……」  
 微妙に値段が上がってはいるがそれは絶対褒めてない。  
 うつ伏せのまま息絶える鶴屋さんの姿を見つめつつ、俺は肩を落として溜息を吐いた。  
 
- * -  
 さてこの半年以上虐げられてきた俺に遅れて届いたクリスマスプレゼント、この冬休み最大級のハッピーイベントの到来だ。  
「あ、あの、えっと。不束者ですが、よろしくお願いします」  
 ほんのりと頬を染め、巨大な帆立貝より誕生したヴィーナス朝比奈さんは究極にして至高のアルカイックスマイルを浮かべてきた。  
 もしこんなお方が本当に中に入っているのだったら、俺は日本中の帆立貝を買い占める事すら辞さないだろう。  
「……気をつけなよっ、みくる。キョンくんは羊の皮被りにょろよ〜」  
 そこのうつ伏せ死体なお方、人の事を結婚詐欺師みたいな風に言わないでください。  
「え? キョンくんは皮被りなんですか?」  
 そして朝比奈さん、そこだけ聞き返さないでください。うつ伏せ死体がクリーンヒットして更に悶え死にそうになってます。  
 あと妹よ、お前は意味がわからなくていい。隣でじっと疑問の眼差しをぶつけてきているお前もだ、長門。  
 
「まさか有希と鶴屋さんがあそこまでノックアウトされるだなんて……」  
 ハルヒはハルヒであひる口をしながら喜びと困惑と憤慨を混ぜ合わせたような奇妙な表情を浮かべている。  
 どうやらハルヒの中では鶴屋さんだけでなく長門も俺に負けた事になっているようだ。是非とも勝利条件を教えてもらいたい。  
「いい、みくるちゃん。キョンの耳掃除なんかに絶対に屈しちゃダメよ! それとキョンが変な事したり耳以外の場所を  
触ってきたら迷わずグーでパンチしながら叫びなさい。あたしがしっかりと止めを刺してあげるから」  
 何やら物騒なアドバイスが飛んでいる。やはり俺はエロキャラ設定になっているのか。  
「だ、大丈夫ですよ。キョンくんはそんなエッチな事なんて考えませんよ。そうですよね」  
 ごめんなさい。つい先ほど俺の脳内ではクリスマスプレゼントだハッピーイベントだと二十四人のジョン=スミスが思春期の  
青年なら誰だって妄想するようなネタでとことん盛り上がっていました。  
 心の中で謝罪しつつ、俺は努めて冷静にかつ紳士的にもちろんですと返答した。  
 
「そう言ってキョンの事を侮っていた鶴屋さんは数分後に死亡したわ」  
「おお、鶴屋よ。死んでしまうとは何事にょろー」  
「なにごとにょろーん」  
「にゃあ」  
「……だ、大丈夫ですよ、きっと」  
 不幸の手紙の決まり文句のような脅しに怯えながらも、朝比奈さんは俺の隣に座ると俺の耳掃除なんかよりはるかに癒される  
幻想的な微笑みを浮かべて挨拶してきた。  
「えっと、よろしくお願いしますね」  
 そのまま長門や鶴屋さんとはまた違ったミルクのような芳香を振りまきつつ、そっと俺の太ももに頭を預けてくる。  
 そして自分の首筋へ桜よりも桜色という表現が似つかわしい手をそっと差し込むと、暖炉の灯に煌めく栗色の髪を梳き  
控えめながらも可愛らしく自己主張してくる白い砂浜に流れ着いた貝のような耳をあらわにした。  
 君主の為に全てを捧げ殉ずる騎士の気持ちが痛いほど理解できた。今なら俺も志だけなら騎士を名乗れそうだ。  
 もちろん剣を捧げる相手は朝比奈さんであり、たとえ間違っても俺の斜め前で跳び蹴りの準備にと屈伸運動を始めたヤツに  
ではないという事は一応明記しておく。  
 
 震える手を抑え必要以上に息がかからないように気をつけながら、俺はゆっくりと桜色の貝殻を摘んだ。  
「ひゃっ」  
 可愛らしい声が紡がれる。何だかもうそれだけで俺自身がトリップしそうだ。  
 耳の状態はほぼ長門に近い。つまり耳垢取職人が全力を以って掃除しない限り、こんなに綺麗な状態になる事はまず無いだろう  
というぐらい殆ど汚れていないのだ。  
「ふえぇ……こうやって耳を覗かれるのって、なんかちょっと恥ずかしいですぅ」  
 朝比奈さんが徐々に白桃のような頬を朱に染めていく。耳掃除はもちろんの事、おそらくこうやって他人に耳を覗かれるという  
その行為自体も初めてなのだろう。  
 ところで朝比奈さん、普段はどうやって掃除しているんですか?  
「え、あ、そ、それは禁則事項ですぅ」  
「こらキョン、あんた何エロい事聞いてんのよ」  
 ハルヒが跳躍を開始する。ちょっと待て、耳掃除の方法聞いただけでエロ決定なのかよ。  
「乙女心が判ってないね、キョンくんっ。女性の秘所のお手入れっていうのは、男の子に対しては最高機密扱いなのさっ!」  
 未だうつ伏せ死体なお方が人差し指だけをピンと伸ばし、ちっちっちっとメトロノームのように動かして否定してくる。  
 というか、いつまで死んでいるつもりですか鶴屋さん。  
「妹ちゃんがメイドのお姉さんからデザートを貰ってくるまで、かなっ」  
「うん、たのんでくるねー。いこっ、シャミ」  
 片手を挙げて元気良く返事をすると、妹はシャミセンを抱えたまま小走り気味に厨房へと向かっていった。  
 ……して、その心は。  
「みくるの痴態はお子様には刺激が強すぎるくらいエロいからね〜」  
「ち、痴態って、ええっ、ど、どういう事ですかぁ!?」  
 返答は無い。鶴屋さんはただのうつ伏せ死体に戻ったようだ。  
 
