「浜路………」
だだっぴろい座敷の隅っこでうずくまり、嗚咽を漏らす男。
その端正な顔立ちの下半分を覆面で覆い、背中に大砲、そして派手な赤マントと甲冑を着込んでいる。
国を救う八犬士の一人―――犬山道節その人であるのだが、
最愛の妹の兄であることを信乃に奪われた(というか浜路が変えた)上、
最愛の妹を憎き妖怪の主に浚われてしまった。
今頃どうなっているかを思い出すだけでも涙が溢れてくる。
(若…おいたわしや…)
4人の側近は困り果てていた。
今、少しでも刺激してしまえば、油の海に煙草を放るのと同じ効果が現れる。
この部屋が火遁一号で吹き飛ぶ。自分達が死ぬのはまず避けたい部下達。
一方、道節は真面目に浜路をどうやって助けるかを考えていた。
浜路をだしに使い、自分をくぐつとして操った奴らは許せない。
だが、その術に逆らえなかったのは自分であり、
自分だけでは妖怪たち全てを倒すのも不可能だということも、
道節は頭の中で判断していた。だが、協力という言葉がどうにも受け入れることはできない。
そこで、彼は取り敢えず今解決できそうなもう一方の問題に手をつけることにした。
「…曳手、単節。地下牢を用意しろ。
尺八郎、力次郎は今から言う者の寝込みを浚え」
「は…?」
「浜路の為だ」
「「「「御意」」」」
また妹君か。と四人は心中で呆れながらも、主君の命令に迅速に働いた。
「…今目を覚まさせてやるぞ、浜路」
口許を歪める道節の瞳には、狂気の炎が燃えていた。
「ぅ……ん」
うってかわって、平凡な町の宿。
金欠の犬士一行は、たまたまはちあった盗賊一団を撃退し、久しく宿をとることができた。
柔らかい布団は疲れた体を癒してくれ、犬士の紅一点の信乃は例外なく、夢の世界へまどろんでいった。
途端、あたりが寒くなった気がする。
うっすらと目を開けると、部屋が先ほどよりも狭くなっていることに気づいた。
「…ここは!?」
ばっと、布団をはだける。確かに布団はあるが、あまり見慣れない景色だった。
だが見たことがある。育った城の地下にあった牢だ。
それほど苦はない、床の畳は普通のものだし、寝れる場所はある。
だが、目の前にある木の柵が、どこかものものしい雰囲気を放っていた。
覚醒しはじめた頭で、ようやく自分が牢に囚われているということを認識できた。
「…しまった…油断していた…。…荘助!毛野!?」
ともにとらわれていれば、彼等の声が隣の牢からでも聞こえてきそうなものだが、
この部屋には牢はひとつしかなく、そして自分がここに一人だけということに、何かいたいものを感じた。
村雨に選ばれた犬士だとはいえ、戦闘能力は犬士たちの中では最も低い。
そこに負い目を感じてはいたし、何人もの妖怪の中を突っ切る自信が、急激に弱まっていく。
「…村雨が…ある?」
手元にあった剣に、状況に違和感を覚える。敵は自分ごとより、村雨だけを狙うほうが楽なはず。
「お目覚めか」
ふと、柵の向こうから聞こえてきた声は、聞きなれたものだった。
「…道節っ!」
僅かな月明かりに照らされた影は、いつも自分の影から現れる半機械人。
助けかと、喜びに目に一瞬光が戻ったが、道節の様子がいつもと違うことに気づいた。
その瞳は憎悪の光が燃え、今にも自分を攻撃してきそうな。操られていた時とは異種の敵意。
重い空気に、心臓が早まっていく。身体が無意識に、尻をついたまま後ずさっていた。
「…俺は考えていた。貴様から浜路を取り戻すのにはどうすればいいか」
淡々と告げられる声色は冷えていて、言い終わると彼はずるりと自らの影に吸い込まれる。
柵のこちらがわに現れるのは、いつも使っている空間移動。
だが、今の道節はまるで別人のような鋭い瞳を信乃に向けていた。
「浜路と貴様を断つのはたやすいが、それでは浜路が悲しむ」
「…道、節…?何を…」
道節が妹のことで自分に言ってくるのはいつものことだし、浜路の一方的なものだと言っても彼は信じない。
だがそんな軽いのりではなかった。喉が枯れ、手が震え始める。
―――――怖い…
時折感じる、強大な敵に対する感情。
鋭い殺意が形になって自分に押し寄せ、身体の自由を奪う。
「それならどうすればいいか、それは簡単、そして明快だ」
突然ぐっ、と強く腕をつかまれ、ねじりあげられた。
足が地面に付くことができず、右腕が体重にひっぱられ、鈍い痛みが走る。
「くぅっ…!?」
苦悶の表情を浮かべ、信乃は痛みにくぐもった声をあげた。
誰もが男と見ていても、女である彼女の身体は軽く、弱い。強く腕が締め付けられ、二重の痛みが来る。
「…道、節ッ…ち、がぅ…」
「何が違う?」
そう問うと同時に、道節は信乃の腹に拳を叩き込んだ。
仮にも仲間である者への行為とは思えないほど、強く。
「かっ…は…ぁっ!」
急激な圧迫と、内部に響く痛みに苦痛に喘いだ。
「…っぅ、げほっ…はっ」
空気を送り出すために咳き込むと、僅かに血が滲んでいる。
「…貴様にはわからんだろうな?軽々と浜路の視線を奪った貴様に」
殴った手で、そのまま顎を傾かせられる。
目の前の憎悪に燃えた瞳を前に、信乃はかちかちと歯を鳴らし、瞳に涙を滲ませている。
「奪われた者の気持ちを。俺の悲しみを。失ったものの大きさをッ!」
骨が砕けてしまいそうなほど道節の手に力がこもり、信乃は再び苦悶の声をあげる。
「だから…貴様を浜路が見ないようにすればいい。」
途端、手を離され、床にどたんっと崩れ落ちる。
「ぅっ…」
身体がたたきつけられた痛みに声をあげ、そのまま床にあおむけに倒れる。
内部の痛みが身体の力を奪い、はぁはぁと荒げた息を整えるだけ、
道節は信乃を組み敷くような形にする。驚いたような顔をしたが、信乃は抵抗する意志も力も霞んでいた。
「見れないほど、貴様を穢してやればいいだけだとな」
その濁り、冷えた言葉は、牢の中に鋭く突き刺さった。