ぼや騒ぎが起こり、臨時の建物にマスタングの執務室が移された。  
そこは最上階に位置し、眺めのいい部屋である。  
下には木々がそびえ、ほどほどに手入れの届いた併設の花壇に  
近かった。  
臨時の場所だが、なんとなく、リザ・ホークアイ中尉は気に入っていた。  
上司は時々仕事を放り出して居眠りしているが、仕事をはかどら  
せる為のスパルタ教育によるストレスを木々は晴らしてくれるからだ。  
ただ、人通りはそれほどよくないので、夜は暗く面した所であるのが  
得難い点であっただろう。  
そして数週間、そこをマスタングらが使用していることを知るものは  
軍の関係者のみとなる。  
ゆえに偶然、エドワード・エルリックがこの場所を知ったのは  
ごく自然なことであろう。  
 
「急にどうしたのよ?」  
休憩時間、室内に一人いたリザだが、意外な訪問者に驚きを隠せない。  
エドワードは彼女の服の裾を引っ張って離さなかった。  
彼は俯き、彼女は不思議そうに見つめている。  
「ねえ、エドワード君…?」  
リザは、自分よりも年の離れた少年エドワード・エルリックにこう聞かれた。  
触ってキスしていいか、と。  
リザは冗談だと思い込みしばらく笑っていたが、どうやら相手は本気らしい。  
とはいえ、自分にはもうすでに固定された恋人がいるのだ。  
彼女自身、何を迷うことがあろう。  
質問以来、口を閉ざしていたエドだが、真剣なので至って無口だった。  
くんと、時々エドは美人中尉の柔らかい香りに嗅覚が反応する。  
――その口紅の色、香水の匂いも、大佐の好きなものなんだろな  
先ほどまでくすくすと笑っていた彼女の、細い手首、揺れるスレンダーな身体、  
そして表情を包む輪郭のなんと美しいことか…  
二人だけでひとつの部屋にいると何やらエドの沈黙による視線は、  
美の観察時間にきりかわる。  
「あんまり、からかわないでよ。突然、訪れたと  
思ったら、おかしなこと言って」  
形のいい指でカップを持って、飲み慣れたコーヒーをリザは口に運んだ。  
 
困惑しつつ、心の中でため息をついていたのだろうか。  
やはり子供は範疇外らしい。  
相手にするにはより深みを求めているといった風情である。  
「ほら、コーヒー飲んだら帰りなさい。直に大佐が戻ってくるわよ」  
「……」  
「飲まないの?お土産に貰ったお菓子があるから、持ち  
帰り用に包んであげましょうか?」  
「そんなの、いらないって」  
エドは出された飲み物も、茶菓子も受け取らなかった。  
深呼吸の後、机に軽く腰をかけ、取り掛かり中の書類の枚数を  
数え始めたリザは、エドから一端目を反らした。  
しかし、それでも切れたペンのインクを補充しながら、少年の目を  
ときどき見やっていた。  
突っ立ったままの彼に、更にどう言って退出願おうかと考え出したのだ。  
どうも埒が明かないせいか、彼女は肩をすくめてみる。  
経験豊富なリザにとって、これはよくあるパターンらしい。  
今までにも幾度か、職場の男性達に突然の告白をされてはいたし、「好きだ」、  
「愛してる」だの常套句を散々聞かされていた。  
当然の如く、さらりと敗れていった者は多いのだ。  
だがしかし、開口一番、「触ってキスしていいか」と要求してくる  
パターンはエドが始めてだったのだ。  
 
「いきなり来てごめん。だけど、俺は…」  
真剣だがやはり実物である女性を前にしては所在無い、という彼だったが…  
瞳は次第に鋭くなっていった。  
コーヒーを飲み干したリザの動作にじっと目を凝らす。  
つられてリザもそれを見返した。  
―――髪を下ろした姿も大佐の前でしかしないんだろうな。  
声も、仕草も何もかも…  
「何なの?」  
「多分、今の俺をウィンリィは怒ると思う。自分でも、  
何言ってんだかわかんねえよ」  
「だったら尚更、彼女のところに行きなさい」  
切羽詰った様子のエドに、リザはっきりそう告げた。  
顎で再度促したが、エドは首を横に振る。  
では、とにもかくにも…結論としてアルフォンスかウィンリィに  
ここから連絡して、来てもらうほうがよいと唆したのだが…。  
その案も、エドワードに再度、大きく否定された。  
そして誰も知らないであろう内容をリザは次に耳にしてしまったのだ。  
ぽつりと彼はありのままを口にしてしまったのだ。  
「中尉が、こないだ…大佐とキスしてるの見た」  
 
