━新聞部・部室━
「…よし、ラス、印刷ッ!んあ〜!終わた〜〜ッ!!」
「はい。お疲れさまです、部長」
PCのキーボードを叩く手を止め、椅子の上でダラーンと伸びるみずほ。
労いの言葉をかけつつ、とみかはプリンタから吐き出される大量の文書を出た端からムム、とした面持ちで読んでいる。
「どぉでございましょ?」
「…ぇー…と…はい!OKです!!」
「ひー。間に合ったぁあああ」
よりダラーンとなる、みずほ。
「ほんと、ギリギリでしたねぇ…後は製版だけですね。今日中にやっちゃいますか?」
とみかが原稿束をトントンと揃え封筒に入れながら、尋ねる。
「んあ〜?そぉねえ……ま、明日でも」
「ああソレ、俺がやっとくよ。机に置いといてくれよ、とみか」
部室の端っこからの声に、2人の目が行く。
「なぁ〜に〜慎太、ソッチまだ終わんないのぉ?使えないわねぇ」
「…お言葉ですがね、部長…」
壁際の古びた棚の戸を全開にして中に潜りこんでいた慎太が、大量の写真をバサバサと床に散らしながら顔をニョキ、と覗かせる。
「1年分の写真整理が1日で終わるかッ!!ったく…適当に詰めてっから日付から何からバラバラじゃねーか…あと、コレ!」
「ん?」
ビッと出された写真には、【慎太に抱きつくとみか】の姿が焼きついている。
「おー、それ、あれだ、真夜中の情事じゃん。なっつかしーわねー!」
「わう?!ジョ!ジョージ!?」
珍アクセントで外人名を叫ぶとみか。
「こんなもん現像すな!しかも無駄に連写しやがって、整理が紛らわしいだろが!」
「あによ〜?スクープよ、スクープ。いい?そこにスクープがあれば撮る!これがジャーナリストの鉄則よん」
「スクープじゃねえ、でっち上げんなパパラッチ!!」
「な?!パパラッチゆうな!!」
「まあまあ、部長そのへんで…」
「情婦はお黙りっ!!」
「わうん!?ジョーフっ?!」
ヒートアップしたみずほにとばっちりの一喝を受け、とみかは慎太に救いを求めて眼差しを送る。
「‥慎太ちゃあん‥」
「‥ぅ。‥わかったよ‥わりぃ、とみか。‥と、とにかく怪しい写真は全部処分すっからな、秋山。」
「キー!怪しいってゆうな〜〜!」
足をジタバタさせるみずほを無視、慎太はため息をつきながら再び棚に潜る。
「ちょっと慎太ぁ、無視すんじゃないわよ〜〜〜〜ッ」
慎太、無言。
こうなると、みずほもただの駄々っ子でしかない。
(はぁ‥)
とみかもため息をつき、帰り支度を始めた。
こういう時、たからさんがいてくれたら‥。
『‥駄々こねてないで帰るわよ、そこのバカ』
とでも切り捨てて、引っ張っていってくれるのに。
が、その頼れる目付け役は『‥今日、バイトです。あとよろしく。』と単発メールをみずほによこしたきり、顔も出さず。
新聞の締め切りも間近い今になってもアンタ金が大事かァー!
‥と携帯画面にツッコむみずほの姿に、追い込まれた編集者の哀れを見た気がしたり。
そんなこんなで、今日の新聞部部長・秋山みずほは部活開始からすこぶる機嫌が悪く、そして横で作業していたとみかは、チクチク胃が痛い放課後を強いられていたのだった。
「ねえ、慎太ちゃん。整理は明日にして一緒に帰ろ‥?明日は私も手伝うから、ね?」
ブスッとして帰り支度しているみずほを横目に、声をかける。
この分だと帰り道でも愚痴を聞かされそうだし‥せめて道連れが欲しかった。
「んにゃ、散らかしてっからな‥終わったら帰るよ。いいから先帰れ。外、暗くなんぞ?」
‥切なる思いはこれっぽっちも届かない。
「じゃなくて、製版までしてくれるんでしょ?風間君?」
ここでみずほがトドメの嫌み、一発。
「……あー、わかってるよッ!帰れ早く!」
(ああああああ‥ι)
事態は悪化。
胃が、胃が痛い。
部長もうしゃべらないで‥。
「じゃー風間君、後よろしくッ!‥帰ろ、とみか!」
「‥あーうー、慎太ちゃあん‥また明日ぁ〜…」
万策尽き、みずほにズルズルと引きずられていく、とみか。
ガララ……ピシャン!
