平和。
争いや諍い、はたまた災害などがなく、心穏やかに過ごせる状況。
平和、そう平和だ。
俺は今、平和というものを実感している。
ここ1週間というもの、とりたてて目立った騒動もなく、俺の周囲は平均的高校生らしい凡庸とした平和を見せていた。
多少の騒動では心を乱しようがないほどの精神を幸か不幸か獲得しちまった俺だが、それでも平和であるのにこしたことはないと思う。
もっとも騒動がないというのは裏返して見ればハルヒのフラストレーションを高める要因でもあり、それはつまりギリギリまで水を注いだコップに1滴づつ水滴をたらすような危うい状況でもあるということだ。
平和であることが同時に平和を乱す原因となっているとはなんとも皮肉な話である。
平和って、なんなんだろうな?
「どうしたのさ?キョン。ボーっとしちゃって」
一緒に弁当を食っている俺の手が止まっているのに気付いた国木田の質問の声で、俺は哲学的思考空間から昼食時間的現実空間へと引き戻された。
退屈な授業を乗り越えるのと引き換えに消費しちまったカロリーを補給する作業を中断するほど、考えに没頭しているつもりはなかったんだがな。
「別に。ちょっと人類の恒久的な平和について思索に耽っていただけさ」
「なにが人類の平和だ。どうせ涼宮のわがままからどうやって逃れるのか、なんてことでも考えてたんだろ」
谷口の野郎が弁当箱に詰まった飯粒をかきこみながら、当たらずも遠からずなことを言いやがる。
くそ、俺の精神はおまえに見透かされるほど単純な構造をしちゃいねぇんだぞ。
「諦めろよ。もはやおまえは涼宮のストレス解消マシーンなんだ。まったく哀れだねぇ」
なにを得意がって調子に乗ってやがるんだ、こいつは?
おまえの諸々の発言をハルヒにそのまま伝えてもいいんだぞ、俺は。
その3秒後におまえがどんな運命を辿ってんのか、想像しただけでも楽しみだぜ。
などという具合にごくありふれた昼休みを送っていた俺。
だが、俺の平穏を乱す事態は、こうしている間も水面下で着々と進行していたらしい。
そしてそれは次の瞬間、一気に表面化することとなった。
それは昼食時間中に校内のスピーカーから流れる穏やかな音楽に割り込む形であらわれた。
『皆さん、お昼休みはいかがお過ごしでしょうか?
突然のわたしの声にびっくりされた方もおられるでしょうが、どうかお付き合いください。
本日より週に2回、10分ほどお昼の校内放送の枠を生徒会がお借りすることとなりました。
わたし、生徒会書記の喜緑江美里と申します。どうぞよろしくお願いします』
「き、喜緑さん!?…ウ、ゲホッ」
驚きのあまり口の中の唐揚げを変なふうに飲み込んじまった。すかさず国木田が差し出したお茶で胃袋へと流し込む。
なんだ!?なんだって喜緑さんが校内放送なんぞやってんだ?
「大丈夫かい?そんなに慌てて…
それにしても綺麗な声の人だね。キョンの知り合い?」
国木田の目に微妙に好奇心の色が宿っているのを見止めた俺は、喜緑さんに関して一般に開示できる情報を頭の中で確認してから言ってやった。
「知り合いってほどのもんじゃない。何回か会ったことがあるってだけだ」
そう。喜緑さんにとっては俺なんぞ長門の近くをうろちょろしてる一般人って程度の認識だろう。知り合いなどというのはおこがましいさ。
逆に、俺からすると、喜緑さんの動向は長門の身の安全のためにも決して無視できるもんじゃないんだがね。
はてさて、今回のこれは一体どんな意図があってのことなんだろうね?