ぴくりとリザの眉が動いた。  
やや、気まずそうな表情が彼女に浮かび上がった。  
しかし、それも一瞬のこととなり、彼女は平静な装いに戻る。  
いささか、揶揄するように、リザの端整な口元は綻んだ。  
「どうして知ってるのよ」  
「先週、たまたま通りかかった大佐の家の…玄関前で…」  
「嫌だわ、そんなこと…口にしないで」  
リザの頬に少し照れた印象を受ける。  
こういう指摘にいつか、誰かによって出くわしてしまうのでは、  
と予想していたがとうとう現実になったのだ。  
秘密の恋愛もなかなか思う通りにいかないらしい。  
―――まったく、大佐にもうちょっと慎みを持ってもらわなくては  
やはり、屋外では上官にもっと慎むよう要求することを  
彼女は心底、検討しだした。  
考え込む彼女を前に、エドはだんだん落ち着かなくなる。  
あの夜の、マスタングとの後々の激しい夜でも思い出している  
のかと、彼は複雑な面持ちになっていったのだ。  
 
やんわりと、この二人がつきあっている様子であることをエドは察知していた。  
だがあの日、いつも理知的な中尉の意外な一面を彼は垣間見てしまった。  
同時に、この数日悶々としていたことも、今こうして中尉に迫って  
しまった突発行動も、あの晩の目撃に起因する。  
その夜の光景は、実に彼の心に刺激的であった。  
呆然と覗き見してしまった二人の姿…注視するつもりはなかったが、  
ついつい出来心で見てしまったのが災いだろう。  
扉の前まで、痴話喧嘩か何かで言い争っていた風であった二人なのに、  
悪態をつきながらのリザは、マスタングの家の前まで手を引かれて来ていた。  
そして、玄関先でぴたりと止まって振り返った上官が、  
リザに不意打ちのように接吻していった。  
それは一瞬のことで、何もかもが中和されたようなシーンだった。  
月が彼らを照らし出した頃、僅か微動だに抵抗していたリザだったが、  
マスタングに抱きしめられて、やがては何度も濃厚なキスを返していった。  
柔らかそうな二人の微笑が影にもなじみ、実に美しかったのをエドは覚えている。  
マスタングの額にかかった前髪をなでながら、口説いてくる男の  
受け応えを楽しそうに行っているリザは本当に可愛らしかった。  
困った顔をしてみせたり、拗ねてご機嫌を伺われたりしていても、  
好きな男のことで頭がいっぱいの様子が目に見て取れた。  
共に囁き合って、彼らはやがて消えていったのをエドは呆然と見ていた。  
そして瞬時に、彼女を独占している焔の上官を疎ましく思って  
しまった自分がそこに残された。  
 
この二人の間に割り込めるなんて、そこまで彼は思い上がってはいない。  
だが、この女性に対して興味が強い羨望と欲望にだんだんと変わって  
行ったため、エドは嫉妬と共に抑えられない劣情を抱えてしまった。  
――だって、中尉…すっごく可愛いって思ったんだよ  
単なる大人のキスシーンが盛りだす色香に迷ったとか、  
一時の思い込みや憧れでもなんでも認めると本人は承知している。  
この年頃にありがちな、逃避の一種であるかもしれないと考えもした。  
だが、あまりにも刺激的すぎたためか、灯った灯をなかなか  
闇に葬れなかった。  
「中尉がいいんだ、頼むよ」  
「エドワード君…ちょっと、服を引っ張らないで…」  
「知りたいから」  
「え…?」  
「いろんなこと、中尉に触れてキスして…それから」  
「……」  
そのまま続く言葉を飲み込んだエドは、とにかくキス  
までこぎつけたいと述べていた。  
 
