スピーカーから発せられるチャイムが4時限目終了を北高関係者全員に告げる。
ここから1時間ほどは、各人がおもいおもいの手段によって午後からの活動のための英気を養う、昼休みと呼ばれる時間である。
教室において食事を摂る者もいれば、購買に食料の確保に向かう者、食堂を利用する者などさまざまである。
そんな中にあって、この時間を栄養補給のために費やすことをしない者がいた。
対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース、長門有希である。
彼女は栄養摂取という理由によって食物を口にする必要がない。
情報統合思念体の端末としての側面を持つ彼女は、統合思念体とのリンクが断たれない限りにおいて常に活動のためのエネルギーを供給されているからだ。
例えるのならば、それはパソコンからの電力供給を受けて稼働するUSB機器に似ているといえよう。
であるから、彼女はこの昼休みという時間をもっぱら文芸部室における読書のために利用している。
それは本日においても変わることはなく、机脇のフックに掛けられた学校指定バッグを手にした彼女は、クラスメイトを一顧だにすることなく、教室を退室した。
廊下に出た瞬間、彼女はある事象を感知。
自分と同種存在である、パーソナルネーム喜緑江美里が『彼』と接触しているという事態を知る。
当該事項を緊急事態であると判断した彼女は、ただちに意図の確認の思念発信を試みようとするが、それに先んじて、同インターフェース喜緑江美里より事情説明並びに黙認要請の思念が送られてくる。
『彼に対し校内放送への出演を依頼。13分間にわたる身柄の確保要請。身体並び精神の一切の安全を保証。黙認されたし』
なお、この文章は人間に理解できるよう言語化されたものであり、実際に長門有希に届けられた思念はインターフェース間でのみ通用する情報塊のかたちをもって発せられている。
要請の拒絶。身柄の解放要請。さらなる黙認要請。徹底拒絶。懐柔。
2体のインターフェース間での激しい思念の応酬が1秒にも満たぬ時間で繰り広げられたのち、それに終止符を打つこととなったのは、喜緑江美里から提案された黙認に対する交換条件であった。
『彼に食堂における食事を保証。それによって不要となる、彼が自宅より持参してきた携帯食を譲渡する。これをもって黙認を承諾されたし』
かねてより興味をもっていた『彼の家庭の味』を調査できる機会の到来。
この条件の持つあらがいがたい魅力にほだされてしまった長門有希は、とうとう喜緑江美里の要請を承認してしまうのだった。
さて、この一連のやりとりによって昼休みの予定の変更を余儀なくされた長門有希は、その目的地を1年5組の教室へと定めた。
そして、教室に入室した彼女は驚愕の事実と直面する。
つい1分前に通常の生徒の平均歩行速度の2.5倍で食堂へと向かい進行していたはずの涼宮ハルヒが、彼女の指定席である窓際最後方の椅子に鎮座していたのである。
表面上は普段と変わりない無表情で、しかし内心ではこの理解不能の事態に動揺しつつ、涼宮ハルヒを見据える長門有希。
そんな彼女の存在に気付いた涼宮ハルヒは喜色満面とはこのことを言うのだといわんばかりの表情で長門有希に声をかけるのであった。
「あれー、有希じゃない。どうしたの? なにか用?
あ、そうだ! 有希、キョンがどこに行ったか、知らない?
あのバカ、トイレ行ったっきり、戻ってこないんだって」
ここまでの台詞を一気に口にすると、涼宮ハルヒは小柄な自分の仲間の返答を待つかのように、先程までとは逆に口を閉ざしつつ、長門有希のトパーズを思わせる澄んだ瞳孔を見つめる。
一方の長門有希は1分前から現在までの涼宮ハルヒの移動経路を分析しながら、この質問に対し返答すべきかどうかを内部検証していた。
ただしそれも一瞬のこと。
どのみち生徒会提供の校内放送が始まれば全員の知れるところとなるわけで、あえて黙っている意味もないと判断。
彼女は一言
「放送室」
と答えるのだった。
そして、そのタイミングにあわせるかのように、スピーカーからは喜緑江美里の挨拶が流れ出し、やがて彼の声も衆目のもとにさらされることとなる。
『あのー、喜緑さん』
『あらあら、まだオープニングトークの真っ最中ですのに…
ちょっと発言には早いですよ』
「うわ、ホントにキョンじゃない!
アイツ、大丈夫なの? SOS団の恥さらしになったりしないでしょうね?」
わずかながら不満の感情を匂わせる言葉。
長門有希の分析によれば、彼女は『彼』が自分の監視下から外れて行動することを嫌う傾向がある。
長門有希は彼女のその発言が、その感情ゆえに発せられたものだと理解するとともに、今回の突然の進路変更の理由を問いただすことにした。
「食堂には」
「え? 食堂?
あー、あたしがなんで食堂に行かないのかってこと?」
首肯をもって自分の質問が正確に伝わっていることを知らせる彼女。
「んー、なんでかしら?