 現代社会に於ける耳掃除という古代文化に対し、朝比奈さんはすっかり怯えの色を浮かべていた。  
 大丈夫ですよ、朝比奈さん。このめん棒で耳の汚れを落とすだけですから。お風呂に入って身体を洗うようなものです。  
「つまりキョンに身体を洗ってもらうのと同じってわけね。やっぱりエッチな事考えてるじゃない。減点1」  
 頼むからこれ以上混ぜ返すな。俺は外野からの横槍を無視するとヒビの入った化石を取り扱うぐらい慎重に、かつ丁寧に  
朝比奈さんの耳をめん棒で撫で始めた。  
「ひゃあっ、キ、キョンくん、くすぐったいですよぅ!」  
 俺の手を払いのけ、勢い良くぐるっと顔を上に向けると、朝比奈さんは笑いながら苦情を訴えてきた。  
 
 
 その行為に俺は正直……青ざめた。  
 
 
 いきなり耳穴の掃除を始めなくてよかった。もしめん棒を入れてる最中に今の行動を取られていたらと思うとぞっとする。  
 俺が感じた恐ろしさは見ていたハルヒや鶴屋さんにもしっかりと伝わっていたらしく、二人とも驚愕の表情でこちらを  
見つめたまま身動き一つ、瞬き一つせずにその場で固まっていた。  
「って……あ、あれっ? みなさんどうなされたんですか? そんなに青い顔をなさって」  
 朝比奈さんが流石に周りの急な変化に困惑の表情へと変化する。  
 
「み、み、みくるうっ!」  
「ひゃいっ!? なな何ですか鶴屋さん!? みっくるんるんですかぁ!?」  
「そーじゃなくってっ!」  
 鶴屋さんは慌てて飛び起きるとソファーに走りより、朝比奈さんを押し倒すような形で上に乗っかると、両肩を捕まえ  
そのままずいっと朝比奈さんに顔を近づけた。どうでもいい事だがその朝比奈さんの頭は俺のひざ上に未だある。  
「いいかい、みくるっ! 耳掃除をしてくれる相手に耳を捕まれたら、耳掃除をしてもらう人は何があろうとも絶対に動いちゃ  
ダメにょろっ! キョンくんがとっさの反応で手を引いたから良かったようなものの、そうで無かったらと思うと今でも背筋の  
震えが止まらないにょろっ! もし鼓膜にめん棒が刺さったりしたらどーすんのさっ! あんた今頃大変な事になってたかも  
しれないんだよっ!?」  
 鶴屋さんがキツイ声で叱りつける。いつもの楽しいこと大歓迎なスタイルからは想像もつかないぐらい、それは真剣な姿だった。  
 あまりの剣幕に朝比奈さんが「ひぇ……」と頭を引きながら涙ぐんできている。  
「キョンくんっ!」  
「は、はいっ! 何でしょう」  
「みくるは耳掃除の事を舐めに舐めきってるっさね。だから……」  
 朝比奈さんに詰め寄っていた顔を振り向かせこっちを見る。その表情はやはり真剣そのものだった。  
 が。  
「こうなったらみくるにとことん耳掃除の恐ろしさを叩き込んでやるにょろよっ!」  
 そう俺に告げた時の鶴屋さんは、突然悪代官が悪事を思いついたかのような、いわゆる黒い笑顔というものを浮かべていた。  
 ダメだ。やっぱりこの人だけは全く読めない。  
 
「いいね、みくるっ! 身体が動くのはマナー違反っ! 相手の手を払うのはルール違反っ! そしていきなり頭を動かすなんざ  
市中引き回しながら打ち首獄門なぐらい法律違反っさよっ! わかったかいっ!」  
 朝比奈さんの上から飛び降り、仁王立ち状態でびしっと指を突きつけてくる。その凄い剣幕に、ついに朝比奈さんの涙腺を  
支えていた堤防が決壊した。  
「ふ、ふぇ、ふぁ……ふぁ、い……ひぇっく……ご、ぎょめんなさい、キョンくん……わ、わた、し……っ!」  
 耳掃除でここまで怒られた人もいないのではないだろうか。いえいえ良いんですよ朝比奈さん。  
 危険だったのは認めますが、それは俺からの説明が不足していたからです。  
「そうね、あんたも悪いわ。いい、キョン。どうやらみくるちゃんは耳掃除初心者というか入門者なの。みくるちゃんに  
耳掃除とは何をどうすればいいのか、一つ一つ丁寧に教えながらしてあげなさい。で、みくるちゃんもただ気持ち良いとか  
考えるだけじゃなくて、しっかりと耳掃除のやり方を勉強するの。いいわね!」  
 何たってたかが耳掃除にそんなに真剣なんだよお前は。  
「だって、メイドさんって言ったらやっぱり耳掃除でしょ!」  
 ハルヒの言うやっぱりが何処の国の標準仕様を指しているのかできれば回答願いたい。こっちは二十点問題としておこう。  
 
 ところでハルヒ、お前にこれだけは言っておく。  
 朝比奈さんに甲斐甲斐しく耳掃除をしてもらうという案件自体はもの凄く魅力的だ。この枯渇した人生を潤す清涼飲料水の  
ような存在で在らせられる朝比奈さんの膝枕に頭をおき、その息吹で耳をふっとしてもらう姿を想像するだけで、健全たる  
青少年たちは大喜びしながら大人の階段を二段抜かしで登る事だろう。  
 お前にしては良くぞ思いついたと珍しく掛け値なしの手放しで褒めちぎってやりたい気分だ。  
 だがな、その案にはとんでもなく重大な問題が一つだけある。それゆえ俺は賛成票を投じる事ができん。  
「なによ問題って」  
 いいかハルヒ。今から言うことを良く考えて想像してみろ。  
 どじっこメイドさんの耳掃除という姿は、どう考えても耳が痛くなるホラー話にしかならんと思うのは俺の気のせいか?  
「うぐっ、……確かにそれは検討すべき項目ね」  
 ハルヒは色々と想像したのか少しだけ青い表情を浮かべながら、あごに手を当てて真剣に考え始めた。  
 