なんとも、こちらが困っている時に、似たような駄々をこねる黒髪の男を、  
リザは思い浮かべてしまった。  
その人物の場合は、こうもストレートに表現しないが、  
回りくどくも、やや誇張した表現の賛辞と要求を連ねてくるので  
要点だけはそっくりだった。  
――まったく、男って…  
呆れてしまったリザも、書類を持った手をはらい、  
エドの引っ張る仕草をやめさせた。  
――まあ、ここまで来て粘ったのは認めてあげるわ  
くすっと笑みをこぼしたリザは言葉に尽きたエドワードを正面から見やった。  
「中尉…」  
「いい?」  
手のひらを二人は合わせた。  
リザの右手、エドの左手がすっと重なる。  
「あんまり、ここにはいられないわよ」  
もうすぐ彼女の休憩時間は終わる。  
実際、執務室で彼女は上官と二人、長丁場の仕事を切り上げて  
一息ついていたところだったのである。  
急な呼び出しでマスタングのほうが席を40分ほどはずすことになって、  
リザはそこに留守を兼ねながら待機中であったのだ。  
そこへ、窓ごしにたまたま視線のかちあったエドワードが、  
こっそりと押し入ってきた。  
上官が戻ってくる予定時刻まで、あと10分をきった。  
カチコチと、時計の音はそれを強調するかのように流れていく。  
淡い瞳の年上の女性は、瞬きをする度に睫を美しく揺らせた。  
やや、屈んだリザと背筋を伸ばしたエドワードは、次に互いの額を合わせた。  
包み合っているエドの片手に力が入る。  
 
一瞬でも、自分だけの守りたい時間があるってのはこういうことなのか…  
そう考えるとエドは落ち着かなくなってくる。  
――いい匂い。手、柔らかいなあ…それにすっげえ白くて、綺麗な顔だな  
空気が惜しい。  
こういう空気を、いつも同じ空間で吸っているマスタングが  
恨めしくなったエド。  
落ち着きのなくなりかけた彼を可愛らしく思いながらも、  
リザは幾分、心が緩んだ。  
「緊張してるの?」  
「ち、…違うって!」  
呼応して向き合うリザは、とくに動じもしない様子であった。  
しかし、この時、ある既視感が彼女には生まれた。  
 
やおら、機械的に問うてみた。  
「やめましょうか?彼女に悪いでしょ」  
「いや、やるよ!今…」  
間近に向き合うリザの顔に、エドは、少し怯みかけた。  
リザはじっと彼を見つめて、静止ぎみの少年に自然と微笑んでやった。  
――そうね、昔の私に似てるんだわ。  
本当は胸騒ぎがとまらないくせに、とても強がってる所なんて特にね  
時間を気にしながらも彼は遠慮がちに、性急なふりをしてこう頼んだ。  
「あ、あのさ…」  
ドクドクと、全身が波打つ。  
屈んでくれる彼女の香りにつつまれて、  
彼の心臓はますます高鳴っていった。  
一部、触れ合った額から相手のさらさらとした髪が感じられる。  
それも、互いを促すように流れてくるのだ。  
エドを見つめているうちに、包み返されているリザの手は、  
その指先が微かに揺れたようだったが…同時に唇も、そうだった。  
おずおずと、エドは緩慢と進行させようとしたが…  
「できれば、その……目、瞑っててくんない?」  
その瞬間、自然とした動作で彼女はエドの予測不可能な行動にでていた。  
 
人と人が、互いに付随しあう音が響いた。  
時間が惜しい、と言い残したリザは、エドに自分から唇を重ねたのだ。  
触れ合った手でエドを握り返し、もう片方を  
彼の首に回して彼女は寄りかかった。  
「中、尉……!」  
その勢いに彼は1歩、2歩ようやく3歩さがった所でバランスを持ち得た。  
唇が触れ合う。  
だんだんと熱を帯びてくるのがわかる。  
自分ももっと答えなければ  
待ち望んだ人とのキス  
はじまりの口付け、甘いのか温かいのか、どれほど  
あの時、マスタングに見せ付けられたことだろう  
悔やんだ分を塗り返したい。  
身体を寄せたリザを両手で抱きしめるが、なかなか加減がつかめなかった。  
思いのほかにずっと華奢で、細い体…  
男の力だったら、壊れてしまうんじゃないかと不安になった。  
それでも、やがて調節できるようになった。  
不器用に、だが力強く…守るようにと抱擁していく。  
やや傾いたアングルから重ねた唇は、  
互いに探りながら深く交わっていった。  
戸惑ったような二人のキスも、しばらくして呼吸があってくる。  
「んっ…エドワード、君」  
――中尉  
 