単に生徒会執行部員としての業務というだけであればいいんだが…
『この放送では毎回、校内のさまざま人をゲストとしてお呼びして、そのかたに皆さんからの質問をぶつけていこうと、そう予定しています。
随時皆さんの意見を取り入れて、より良いものへとしていきたいと思っておりますので、いつまでその形式を保っていられるのかは分かりませんが』
涼やかな声と腰の低い口調が織り成す独特の空気、いわば『喜緑さん節』とでもいうべきこの放送は、聞き入ろうとすれば心地よく耳に入り、聞き流そうと思えばまるで意識にのぼらないですむという絶妙な調整のきいたものだった。
昼休み時の校内放送が備えておくべき条件を見事に満たしていると言えるだろう。
長門とは別の意味で底の知れない人だ。
「喜緑江美里っていうと………
ゲッ! 2年のAランク美女じゃねぇか! キョン、てめぇまた抜けがけしやがったな!」
「うるせぇ! 知り合いじゃないって言ってるだろうが。なにが抜けがけだ」
『さて、記念すべき第1回のゲストさんです。
今や北高関係者全員が注目する、まさに時の人』
平和。
そう、俺がこんなふうに国木田や谷口とくだらない馬鹿話に興じていられる時間。
それは、
喜緑さんが
次に発した言葉によって
あっけなく破壊された。
『1年5組、涼宮ハルヒさんにお越しいただきました』
「なにーっ!?」
我知らず大声をあげちまう俺。
国木田や谷口はおろかクラス中の視線を浴びるハメになっちまったが、そんなことは気にもならないほどの非常事態だ。
よりにもよって生徒会のことを自分の敵だと勘違いしているハルヒを選ぶとは、一体なにを考えてるんだ!?
誰か止めるやつはいなかったのか!
つうか、生徒会の真の黒幕、古泉の野郎はなにしてやがる! なにがなんでもおまえが制止せにゃならんだろうが!
『生徒会がわざわざあたしを呼び出すなんて、いい度胸じゃない。今度はどんなイチャモンつけようっての』
マジにハルヒが出てきたよ。
もう声を聞いただけでわかる。ハルヒ、完全に臨戦態勢。
きっと洛陽に攻め込む董卓みたいな顔をしてやがるに違いない。
となれば、たとえどんな経過を辿ろうと最終的には俺に厄介ごとが舞い込んでくるのは決まったようなもんだ。
勘弁してくれよ、まったく。
『いえいえ、他意はまったくありません。やはり今、もっとも耳目を集めている涼宮さんこそが第1回のゲストにふさわしいと思ったものですから。
どうかわたしを助けると思って、この放送の今後を左右する今回を盛り上げるのにご協力ください』
『う……なかなかあたしの価値ってもんがわかってるじゃない…
ちょっとだけなら付き合ってあげなくもないけど……言っとくけど、ちょっとだけだかんね!』
『はい、ありがとうございます』
軽っ! あの程度のおだてに乗せられちまうのかよ、おまえは。
まるでマタドールのムレータに軽くいなされてしまう猛牛を見るかのようだ。
『では早速最初の質問をお読みしますね。
ペンネーム【ルソーの友】さんからのご質問。あら、とっても文学的なペンネームですね』
「どったの、阪ちゃん? 急にビクッてなっちゃって」
「え!えっと…」
視界の片隅に体を硬直させる阪中とそれを訝る成崎の姿が映る。
おい、阪中。おまえどんなヤバイ質問を出したんだ?
『涼宮さんへの質問。涼宮さんってキョンくんと付き合ってるの?』
「阪中っ! おまえ、なんつうとんでもないこと訊いてやがる!」
「だってだって、休み時間に会った書記さんに『涼宮さんに訊きたいことはありませんか?』って言われただけなのね…
こんなふうに使われるなんて思ってなかったのね、あたしは…」
「落ち着いてよ、キョンくん。阪ちゃんだって悪気があったわけじゃないんだし」
「いいじゃねぇか、キョン。この際、涼宮にハッキリ白状してもらおうじゃねぇか」
一気に食品スーパーの半額タイムサービスのごとき喧騒に包まれる我が1年5組。
だが、スピーカーの向こう側、放送室はそれすら上回り、まるで突然お互いの言葉が通じなくなったバベルの塔建設作業員が会話を試みているかのようなカオス空間と化していた。
『なによっ、この質問は!?』
『で、どうなんでしょうか?』
『答えるわけないでしょうが!?』
『それは恥ずかしいからでしょうか? 見れば分かるでしょ、野暮な質問しないでよ、と仰りたいんですか?』
『んなわけないでしょうっ!? 馬鹿馬鹿しいからよっ!
大体、恋愛感情なんてもんは脳のシナプスが作り出した幻想でっ、あたしはそんなもんに関わってるヒマはないんだからっ!』
『と、言うことは、今後彼に涼宮さん以外の恋人が出来たとしても、不干渉を貫くということでしょうか?』
『ちっ、違うわよっ! そういうこと言ってんじゃなくって、えっと、それはあれよっ!
