俺と長門は今、生徒会室の前に来ている。おみやげ持参でだ。
無意識のうちにネクタイに手を添え、具合を確かめていた。どうやら俺は相当緊張しているらしい。
横目で長門の様子を窺う。
無表情で生徒会室のドアを見つめる長門からは今のところ大きな感情の動きは感じられない。
大丈夫。長門は冷静だ。
「いいか、長門。今日は物騒なことは無しだからな。俺達はお詫びに来たんだから」
念のために釘を刺しておくことは忘れない。長門は黙って首を縦に振る。よし。
生徒会室のドアに右手の甲を触れさせ、ノックの体勢で長門に確認。
「今、中にいるのは喜緑さんだけか?」
長門が再び頷く。
「いいか? 行くぞ」
コンコン、とそのまま右手でドアを打ち鳴らす俺。
中にいるのは万能宇宙人なのだから、ノックをせずとも俺達の存在をドア越しに感知しているんだろうが、さりとて礼儀を逸するわけにはいかない。特に今回は。
「どうぞ」
中から涼やかな声の返事。その声に促された俺達は遠慮なくドアを開ける。
「おふたり揃って、一体なんのご用でしょう?」
中には当然、常に周囲に微笑みを振りまく生徒会書記の喜緑さんがいたわけなんだが、その笑顔が普段と比べて虚ろなものに見えるのは俺の気のせいなんだろうか?
ここで長門の目の色に変化があったのを俺は見逃さなかった。
この色は、いつだったか俺が入院した時にお見舞いに来た際にも見せたものだ。
長門は今『申し訳なさ』を感じているんだ。
なぜこんなことになってしまったのか?
それを説明するためには昨日の昼休みまで話を巻き戻すさなければならないだろう。
その日はなにかが違っていた。
昼休みのいつもの時刻。
週に2回、放送部から10分間の枠を貰い、生徒会が提供する校内放送。
もはや北高にとって定番となった感もある校内放送だ。
だから、その時間、スピーカーからは生徒会書記、喜緑さんの声が聞こえてこなければいけないはずだった。
しかし、実際に校内に響いていた声は
『文芸部部長、長門有希。
一時的に放送機器を借用し、校内の関係者にこの音声を聞かせる』
長門のものだった。
なんだって長門が放送室でメイン司会をやってるんだ? 喜緑さんはどこに行った?
俺は、クロスワードパズルの縦のカギで詰まっちまったもんで横のカギの該当部分を見ながら答えを推測するみたいな気分で、この突然始まった長門有希の校内放送第1回に耳をそばだてた。
喜緑さんが突如として職務を放棄した理由とはなんなのか?
放送回数も十数回を数え、いよいよあの人も疲れてしまったのか?
いや、あの人にかぎって、そんなくだらない理由で職場のボイコットなんてせんだろう。
ということは、アレか? これはまたしても宇宙人的トラブル発生の前触れなんだろうか?
そんな感じであれやこれやと考えていた俺なわけであったが、実際はそれほど深刻なものでもなかったらしい。
と言うのも、たいして間を置くこともなくこの時間おなじみの声も続けざまに流れ出したからだ。
ただ、台詞の内容はけっして馴染みのものなんかじゃなかったが。
『あの、長門さん。そこはわたしの席なんですが』
生徒会執行部筆頭にして長門の同郷の徒、喜緑江美里さんのご登場だ。
普段通りの穏やかな声色は、彼女が精神身体ともに健康優良であることを如実に語っており、彼女自身にはなんらトラブルが発生していないことをうかがわせる。
と同時に、その口調から察するに、喜緑さんにとっても長門がそこにいることは予想外な出来事であるらしい。
はたしてこの先、この放送はどんな展開を見せるんだろうね…
『今回は特別企画。
あなたが質問に答えることになっている』
と、これは長門の声だ。
いつもながら端的な物言いで、エンターテイメント性を求められる司会には不向きなんじゃないかと思う。
とは言え、喜緑さんを相手にして煙に巻かれずに質問をぶつけられる人材というのが、長門ぐらいしか思い当たらないのも事実だ。
それにしても、喜緑さんに質問する特別企画ね。
いいんじゃないのか。この放送のおかげか、喜緑さんに対する校内関係者の関心も高まってるだろうし、1回ぐらいはこんなのもあったって。
ただ、どうもこの企画を喜緑さんが知らなかったという点が、俺には波乱の予兆であるようにも思えるんだが…
「おお、おお! Aランク美少女同士の対談再びか! なんつうか、声だけなのにソソるなぁ、おい!」
いいよなぁ、谷口。おまえはそうやって馬鹿面さらしてのんきなこと言ってりゃいいんだからよ。
俺は、銀色巨人が兄弟喧嘩をするほうがまだマシなんじゃないかと思うような過激な宇宙戦争を、この2人がおっぱじめやしないかと、気が気じゃないってのに…
『あの、わたしの知るかぎりでは、今日は岡部先生にお話をうかがうことになっているんですが』
『………
ドッキリ…大成功…』
『………
似合ってますね、その赤いヘルメット』
被ってんのか、長門! 例のヤツを!