漏れた吐息が空気を飾る。  
高まった音、絡みつく音…そして伝わってくる熱を帯びた舌の感触…  
初めて知る、大人の女の唇。  
同時に、エドはリザの頬から首から、そして肩から  
バストラインにむかって円を描くように触れていった。  
柔らかい胸の膨らみが服の上から大きく、なぞられる。  
一度唇を離したエドは、大きな勢いを持ってリザを  
机に押しやりもう一度彼女とキスをした。  
よりいっそう濃厚で、今度はエドが主体となって求め合う深いキス…  
「…あ、エドワード君」  
「中尉…!」  
だんだんと、夢中になる二人…  
飢えた欲望が、どんどん水を吸っていくのがわかる。  
――好きだ  
無限に膨張していく欲情は、より拍車をかけようとする。  
自分の予知せぬ性への表現に、エドが我を忘れていく。  
少年の青い力は、圧倒してリザを凌ごうとする。  
「ん、…慌てないで」  
「中尉、俺…好きなんだ」  
「や、あぁ」  
エドがリザの耳を舐めて、項に息を近づけた。  
未だ、稚拙だが、貪るように愛撫をし始めていった。  
 
首すじのラインを唇で這いなぞり、  
もっともっとと、求めだした彼の動作が上り詰めようとする。  
「駄目、よ…痕なんて、つけないで…」  
「わかってるよ…」  
リザが彼の髪をなでながら、びくびくとした反応を返していく。  
硬い質感の、軍服の上からではまだまだエドは計り知れない。  
布上から触れたこの柔らかさは、一糸纏わぬ姿ではどんなに  
美しいだろうと先が知りたくなる。  
もっと欲しいという本能が溢れて止まらない。  
振動と身体にまかせて、溺れてみたいと未知の自分にエドが晒される。  
“触ってキスしていいか”という境界が、激しく破られていく。  
貶められそうな己に、リザが徐々に余裕を失いかける。  
押し入ってきたエドの再びの接吻に、リザは舌で返し、絡みついてきた。  
しばらくして、より勢いを帯びた少年の侵入を、できるだけ  
感受していたが求められる勢いにそろそろと、静止を呼び出した。  
――離したくない、この人にもっとしたい  
「いけない、もう…離れて」  
「中尉…」  
――渡したくない、あいつには!  
「駄目だってば…あ…」  
だが、やめようとしないエドについぞ、唇が許してしまう。  
無駄なく、エドはリザを貪欲に望んでいった。  
 
――エドワード君、駄目よ。こんなの…  
「…っ!」  
――灯がついてしまう。  
枷のきかなくなったエドが自分を脱がせにかかった頃、  
リザは腰から取り出した銃であえて釘を指した。  
――早く消さなければ  
「……中、尉…」  
硬いものが、一気に冷気を取り戻した。  
エドは膠着した。  
麗しの彼女は発砲こそしなかったものの、「ゴツッ」とした音をたてて、  
自分の額の前でそれを密着させたのだ。  
「中尉、…そりゃないよ」  
「…放して」  
「あ…」  
「痛いわ、腕」  
言われたとうりに、エドは力を抜いた。  
それを確認してから、リザは身体を閉ざし、息も絶えだえの姿で  
落ち着きを得ようと深呼吸した。  
だが、蒸気させていた頬は未だ赤く、  
なかなか悩ましげな姿は元には戻らない。  
上着が少し乱れて、皺が連なっている。  
戸惑いつつも余力で微笑むフリをした彼女は、それでも儚げに見えた。  
机に押し倒され、エドによりかかられているという体勢なので、  
起き上がるのにかなり力が要ったことだろう。  
 
