林檎と踊り場
ひと切れ目を食べ終わって、エドワードは手についたパイくずを払った。顔をあげるとウ
ィンリィの震える肩が目に入った。エドワードは視線をアップルパイに戻し、無言でふた切
れ目に手を伸ばす。
「エ、ド。もうい、いいから……」
衣擦れの音に反応して、ウィンリィは泣きじゃくりながらエドワードをいさめる。
「ごはん、食べてきたんでしょ? これ、日持ちするから、大丈夫だから」
エドワードはベッドに腰掛ける少女をちらりと盗み見た。震えながらつむがれた言葉を無
視して、少年は手に取った二つ目のパイにかぶりついた。アップルパイはおいしかった。
無性に胸が痛む。
ウィンリィがよろめきながら立ち上がる。頼りなげにふらふらとエドワードに近寄り、彼が
手に持っていた食べかけのパイをとりあげた。箱の中にもどすと、ウィンリィは座っている
エドワードの目の前に立つ。持っていたパイをとりあげられ、手持ち無沙汰にしていたエド
ワードの手を、ウィンリィはぎゅっと握った。もう泣いてはいなかった。彼女の湿ったほほ
が、ぎこちない笑みのかたちをつくる。
「ありがと」
握られた手を見て、部屋に招かれたときのことを思い出しエドワードは赤面した。
「別に……」
そっぽを向いたエドワードのほほは赤くなっていて、ウィンリィは少し笑った。こみ上げる
気持ちを素直に伝えるために、彼女は握っているエドワードの手を両の手で包み、優しく
抱きしめる。エドワードの体温がまた上がった。
だが、目の前の光景にひどくうろたえる一方で、頭のどこかでエドワードは別のことばか
り考えていた。自分の周りで起こっている頭痛のするような出来事の数々。ヒューズの死
、ロスの容疑、そのあっけない末路、マスタングの凶行、そしてヒューズ夫人――今はもう
未亡人になった、彼女の言葉。
ぐるぐると回る血なまぐさい思考にとって、手を包むぬくもりは優しい。……優しすぎる。
エドワードはウィンリィに触れているのが怖くなり、手をそっと彼女の両手から引き抜いた。
されるがままに、ウィンリィはエドワードの手を離す。
「エド」
「オレは」
そう言った少年は、そのまま口をつぐんだ。何かを伝えようしたが、彼はどういったらい
いかわからなかった。エドワードは目の前にたたずむウィンリィの顔をぼんやりと眺める。
ただ、あまりいいことでないのは確かだった。
(オレは……)
「エド?」
黙り込んだエドワードに、少女は疑問に若干の不安を混ぜながら首をかたむけた。部屋
の空気に、まるで溶けるように揺れる金の髪にエドワードのなかに別の動揺が生まれる。
早くこの部屋から出たほうがいい。長年、慣れ親しんだ勘――その年月は嬉しいもので
はない――が彼にそう告げていた。警告が彼の足に力を与える。
「オレ、そろそろ部屋にもどるよ」
言いながら立ち上がると、ウィンリィの驚いたような顔がエドワードに向けられる。
「……もう?」
真正面で見た彼女の顔が、切なそうにゆがむ。腫れぼったく、赤みを帯びたまぶた。水
滴を纏うまつげが不安そうに揺れた。エドワードの鼓動が早鐘をつくように早まり、少年は
慌てて目をそらした。
「夜も遅いしな。お前、飯食えなくなっちまうだろ」
いいわけだった。それでもエドワードは口にせざるを得なかった。出て行く本当の理由は
別だったが、そんなものは彼女には話せない。
彼自身も彼女も、事件のことで頭がいっぱいのはずだ。それなのに、彼女に異性を意識
をしてしまう自分がいることを、彼は恥じた。
(それに――)
エドワードは内心で苦笑した。事件のことで精神はぼろぼろだった。エドワードは、彼女
にその苦しみをぶつけるわけにはいかない。これ以上、彼女に負担をかけるのはいやだった。
「早めに食堂、行っとけよ」
少女からの返事はなかった。エドワードはほっとしながらも少し残念に思い、そんな自分
にまた失望しながらウィンリィに背をむけ歩き出した。少年が視線を落とすと、カーペット
が足の重みでゆがむ。視線をカーペットにだけ集中して、エドワードはひたすら出口を目
指した。
「エドッ……!」
「エドッ……!」
小さくつぶやかれたその声を、エドワードが聞き逃すはずはなかった。足は自然と止ま
った。振り返らなくとも、ウィンリィが泣きそうになっているのは、彼には手に取るようにわ
かっていた。
「エド、あ、あたし……」
上ずった声はいつでも彼女の強力な武器だ。エドワードは、いつでもそれに負ける。ここ
にはいないが、アルフォンスも同様だ。肩越しに振り返ると、ウィンリィは先ほどの位置か
ら一歩も動いていないのがわかった。エドワードの座っていた椅子の目の前で、両手を握
り締め、肩を震わせてまっすぐにエドワードを見ている。その双眸には、すでに新しい涙が
溜まっていた。
「あたし、ずっと考えてた。で、でもね、なんかわかんなくなっちゃった。わかんない。わか
んないよ。だって、ど、どうして……?」
痛々しい姿に、かける声も見つからずにエドワードは立ち尽くした。ただひたすら、彼女
の震える体を引き寄せようとする欲望に抵抗していた。彼の握ったこぶしが、ぎしりと音を
立てた。
誘惑だ。ひどい誘惑だった。だが今は、欲に対する抵抗のほうが勝っている。今すぐに
この部屋から出て行かなければならない。エドワードは何か言おうと口を開いた。その瞬間。
――彼女の青い目から、水滴がぽろりと頬に零れる。
エドワードはウィンリィに一気に距離を詰め、彼女の腕をおもいっきり引き寄せた。
すんなりと少女の体がなじむ。エドワードはその心地よさに眩暈を覚え、体にまわした
腕に力をこめた。苦しそうに身じろぎをしたウィンリィの肩に、エドワードは額を乗せた。
「え、ど?」
ためらいがちにウィンリィが囁く。欲望と苦痛がないまぜになり、エドワードは重い息を吐
き出した。その熱がウィンリィの首筋をくすぐったのか、少女がぴくりと反応する。そして、
おずおずと背中に回された腕に、エドワードの理性が最後の最後の一枚を残して、粉々に
なった。薄いその理性が頭のなかで囁いた。
(なにもかもぶちまけたら、ウィンリィは困るだろう?)
