深い深い深淵の奥の底…
ただユラユラと在り続ける……
『何か』がゆっくりと浮かび始める…
いや…『何か』とは『私』だ。『私』が段々と形作られていく……
そういえば…『私』って誰だろう?『私』ってなんだろう?
私は急に不安になる。私は『私』を何も知らない…
無意識に私は酸素を求める魚のように口を開く…
「マンソリ…」
「おはようございます、デイジー様。お具合は如何ですか?」
私は『私』を取り戻した…
《Lunatic Princess》
『WTO』より
聞き慣れた声がして意識がハッキリとしてきた。
声がした方に顔を傾けてみるとマンソリが心配そうなそれでいて
ホッとしたような表情を浮かべ私の方を見つめている。この表情を見たのは何回目かしらね。
…それにしても何故マンソリは『私が目覚めたことに気付いた』のだろう?
もしかしたら寝言でも漏らしたのだろうか?夢は見ていない…と思うのだけど。
まぁマンソリは神秘の国の生まれだからそんなこともあるのかもしれない。今はそれより…
「マンソリ…私どうしたのかしら?」
「覚えていらっしゃらないのですか?」
「…ええ」
今に至る経緯を聞いた私は思わず笑い出しそうになってしまった。
だってねぇ…今まで自分のことを『籠の中のカナリア』だとは自称していたけれども
まさか『鉱山の中のカナリア』だったなんて…あんまりと言えばあんまり。
こんなにも気の利いた笑えるジョークを私は他に知らない。笑ってしまいたい。
「デイジー…様?」
マンソリはこのユーモア分かってくれるかしら?
「防毒マスクがいるわね…にしてもあの日本人達には借りが出来ちゃったわね」
いえ…きっと悲しげな顔で見つめらてしまうわ…
「また会えますよ。きっと。」
「狭い町ですものね?」
二人でクスクスと笑いあう。
「そうねお礼は…仏蘭西料理なんてどうかしら?」
「…梢さんはお喜びになるでしょうね」
「まだ…少し…眠いわ」
「安心してお休みください。マンソリはここにいますから」
妙な違和感を感じて苦笑しそうになる。貴女が側にいなかったことなんてあったかしらね?
でも今の感情は……嫌じゃない。
「おやすみマンソリ…」
「おやすみなさいませ」
先ほどまでとは違って安らかな寝顔…
私は傍らで眠りに就く主の顔を見つめる。
生まれと育ちの良さを示すかのような端整な顔立ち。
閉じられた瞳の代わりに顔を彩る長めのまつ毛。
上質のシルクを思わせるサラサラの長い髪。
シミ一つ無いミルクのような白い肌。
そして…少し濡れている柔らかそうな唇。
この少女こそは幼い頃からの私の主にして今なお恋焦がれる初恋の人…
でも…いつの頃からか…この想いは狂気に近い…
もしも私が貴女様の前から姿を消したらどうなさいますか?
怒りになりますか?お嘆きになりますか?それとも何も感じず新しい従者をお探しになりますか?
なんて…どれも無理…ですよね? だって『私がそうなるように仕向けた』のですから。そう…
貴女が私を頼りにしてくれるように。
貴女が私に依存してくれるように。
私がいないと貴女は何も出来ませんように。
私の視界に貴女がいつもいますように。
私が認識しなければ貴女は自らの存在を確認できませんように……
私は狂ってますか?人を狂気に誘う月の光が存在しない新月の夜。
それなのに。こんなにもこんなにも狂おしく愛しい二人の時間。
貴女こそは私を狂気に落とす月光の姫君。
デイジー様……
「デイジーは誰にも渡さない」
そして私は貴女に仕え続ける…
「……ん…マンソ…リ…」
寝言…?ねぇデイジー『様』?
夢の中のマンソリは貴女に忠実ですか?現実のマンソリは少し腹黒いですよ?
お顔の色もだいぶ良いみたい…これなら明日には普段通りの生活に戻れるだろう。
フフフ…そうだ。明日はケーキを作って差し上げよう。私の想いを込めた甘い甘いケーキを…
「………を右に…」
右?
END