俺の脳内で即座に再生された放送室内の予想映像は、そのあまりにものシュールさをもって俺の宇宙に対する憧れをまたひとつ破壊した。
もし俺の持つ知識をすべて世間に公表したら、ひょっとしたらアメリカの宇宙開発熱が一気に消沈しちまうんじゃなかろうか?
『あの、では今回岡部先生宛に集めてきた質問状はどうすればいいんでしょう?』
『不要。捨てて』
あっけねぇっ!
にべもないとはこのことだ。
長門ももうちょっと気をつかった言い方があるだろうに…
それとも、これこそが気心の知れたインターフェース同士だからこそ許される特別な距離というものなのかね…
いや、違うか…
『それではせっかく質問を書いてくださった方々に申し訳が立たないんですが…』
『大丈夫。
本当は誰も岡部教諭には関心がない』
えー、我が担任の名誉のために言っておくが、岡部はちょっと暑苦しい部分もあるが生徒想いのいい先生だ。
そりゃあ、バレンタインデーに女生徒からチョコを進呈されたり、卒業式に泣いて別れを惜しまれるような人気のあるタイプではないのは確かだが。
『わかりました。100歩譲って、今回のドッキリ企画については納得しましょう。
でも、どうしてわたしの代理が長門さんなんです?
生徒会執行部の誰かが務めるのがスジなんじゃありません?』
喜緑さんの指摘も至極もっともだ。
この放送は生徒会主導のものなんだし、長門がでばってくる理由なんてどこにもないはずだ。
少なくとも、ごく普通の北高生としての立場から言えば、だが。
『生徒会メンバーは誰も引き受けなかった。
………
怖がって』
『それじゃあまるで、わたしが生徒会に君臨しているお局様みたいに聞こえるじゃありませんか』
『………』
『お願いですから、即座に否定してくれません?』
『なにを?』
『………
いいです。続けてください…』
長門の、天然なのか計算づくなのか判断しづらい無言と発言のコンビネーションに、喜緑さんも相手にしているのに辟易としているのか、その口調にはささやかながら疲労の色が滲んでいる。
喜緑さんのことを普通の人間だと思っている者にとっては、これがどれほど貴重で異常なことであるのかわからないだろう。
俺はそれがわかる数少ない人間のひとりなわけだが、ふと思うに、それは自慢にならないどころか、非凡な苦労をしょいこむためのライセンスのようなものだと気付き、一気に鬱な気分になった。
「なんだかこの2人って、ただの知り合いってカンジじゃないよね。
もしかして、親戚かなにかなのかな?」
惜しいぞ、国木田!