「では朝比奈さん、改めて始めさせてもらいます」  
「は、ひゃいっ! よ、よろしくお願いします」  
 再度耳たぶを摘み軽く引っ張ると、朝比奈さんがびくっと全身を振るわせてきた。両手を胸の前に持ってきてそれぞれ  
ぎゅっと握りこぶしを作っている。目も負けじと強く閉じられ「大丈夫、大丈夫」と小さく呟いていた。  
 できる限り刺激を与えないよう注意しながら、精密機械を取り扱う時より丁寧にめん棒をそっと滑らせる。  
「わわっ、わわわぁ……」  
 しわとしわの間にめん棒を忍ばせ、強弱をつけて走らせながら隙間を拭い取る。  
「うひゃっ……ひぇあっ……ふぅ、ふぅ……くわっ……」  
 ぎゅっ、ぎゅっと動かす度に恥じらいを伴った声が漏れる。天使が奏でる竪琴ですらこんなに魂に響く音は出せないだろう。  
 最後に息を吹きかけ片方の耳が掃除を終える頃には、朝比奈さんの緊張はすっかり解けていた……が。  
「うふ、うふふ……耳掃除って、すっごく良いですぅ。何だかクセになっちゃいそう。あ、やだ、何言ってんだろう……うふ」  
 緊張がほぐれたと思ったら今度は何だかハイテンションな状態になってしまっていた。  
「無料体験は今回だけ。次回からは一時間両耳フルケア、オプションつきで一万二千八百円にょろよ〜」  
「い、一万……ううっ、生活費の増額を申請しようかなぁ」  
 いやあれは冗談ですから、そこで本気で悩まないでください朝比奈さん。  
「……六つの数字を的中させればキャリーオーバー状態で最高四億円。三万一千二百五十時間分に相当する」  
 そしてお前も怪しげな計算を始めるな、長門。  
 
 朝比奈さんに反対を向かせて耳掃除を再開する。状況はほぼ先ほどと同じだが、朝比奈さんが先ほど以上に顔を紅くして  
いるのと、じっと一点を見つめたかと思うとぎゅっと目をつぶり、またそっと目を開けて見つめだすといったよくわからない  
行為を繰り返すのが増えた。  
 鶴屋さんの時も気になったんだがいったい何なんだろうね、この行為は。そう思いちらりと視線を投げてみると、鶴屋さんは  
長門と会話しながらしたり顔で朝比奈さんの事を見つめていた。  
 ……後で長門に聞いてみる事にしよう。  
 
 最後に耳たぶをそっと引っ張り、ふっと息を吹きかける。  
「うあひゃっ! ……ふえぇ……ふわぁ……」  
 耳たぶを摘んだ手を離し朝比奈さんを解放する。朝比奈さんは心ここに在らずな感じで立ち上がると、ふらふらとおぼつかない  
足取りで鶴屋さんたちの元へと歩き出した。途中で一度立ち止まり  
 
「キョンくんは……罪な人です」  
 
 と、何だか女を騙すジゴロのような扱いに聞こえる捨て台詞を残しつつ。  
 断じて誓おう。俺はみんなに言われるまま耳掃除をしているだけだと。  
 
- * -  
「甘い、甘いわ! 甘すぎるっ!」  
 オレンジシャーベットとスプーンを手にハルヒが騒ぐ。  
 ハルヒを始め、今みんなが手にしているのはめん棒ではない。先ほど鶴屋さんによって厨房へ派遣された妹からの注文を受けた  
森さんが、今いるメンバーに置いていったデザートのお手製オレンジシャーベットだ。  
 ちなみに俺もシャーベットを戴きながら一段落している。  
「そ、そうですかぁ? これぐらいで丁度いいと思うんですけど……」  
「違うわよみくるちゃん! あたしが言ってるのはみんなの事よ!」  
 ハルヒは叫びながらがつがつとシャーベットを食べると、眉間に手を当ててキンと脳に伝わる衝撃を緩和する。  
 小さいお子様も見ているのだからもう少し大人しく上品に食べられないものかね。  
「黙って見ていれば有希も鶴屋さんもみくるちゃんもあっさりキョンに籠絡されちゃって! 全くだらしないもいいところよ!」  
「いやいやハルにゃん。これがまた中々に手強い相手だよ、キョンくんはっ」  
 宣言通りに蘇生した鶴屋さんが手にしたスプーンを振りつつ返す。長門と朝比奈さんも首肯する。  
「気をつけなっ。油断してたらハルにゃんといえどもあっさり陥落しちゃうにょろよ」  
「だったら油断しなければいいのよ! さあキョン、いつまでもちんたら食べてないで始めるわよ!」  
 俺の手から食いかけのシャーベットをもぎ取ると自分の胃袋の中へ一気に放り込む。ゆっくり味わっていた仄かに甘い幸せが  
全て台無しだった。  
 というか人のを食うな。  
 
 妹にぬるま湯を持ってこさせて脇に置くと改めてソファーで構える。ほれ、とっとときやがれ。  
「言われなくても。いい、あたしはそう簡単には負けないわよ、キョン」  
 だからいったい何がどうなったらお前の負けなのか、そのあたり俺にも判るよう教えてくれ。さっきのオレンジシャーベット臭を  
ふり撒きながら膝に容赦なく頭を乗せてくるハルヒを見やりつつ、俺は肩を落として溜息をついた。  
 俺が曜日と髪型の関係を突っ込んで以降、ハルヒは切り髪状態にリボンといった髪型を続けている。その為横になって少し顔を  
上向きにするだけでハルヒの耳は簡単に露出される。  
 とはいえわざわざ梳いて耳を出したわけでもないので幾ばくかの髪は残ってしまっている。俺はハルヒに髪をどかすように  
頼もうとし、しかしそれはせずにいきなり首筋へとそっと手を差し入れた。  
「うわっ!? ちょ、な、何すんのよ!?」  
 ハルヒの訴えを無視し、そのまま手の甲に乗った髪を耳の後ろへとそっと流す。そうしてから一言。  
「失礼」  
「……っ! バカ、エロキョン! 全然あんたのキャラじゃないわよ!」  
 やっぱダメか。アッパーカットを食らいつつ、俺はこの件の提案者に対して苦笑を浮かべる事で失敗した事を伝えた。  
 ちなみにその提案者は相変わらず何がそんなに可笑しいのか、  
「うっひゃっはははははっ! さ、最高っ! 流石キョンくん、やることが違うねっ!」  
 と床を転げまわりながら足をばたつかせつつ、文字通り腹を抱えて大笑いをしていた。楽しそうな人生で羨ましい限りである。  
 