部室の戸が、みずほの怒りを表すように勢いよく閉められ‥次第に、2人の声が遠くなっていった。
(‥ふう‥)
急に静かになった部室の中、慎太は黙々と写真を分別していた。
「‥つーか、あいつら、すげー色々撮ってんなぁ‥」
棚から引っ張り出した写真は、慎太の回りにモッサリと盛り重なり、布団さながらの量である。
これだけあると、出した分をまた棚に片づけるだけでも手間だ。
慎太は、あーあ‥と伸びをひとつ、写真の中にごろりと寝ころんだ。
「‥痛え‥」
首すじに写真がチクチクする。
寝心地は悪いが、伸ばした体は妙に心地よく、起きあがる気はしなかった。
(…お?)
ふと、胸の上の写真に気づいて、手に取る。
寝ころんだ時、舞って落ちたのだろう。「………あ……」
━━━写真の中では、4人の顔が寄り添うように、笑っていた。
みずほ。
とみか。
たから。
そして慎太は、3人に頭をクシャクシャにされながら、苦笑いを浮かべている。
(‥これ、とみかが入部した時の、か…)
たかだか1年足らずの【昔】だが、それでも懐かしく思えた。
‥写真の中では、たからのポーカーフェイスも、心なしか和らいで見える。
みずほは‥キャラむき出しだ、変わってない。
とみかも今と大して変わらないな。ちっとは成長してんのか‥?
「……」
‥卒業して何年かしたら、この写真を見て懐かしむ日が、来るんだろうか?
(‥つか俺、その時なにしてんだろうなぁ‥)
自分の写っている写真を見ると、なんとなく将来を漠然と考えてしまう…。
……
………
…………
「………やべ、浸ってる場合じゃねぇや」
ハッとして、上半身を起こす。
写真をみる度いちいち感傷的になってたら話にならない。
これを片付けて、製版をしよう。
整理は明日手伝ってもらうしかない。
「…あー、でもなぁ。秋山に嫌み言われっかな…」
「‥あら。言われるような事をしたの、風間?」
「ぁひッ!!!!????」
背後からの静やかな女の声。
心臓が、跳ね上がった。
「さ、さささ冴木ッ?!」
「…ですけど。何か?」
慎太が泡を食いつつ振り返るとそこには、薄暗くなった部室の戸口に立つ、たからがいた。
「いつからいた、お前ッ!?」
「‥風間が床に伸びて、口開けて写真を見てた時から」
(結構な時間じゃねえか‥ι)
「声、かけろよ!」
「‥かけたじゃない、今。‥暗いわ、電気ぐらいつけなさいな」
しれっと答えつつ、照明を点ける。
室内に明かりが満ち、写真まみれな床が晒された。
「‥にしても、ずいぶん散らかしたこと」
紙と紙の隙間、わずかに残る床スペースをひょいひょいと身軽に踏みながら、たからは慎太の傍らにやって来た。
「…たまったわねえ、写真。‥この様子だと、整理は順調に進んでるようね?」
「ああ?お前までイヤミかよ?‥あのな。写真を増やしてる1人だろが、お前も。手伝えよな少しは」
「…ふふ」
胡座をかき座り込んだままふてくされている慎太を、たからは微かに笑みを浮かべてチラ、と見る。
「何、笑ってんだよ‥てか、お前‥」
ここにきて、慎太はたからの服装に気づいた。
「なんで制服のままなんだ?‥今日バイトじゃないのかよ?」
「…ん?」
「いや、だから‥」
バイトで部活休んだんじゃ‥と言いかけて、ハタと気づく。
「おまッ‥行ってねーな?サボリか!?サボリかコラ?!」
「…サボリとは人聞き悪いわね。‥まあ、バイトというのは嘘だけれど」
「開き直りか、ヲイ‥」
軽く小突いてやろうと腰を浮かしかけた慎太の目の前に、たからは手にしていた紙袋を見せる。
「な、なんだよこれ」
「…わからない?買い物して来たの。暇だったわけじゃないわ」
「狽「やいやいやそれをサボリっつうんだ!!」
まるで聞き分けのない子供を見る目で青筋立てた慎太を見下ろし、たからは横髪を軽くかきあげた。
「‥細かいわねぇ。ただでさえ小さい器が縮むわよ?風間」
「秤エのウツワはカンケーねえええ!!」
慎太のツッコミもたからにはまるっきり、柳に風である。
