季節は晩春。3日に一度は雨が降ると言われる日本の梅雨。それはもちろん長織市も例外ではない。
「はあ、こう雨が続くと気持ちもブルーになりますねぇ」
こう呟いたのは八重だ。しかし、言葉とは裏腹にどこか楽しそうにしている素振りを親友達は見逃さなかった。
「あれから八重ちゃん雨の日が楽しそうじゃねぇ」
「まあ、お気に入りの傘が一緒やしな」
「雨の中の七瀬っていうのもいいわね」
あの日あの雨から八重は、いつも持ち歩いている折り畳み傘ではなく、青くて大きな傘を持ち歩いている。
八重自身は何故自分は青を選んだかはまだ分からない。でも私達は知っている。
父の意志を受け継いだ青。
数少ない父の記憶の一つ。
確かに、八重にとって雨を楽しくするには十分過ぎるだろう。
父がいなくなったあの日から塞ぎ込んでしまった八重ちゃんの心を開いてくれたのは私達だ、とおばさんは言ってたけど、私達はまだ八重ちゃんの事を何も知らない。それはやはり事実でしかない。
それが不安だった。自分は本当に力になれているのか。自分にその資格があるのか。
でも、それよりも、父親を亡くして自分達よりももっと大きい苦痛をずっと長い間抱いてきた八重の事が何よりも私達は不安だった。
そこで遊園地へ行こうとみんなに提案したのは多汰美だ。
幼少時期に友達と遊べなかった八重に楽しんで貰いたいという一心で放った誘いなのだろう。それは私達が今出来るほんの小さな一歩かもしれない。
おばさんの賛同を得て、七瀬家+1は日曜日、遊園地に向かった。
[長織駅]
遊園地にいくには車を持っていない七瀬家は家族での移動は必然的に電車になる。七瀬家とにわはその日、長織駅にいた。
「お母さん、私は大人料金だからね?」
「八重ちゃん怖い;」
[電車内]
「遊園地とか久しぶりやなあ」
「皆さんは遊園地はあんまり行かれないんですか?」
「ほうじゃねぇ、私も久しぶりじゃよ」
「というより、頻繁に行くところでもないんじゃない?」
「ほういう八重ちゃんはどないねや?小さい頃よう行ってたんか?」
「いえ、実はこれが初めてなんですよ、私。だから楽しみなんですけど少し緊張しますねぇ」
「……………」
この時、幸江の顔色が少し変わったのを多汰美は見逃さなかった。
「どうかしたんですか?おばさん。」
「……八重は覚えてないのね。」
幸江は、隣にいた多汰美に小声で話した。
「実は、昔一度だけ家族で遊園地に行ったことはあるわ。あの人も一緒にね」
「えっ?あの人って……八重ちゃんのお父さん…?」
「ええ、とても楽しかったわ、あの時は。それをあの子は覚えていない。分かってはいたけど、少しショックね。」
八重は父を亡くした痛みを今も抱えて暮らしている。そのせいか、父と過ごした時間が思い出せないでいる。
だから今日はその不安を取り除くための遊園地だ。私達は八重の父親の代わりにはなれない。でも、それでも私達は八重の支えになりたいと思っているのだ。
「へぇー、割と広いのね。」
「ほんまじゃねぇ。広島の遊園地もこれぐらいじゃよ」
ここの遊園地は並み以上に広い。それだけあって遊園地に定番なものはもちろん、少々マニアックなものまで揃っている。
「初めて来たけど、期待以上やったなぁ」
「なんだかワクワクしてきますねぇ」
「ふふ、懐かしいわ。あれから全く変わってないわね。」
正直なところ、広さなどは些細な問題でしかない。要は、八重がいかに楽しめるかであって、今日の主役は私達でも遊園地の遊具でもなく、八重なのである。八重はジェットコースターには乗れるのだろうか。その前に身長制限は…?
不安の絶えない楽しい遊園地はここから始まった。
「七瀬、何に乗りたい?」
「え?えぇっと…わ、私初めてでよく分からないので皆さんで決めてください。」
「そう?じゃあ………。」
「そうなったらジェットコースターしかないやろ。」
「青野、珍しく意見が合ったわね。」
「ええっ!?あれに乗るんですか!?……私滑るのがry」
「八重ちゃん?遊園地の三分の一はジェットコースターに乗りに来るところなんよ?」
「多汰美?それは流石に言い過ぎやと思うわ;」
[ジェットコースター]
「え……;ほ、本当に乗るんですか?」
「ここまで来て何言っとるねん、ほら、次やで」
「で、でも……;」
受付「お嬢ちゃん、ごめんね〜小学生は乗せられない決まりなの。お嬢ちゃんはあっちに乗ってくれるかなぁ?」
差し出された手の先には子供向けのジェットコースター。いや、むしろジェットコースターなのかすら疑問に思うほど緩やかな乗り物。多分ジェットコースター。
「………………」
「や、八重ちゃん?」
「よ、よかったなぁ。乗らんで済んで;」
「そうそう、怖い思いしなくて済んだじゃない;」
八重をなだめる一同。しかし、八重の耳には入っていない。
「…………」
「七瀬?」
「………え?」
「八重ちゃん?具合でも悪いん?ボーっとしとるよ。」
「いえ、そうではないんですが…。お母さん?」
「何?八重。」
「お父さんってジェットコースターが凄く好きじゃなかった?」
「!」
「……………そうね。乗っては降りて乗っては降りての繰り返しだったわね。子供みたいに。……でも、どうして?」
「え、いや、…そんな気がしただけ。」
もしかしたら八重は思い出すかもしれない。愛する父親の事を、そしてその思い出を。
しかし、それは本当に良い事なんだろうか、正しいことなんだろうか。
思い出すという事は八重の辛い過去を掘り起こす事でもある。私達は思い出したくない八重の思い出を無理矢理に引っ張り出しているだけなのかもしれない。それは八重の心に深い傷を負わしてしまう可能性だって否めない。
その不安は思考の中を走った。
今更になって事の重大さに気付いたのだ。引き返せはしない。やり直しは出来ない。自分達に出来るのは、ただ八重を「信じる」だけだ。それがこんなにも難しい事だったなんて。
そんな心中を察したのだろう、言葉を放ったのは幸江だ。
「大丈夫、八重は強い子だもの。それに、心強い仲間も出来たのだから。心配はいらないわ。」
幸江は多汰美、真紀子、にわの三人に優しくウイングした。
それはどんなに三人にとって頼もしかっただろう。八重に最も近しい人に認めてもらえたのだ。自分達を「心強い仲間」と言ってくれた。
そう、何にも心配することはない。
だって、八重はこんなにも楽しそうなのだから。