 ばたつくハルヒを落ち着かせ、その際に隠れてしまった耳を今度はハルヒ自身に出してもらう。先ほどの暴れっぷりで血圧が  
上がったのか、ほんのり朱を帯びた頬とその色を合わせた桜色の耳が、持ち主に似て存在を主張するように姿を現す。  
 俺はハルヒの耳たぶを摘むが、今までと違っていきなりめん棒は這わせない。  
「……? 何やってんの、早く始めなさいよ」  
 ハルヒが訝しげに訴えてくる。俺は耳周りや穴の中を軽く確認するとその疑問に答えてやった。  
「乾いてるな」  
 何だかんだと騒ぎながらの耳掃除に先ほどの休憩も挟んだので、ハルヒたちが風呂から戻って優に三十分以上は経過している。  
耳垢取りは適度に湿気てる方がやりやすいのだが、流石に時間を空けすぎたか、ハルヒの耳は自然乾燥してしまっていた。  
 まあそれを見越して妹にぬるま湯を用意してもらっておいたのだが。  
 
 めん棒をぬるま湯に浸し、カップの脇に押し付けて軽く絞る。そうして湿らせためん棒を作ると、まずはハルヒの耳周りを  
なぞり始めた。  
「うわっ、な、何!? 何かそれ濡れてない!?」  
 濡れてるというか濡らしてるぞ。風呂上りほどではないが、こうして一度湿らせてから掃除すればまだ幾分ましなんでな。  
 耳周りを適度になぞり、新たに湿らせためん棒を用意すると今度は耳の中へ侵略を開始した。  
「うあひゃっ! な、何か湿ってて、凄い変な感じ……ちょ、キョン! あんたわざとくすぐったくしてるんじゃないでしょうね!」  
 さあてね。俺はしれっとした顔で答えると、更に数度湿らせためん棒で撫で回しハルヒの耳を満遍なく湿気らせた。  
「あきゃ、うひゃ、ちょ、耳の中で垂れてる! あうあっ! こ、こら卑怯者ーっ! 正々堂々と勝負、し、あひゅんっ!」  
 その間団長からこのような叫びが挙がっていたが、激しく動いたり手を出してこなかった事に関しては褒めておきたい。  
 家で妹を相手にこの方法をとる時など、布団などで身体を羽交い絞めにした上で頭もがっしり固定してから行っている程だからな。  
 
 大体湿り気が良い感じになった所でようやく濡らしてないめん棒を用意する。  
 ハルヒのボルテージは既にかなり高まっており、その姿勢は「来るなら来なさい!」というオーラを全身から滲み出している。  
 しつこいようだが俺が行っているのはただの耳掃除であり、決してくすぐり我慢選手権などではない。  
 その辺りちゃんと理解してんのかね、こいつは。  
 
 手順は今までのメンバーにしたのと全く同じだ。耳たぶを摘み軽く引っ張って耳を伸ばすと、まずは耳周りのしわの部分や  
その隙間をなぞって汚れを拭い取る。ハルヒもまた最初に自分で耳掃除していたのもあり、妹に比べたらかなり綺麗な部類に入る。  
長門や朝比奈さんと比べればそりゃ汚れているが、その二人を引き合いに出すのは流石に卑怯だろう。  
「うあ、や、くすぐったっ……あ、そこ、そこもう少し、あ、そうそう、ちょっと良いかも……って、うわあっ!」  
 人に指示したり感想を漏らしたり突然叫んだり全く忙しいヤツだなお前は。で、なんなんだ今の叫びは。  
「あ、危なかったわ……これがキョンの策略なのね。これはみんながあっさり陥落したのも確かに頷けるわ」  
 気持ちを入れ替えなおしたのか、きっと横目に睨みつけてくる。さらにうるさくなりそうなので、ハルヒの口元が思いっきり  
笑っているのは見えてない事にしておいた。  
「でも、あたしはこの程度じゃ籠絡できないわよ! ……まあそうね。ちょっとぐらいなら認めてあげてもいいけど、でもそれは  
まだミトコンドリアレベルの話よ。こんなんじゃドラゴンになるのは夢のまた夢なんだから!」  
 ミトコンドリアとはこれまた偉い小さなレベルだ。この調子だと俺がそのドラゴン級になる為にはあの終わらない夏をもう一度  
ぐらい経験する必要がありそうだが、あの事態に陥るのはもう二度とご免被りたい。ドラゴン級になるのは諦める事にしておこう。  
 なあに、ミトコンドリアにはミトコンドリアなりに良い部分がきっとあるさ。  
 