「‥だあ〜、もう!」
やがてたから相手にわめくだけムダと知り、慎太は一層むくれ顔で座り込んだ。
「‥お前なぁ、今日は追い込みだったんだぞ?何もこんな日にサボリかまさなくてもいいだろが‥」
「…いいじゃない。私の記事はもう提出済み、編集は部長の仕事。…それにパソコン使うのは1人、私がいたって能率は変わらないでしょうに」
「じゃ手伝えよ、写真整理」
「…埃かぶるのは、嫌だわね」
サラリと言い切り、超然と慎太を見下ろすたから。
「…うーわ…ι」
もはや怒る気力も失せ、慎太はガシガシと頭を掻く。
「‥そだよ。お前、そーゆー奴だったよな‥」
「…思い出してくれて、嬉しいわ」
たからには、慎太の怨みの視線すら心地いいらしい。
━しかし、すぐにその涼しげな顔に不満の色が浮かぶ。
「…それにしても、風間‥」
たからはしゃがみこみ、ブツブツ愚痴る慎太の頭にポンと手をおくと、
「…この頭、脳が入っているのかしら?」
「な‥ぅぎッ?!」
そのままグリッ!!と無理やり自分に顔を向けさせる。
「ぃてててッ、な、何す‥」
「…サボリ、サボリと単純なのよ。…2人が帰るまで待っててあげた‥とは考えないのかしら?」
「はッ!?」
「…鈍いにも、ほどがある」
「‥!‥」
ため息ひとつ、不意にたからが顔を寄せて、戸惑う慎太の唇を奪った。
‥普段のたからからは想像もつかない程に、貪欲で、必死に吸いついてくるようなキスだった。
…ん…ぅ……んんっ…
静まり返った部室の中、唇を重ねる2人の微かな吐息だけが響く。
キスしながら、身をのしかからせてくるたからの肩を支える慎太だったが、不自然な姿勢のせいでジリジリと後ろに倒れそうになる。
それでも逃がさぬとばかりに、たからは慎太の唇を貪りながら体をぴたりと寄せてゆく。
慎太の口腔にたからの温かい舌が侵入し、歯茎と舌を撫で回し、頬の内側を舐める。
慎太が抵抗せず舌を浮かせば、途端、たからの舌が絡みついて、猫のじゃれ合いの様にこねくり回してきた。
「んんっ……ン、ふぅッ…ん…ぅ……ッ」
慎太の口をキスで犯しながら、たからは密着した唇の端からくぐもった声を小さく漏らす。
…どれくらい、唇を重ねていただろうか。
ぷぁ‥ッと、ようやくたからが唇を離した時、下敷きの慎太は若干、血の気が失せた顔つきになっていた。
「…ふふ。ごちそうさま」
「ぉ‥おま‥ッ……い、息できねッ‥殺す気か?!」
ご満悦らしいたからに対し、だらしなく床に伸びた慎太はゼイゼイと胸を上下に揺らし、空気を体内に取り入れる。
「…相変わらずキスが下手ね、風間。鼻で呼吸なさいな」
「ば、ばか、鼻じゃ追ッつかねぇんだよ‥お前のやり方、激しすぎて‥」
「…何を。人を色情狂みたいに」
頬を微かに上気させ、たからは、軽い酸欠に陥っている慎太の上から身を起こした。
次いで手を差し出し、慎太を引き起こして並び座る。
「あのな‥男をいきなり押し倒すのは立派な色情狂だ」
「…あら、そう」
どうにか息をつき、唇をぐい、と腕でぬぐう慎太の頬を、たからの白い手のひらが包み、愛おしげに撫でさする。
「…じゃあ、その色情狂と1年もつき合っている風間はなぁに?‥獣?犬かしら?」
「いや、俺は人類ですが。痴女の冴木さん」
無言。
「……ふうん、そう。何だかまたキスしてあげたくなってきたわ?ねえ、風間…?」
「イッ!イタタタタタタ!」
むんずと髪を掴まれ、また顔を引き寄せられる。
うっすら微笑んではいるが、たからの眼はすわっていた。
「か、髪抜ける!抜けるからッ!!わ、わかった、わりぃ、痴女言ってゴメンナサイッ!」
「……ばか」
再び、たからがキスを仕掛ける。
ただ‥今度は優しく、唇に触れあうような、甘いキスだった。
「……ん……」
目尻に涙すら浮かべて悶えていた慎太も、今度は揺らがずにキスに応え、たからの肩に腕を回し、紫藍のサラリとした髪を優しく、櫛とくように撫でてやる。
‥ふわりと、甘い香りが慎太の鼻をくすぐった。
(‥ん?)