あともう5,6段階ほど非常識な考察を重ねれば、2人の正体に到達するかもしれん。
地球の常識の範疇を超越した気苦労を分かり合える友人の誕生を、俺は心の底から歓迎するぞ。
正直言って、古泉だけがこのテのことの相談相手という現状は耐えられないんだよ…
『最初の質問。
喜緑さんが腹黒って本当ですか?』
校内放送のほうでは、いよいよ質疑応答が開始されたわけなんだが…
しょっぱなの質問からこれかよ…
誰の質問なんだか知らんが、そんなことを疑っているのであれば、こんな質問は絶対にするべきじゃないだろうが。
好奇心は猫を殺す、って言葉を知らないのかねぇ。
『あの、質問内容はとりあえず置いておくとして、誰からの質問なのか、紹介はないんですか?』
『今回の放送では質問者の安全を考慮して、完全匿名制を採用している』
『誤解を招く物言いはやめてください! わたしが逆恨みでもするみたいに聞こえるじゃありませんか』
『………』
『だから、こういうタイミングで無言になるのは止してください』
どうやら日本の誇る文豪が生み出した名前のない猫と同じ運命を質問者が辿ることは避けられたようだが、それと引き換えになったと言うべきなのか、2人の間の空気は険悪さを増すばかりだ。
長門のやつ、相手が自分の命運を握っている喜緑さんだってことを覚えてるんだろうか?
にしても、喜緑さんも気が長いね。こんだけ長門におちょくられても、なんら制裁らしいことをしないんだから。
心が広いというか、おおらかというか…
それとも公私を混同するようなマネはしない、大人の女性ってことなんだろうか? 最上級生だしな。
しかし、この前自分は4歳だって言ってたんだが…
『返答』
俺なりに、この筆記すると2文字にしかならない長門語を翻訳すると『ごちゃごちゃ言ってないで、とっとと答えろよ』といった意味合いになる。
字数制限でも設けられていそうな長門の短い発言に慣れ親しんでいる俺にとってはどうというもんでもないんだが、もしかしたら聞いていて不満に思うやつもいるかもしれん。
というか、俺の目の前にいやがった。
「なんつうか、こうセリフが短いと、音だけじゃ満足できなくなっちまうな。
やっぱ美少女使うんなら絵がいるだろうよ、絵が。
カメラ使やいいじゃねぇか」
谷口お前、さっき「声だけでソソる」とかなんとか言ってたじゃねぇか。
長門観察の第一人者を自負する俺から言わせれば、これでも長門は普段の5割増しぐらいで喋ってんだぞ。
『この方がどうしてこんな勘違いをなさったのかは定かではありませんが、これは完全な誤解です。
生徒会執行部員は誰もが学校のために身を粉にして努力する人材ばかりで、後ろ暗いものを持っている人間なんてひとりもいませんよ』
『違う。質問内容の対象はあなた個人。
その他の生徒会役員は無関係。論点のすり替えは卑怯』
『あら、別にそのようなつもりはありません。もちろんわたし個人も他の執行部員同様、よりよい学校づくりのために全力で奉仕させていただいてます。
この質問の答えは、そのわたしの働きを見ていただいて判断していただくということで』
なんだかのらりくらりと国会で立ち回る老獪な大物議員のような回答だな。
そこまで紋切り型な印象を受けないのは、まあ美人は得だよな、ってことで納得しておこう。
だが、この程度で追求の手を緩めるような長門議員ではなかった。
『わかった。
………
では、この質問を検証する資料として、これまでの放送のダイジェストを流す』
『え?』
心底不意をつかれたような喜緑さんの声の後に続いて聞こえてきたのは、これまでの数々の校内放送、その一部抜き出し音声だった。
『第1回放送』
『答えるわけないでしょうが!?』
『それは恥ずかしいからでしょうか? 見れば分かるでしょ、野暮な質問しないでよ、と仰りたいんですか?』
『んなわけないでしょうっ!? 馬鹿馬鹿しいからよっ!
大体、恋愛感情なんてもんは脳のシナプスが作り出した幻想でっ、あたしはそんなもんに関わってるヒマはないんだからっ!』
『と、言うことは、今後彼に涼宮さん以外の恋人が出来たとしても、不干渉を貫くということでしょうか?』
『ちっ、違うわよっ! そういうこと言ってんじゃなくって、えっと、それはあれよっ!
