「猫の目」
古泉によれば最近のハルヒの精神状態は安定しているらしい。閉鎖空間の発生も稀で発生したとしてもごく小規模なのだそうだ。
しかし今、俺のおかれている状況、いや俺だけでなくクラスの男子ども全員が教室から叩き出されているこの状況を見るととても
安定しているとは思えん。なぜ叩き出されているかって?今は体育の授業前。とくれば着替えだ。つまりだな、またハルヒのやつ
が男子どもが残っている教室で着替え始めたのだ。教室に男子が残っていても着替え始めるという奇行は入学時からであったがそ
の頃はまだ朝倉がいて体育の授業前はチャイムと同時に教室から即撤退を義務付けられていた。しかし今日朝倉は表向きカナダに
転校した事になっている。基本的に人が着替えるというのは命に関わることじゃないから尻を叩いてくれる人物がいなくなると嫌
でも気が緩む。こうして何回かに一度は、女子の悲鳴とともに男子が教室から叩き出される状況が生まれるわけだ。
「ねえ、キョンくんからも涼宮さんに注意してほしいの。」
弁当の最中、佐伯と阪中が俺に詰め寄ってきた。いまだに治らないハルヒの着替え騒動は女子たちの間で問題になっているようで
俺の席の隣というだけの佐伯が代表にされて俺に交渉に来たようであった。阪中は付き添いか。というよりも、んなことハルヒに
直接言ってくれって。人選もいい加減なんだからな。
「涼宮さんに直接言っても何の効果もないの。キョンくんからだったら、涼宮さんも耳を傾けてくれると思うのね。」
いったい俺はこのクラスでどんなポジションにいるんだ。ハルヒ専属のディレクターかよ。
「え〜、んな余計なことすんなよ。涼宮の生着替え楽しみにしてるヤツもいるんだぜ。」
横から垣ノ内が真剣な顔をして割り込んできた。こいつはどこぞの派閥の代表だ?
「あんたはすっこんでなさいよ!」
「いてえ!」
程なく佐伯に蹴り飛ばされた垣ノ内は尻を押さえながら退散した。
「ねえ、お願い?」
急に笑顔になる佐伯。そして女にしては背の高い阪中に見下ろされ、まだ尻を押さえて痛がっている垣ノ内を見た俺は
「・・・解ったよ。」
と答えるしかなかった。ある意味朝倉より強烈だな、この二人。
「とはいったものの参ったな。」
『人前で着替えるな』という単純明快、うちの妹だって理解できることを、わが団長様はできないわけだ。もう高校生なのだから
そこのあたり言われなくたって気にするものなのだが、どうもハルヒは男子を畑の隣の自販機のジャガイモぐらいにしか思ってい
ない節がある。ジャガイモだって条件が揃えば毒のある芽が出るんだぜ。どうやって言い聞かそう。
しばらくして学食からハルヒが戻ってきた。とりあえず話を振るだけでも振ってみよう。
「な、なあハルヒ。」
「んー?何よ。」
「ちょっと話があるんだ、聞いてくれ。」
「だからなによ?」
「ほれ、体育の前だよ」
「ふんふん」
「体育の前に、することあるだろ?」
「すること?・・・ああ準備体操ね。特にお昼ご飯の後なんて、いきなり動くとおなかが攣りそうになるのよねー」
「いや、そうじゃなくて」
「あれ、違うの?」
爪楊枝で葉をシーハーシーハーやりながら俺の話を聞いているこの女を見ていると、男の視線を意識させる自身がなくなってきた。
「・・・ハルヒ」
「なに?」
「爪楊枝、ささくれてるぞ。」
こりゃあ、骨が折れそうだ。
放課後のSOS団部室の中ではなおさら話しづらい状況になった。ハルヒはいつもの不思議さがし計画に夢中で話すきっかけすら
作れないし何より俺とハルヒ以外の連中はハルヒ着替え騒動を知らない。ハルヒなんぞ自分が騒動の中心にいる自覚もないだろう
がね。事情を知らない人間の前で『人前で着替えるな』なんて言ったら変に誤解される恐れもある。古泉のニヤケ顔が目に浮かぶ
ぜ。それならば、ハルヒと一緒に帰って歩きながら言うか。いや、一緒に帰ろうなんて口が裂けても言えるか。
結局その日、俺はハルヒに話を切り出すことなく帰宅した。
数時間後、夕飯を食べて風呂から上がって、ぼんやりと携帯を見つめていた。こうなったら電話で話そうと思ったのだ。
「・・・あんたから掛けてくるなんて珍しいわね。」
意を決して電話を掛けた相手の第一声はこうだった。
「んーそうだっけか?」
「んで、何の用?」
「ほれ、学校でした話の続きをばちょっと。」
「ん?何の話だっけ」
「体育の授業の前にさ・・・」
「あんた体育体育って、なにか体育にトラウマでもあるわけ?」
今のこの状況がトラウマになりそうだよ。
「あーもう、つまりだな、お前体育の授業前に男子が残っているのに着替え始めるだろ。あれをやめろって話なんだよ。」
やっとこさ、今日半日喉に詰まっていたものを吐き出したぜ。
「・・・ふーん」
神妙な声が受話器の向こうから聞こえてくる。
「あんたそれ、誰に言われたの?」
は?