リザは、エドにもっと遠ざかるように促し、刻限を述べた。  
「もう、時間切れよ。…だから、いらっしゃい。こっちへ来て」  
「ちょっと、中尉…?」  
銃を直し、服の乱れを片手で整えながら、エドを窓枠につれていったリザ…  
無言で急ぐその姿に、エドは緊張が走った…  
「どうしたんだよ!」  
二人の間に、何かが彷徨っている。  
彼女から来る困惑なのか、動揺なのか  
――やばい、なんか怒ってるって  
ピンときたエド…  
引っ張る彼女の手が震えているのだ。  
「あのさ、やっぱ…怒った?」  
リザはそこで向かい合ったまま、エドを窓の前に立たせた…。  
数秒ぐっと口を噤んでいた彼女、ハラハラしている彼…  
深閑を打ち破るかのごとく、悔しそうな顔を見せたリザは無言で窓を開けた。  
そして、今にも窓から落ちようとするほどに、彼女はぐいぐいと  
鋼の錬金術師を押し出していったのだ。  
時間が無いため、縄をやるのでここから退場しろとでもいうのだろうか…  
「ちょっ…アブねえって。ここ高いんだぜ。突き落とすつもりかよ、中尉!」  
「――……でよ」  
「押すなって、悪かったってば!」  
「…なんできたのよ」  
「へ?」  
「私がどうしてこんなこと」  
「中尉…?」  
―――「どうしようもなくなったら、どうするのよ」  
不明瞭な感情が、声を走らせる。  
 
半ば怒りに任せて、エドに押し向けた両手は、彼に早く  
でていけといわんばかりの勢いであった。  
「あの、ごめん。本当に、悪かったって」  
謝りだしたエドの口元をじっとみつめて、彼女はぽつりとつぶやく。  
目を閉じると、いっそう彼の声が響いて入ってくるので  
見ないように細めていた。  
散発的に発した声は、空気に紛れて聞き取れないもので大半だったが、  
彼女は再度吐き捨てた。  
「コドモだと思ってたのよ」  
「中尉?」  
「私は……私は…」  
嫌悪なのか侮蔑なのか、何かが入り混じったような彼女の表情…  
再びの沈黙、エドは申し訳なさそうに思い始めた。  
同じくして、迫って、キスして我を忘れるほどに彼女を扱おうと  
していた自分を恥じていった。  
笑って、すまされるような行為じゃないだろう。  
中尉の親切につけこもうとした自分が苦しい…  
――やばい、中尉が泣きそう  
ばつの悪くなったエドが、誠意を込めて、謝ろうと考えた。  
そして、少し様子を覗き込もうとした。  
「本当に、ごめん。もう、しないから…」  
そのとき、彼ははっとした。  
「-―――――中、尉?」  
初めの頃と同じように、押し倒すようにリザが重なってきたのだ。  
何が起こったのか判らない。エドは窓の淵で少し頭を打った。  
ただ思ったのは、彼女の柔らかい唇は変わらずとても、熱かった。  
「うわっ!」  
そのままリザは、隙だらけのエドを窓から  
出て行かせるように落とした。  
 
バタンッ!…  
やがて、閉じた窓の音と相反するように、地面のほうで鈍い振動が跳ね返る。  
咄嗟に起こした錬金術により彼は地面にたたきつけられることを、  
一触即発で逃れたのだ。  
ようやく着地できたが、更なる難が彼を襲った。  
思考の波が、鮮明に踊りだす。  
――何だよ、これ  
「…なんなんだよ。危ないっつうの…!」  
頭についた葉をはねながら、エドは耳から入っていた聴覚情報を  
何度もリバースしてしまった。  
また顔が、赤くなる。その繰り返しが終わらない。  
最後に垣間見た、リザの微笑を含んだ切なげな表情も  
ついでに浮かべてしまった。  
窓から突き落とすなどという、あまりの仕打ちに口ではもごもごと  
愚痴をこぼすが、内面の意識は高まるばかりである。  
どうにも、こみ上げる感情が抑制できないらしい。  
「一歩間違えたら、死ぬって普通…あんな高い所…なのに…」  
ドクドクと内臓が沸騰していく。  
たまらなくなって、触れた唇に手を当て、そこをなぞった。  
「知ってて、落としやがって…」  
落ちても自分でどうにか着地できると、彼女は考えたのだろう。  
だが、そんなことに彼は怒りを表してはいない。  
―――何て言った?さっきなんて言ったんだっけ、確か中尉は…  
最上階を見上げると、そこはもう窓がびっちりと閉められていた。  
頑なに、カーテンまでがかけられている。  
「俺…俺は」  
宙に体が放りだされる寸前、彼女が放った言葉は彼を逆転支配した。  
思い出すと、全身を膨れさせるような感情がこみあげたのだ。  
 