SOS団は団則で男女交際禁止になってるから、当然そんなのは認められないわっ!』
『なるほど、団則ですか。
それはとても良い虫除け策をご用意なさいましたね』
『なにが虫除けよっ!』
『第3回放送』
『その悪趣味な眼鏡はどこで購入したものなんです?』
『キミまで悪趣味だと思っているのか!』
『先程まではなんとも思っていませんでした。
涼宮さんの質問を見て、ああそうか会長の眼鏡は悪趣味なんだ、という具合にたった今学習いたしました』
『そんな不必要な学習成果はただちに抹消したまえ!』
『会長、人間の記憶はそんなに都合良く消したり出来ませんよ』
『………
この眼鏡は貰い物だ。よって購入した店など知らん』
『わざわざ悪趣味な眼鏡を譲渡されるなんて、まさか会長はいじめられてるんじゃ…』
『私は今、キミにいじめられているっ!』
『第4回放送』
『廊下で食事をしている行儀の悪い生徒がいるのでなんとかしてください』
『それ、間違いなく俺宛じゃないでしょう!』
『あら、これは生徒会宛の要望書ですね。いつ紛れ込んでしまったんでしょう?』
『わざとでしょう! わざとですよね!』
『そんなに怒らないでください。誰にだって失敗はあると思いません?
失敗を責めるより、おおらかな気持ちで受け止めてあげることが子供の成長にプラスになる場合もありますし』
『もうすぐ高校3年生になろうっていうあなたのどこが子供ですか!?』
『ほら、わたしはこう見えても4歳ですから』
『冗談なのか、そうでないのか判断しにくい!』
『うふふ』
『第8回放送』
『今回は北高男子生徒の心を虜にする可憐なアイドル、朝比奈みくるさんにお越しいただきました』
『そんな…アイドルなんて、そんなんじゃありませんよ』
『今日はわざわざサービスでバニースーツまで着ていただいてありがとうございます』
『着てません…ちゃんと制服で来ましたよぉ…』
『そうですね。バニースーツはある意味、夜の仕事の制服と言えますもんね』
『ふえーん。人の話を聞いてくださいよぉ…』
『第11回放送』
『容姿端麗、頭脳明晰、くわえて名家のお嬢様。
もしこれでスタイルまで良かったりしたら、まさしく並ぶ人のいない人気者だったでしょうに。
画竜点睛を欠くとはこのことなんでしょうか』
『そんなこと言っちゃってぇ。えみりんだっておんなじようなもんじゃないかいっ。
………
あれれ、えみりんってば、今いきなり胸がおっきくなんなかったかい?』
『気のせいですよ』
『うむむむ、そうかな?』
『そうですよ』
『第15回放送』
『それでですね、小泉さん』
『………
あの、微妙に僕の名前が伝わっていない気がするんですが…
確認しておきますが、僕の名前は古泉一樹ですから』
『ですから、小泉さんですよね』
『本当に古泉と呼んでくれていますか?』
『一体なにを疑ってらっしゃるんです? 小泉さん?』
『はぁ…どうにも腑に落ちないものでして』
『ご気分でも優れないんでしょうか、小泉さん?
もしよろしければ、お茶でもお飲みになりますか、小泉さん?』
『………』
再生されるこれまでの激闘の歴史。
きっとこれを耳にした人間の頭には、すでに質問の回答が巨大電光掲示板に映し出されるかのごとくはっきりと浮かんでいることだろう。
『これらを参考にし、各自、真実を見定めて』
『なんですか、これ! 不当な印象操作です!
もっと和やかな会話や、ゲストの悩みを真摯に聞いた回だって、たくさんありましたよ!』
『皆無。大体こんなもの』
『そういうことを言うのはやめてください!
あきらかにこれはモンタージュ理論の悪用に他なりません!
自分に都合のいい箇所だけを抜粋して総集編を構成するのは卑怯です』
『放送業界のお約束。この手法が不当だと言うのであれば、世の放送作家は全員職を失う』
『ッ……わかりました。この点に関しては身を引いてあげます』
え? それでいいんだ!?
なんか放送作家に恩でもあるのか、喜緑さん?