「誰に頼まれたかって聞いてんのよ!」
どうでもいいことに気付きやがる。別に隠すことじゃないからな、佐伯と阪中だよ。ついでにいうと、そのバックはクラスの女子
全員だ。
「オッケー、解ったわ」
あっさりと、快諾しやがった。
「なによ、何か不満あるわけ?」
いいえ、別に。
「話は終わり?それじゃあ切るわよ、おーばー」
もう少しごねられると思っていただけに、拍子抜けした感じだな。いやはや古泉の話もまんざら嘘でもなかったようだ。だいぶ
こいつも聞き分けが良くなったってことだ。そう思おう。俺はそれ以上考えることをせず、携帯を充電器につけた。
「よう佐伯。昨日の話な、うまくいったぞ。」
翌日学校の昇降口で佐伯に会った。
「昨日の話?」
一瞬虚を衝かれたような顔をされた。まさかこの女自分から話ふっといて忘れてるのか?
「な、何言ってんの忘れるわけないでしょ!涼宮さんのことね、うん、ありがとう!みんなにも言っておくからねっ!」
わたわたと走り去ってしまった。絶対忘れてただろあいつ。
とにかく俺の仕事は終わった。今日は体育はないが、もう教室から叩き出されることはないだろう。
「うおっ?!」
「キャーッ!」
「出てけぇーっ!!」
女子たちの悲鳴とともに男子が教室から叩き出されたのはその翌日だ。理由は言わずもがなだ。
「ちょっとキョンくんどういうことよっ!」
今度は佐伯に襟首つかまれた。ネクタイが締めあがる。その後ろで阪中が止めに入っているがネクタイが凶器に使われていると学校
に訴えようと決心した俺の呼吸が今にも止まりそうなのには変化がない。
「うまくいったぞって、何にも治ってないじゃない!ナッシングよ!それとも何、涼宮さんにオーストラリアなまりの英語で説明したのっ」
意味が解らないし苦しい。とにかくその手を離してくれ。
「まったく・・・困ったものだわ・・・。」
ようやく手を離してくれた佐伯が腕を組む。お前本当にコーラス部なのかよ。
「キョンくん、もう一度涼宮さんに言ってほしいのね。」
こっちの背の高い女も・・・コーラス部ってどんななんだよ。とにかく解った、もう一度ハルヒに話すことにする。佐伯達をレスリングに
目覚めさせちゃコーラス部の部長に申し訳立たないしな。
「おい、ハルヒ、待て!」
「なによっ」
学食へ向かおうとするハルヒを呼び止めた。もうこの辺できっちり言い聞かさなきゃならん。しかしその前に
「おまえ、さっきのありゃなんだ」
普段より半オクターブ低い俺の声に、ハルヒは2オクターブ高い笑顔を返してきた。唇の両端が耳まで届きそうなくらいの笑顔。
「あたし、やめろって言われると余計やりたくなるタイプなのよねえ。」
何だそのしてやったりの顔は。
「ハルヒお前なあ、自分がどれだけ人に迷惑掛けてるのか知ってるのか?俺が波風立てないように間に入っているってのに、何だその態度はっ」
ニカッと笑っていたハルヒが真顔になり
「うるさい!あたしがいつどこで着替えようとあたしの自由よ!男の目?そんなの知らないわ。男なんでどうでもいいのよ!」
「どうでもよかあない!少しは気にしろっ」
「ふんっなによ。今まであんただって何も言ってこなかったくせに女の子に頼まれたからって急にあたしに指図するんじゃないわよっ」
そこまで言い終わるとハルヒは首が折れそうなほど横を向いてしまった。ったくこのバカ女、口だけは減らないやつだ。俺が次の言葉を血が集結
しつつある頭の中で考えていると
「あの〜二人とも・・・?」
佐伯がそろりと割って入ってきた。
「も、もう少し落ち着いて話し合ったほうがいいと思うな、うん。」
周りを見渡すと、俺たちのやり取りにクラス中が注目していた。国木田などは弁当を持ったまま固まっている。その横で谷口はがつがつ弁当食べ
てやがる。お前にこの役交代してもらいたいぜ。
「あらー、影の主役登場ってとこかしら?」