 耳の中へめん棒を向かわせ、穴の中を掃除する。もちろんその間もこの負けず嫌いの団長が黙っているはずもなく、  
「あ、あっひゃーっ! うわ、こら、そんなとこ、あ、もうちょい右、そうそう、っていやいや! あっひゃっひゃっ!」  
 とまあやっぱり人に指示したり感想を漏らしたり突然叫んだりし続けた。本当に忙しいヤツだな、お前は。  
 そうこうしている間に耳の中の掃除を終えたので、今度は耳たぶをめくって裏側に取り掛かる。  
 耳の中と違いこちらは垢が多少飛び散っても構わない。付け根の部分にめん棒を当てちょっとだけ強く這わせる。  
「え、あ、ああっ! ち、ちょっとキョン、あんた、何し、て、なあああっ!! うわ、ちょ、タ、タイム、タイムっ!!」  
 ハルヒの様子が一気におかしくなりタイムを求めてくる。つーか耳掃除中にタイムってどういう事だ。  
「うるさいっ! あたしがタイムって言ったらタイムなのよっ!」  
 突然のわがままに首をひねりながらも仕方無しに手を離すと、ハルヒは即座に身体を起こして俺から離れつつ、自分の手を  
耳の後ろに回してゆっくりと撫で始めた。  
 なんだどうした。実は耳の後ろに古傷があったとかめん棒を強くこすりすぎてて痛かったとか、そういう事なのか?  
「違う、そうじゃない、そうじゃないわ。あぁもう何なのよいったい! 何でみんなこんなの普通に受けられてた訳!?」  
 きっと睨んだ瞳を輝かせつつよくわからない訴えをし始めた。瞳が輝いているように見えるのは、もしかしたら涙で潤んで  
いるのかもしれない。  
 
 何が起こっているのか判らずただ困惑の表情を浮かべていると、答えは意外なところからもたらされた。  
「もしかしてハルにゃんってば、耳の裏が普通の人より敏感なんじゃないかな?」  
「敏感?」  
「そっ。ほら、こんな感じで」  
 鶴屋さんはそこまで言うと突然長門を後ろから抱きしめ、その脇腹をくすぐり始める。  
「…………?」  
「長門っちみたいに脇腹をくすぐっても平気な人とか、逆に足の裏がとことん弱い人とかいるじゃん。つまり人によって敏感に感じる  
場所はいろいろ違う訳でさ、で、ハルにゃんは耳の裏がそういう敏感な部分なんじゃないかなっ!」  
 長門を解放しつつ、鶴屋さんが意味深な笑みを浮かべて考えを告げてくる。ちなみに俺の勝手な思い込みだが、長門は脇腹を  
くすぐられても平気なのではなく、おそらく何処をくすぐられても平気なのではなかろうか。  
 今度質問がてら色々試してみたい気もする。もちろん性的でない意味で、だ。  
 ちなみにその隣では朝比奈さんが今の長門へのくすぐり行為を見ていただけでむず痒くなってきたのか、両手で自分の脇腰を  
ガードしつつ、鶴屋さんからじわりじわりと微妙に距離をとり始めていた。  
「キョンくんって耳の後ろは強くこするじゃんっ。それがほら、ハルにゃんの敏感な部分を強く刺激しちゃったんじゃないかなっ!」  
 その部分だけ聞くと何だかもの凄く卑猥な表現に感じるのは俺がエロキャラだからでしょうか。  
 まあとにかく、そういう事なら話は早い。要は耳の後ろをいじらなければ問題ない訳だ。そうだよな、ハルヒ。  
「その通りよ。いい、あんたは耳の後ろ触るの禁止。次触ったら本気のアッパーカットが飛ぶから覚悟しなさい!」  
「そうですよキョンくん。涼宮さんの弱点をつついたら可哀想ですよぅ」  
 ハルヒに次いで朝比奈さんにまで諌められてしまった。どうやら全面的に俺が悪いらしい。今日最大の溜息をつきつつ了解する。  
 
「あれーでもそれってキョンくんに負けたってことー?」  
 
 訂正しよう。今日最大の溜息はもう少し後でつくことになりそうだ。  
 せっかく丸く収まりそうだったのに何て爆弾を投げやがるんだ。妹の菓子一週間抜きを心に決めつつ、俺は膝枕にどさりと  
思いっきり勢いよく頭を乗せてきたハルヒが次に叫ぶであろう台詞を予想してがっくりと項垂れた。  
 
「……やっぱさっきの無し。手心なんていらないわ、キョン。だから耳の裏もしっかりと掃除しなさいっ!」  
 
- * -  
 まあそうは言われてもさっきの話の後で思いっきりなんてできる筈もなく、そこまでは汚れてないからという名目を打ちたてて  
俺はハルヒの耳たぶをめくると、さっきよりは優しく撫でるように耳の付け根を拭い始めた。  
「あっ……くう、いゃあぁ……っ! だめ、そ、それ、逆に刺激、が、強……ぁ、あふっ……んっ!」  
 しつこく言うがこれは耳掃除である。例えハルヒの声に普段からは考えられないような艶やかな色が乗っていようが、悲しい事に  
そんなハルヒの声に俺の本能の部分が少なからず反応していようが、そんな俺たちの状態をシャミセンと戯れる妹以外のギャラリーが  
瞬きも少なめにじっと見つめ続けていようが、これは耳掃除をしているだけである。  
 
 最初に強く拭った事もあり、耳の裏の掃除は思ったよりかはあっさりと終了した。耳から手を離し頭を軽く叩く。  
「ほれ終わったぞ、ハルヒ。反対向け」  
「…………」  
 ハルヒは答えずただじっと身構えている。まるでそれは……というかやっぱりアレか。全く、どうしてこうどいつもこいつも  
律儀に最後までやらせようとするのかね。息を吹き掛けるのは選択項目であって別に必修ではないんだがな。  
 そう呟きながらも仕方なく耳たぶを摘み、軽く横に引っ張ると開いた耳の穴へ強めの息を吹きかけてやった。  
「あ、あああっ!」  
 背筋をぶるっと震わせつつハルヒが声を上げ、直後に俺の眉間に穴が開くんじゃないかというぐらいきつい視線を投げつけてきた。  
 そんなにくすぐったいんだったらわざわざ請求するなよ。  
「うるさい、息を吹くまでが耳掃除なんでしょ」  
 そんな家に帰るまでが不思議探索のような理由をつけてまでわざわざやられる必要は無いと思うんだが、どうもこの団長様は  
そういう訳にはいかないらしい。妹をはじめ他のみんなが体験した内容と同じかそれ以上の内容でないと気がすまないようだ。  
 負けず嫌いもそこまでくると立派だよ本当。最近じゃ負けたからといって《神人》を生み出すことも無くなってきたようだしな。  
 うむ、えらいえらい。  
「……何よ、いきなり頭なんて撫でて。そんな事でごまかされないわよ。余計な事してないでとっとと始めなさいっ!」  
 余計な事をしたら怒られた。あの妹でさえ頭を撫でられたら素直に喜ぶというのに、全く可愛げの無いやつだ。  
 