撫ぜる髪の手触りも、微かにしっとりとしている。
「‥なあ。もしかして、風呂入ってきたの?お前」
「……ええ、まあ」
ゆるキス堪能中にふいに唇を離され、たからは名残惜しげな様子で答える。
(サボリで暇とはいえ、わざわざ帰って風呂に入って買い物か‥)
「…それが何か問題?」
「いや、買い物はいいけどさ‥部活サボってまで、風呂って。買い物してから部活出てくりゃいいじゃんか‥秋山マジギレしてたんだぜ?」
「…本当、些細なこと気にするのね。‥まったく、ムードも何もないわ」
呆れた口調で、傍らのA4サイズ程の紙袋を取り上げてヒラつかせる、たから。
「…あなたへのプレゼントを買って、のこのこ部活に出れるわけないじゃない。…みずほの事だから、遅刻をタネに中身を詮索するに決まってるし」
「……それ、プレゼント?え、お前が?俺に?‥マジ?ネタじゃなくて?」
無言。
「…そんなに意外?」
キロリと光る、たからの眼。
「い、いえ、そんなことはございませんです、ハイッ!」
これ以上引っ張られたら本当に髪が抜けてしまいかねないので、即座に謝る。
反射的に慎太の手は、頭をガードしていた。
「…今日、やっと届いたのよ。‥部活終わりに一緒に買いに行くのも考えたけれど‥」
頭をかばいながらキョトンとした顔をしている慎太の前で、ピリリ、と袋の封が切られる。
「…そうすると小田さんにまで勘ぐられかねないし、ね」
たからはチラ、と横目で慎太を見る。
「え‥いや、俺は‥」
「…ねえ、風間。…ルールでしょう、それが。忘れないで」
慎太の言葉は、たからの呟きに遮られてしまった。
慎太はなおも何か言おうと口を開いたが…ためらい、視線を泳がせ…結局、黙ってしまう。
うつむくたからの表情は前髪に隠れて、伺い知れなかった。
(……まだ気にしてんのか…とみかの事)
無言で袋を探るたからを見つめて、慎太の唇にふと、苦笑いがこぼれた。
━━風間慎太と、冴木たからがつき合い始めて、すでに1年を数える。
たからは、人付き合いにおいて【不器用でも困りませんから】とオーラチカラむき出しな、とっつきにくい事この上ない人間だ。
そんな女と、夕暮れの部室で2人きり‥寄り添ってキスまで交わす仲に至るには、慎太自身、それはそれは根気と執念の要る、流血と屈辱に満ちた長いイバラの道を歩かなければならなかったのだが‥
こうして晴れて親密な関係になった今でも、2人の間にはいくつかの不可侵条約のような物があった。
それはとり纏めると、要は【2人の関係は誰にも秘密。】という内容のモノなのだが、たから自身は特に新聞部の仲間にだけは仲を公開したくないらしかった。
慎太も、たからがそんなに嫌がるなら‥と受け入れて、口外しない努力をしている。
新聞部はたった4人の部だ。
人間関係が狭いぶん親密にもなりやすいが、1度でも関係にヒビが入ると途端にギスギスしてしまう。
━…やましいわけ、ないじゃない。━
俺とつき合って何かやましいのかよ?
秘密にこだわる彼女を問いつめた時、返ってきた言葉だ。
━…でも、言えば争うしかなくなるの。私はゆずる気、ないから。‥向こうが潰れるまでやるわよ?━
‥いいの?