なんとなく食欲がなくなっちゃたから、まあ、キョンのやつに今後のSOS団の展望と、それにともなった心構えってやつをコンコンと説いてやろうかなって思ってね」
どうやらさしたる理由もなく、今日この時というタイミングで気まぐれをおこしたらしい。
その事実に、あらためて長門有希は驚愕の念を覚えるのであった。
これこそが有機生命体中唯一のイレギュラー存在としての彼女の能力であるのか?
自分が彼の弁当を獲得する瞬間を狙い済ますかのように、この場にいあわせるとは。
「ところで、有希はなんでここにいるの?」
そして、涼宮ハルヒからのこの質問は、長門有希にさらなる思考実験を強要することとなる。
素直に返答すべきか? それとも適当にごまかすべきか?
ベストな結果をもたらすにはどう行動すべきなのかを慎重に検討する彼女だったが、ここにきて緊急を要する展開となってしまう。
「まあ、いいわ。
さーて、キョンが放送室にいるなら、お弁当は無駄になっちゃうわね。
勿体無いから食べちゃいましょう」
と、彼のバッグに手をのばす涼宮ハルヒ。
この、無視できない彼女の言動に、長門有希は思わずすべてを忘れて涼宮ハルヒの手首をつかんでいた。
「へ? 有希、どうしたの? いきなり?」
団員の突然の予想外な行動に目を丸くする涼宮ハルヒ。
「食欲は」
と、これは長門有希の発言。
「あー、食欲? なんか、また湧いてきちゃったカンジなのよね。
別にいいんじゃない。キョンのお母さんだって、お弁当を無駄にされるよりは、誰かに食べてもらったほうが喜ぶだろうし」
食欲の減退と増進。
まさか、これさえも彼女の持つ情報想像能力が顕現した結果なのだろうか?
そう思考をめぐらせる長門有希であったが、それよりもなによりも自分が譲渡された弁当の確保こそが最優先事項であろうと判断する。
仕方なしに彼女は正直に事情を説明することにした。
「彼の携帯食はわたしがもらう約束をした」
「え? そうなんだ。ふーん」
「そう」
涼宮ハルヒは誰に対しても自分の要求を曲げることはない。
ただし、その追求が自分に対してのみ緩むことを長門有希は知っていた。
彼の席に着席し、涼宮ハルヒの視線を浴びながら彼の弁当の包みをほどく長門有希。
はたして蓋を開けて姿を現した弁当の内容はといえば、とりたてて詳しく描写しなければならないほどのものでもない。
玉子焼きやもも肉の唐揚げなどをメインのおかずとしたごくごく平凡なものであった。
あえて言うのであれば、冷凍食品を一切使っていないのが愛情の現われと言えるかもしれない。
ムキになって確保するほどのものでもないと思うかもしれないが、それは素人考えというものである。
人間の味の好みというものは幼児期における食習慣に拠るところが大きく、これは一般大衆に受け入れられるような美味しさとはまったく別の問題である。
そしてそれを決定付けるもっとも大きい要因となるのは、当然のごとく母親の料理ということになる。
であるならば、この弁当の味を見聞することは大変有意義なことと言えるだろう。
どういう意味で有意義であるのかはおのおの察してもらいたい。
弁当箱の中に密封されていたために若干水分を含んで水っぽくなったご飯を咀嚼し、これが彼がほぼ毎日味わっている味なのかと、長門有希はそんな感慨に耽っていた。
「ねえ、有希。
男の弁当を全部食べきるのは大変でしょう? 手伝ってあげよっか?」
「大丈夫」
そして、その価値を認めているのは涼宮ハルヒも同様のようであり、なんとか一部でもご相伴にあずかれないかと思っているようだった。
「その唐揚げ、美味しそうね。一口ちょうだい」
「駄目」
「うー…」
再び言おう。
涼宮ハルヒが自己の要求を通す際、その追及が自分に対してのみ緩むことを長門有希はよく理解していた。
『大丈夫ですか? 心がすさんでしまうのはなにかと良くないですよ。水でも飲んで、落ち着いてください』
校内放送では喜緑江美里が水を勧めている。
彼女に従うわけではないが、涼宮ハルヒを牽制するためにも有効な手段かもしれない。
そう考えた長門有希は
「水を飲んでくる」
と、目の前の団長に伝えて席を立った。
弁当を手に持ったままで。
「ちょっと、有希! 行儀悪いから、お弁当は置いていきなさいって!