 反対を向かせ、髪を梳き流して準備を整える。断りを入れてから耳たぶを摘むとまずは湿らせためん棒で耳全体を撫で回し  
軽く湿気ている状態に持っていった。  
「くひゃっ! や、やっぱ、その濡れ、どー考えても反則よ……うくうううっ! た、垂れ、ぬああっ!」  
 ハルヒは自分の顔と俺の身体との間に手を置くと、今は枕とされており動かす事のできない俺の太ももをバチバチと叩く。  
 叩くだけならまだいい。色々と耐えているのか時々鷲掴みまでしてくる。こっちは短パンなので防御無しで直接攻撃を  
食らう事になり、かと言ってくすぐったいのを耐えているハルヒに痛いからやめろと文句を言うのも何だか負けたような気分に  
なるので、結局ハルヒが時々漏らす喘ぎ声に悶々としながらも痛さとくすぐったさの我慢比べを行うという、誰がどう見聞しても  
耳掃除の話には取れないような状況に俺たちは陥っていた。  
 
 さてそろそろ本番に突入しようかねと濡れてないめん棒を用意し、一度耳たぶを摘みなおしてから軽く引っ張る。  
「……あ、ふぁ……」  
 と、ハルヒが大人しくなっているのに気がついた。鶴屋さん、朝比奈さんと全く同じパターンだ。  
 何事かと耳から顔へと視線を移すと、ハルヒもまた先の二人と同じく瞳を正面に向けたまま、まるでハルヒビームでも  
撃ち出しそうな勢いでじっと一点集中を行っていた。  
 朝比奈さんたちといい、いったい何をそんな真剣になって見つめているんだ。  
 
「あんたのチャック」  
 チャック? チャックってズボンのか? 何でそんなわけのわからん場所を見つめて……ってまさかっ!?  
 俺は耳掃除を中断して自分のズボンを慌てて確かめる。もし考えが正しかったら、そりゃ鶴屋さんも朝比奈さんもじっと変な  
顔をして見つめてくるはずだ。  
 そいつはまずい、やってはならない恥ずかしい事ランキングで上位に組み込む失態だ。穴があったら虎穴だろうが即座に入りたい。  
無ければ自分で穴を掘ってもかまわん、世間の目から逃れられるならこの際手段も場所も譲歩しよう。  
 ああさらば我が人生。辞世の句は「開いたチャックが閉まらない」で決定か。俺はしっかり閉じられているズボンのチャックを  
見つめながら、他に良い句はないものかとチャックにまつわる薀蓄を思い返していた。  
 
「って開いてねえじゃねぇか!」  
「誰が開いているなんて言ったのよ」  
 不適に微笑むとは今まさにハルヒが浮かべているような表情の事だろう。膝枕状態のまま、俺の顔を横目に見あげてくる視線は  
九点差で負けていた野球の最終回で十一点取り返し逆転勝利したチームの主将のように勝ち誇っている。  
 ……はめられた。この自由の利かない状態でハルヒが行える最大級の精神攻撃だ。  
 俺がいったいどれだけ狼狽していたのか、それはハルヒの笑顔からも、そして笑いすぎて死にそうなぐらい転げまわり  
朝比奈さんに介抱されているあのお方をみても一目瞭然だ。いや、あちらの方のお姿では逆にわかりにくいかも知れないが。  
 
 そんな二人の様子を見ていれば、流石にミトコンドリア級と称される俺でも学習する。  
 よし、とっとと耳掃除を終わらせよう。おそらくそれが最善策だ。  
「……続けるぞ」  
 さっきの事は全て無かったかのように振舞いできる限りの平常心で語りながらも、悔しさを晴らす為に少しだけ強く耳たぶを  
摘んでやる。そのまま摘んだ指を少しだけこするように動かして、小さく耳たぶをさすってやった。  
「ひゃっ! ……ちょ、ちょっとキョン、何して……っ、うわああっ! ……くぅぅ、キョン……後で覚えておきなさいよ」  
 呪詛のような言葉を呟きつつハルヒが再び耐久モードに入る。  
 覚えてなさいと言いたいのはこっちも同じだが、どうせこの状態じゃ耳掃除が終わった後にハルヒが何か言い出すんだろう。  
 だったら今から憂いでいても仕方がない。俺はまさに悟りを開いたかのような結論を導き出した。  
 そうだ、後の事は後で考える事にしよう、と。  
 
 しかし本当に耳が弱いんだな、こいつ。時々朝比奈さんの耳たぶへ噛み付いてるが、逆にこいつがやられたらあまりの刺激に  
ぶっ倒れるんじゃないだろうか。そんな風にすら思えてきてしまう。  
 というかもしかして、自分が耳が弱いと潜在的に知っていたからこそ、朝比奈さんも弱いと思って時々噛んでいたのか?  
 嗜虐的な興味本位が頭をよぎるが、いくらなんでもこんな状況でハルヒの耳たぶに噛み付こうとは思わない。俺にも理性という  
ものは人並みには備わっているし相手を選ぶ権利だってある。どうせするならハルヒに倣いSOS団の精神活性剤にして清涼剤で  
あるあのお方に噛み付いて心身ともにリフレッシュするってもんだ。もちろん実際にそんな事をしたら様々な方面から本気で命を  
狙われそうなので実行はしないが、脳内で朝比奈さんが可愛らしく悶える姿を妄想するぐらいは自由だろ?  
「…………」  
 ……自由なはずだよ、な? というか俺の脳内妄想を読んでるって事は、まさか無いよな?  
 俺の脳内からの問いかけに対し、全ての輝きを飲み込む海に流出したコールタールのような瞳をじっとこちらに向け続ける  
文芸部部長は何も答えなかった。  
 