そう呟き慎太を見るたからの眼には、慎太がたじろぐほどの激情を秘めた光が宿っていた。
‥唇に、ぞくりとするような微笑みを浮かべて。
━…だから、言っちゃダメ。…ダメなの。━
しかし、最後に言った言葉はとても弱々しく、慎太には、哀願するような響きにさえ聞こえた。
━え?潰すって誰を?━
━━まあ、その後に及んで間抜けにもそう聞いてしまった慎太がその【誰か】が【小田とみか】の事だと気づくまで、
髪の毛十数本と鼻血2回、打撲4ヶ所、『…死になさいな』とチギりとられる勢いでつままれた頬の激痛、そして1週間の【徹底的シカト】の刑という代償を払うことになるのだが‥
とにかく、たからの希望により秘密は今日まで無事に守られている。
(‥もう1年、なんだよなぁ‥)
とみかとは幼なじみ、兄妹同然、つき合うなどありえない。
だから隠さなくても。
折りにつけ、たからにはそう言い続けてきたが‥この話題になるとたからは無言でしか応えてくれなくなる。
(‥いい加減、信用してくれよ‥)
最近では、待つしかねえかな‥と悟り、極力この問題には触れないようにしているが、こうして内に引き籠もっているたからを見るのは、辛くもあり焦れったくもあり、なんともやるせない気分だった。
(…はあ…)
カチッ。
(‥カチ?)
つらつらと考え込んでいた慎太は、ハッと【今】に引き戻された。
━何か金属製の物がハマったような、小さな音。
見ると、横にいたはずのたからが、いつの間にか慎太の後ろに立っていた。
「…何をぼんやりしてるの?風間」
「あ、わりぃ、ちっと考えごとを…って、なんだコレ?」
‥首に、何かひんやりした物の感触がある。
「…プレゼントよ」
「いや、だからコレ、何だ?」
それは、まず首に【巻きついて】いた。
ネックレスの類いではないようだ。
ひんやりとして、厚く幅があり、固い。
手触りでは、皮製の何かだ。
‥首にピッタリ巻きつけてあるので、視界に入らないのがもどかしい。
何だ?
何だコレ?
「………………」
ペタペタと【それ】の手触りを確かめる。
……
………
…………おい。
まさか、これ…
「‥アノ、サエキサン?」
緊張に、声がうわずっていた。
「…なあに?風間…」
背中越しに、たからが膝をつく気配を感じた。
次いで慎太の肩ごしからたからの腕が首もとに回され‥背後からぎゅ、と抱きしめてくる。
「…よかった。‥サイズ、ぴったりね」
たからの指が【それ】を撫でる。
「…どう。きつくない?風間」
囁くたからの吐息を、耳朶に感じる。
ぞくぞくするほど心地よかったが、残念ながら今の慎太はそれを喜べる気分ではなかった。
「コレ、ナンデスカ?」
「…ふふ」
緊張に固まっている慎太を弄うように優しい声が、耳に囁いた。
「…とても似合ってるわよ、その首輪」
━━━━無言。━━━━
「‥狽ィぉぉぉいッ!!」
もぉ、わッけわかんねぇ!すでに慎太の目にはナミダが浮いていた。
首輪を引っ張る。
ビクともしない。
首から抜こうと試みる。
ジャストフィットすぎて無理。
つなぎ目を探す。
見事に無い。
「…あら、必死」
悶える慎太に抱きついたまま、たからがくすくすと愉しげに笑う。
「…でも外れないわよ?どうやっても」
「なんで?!」
「…鍵、ついてるし」
「なんで鍵付きッ?!」
「…注文する時に苦労したわ」
「オ ー ダ ー メ イ ド か よ ?!」
「…なんで犬用の首輪に暗証キーを、ってしつこく聞かれてね」
「蝿テ証ッ?!つかやっぱ犬用かよコレ!?」
「…あんまりしつこいから、結局それ系の専門店で頼んだの」
「それ系ッてドコだよ!?」
「…………」
「‥うゎ、黙るなよ!怖ぇだろι」
「…もう。いいじゃない、どこだって…」
拗ねた口調で、質問は打ち切りだとばかりにたからは慎太をより強く抱きしめた。
「…嬉しくないの?」
(‥ううう)
静かだが、心なしか不安げな声に、慎太も言葉につまる。
‥たからが自分にプレゼントをくれるなど、初めての事だった。
嬉しくないわけがない。
たとえそれが首輪だったとしても(首輪なんだが)、たからが自分の為に見立ててくれた物なら、墓場まで持って行ってやる覚悟、ここにありだ。
…ただ。
なぜに、首輪?