SOS団は団則で男女交際禁止になってるから、当然そんなのは認められないわっ!』
『なるほど、団則ですか。
それはとても良い虫除け策をご用意なさいましたね』
『なにが虫除けよっ!』
『と、言うわけで【ルソーの友】さん。質問のお答えは、見たとおりにあなたが判断してください、ということになりました』
『勝手にまとめに入るなっ!』
教室のスピーカーから聞こえてくる乱痴気騒ぎを聞いていたら、こっちはクールダウンしちまった。言い争いの醜さをまざまざと見せつけられたみたいなもんだからな。
なんか闘牛士と牛、というより暖簾に腕押しという言葉のほうが似合う気がしてきた。
「ぬかに釘、とも言うよね」
「それって茄子をいい色に漬けるための生活の知恵なのね、たしか」
阪中、おまえはちったぁ反省しろ。
『それでは次の質問です。これは連名になってますね』
『今度はマトモなやつなんでしょうね』
まだ続けるのか、この2人…
『ペンネーム【団員その2とその3】さんたちからの質問です』
朝比奈さんに長門じゃねぇかよ。ペンネームの意味がこれっぽっちもない…
『一体何者なのかしら?【段=磯野、ニートそのSUNSUN】て』
どういう聞き間違いだよ。
『ではいきます。
部室で彼と話している時に大天使サリエルばりの睨みをきかせるのをやめてください、だそうです』
『それ、質問じゃないじゃないっ! 糾弾じゃないっ!』
『あら、言われてみればそうですね。
それはともかく、こんなことをやってるんですか?』
『どうでもいいでしょうがっ! 質問じゃないんだからさっさと次にいきなさいよっ!』
『あ、ちなみにサリエルっていうのは言い伝えでは邪眼の持ち主で、睨まれただけで呪われてしまうそうです。怖いですね』
『そんな天使豆知識はどうだっていいのっ!』
「すごいね。僕、涼宮さんがツッコミ役にまわってるの、はじめて聞いたよ」
そりゃそうだろ。ハルヒを相手どって漫才じみた会話の出来る度胸を持ち合わせた人間がそうそういるわけがないんだから。
『次はペンネーム【微笑みの貴公子】さんからの質問。
涼宮さんは男性同士の交際は容認派ですか?
だそうですが、これは答えるまでもないですよね』
『当たり前じゃない』
『もちろんOKですよね』
『ちょっ…なんでよっ!?』
『え…先ほど仰った団則に、男性間の交際を禁じる項目がありませんでしたから』
2度目のコール音で繋がる電話。
「古泉、おまえのゲームの負け分のツケ、300円すぐに払え。
あとこれから1週間おまえとは口をきかん」
『え、あの、いきなりなにを』
電話、切る。
まったく俺の周りの人間は馬鹿ばっかりだ。
『時間のほうも押してまいりましたので、これが最後の質問です』
『最後くらい、ちゃんとしたやつ用意してあるんでしょうねっ!』
『最後の質問はこの方です。ペンネーム【キョン】さん』
「なにーっ!?」
「お、ラストバッターはキョンかよ。お前なに訊いたんだ?」
まったく身に覚えがねぇぞ。どういうことだ。
そもそも俺には今さらハルヒに訊きたいことなんか
「ん?」
今、どうにも頭の中に引っかかりのあるフレーズがよぎった。
そして、それをきっかけに俺の中でひとつの記憶が浮上してくる。
それは2日前だったと思う。
俺が廊下を歩いていると、背後から喜緑さんに呼び止められ、そしてこう訊かれたんだ。
「涼宮さんに訊きたいことはありませんか?」ってな。
俺はたいして気を遣うこともなく、そのときに考えたことをそのまま言葉にしたんだった。
その言葉ってのは…
『今さらハルヒに訊きたいことなんてないですよ、とのことです』
『キョンのくせに生意気なこと言ってくれるじゃないっ! 待ってなさいよっ!』
『………
涼宮さん、行ってしまいましたね。最後までお付き合いいただけなくてとても残念です。
さて、今回の放送、いかがだったでしょうか?
この放送では今後もさまざまな方をゲストとして
喜緑さんの締めの挨拶すら終わらないうちに教室のドアが勢いよく開き、息つく暇すらなくハルヒが飛び込んできた。
早すぎだろ!? ここと放送室との距離を考えろ! 空間でも歪めてきたのかよ!?
「キョン! あんなこと言うなんて、団長を敬う精神に欠けてるみたいねぇ。みっちり絞ってあげるから覚悟しなさい」
凄みを利かせた表情で接近してくるハルヒを見ながら、俺は日本では拷問が禁止されているという説得を武器としてなんとかこの窮地を脱することが出来ないものかと考えていた。
ああ、やっぱり厄介ごとは俺に舞い込んできやがる…