「オレ、オレは……」
「エド」
エドワードはぐっと耐えた。その囁きを優先した。だが、荒ぶる思考の吐露を彼はきっぱ
りと拒絶したが、思考そのものを止めることはできない。
(オレだって、わけわかんねえよ。事件も、なにもかも。オレのしたこと全部に自信がなくな
った。オレは、オレ達は、グレイシアさんに、オレ達の事情を話すのが本当によかったのか?)
彼は言うつもりはない。だから、エドワードは彼女の名前だけを形にして吐き出した。その
音を聞き、ぐい、とウィンリィがエドワードの服をにぎりしめる。それでも、少年の思考はとま
らなかった。
(あの人、責めもしなかった。それどころか、背中を押してさえしてくれた。オレ達が憎くな
いはずなんて、ないのに)
自分の名前を呟いて、それっきり黙りこんだエドワードに、ウィンリィは何も言わなかった
。ただ、少年の上着を握った彼女の手がさらに白くなる。
(もう、なにがなんだかわかんねえんだ。――中佐が死んだ。オレの、オレ達のせいで)
(それは少尉が殺したことになってて、大佐はちゃんと調べもしないで少尉を……)
中佐の声が脳に響いた。家族の写真をしつこいくらい見せながら、自分達の世話をやく
中佐。エドワードは自分でも驚くくらい彼に心を許し、頼っていた。
少尉の笑顔が浮かんだ。泣きぼくろが大人の女っぽくて、笑うとつややかな人だった。
厳しかったが、それが裏づけする優しさが、エドワードは大好きだった。普段、子ども扱い
されるのはいやだったのに、彼女にされるのはどこか心地よかった。少尉の言葉がエドワ
ードの頭によぎる。
『もっと大人を信用してくれてもいいじゃない』
その響きを、底知れない男がさえぎる。
『何人たりとも、信用してはならん!』
(……わけが分かんねえよ)
自分のしたことは、本当に正しかったのか。夫を亡くしたばかりのあの人を、余計に傷つ
けただけではないのか。責められれば楽になると思った自分がいるのを、エドワードは確
かに感じていた。
(オレはきっと、楽になりたかったんだ)
彼はもはや、自分すら信用できなかった。
「エド……?」
ウィンリィの声が肩から体に染み渡る。
(そうだ、それなのに。信用できないとつぶやきながら、こいつを抱きしめるこの腕はなん
だ)
元の体に戻るまでなにもしないと決めたのに。ウィンリィの体のぬくもりが、エドワードの
全身の芯をぐらつかせる。高まる気分を必死で抑えて、エドワードはぎゅっと目をつむる。
(頼むからさ……)
何も言うな、と彼が言う寸前だった。
「エド」
ウィンリィの、服を握り締めるだけだった手のひらが、エドワードの背中にまわった。優
しく抱きしめられる感覚に、エドワードの頭は真っ白になった。防波堤を失った感情が、口
を伝ってあふれ出す。彼は、一言漏らした。
「もう何も考えたくないんだ」
今だけは、考えたくない。吐き出すようにつぶやくと、エドワードは彼女の匂いを吸い込み、
さらにきつく抱きしめる。沈黙。ウィンリィは少し考えたあと、小さな声で呟いた。
「一緒だね」
「……え?」
「なんにも考えたくないのは、私も一緒だって言ったの」
その穏やかな声に、エドワードは彼女の顔が見たくなって、体を離した。泣き通した証拠
に充血した目や、同じように赤くなった鼻、まぶた、頬がエドワードをじっと見つめ返す。
普段、彼女が泣くたびに不細工な泣き顔だとからかっているが、本気でそんなふうに思った
ことはなかった。今だって、ウィンリィは綺麗だった。真っ赤になった目をばつが悪そうに拭った
ウィンリィが、ぎこちなく笑った。もう一度彼の名を呼ぶ。囁くようなその音は、まるで術のようだった。
「エド」
その響きに、エドワードの理性の最後の一枚が、ぼろぼろになって崩れ落ちた。