身だしなみを整えたら、上官の戻ってくる音がした。  
リザは気を引き締め、迎えた。  
「どうした、カーテンなんか閉めて。  
今日、そんなに日差しは強くなかっただろう」  
「いえ、“日差し”がきつくなったんで…だから私は閉めたんです」  
――冷静に、戻らなくては  
「そうか、随分待たせたな。さっそく続きを仕上げよう」  
「はい」  
心の中で彼女は何度も復唱した。  
――そうよ、閉めるわよ。大佐に知られちゃまずいもの  
だがしかし、口元が少し緩んでしまう…  
マスタングが不思議そうに首を傾けたのに気づき、  
なんでもないと彼女は答えた。  
そして常日頃の、冷静で有能な部下に戻っていった。  
あのまま木の陰に座り込み、きつい夕焼けが差し込んできたのを感じたエド…  
夕方なのに“日差し”が特にきつい。  
――まさか、本当に?  
彼は、紅いであろう自分の赤面した顔を抑えるのに必死だった。  
打撲や打ち身で苦しんでいるわけでもないが、  
唸りながら、考え事で頭を抱えてしまうのだ。  
「…なんだよ、それって」  
彼は、混乱に翻弄されていた。  
思い出すと躍動する、あの言葉。  
『――いいわ』  
その続きが、彼を更なる頂点へと跳躍させる。  
甘い声、かつ艶っぽい瞳で中尉本人が言ったのだ。  
あの台詞、この内容…  
――『待ってるから…今夜来て、エドワード君』  
 
 
何気ないこのひと時に心を平静にして、いつまでいられるのだろう。  
どうすれば、追いつけるのか  
「大佐…」  
リザが細い腕を大きな背中に回した。  
それに応じて、マスタングは噛み締めるように頬をこめかみにあてがった。  
訪れる互いの心音、暖かさをここで感じる。  
夕暮れの中、しばらくそのまま…二人は抱擁しあう。  
公務も終わりかけの時間だから、特にこれより一線を越えることはない。  
「どうも、まずいね」  
「何がです」  
「公私混同、不謹慎なことを職場でするのが面白くなる」  
「ふざけて…」  
微かな談笑が続いた。会話が楽しい。  
支えあう温もりが快い。  
――なのに、私は…  
平日、人目を偲んでこんなふうに近づきあうことがある。  
半ば習慣化していて、勤務時間が終わり、たいてい二人だけのときのものだ。  
誰にも漏らさない、二人だけの隠された時間だけ…  
明日からの週末を共にすごす約束をして、先にマスタングはリザを帰らせた。  
時間を気にしている彼女に気づいたのだろうか  
たまには残業を一人でこなせると告げ、有能な部下を退出させて  
やっただけのこと…そんな気配りのふりをした。  
 
数時間ほど、彼は珍しくも、残っていた仕事を一人で片付けた。  
時刻は既に十時を回っている。  
そして帰り支度を済ませ、明日のスケジュールを考えながらあくびをすると、  
窓がきしんでいることに気づいた。  
もともとたてつけの悪い窓だったので、うるさいのには慣れていたが、  
いっそう際立つ音をしている。  
がたがたと風が吹きつけ、崩れつつある天気がそれを知らせていたのだ。  
その音を聞いてから、焔の錬金術師は吐き出すように漏らした。  
「ふん、一晩だけの貸しだ。鋼の…」  
予想は今晩、的中する。自分に対しても、彼女に対しても…  
放した蝶はおそらく不安げな顔をして、戻ってくるだろう。  
一歩引いて、一歩踏み出す。  
ずっと共に歩くのは、まだまだ遠い。  
幸せにしてやれる自信も甲斐性も持ってるつもりではあったが、  
自身の意見だけを通して縛り付けてしまう  
伝えなければならないが、弱音だけは見せたくない。  
どれほど我がままを言っても、甘えてもそれだけは晒せなかった。  
だから、十分安心させてやれないことが多い。  
意地が悪いのだ、おそらく自分も…  
そんな己が招いた事態だと思うと、複雑な気分になる。  
頭を振って、埒もない思考を停止させてから、彼は帰っていった。  
 