『生徒会に興味があるんですが、生徒会室に入るためには喜緑さんが課す3つの試練を突破しなければならないというのは本当ですか?』
『そんな事実はありません。一体どこからこんな怪しげな噂が流布してるんですか?』
『火の無いところに煙は立たない』
『そんなことはありません。現に都市伝説というものは原因がなくても噂だけが単独で発生することを証明しています』
『ちなみに3つの試練はそれぞれ、体力テスト、支持政党アンケート、最後に電飾の付いた帽子を被って修行するぞと連呼する、となっている』
『今ここで新たな都市伝説を生み出さないでください!』
「しかもそれ、洗脳だし!」
「キョン、お前、家でもテレビに向かってつっこみいれるタイプだろ?」
うるせぇ。そんなことするかよ。これはあくまで知り合い相手だからだよ!
『コンピュータ研究部部長、生徒会長と、男漁りに余念がない喜緑さん。次の標的は誰ですか?』
『事実無根です! 誰が夜な夜なボーイハントに精を出しては次々と食い物にしている痴女ですか』
『そこまでは言ってない』
『あ、そうでしたか』
『……やっているの?』
『やってません!』
「つまり【長】が付く役職になるのが喜緑江美里と付き合うためのポイントってことだな! 俺も狙ってみるか!』
人類史上類を見ないほど不純な動機でリーダー属性を身に付ける意欲をみせる谷口。
やめとけ。お前が責任ある立場になっても、ビジネス書によく出てくる【ダメな上司】の実例にしかならんから。
『喜緑さんって朝比奈さんと同級生なんですか? それとも隣のクラスなんですか? どっちなのかはっきりしてください!
どっちの設定でSS書けばいいのか、混乱するじゃないですか!』
『そんなことをわたしに言われましても…』
『あなた以外に誰に言えと?』
『そうかもしれませんけど…
理不尽です…畑亜貴の所為で必要以上に腹黒いって言われるのと同じくらい理不尽です』
畑亜貴って誰だ? それに喜緑さん、なぜ自分のクラスを訊かれて困ってるんだ? 答えりゃいいじゃないか。
で、結局喜緑さんは朝比奈さんのクラスメイトなのか? どうなんだ? もしかして喜緑さんもあのウェイトレス服を着たのか?
『あの、なんだか質問と言うより、わたしへの悪口コンテストという雰囲気なんですけど…』
『そう?』
『そうですよ。ひどいです。いくらわたしでもこれ以上は泣きたくなりますよ』
『そういう発言を印象操作目的で使用するから腹黒いと言われる』
『そんなこと考えてません!』
『この、ももいろシスターズの地味な方』
『いきなりなんなんですか!?』
『わたしもコンテストに参加してみた』
『そんなコンテスト開催してませんし、そんなマイナーなネタは誰にも理解できません!』
すまん、長門。俺にもおまえが何を言ってるのか、さっぱりわからん。
物事には始まりもあれば当然終わりってもんもある。
所詮は10分間の校内放送、意味不明な頭脳撹乱漫才も長続きなんてしやしない。
残り時間も2分をきるにあたり、いよいよ質問のほうも最後のひとつを残すのみとなったらしい。
『最後の質問。ペンネーム【微笑みの貴公子】から』
『あら、完全匿名制はどうしたんです? うふ、逆恨みでその人をどうにかしちゃうかもしれませんよ?』
『どうぞ』
『……
あ、いえ、なにもしませんよ』
『どうぞ』
『なにもしませんからね』
なにもしないと確信してるからなのか、それとも心底どうでもいいと思ってるのか?
残念ながら声だけでは長門の真意を汲み取ることは出来ないな。
ただ、もしこれが多数決制を採用しているのであれば、俺は間違いなく後者に一票を投じるだろう。
『それにしてもまさか【微笑みの貴公子】さんの質問を、わたし自身がこんなにまちかねる時がやって来るなんて思ってもみませんでした。
それで、内容はなんなのでしょうか? いつもと同じだとは思うのですが…』
『あなたは女性同士の交際に興味はありますか?』
『それはもちろん……
すみません。もう一度読んでいただけません?』
『あなたは女性同士の交際に興味はありますか?』
………
『「いつもと性別が逆ーっ!?」』
奇しくも俺と喜緑さんはまったくの同タイミングで同じ台詞を発していた。
『どう?』
『どうって、なにがですか!?』
『男性よりも女性に対して性的興奮を覚えるのか、どうか』
『覚えません! 覚えません! いやですね、この人ったら。なにをいってるんでしょう?』
『では参考資料として、幻の第3回をダイジェストで』
その声を最後に、スピーカーからは一切の音が失われてしまった。
うん、この2人が密室に2人きりになれば、このオチになるのは目に見えてたさ。
むしろ放送時間のほとんどを使いきったことのほうに驚嘆の念を禁じえないところだ。
人類の歴史は闘争の歴史。
いかなる時代においても一切の争いがなかった瞬間はない。
欲望の申し子。
生まれながらにして罪を背負うトガビト。
ああ愚かなりヒトという名のけだもの。
えー…放送室で宇宙的取っ組み合いを繰り広げているであろう2人は、欲望とは無縁の宇宙人製アンドロイドじゃなかったっけ?