ハルヒはじろりと佐伯を一瞥した。
「えっ・・・?そんな、そんなつもりじゃ」
俺は動揺する佐伯を遮るように手を前に出し
「佐伯にあたることないだろ。」
「ふーん、そんなに仲いいんだったらあたしのことなんか関係ないでしょ?」
何だっていうんだ、このひねくれ女め。
「関係あるに決まってるだろ!」
ハルヒの両肩に手を置いた。
「くっ、離せっ、このバカキョン!離せえ!」
「俺は離せって言われると余計離したくなくなるタイプなんだ!」
髪をぶんぶん掻き乱しながら抵抗するハルヒの肩をがっしりと掴む。この聞き分けのない団長様になんて言おうか。
「うるさいうるさい、どうせ頼まれれるからでしょっ!」
「いいから聞け!俺が頼まれたのは教室での着替えのことだけだ!」
「なによそれっ」
「好きに着替えるのは部室の中だけにしろ!おまえの下着はいつものように俺が片付けてやるから!」
「なぁがっ?」
俺の言葉にハルヒが突然ピタリと停止した。口を半開きにし、目はパッチリと見開いているが焦点は定まっていない。
「キョ、キョンくん・・・それって・・・」
周りがざわめきだしたことに気づいて振り返ると両手で口を押さえている佐伯の姿があった。
「こ、この・・・エロキョンっ・・・こ・・・」
電池の切れかけた時計の秒針のような言葉をつぶやきながら、みるみるうちにハルヒの顔が赤くなっていく。
「おい、ハルヒっ」
俺の手を振り払い、教室の外へ走り出したハルヒは引き戸の手前で盛大にこけるもすぐに立ち上がってそのまま廊下を走り去ってしまった。
とりあえず俺は言うべきことは言った・・・と思う。俺も少し頭に血が上っていたから説き伏せることができたか自信はないがな。
いや待て、今日はもう体育はないから結果は明日にならなきゃ解らん。尿検査の結果待ちの方がよっぽど気が楽だぜ。
「キョン」
俺を我に返させたのは垣ノ内だった。
「・・・そうか、お前たちはもうそこまで進んでいたのか」
何を言っているんだこの男・・・と思った時、クラスの空気が変わっていることに気づいた。
数分前まで俺とハルヒのやり取りに注目していたクラスの連中はまるで何事もなかったように弁当を食べ始めている。佐伯は大野木と成崎に
引っ張られて前の席のほうへ行ってしまった。
「すまんキョン。俺もそんなに野暮じゃないから、他の奴にもよく言っておくわ。」
ファミコンのBボタンの如く俺の肩を投げやりに叩く垣ノ内に
「おまえ、昨日佐伯に蹴られたとこどこだよ。」
「あん?ここだよここ。クリーンヒットで痛かったぞー」
「そうかい」
「いでえっ!!」
俺の二塁打の蹴りでのた打ち回る野暮男を見たとき、ああこれは夢じゃないんだと思った。
その後のことを少し話そう。話したくないけど。
ハルヒは午後の授業に姿を見せることはなく、部室にも現れなかった。古泉からの2ミリくらいずれたところをくすぐられているような質問攻めを必死
にかわし、灰色空間の発生を覚悟して帰宅した。
翌日以降、新世界が創造されたかと思う変化が生じた。体育の授業前、ハルヒは男子が居なくなるまで制服に手を掛けることはなかった。それどころか
座ったまま動かなかない。
「ありがとうキョンくん、さすがね。」
おかげで佐伯を始め女子には感謝されたが、語尾に必ず『さすがね』をつけてくる。なにがさすがなんだ。
部室でも変化が生じた。
「着替えるからさっさと出て行きなさい!」
という事前通報と、俺と古泉が部室から出てドアを閉めるまで着替え始めない。部室では好きにしろって言ったのに、どんな心境の変化かね?しかし
朝比奈さん特製のお茶をこぼさずにすむというメリットが生じたようだ。
「いやあ、昨日は閉鎖空間が発生しませんでした。さすがですね。」
すべてを見透かしたような顔をした古泉の能書きを聞かなきゃならんというデメリットも生じたがね。
終わり