 耳の回り、そして耳の中とめん棒を擦り当てて掃除する。耐久モードに入ってからハルヒは言葉っぽいものを全く発していない。  
「……ぁ……うぅ……くうっ、ふあ……」  
 俺のチャックをじっと見つめつつずっとこんな調子だ。チャックを見つめているという事は必然的に俺の急所とも言えるべき  
箇所をじっと見られている訳でもあり、ハルヒの漏らす耳掃除に耐える声と相成って俺の内面では色々とむず痒い状態に陥っている。  
 できる限りズボンの中の変化がばれないよう努力はしているのだが、その成果はあがっているのか今一つ不安がよぎる。  
 だがまさか俺の急所が大変な事になっているんだからそんなに見つめるなと突っ込みを入れられるはずも無く、また入れたら  
入れたでこいつが何を言い出すか判らん以上、こちらから藪を突いてアミメニシキヘビを出すような事は避けなければならない。  
 
 ざっと掃除し終え、いよいよ残るは最後にして最大の難関とも言うべきこいつの弱点箇所だ。  
 少しハルヒの頭を下へ向け、耳たぶをめくり耳の後ろをむき出す。まずはめん棒を当てるだけで動かさない。  
「ひゃっ……な、何してんの」  
 いや、単なる確認だ。もしかしたらこっちの耳は平気なんじゃないかなと思って。  
「余計な心配はしなくていいわ。どうせするんだったら弱かろうが強かろうが同じ事でしょ」  
 それはそうなんだが、にしても本当に耳の裏が弱いんだな、こいつ。  
 俺はなるべく刺激しないよう、まるで手に平に収まる小動物を愛でるかのような優しさでめん棒をゆっくりと這わせた。  
「いひぇっ、あっ、や、やっぱ……すぐっ……た……あ、あぅ……だ、めっ、キョ……ッ!」  
 ハルヒは息を荒らげ、時折熱い吐息にこれまた熱い言葉を載せてくる。そんな熱いのをがんがん吹き付けられ続ける太ももに  
したらたまったものではないだろうが、ここは耐えてもらうしかない。もう暫くの辛抱だ。潤った息で太ももが湿ってこようが  
何かが垂れているような感覚を受けようが今は全て封じておく。ハルヒの腕が何かを掴もうと彷徨い始め、俺の短パンの裾を  
握り締める結果になっているのも無視だ。  
 
 精魂尽きかける程にすったもんだした耳掃除も何とか全部終わった。何だかハルヒの耳掃除だけ普段の倍ぐらい掛かったような  
気がするのは、俺の気のせいではないだろう。  
「よし、終わりだ。もういいぞ」  
 耳を裏返していた手を離し、ようやく肩の荷を降ろせると深く嘆息をつくと、  
「…………」  
 太ももの辺りから激しい視線がぶつけられてきた。視線に質量があったらまず間違いなく、俺の頭は夏の砂浜に置かれたスイカと  
同じ運命を辿っていただろう。それにしてもあれだけくすぐったがっていたのに、本当負けん気だけは人並以上だな。  
 耳たぶをもう一度摘んで軽く引っ張り、放心状態のハルヒの耳へご期待通りに息をかけてやる。  
 今までみたいにふっと強く一瞬ではなく、俺の肺に入っていた全ての空気を導入してのロングランだ。  
「うぁっひゃああああ────────────っ!!」  
 片手を中空にあげながら絶え間ない叫びを上げ、俺がようやく息を止めるとそのままぱたりと俺のひざ上で屍状態になる。  
 鶴屋さんに次いで二人目だ。よし、後でめん棒の箱に撃墜数を意味する星印でも刻印しておこう。  
「……って調子に乗りすぎよ! バカキョンっ!」  
「ぐぉあああああああああっ!?」  
 俺の膝枕でうつ伏せに死んでいたハルヒが、いきなり俺の太ももへ噛み付いた。  
 つーか何しやがるんだ! こら犬歯を立てるな! マジで痛えぞおい!  
 俺の悲痛な叫びを完全に無視し、ハルヒは何度も太ももに噛み付いてくる。その上で妙に熱い息を吹きつけてきたり舌でとにかく  
嘗め回したりともう無茶苦茶だ。  
「おおっ、キョンくんへの逆襲かいっ! だったらわたしも混ぜてくれよっ! ほら、みくるも長門っちもいくよっ!」  
「あーキョンくんたのしそー! わたしもかむー!」  
 その後はもうしっちゃかめっちゃかだ。おかげさまで全身に痛いのか熱いのかくすぐったいのか良くわからない感覚がひた走る。  
 
「おや、これはこれは。何だかお楽しみのようですね」  
 女性人の喧騒に紛れて、解説バカの声が聞こえる。どうやら俺を裏切り一人で向かったが風呂から上がってきたようだ。  
 俺を置いて行った事に関しては目をつぶってやる。だから助けろ。  
「残念ですが、僕はあなたと違い女性に噛み付かれる趣味を持ち合わせていません。大人しく見学させてもらいますよ」  
 俺にだってそんな趣味はねえ。ダメだ、やっぱり古泉はどこまで行っても古泉か。雪山でみたあの古泉は、もしかしたら俺が  
あの館の力で生み出したただの幻想だったのかもしれん。次のゲームじゃ手心無しで叩きのめすから覚悟しておけ。  
「ほーらっ、みくるも噛み付く噛み付くっ! 最初はこの腕あたりが、柔らかくってお奨めにょろよっ!」  
「え、あ、はあ、それじゃキョンくん、失礼します……ほんははんひへふはぁ?」  
「キョーンくーん、えーいっ!」  
「これが耳掃除。ユニーク」  
 そんな混沌な状態の中、俺はハルヒたちが一通り満足するまで、爆竹を突っ込まれた蛙でも発しそうに無い、何とも言えぬ  
断末魔の悲鳴を上げ続ける事になった。  
 