嬉しいが、物の意図がつかめないのである。
「…あの子たちの首輪」
「‥へ?」
唸りながらリアクションに迷う慎太の首輪を指でなぞり、たからが呟く。
「…前に、小田さんと買いに行ったでしょう?ヘンデルとグレーテルの首輪…」
「あ?‥あー、そうだったな。とみかが付けてやりたいって言い出したから、つき合ったんだ‥けど‥ッ‥ぐッ!」
ぎゅうううううううッ。
たからの腕にくるまれていた首が、圧を増し非常に苦しくなる。
‥見事な、チョークスリーパーだった。
「…風間」
蒼白い顔で腕をタップする慎太の耳に、たからの低くも静かな声が滑りこんできた。
「…ねえ、不安にさせないで」
「……」
「…私は、風間だけよ……離したくないの」
「‥冴木‥」
それだけ言うと、腕の力は緩められた。
「…だから風間も、私だけ見てて」
たからの唇が慎太の耳を優しくはみ、柔らかい髪が、頬にさらついてくる。
なんとも心地よい【おねだり】に、慎太の体は完全に骨を失っていた。
「…風間は私のなんだから。‥この首輪はね、その印」
(あー。そういうこと、か‥)
あえて首輪を選んだのは、単にたからがズレている訳ではなく、とみかへのあてつけじみた意味も含めての事なのだろう。
‥なんというか。
【所有物≒首輪付けとく】という発想。
思慕が率直すぎて溢れかえった挙げ句、2周3周して逆にひねくれてしまった感じ。
その辺りの不器用っぷりが、実にたかららしい。
だが、それだけ自分はたからが独占したい対象なのだ‥と思うと、嬉しかった。
「……風間、聞いてるの?」
「‥あ〜、ったくホント!危ねえ奴だなぁ、お前。ペットかよ?俺は‥」
嬉しさに、不覚にも目が潤んでしまった自分を隠したくて、慎太は抱きつく腕をとり、ぐい、とたからを胸元にひき寄せた。
「…こら、乱暴。…ふふ‥そう。世界一、大事なペット」
慎太の膝の上で抱かれる姿勢になったたからは、ゆっくりと手を制服の胸に這わせる。
「で、お前が飼い主ってわけか?‥しつけ厳しそうだな、なんか」
「…ふふ、どうかしらね。‥でも」
たからがつと、目を細める。
「…逃げたら、ブチ殺すわよ?」
「買Cヤ眼が怖えよ!シャレに聞こえねぇぞオイι」
心を熱くした嬉しさが、一気に氷点下へ落ちこむ。
「…なら洒落で済むように、よそ見しないで私のそばにいなさいな。」
「へいへい。見ねえって」
「…風間。ハイは1回」
「‥はい。ご主人様、首輪をありがとうゴザイマシタ」
「…ばか。遅いのよ」
困惑しつつも、優しげな笑みを浮かべている慎太の頬をたからの手のひらが包み、愛しそうに撫でた。
柔和に見つめるその目に、悪戯っ子のような光が浮かぶ。
「…ねえ、風間。わざわざお風呂まで入ってきた理由‥まだ聞きたいかしら?」
「う‥おい、どんだけ鈍いんだよ俺は‥ここまできて茶化すなよ、ばか」
「…だって。1から10まで言ってあげなきゃわからないんだもの‥飼い主としては苦労するわ、本当に」
「そ、それは‥ι‥あーわかったよ。ダメ犬で悪うございましたね」
「…ふふ、いい気持ち。いい子ね、風間」
「ホントいい性格してんな、お前」
嬉しげに微笑むたからの唇に、今度は慎太から唇を押しつけた。
舌をたからの口の中へとねじこんでいく。しばらく遊ばせてから引き戻すと、今度はたからの舌がもっと、とばかりに追いかけてくる。
それを唇と舌で捕まえて、ちぎれるほどに吸いあげる。
たからは舌を喰われながらも、合間に流れこんでくる慎太の唾液を舌の脇で混ぜ合わせて、飲み下した。
…はぁ…
2人の唾液が混じり透明の糸を引きながら、ようやく唇が離れる。
「…ぁん‥はぁ。たくさん飲んじゃったわ‥風間の涎」
「…ッ…だ、だから、息させろよお前‥」
「…だぁめ‥ふふ、私これ、好きなの。‥死ぬまでキスしてあげるわ風間」
「うぉ‥」
膝の上で座り直して、今度はたからが唇に貪りつく。