誰も黙って食べたりしないわよ!」
長門有希はその発言を虚言であると判断する。彼女は自分の望む存在が目の前にある状態で、それを入手するのに躊躇するような性質ではない、と。
気にせずそのまま廊下へと出る。
さて、彼女は蓋の開いた食べかけの弁当をその手に抱えたままで水飲み場へと赴く。
その奇異な姿に、何事かと注目する他生徒だったが、そんなことを気にするでもない彼女は迷うことなく水飲み場へと直行した。
必要はないのだが、一応宣言通り水を口に含む。
さて、水道水で喉を潤しながら、彼女はある案を思い立つ。
いっそここで弁当を完食してしまおうか、と。
涼宮ハルヒの監視の下でこの弁当を食すのは双方にとって喜ばしいことではないように思えたからだ。
さまざまな条件を照らし合わせ検討。結果、それが最良解であるとの結論に達した長門有希はおもむろに食事を再開する。
一品一品のおかずの味を充分に検証しながら弁当を食べ終えたころに、再び校内放送の音声が耳に入った。
『ところであなたは廊下で物を食べるようなみっともない女の子はお嫌いですか?」
『そうですね…やっぱ、物を食べるべきではない場所ってのはあるんじゃないですかね。俺もよく妹に注意してるし』
………
問題ない。
この事実を隠蔽し通すことが出来ればいいのだから。
そう自分を納得させる長門有希であったが、その願いが叶うことはなかった。
「長門さん、こんな所でお弁当ですか?」
「長門っち、お行儀悪いぞっ。ちゃんと座って食べなきゃっ」
丁度角を曲がってきた朝比奈、鶴屋両2年生に目撃されてしまったのである。
「………」
自らの不注意に後悔と反省。
もしこの場にいるのが彼であったのなら、彼女の視線の奥に恨みがましい感情も認めることが出来たかもしれない。
しかし、残念ながらここにいる2人は彼ほど長門有希の感情を汲み取ることに熟達しているわけではなかった。
結果、無言で立つ長門有希の姿から、『キョトンとしている』という解釈をしてしまったらしい。
「えっと、その、普通は廊下では物を食べないものなんですよ」
「そうだよっ、有希っこ。こんなとこをキョンくんに見つかったら叱られちゃうかもねっ。大変だぁ」
「………」
どうするべきか?
自分と友好関係にある両名に対し敵性行動をとることは絶対に避けるべきである。
この場を切り抜けるのに最も有効な手段は?
彼女が次の行動を決めかねているうちに、救いの手は相手側から差し伸べられることとなった。
「あの、安心してください。その、言いふらしたりしませんから」
「そうだねっ。こんなんでレースから長門っちが脱落すんのはつまんないしねっ。内緒内緒っさっ!」
「レ、レースって…なんですか、もう…」
「あっはっはっ…んじゃね、有希っこ!」
そんな言葉を残しつつ、上級生2人は歩き去っていく。
当面は問題がないということになったらしい。
その事実に安堵しながらも、こんな事態を招いてしまった自分の迂闊さと、そしてなにより喜緑江美里を恨む長門有希であった。
長門有希が1年5組の教室に戻る時点においても、涼宮ハルヒは変わらず自分の席に着席していた。
「あーあ、お弁当全部食べちゃったんだ。
しょうがないわね。今からでも食堂に行こうかしら」
弁当箱が空になっているのを知り、そう落胆の声をあげる彼女。
『俺は金輪際出ません!』
『カシャッ!』
一方校内放送はといえば、最後のシャッター音を区切りとして、平凡な音楽に切り替わっていた。
それは彼の拘束時間が終了したことをあらわしている。
「なに食べようかしらね…
ちょっとここは豪華にカツカレー大盛りにしようかしら」
彼には食堂での食事が喜緑江美里によって保証されている。
そして涼宮ハルヒの独白。
これはなにをあらわしているのか?
彼に譲渡される食券の内容を喜緑江美里に確認しつつ、今後の展開をシミュレートする長門有希。
予想通り彼が受け取ったのは大盛りカツカレーの食券。
ならばその後の展開はおのずと決定される。
まず間違いなく彼と涼宮ハルヒは相席でおそろいのメニューを食すこととなるだろう。
そして、それは彼の弁当を譲渡されるのと同等、もしくはそれすらも上回る魅力をもった食事であるように長門有希には思われた。
「わたしも」
そこまで思考が到達していたときには、既に自然とそうつぶやいていた。
「え?
だって有希はもうお弁当食べたじゃない。あんまり食べすぎるとお腹に悪いわよ」
「大丈夫」
長門有希は栄養摂取という理由によって食物を口にする必要がない。
したがってそもそも満腹中枢というものを備えていないし、食料の過剰摂取によって体調不良をおこすこともない。
それになによりも先程の失敗によって害されてしまった気分を回復させる必要がある。
「むー、なんか今日の有希は素直じゃないわね…」
自分の心配を聞き入れない長門有希に不満顔を見せる涼宮ハルヒ。
いくらお気に入りの子分とはいえ、彼女にも我慢の限度というものがあるのだ。
そもそも彼女の堪忍袋の緒はきわめて細く切れやすいものなのだからしょうがない。
当然の帰結ともいえる彼女の様子に、すべての遠因は喜緑江美里にあるのだと責任転嫁する長門有希であった。