 
「あー、やっとスッとした。さ、キョン。いつまでも唾液でべとべとだと汚いわよ。とっとと風呂に入っちゃいなさい!」  
 誰がべとべとにした原因だ。俺はソファーにぐったりと倒れながら毒づいた。  
 
「お疲れさまです」  
 あっさりとハルヒ側について俺を売った裏切り者がシャーベットを片手に近づいてくる。何だ、俺に何か用があるのか。  
「ええ、ちょっと頼み事をしようかと」  
 古泉はそう言うとすっとめん棒を差し出してきた。……俺に鼓膜を貫かれたく無かったら大人しく自分で掃除してろ。  
 それかアレだ、コース料金として一時間一万二千八百円だ。お前と同じでいつもニコニコ一括現金払いで頼むぞ。  
「その程度であなたの耳掃除を受けられるのでしたら、いくらでも払いますが?」  
 冗談とも本気ともとれる回答を示しつつ、古泉はいつもの爽やかさに意味深な表情を混ぜるという器用な笑みを浮かべていた。  
 俺はいい加減封印したい口癖を呟くと、古泉を無視して風呂に入る準備をはじめた。  
 
 大き目の浴槽を独り占めし、ようやく本当に人心地つく。身体が温まってくると全身についた楕円形の点線が赤く浮かび上がる。  
 耳掃除をしただけでこんな状態に陥ったのは世界の歴史を紐解いても俺が初めてではなかろうか。  
 
『いやいや、先ほどは本当にお疲れさまです』  
 脱衣場から声が聞こえる。どうにもこいつは俺と話したいらしい。俺が真にくつろげる場所はもはや布団の中だけなのかね。  
 で、何なんだ。耳掃除ならしてやらんぞ。  
『残念ですがそれは諦めました。僕が言いたい事はいつもと同じ案件ですよ』  
 だろうな。俺は目にタオルを載せて湯に浸かりながら、古泉の言葉を聞き流した。  
『先ほどの乱痴気騒ぎのおかげで涼宮さんの気分はかなり充足したようです。実際、長門さんの件で涼宮さんはかなり気持ちが  
不安定でした。クリスマス前にあなたが入院したのも影響して、今の涼宮さんは団員の健康に関してかなり過敏な反応を示すように  
なっています。あなたもそれが判ったのでしょう? ですから、あんな道化師まがいな事を文句無く引き受けた。違いますか』  
 別に好きでハルヒの為に人身御供になった訳じゃない。長門一人じゃえこひいきだったからみんなにしてやった、それだけだ。  
 いつかそのうちお前の『機関』にバイト代を請求してやるからな。  
 
『ええ、構いませんよ。というよりどうぞ、どんどん請求してください。保障しますが、あなたからの請求ならば、たとえ  
政令指定都市の年間予算に相当する金額であっても、全審査無条件でその日の内に支払われる事でしょう』  
 冗談だ、それ位いい加減理解しろ。俺はハルヒのご機嫌取りを将来の仕事にする気なんて全く無いし、もし今後どんなに俺が  
就職難に陥ったとしても、悪いが『機関』関連にだけは就職するつもりは全く無い。それぐらいなら俺は働かない道を選ぶね。  
『……全くあなたという人は、本当に受難の道を選びたがる。僕はそんなあなたに同情する反面、羨ましくも思いますよ』  
 だったら一度くらい代わってくれ。俺は朝比奈さんと二人蚊帳の外で「ひゃ〜い」とか可愛らしく叫んでいたいんだ。  
『僕も自分の立場は弁えています。残念ですが、僕では力不足ですよ。例えば、この後の事とか』  
 は? 何の話だ。  
『すぐにわかります。実のところ僕がここにいるのはあなたを守る為でもあるんです。あなたが風呂に向かわれた後も、みなさん  
妙にハイテンションでしたからね。ここへなだれ込んできてあなたの背中を流そう、ついでにもう少し噛み付いてやろうと、いつ  
言い出してもおかしくない雰囲気です』  
 どんな狂犬病に侵されたんだあいつらは。そんな公序良俗に反する行為は勘弁して貰いたい。ただでさえさっきまでの耳掃除で  
こっちはぶっ倒れそうな状態なんだ。  
 俺はそうか、とだけ返すとゆっくりと風呂に浸かり、消耗した気力体力を思う存分充填する事にした。  
『それがいいでしょう。まだ就寝時間には早いですし、風呂から上がられたらもう一騒動ぐらいあるでしょうから』  
 このまま就寝時間まで風呂場で粘る方法は無いものか、俺は真剣に考えていた。  
 
 
 数十分後、覚悟を決めて風呂から上がる。できる事ならこのまま何事も無く明日を迎え、更に言うなら年明けまで落ち着いて  
いたいものなのだが、そうは問屋が卸さないだろう。  
 なにせ年中無休で運営されるハルヒ問屋が扱うのは、全てがトラブル状態の商品ばかりなのだから。  
 長門が本調子で無いという部分を切り口に今日はとっとと就寝しようという提案を引っさげてリビングへ戻った俺は、風呂場で  
古泉がこの事に対するヒントを出し続けていた事を今更ながらに思い知った。本当に年中無休、二十四時間営業だな、この問屋は。  
 古泉が再三言っていた、風呂上りにすぐわかる今後のイベント、それは。  
 
「さて、キョン。今度はあたしたちが耳掃除をしてあげる番よ!」  
 ソファーにハルヒが座り、その周りに朝比奈さんたちが立ち並ぶ。全員の手にはもちろんあの白い棒。  
 
 俺はこの場面でこそ取って置いたアレを吐くべきだと理解し、本日最大の溜息を漏らす事にした。  
 
 
- 了 -  
 

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