2人にはトムとジェリーのエンディングテーマをぜひとも聴いてほしいもんだ。
ともかく、この放送を最後に、生徒会広報校内放送は打ち切りとなってしまったらしい。
さすがに喜緑さんも懲りたのかね。自分が穏便に暮らすためにはあの放送は邪魔にしかならないと。
とはいえ、いつも画一的な微笑みしか見せないあの人が、曲がりなりにもいきいきとしていた場所を奪われてしまうのは、少しかわいそうな気もした…
ここで話は冒頭へと戻る。
これもなにかの縁だしちょっと慰めてみるか、と、そんなこと思い立っちまったのさ。
ただの人間にすぎない俺に出来ることなんてほとんどないが、だからこそ出来ることぐらいは全力でやってやりたい。
長門も少しやりすぎたと反省しているのか、俺に協力は惜しまないそうだ。ありがたい。
方法はすでに決まっている。いや、むしろ喜緑さんの校内放送第1回が放送されたときには既にこれは用意されていたのかもしれない。
「この度はうちの長門が迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした!」
俺達2人は企業の新人研修合宿で教わるみたいな深々とした礼の敢行をもって最大限の遺憾の意を表明し、続けざまに、長門が小脇に抱えていたおみやげを差し出す。
「と、いうわけで喜緑さん。せめてものお詫びとして【微笑みの貴公子】の野郎を連れてきました。
こいつを使って、思う存分ウサを晴らしてください」
俺と長門は、せめて喜緑さんがストレスの発散を出来るようにと、サンドバッグをプレゼントすることにした。
やたら背格好やら顔やら声やらが古泉に似ている、【微笑みの貴公子】を名乗る変態だ。
え? 古泉本人だろうって? 馬鹿言うなよ、俺達の仲間にこんな奇人はいないさ、ハッハッハッ。
「んー…んんーっ…」
猿轡越しになにやらうめき声のようなものが聞こえる気もするが、些細なことに違いない。
無視を決め込んだ。
「わたしもやりすぎた。これはお詫び」
ガムテープで雁字搦めになっている【微笑みの貴公子】を喜緑さんに手渡しつつ、長門は陳謝の言葉を口にした。
長門がこれほどまでに素直なのには理由がある。
部室で長門に今回の話を持ちかけた際に「もし、お前が2度と本を読むな、って言われたらどう思う? 喜緑さんは今そういう状態なんだ」って言ってやっただけなんだがね。
「本当によろしいんですか?」
「んんっ!んーん」
「ああ、こんなんで良かったらいくらでもどうぞ。飽きたら捨ててくださって結構なんで」
「どうぞ」
「そうですか。こんなに気を遣っていただいて、わたしは幸せ者ですね」
透明だった微笑みに、幸福という名の色が染み渡っていく。うん、同じ笑うにしたって、こういうものの方が見ているこっちも気持ちがいいってもんだ。
幸せなエンディングの到来に、生徒会室の空気も暖かなものに取って代わる。
そうさ、トムとジェリーだって毎度毎度喧嘩ばっかしてるわけじゃない。世の中はバランスが大切なのさ。
仲良くできる相手なら仲良くしておくのに越したことは無い。きっと【微笑みの貴公子】も草葉の陰で貰い泣きしていることだろう。
「んー、んーっ!んんーんっ!」
猿轡越しになにやらうめき声のようなものが聞こえる気もするが、些細なことに違いない。
無視を決め込んだ。