たからの舌が口の中ではしゃぎ回るように踊り、慎太の舌に絡みつきニュルニュルと蹂躙してきた。
「…んッ…ふうッ…んんん」
ちゅ、ちゅっ…ぢゅううっ…ちゅうっ…
唇と唇が吸引しあい、唾液と絡みながら水音を立てる。
たからは慎太の頬を両手で包み、したいように顎の角度を変えながら、なおもむしゃぶりつく。
一方的なキスで、たちまち慎太の口回りはたからの涎でべとべとに汚されていった。
「……んぅ、ふあ……なぁに風間‥トロけた顔しちゃって、情けない‥」
息つぎに唇を離したたからの目が、何か思いついたように細まる。
「…ふふ。そうだわ、お返ししなきゃね。‥ねえ、口、開けて?」
ペロリと唇を舐めて、慎太の頬を再び両手で包むと、親指を口の端に潜りこませる。
「んが、ぁにふんだぉ‥」
「…開けなさい。‥もっと舌、出して‥そう。そう、いい子ね風間‥」
優しい声色で囁きながらも、たからは興奮で慎太の抗議など耳に入っていないらしい。
その有無を言わさない手つきに従い、慎太は口を全開にする。
「……まあ。なんてマヌケ面」
「んあー?!」
「…冗談よ。‥いくわよ?ちゃんと飲んでね、風間‥」
「んお!!??」
艶然と笑みを浮かべるたからの唇が、わずかに開く。
‥覗いた舌の先から、たからの唾液がトロリと溢れて‥慎太の口へと、垂らされた。
「………ッ」
なま温かい粘液が舌をゆっくり伝い、下顎に溜まっていく。
「…ぁん、まだ飲んじゃダメよ?‥もっとあげる‥」
たからはより唇を近づけると、キスするかしないかの距離で、さらに多量の唾液を垂らしてきた。
「…はい。いいわ‥召し上がれ」
垂らし終わるともう一度唇を舐め、くちゅっ、と指を抜く。
「ん…!…ッ‥ぅ‥はぁ…」
慎太は無言で喉を鳴らし、たからの唾液を胃の腑へと飲み下した。
「…いい飲みっぷりだこと。おかわりはいかが?」
たからは満足げにため息をつくと、からかうように唇を指で撫ぜる。
「‥え、エグいぞお前ッ‥こんなんどこで覚えたんだ?」
「…あら、よくなかった?」
「いや、いい悪いじゃなくて‥こういうの今までした事なかったろ?‥その‥」
言いにくげに目を伏した慎太の様子に、たからは内心を察したのか、くすりと笑う。
「…ああ。心配なの?私が浮気してこういうの覚えたとか思ってるわけ?」
「狽、あ!?そ、そうまでは言わねーけど」
そういう意味以外、何があるのか。
━失礼な。
不意にたからの目が、鋭くなる。
「…私がそんな器用じゃないの、分かってるでしょうに」
「狽、あああι」
「…信じてくれてないのね、傷ついたわ。‥最低」
「………ごめん…」
バカなことを‥
まともに目を見られず、自己嫌悪にうなだれる慎太。
(…本当、世話が焼けるんだから)
誤解されたのは少々カチンときたが、こんなに早々と落ち込まれると、逆に哀れというか‥なんとも可愛くてならない。
もっと、からかってやりたくなるではないか。
(‥風間の言う通りね。やっぱり私、相当【いい性格】をしてるみたい‥)
「…もういいわ、風間」
こういう嫉妬の応酬は、嫌いではない。
相手が好きだから、些細なことにも嫉妬できる。
嫉妬するしないはいわば互いの気持ちの証明。
だから、慎太がとみかと一緒に話しているのを見るたび無表情の下でプチンプチン血管がキレているたからは、ほぼ毎日、慎太への熱い気持ちを確認していることになる。
そして、その気持ちは2人っきりの時にキスで叩きつけ、晴らす。‥おかげで、たからだけが妙にキスが巧くなってしまったが。
━まあ、これまでは、それで満足だった。
でも、今日は違う‥。
一大決心して来たのだ。
わざわざ首輪なんて怪しげなプレゼントまで用意して。
‥たからは小さく深呼吸すると、ブラウスのネクタイに手をかけた。
その結いを解き、スルル‥と首から抜き取り、そのまま片手で胸元のボタンをプチ、プチ、と外していく。
「…こっち見て」
「…………!」