軍服を着替える時、鏡の前でリザは銃を構えた。  
伸ばした背筋、身体に走る緊張感が心地よい。  
これを持つと、自分が自分でなくなる気がする。  
そのスリルがときどきたまらなく愛おしくなる。  
なぜなら、その時の自分は酷く己を防御しようとするからだ。  
棺に片足を挟んでいるような様相であっても、形だけでも守りに入れる。  
共に、闇に塗れようと決めている人もそうだ。  
放つ焔で他者を抑制する姿勢は変わらない。  
――あの人の、静かな焔…  
彼を思い出すと一部、喉は揺れ動いた。  
そして、鏡に映る自身を凝視し、唇を噛んでしまった。  
禁を犯すとは、どんな味だろう…  
頭の中で抑えていても、違うものがほしくなる…この衝動に理由が追いつかない。  
――これじゃ、あの子と同じじゃない  
理屈なんていくらでもあるのかもしれない  
 
ただ、いつもあれは、焔で自分の周りの膿を焼き消してしまうのだ。  
それも一瞬で…圧倒するように自分に見せまいとする。  
守り、守られ思い合って、身体も含め全てを享受  
しあっているのに…曖昧な気分だ。  
十分、相愛なのだから、不満など微塵もないはずなのに、  
時々感じてならないものが渦巻いてくる。  
自分は常に彼の活力の源を助力し、あらゆるものを補給するが  
あれの出す焔は時折、瘴気で渦巻いている。  
私の知らないもの…――  
何をそんなに病んでるの…―――  
「誰だって、言いたくないことがあるわ…でも…」  
ずっと、同じ姿勢で手が痺れてきた。  
独奏に浸る考えが止まらず、構えた銃をリザは下ろした。  
そして正面から再度、自分を見た。  
自分が原因なのか、あれが病みすぎているせいなのかよくわからない。  
だが、あれは自分よりもいっそう禁忌を知っている。  
そうでなければ、あんなに忌々しい焔にならないだろう。  
あれが知ってて、こちらは知らないと考える己は、やはり卑屈すぎるだろうか  
あるいは、過剰な思い込みだけではないのか  
それとも単なる吐き違えと、恋人への理解不足なだけだろうか  
――何でも、言って…一緒に聞くから  
そうはいっても、どうにも聞きだせないのが事実だ。  
 
聞くのが怖い。  
聞くに値する人間なのかと自分に疑問を覚えてくるからだ。  
しかし、より完全に、焔に同調したい。  
苦しむ淵に追いやることで、新たに自分を塗り替えたいとさえ思う。  
だが、そうであるための何かが欠けている  
あれが自分の知らない禁をおそらく知っているのなら、  
自分も知りたい。  
身体に取り込みたい、その毒を…  
方法なんてなんでもいい。何をつかみ、用いても…  
人を巻き込み、利用してでも危険に身を投じたい。  
知らないものだからよりいっそう欲しくなる  
おそらく、きっと体は覚えているだろう。  
無意識に放つ罪悪というものが、その時、自分を益すだろうか。  
ならば、あの少年は?  
「甘くないわ」  
ひとつ、小さな自分から彼女は目を背けた。  
 
深夜、夜も深まった頃、エドはようやく現われた。  
混乱して、考えが上手くまとまらなかったあの別れ際、  
「本能的に用いたい」と揺れ動いた記憶が眩しい。  
誘うように仕向けたものの、冷静に考えてもやはり来ることは  
ないだろうとリザは考えていた。  
そう判断していた最中、日付の変わろうという時刻になって彼は来たのだ。  
玄関先で迎えたとき、妙に胸がざわついたものである。  
しっかりと男の顔をしていた彼を見て、半ば安心したが、  
本心では申し訳なく感じたのだから…  
子供であると思っていたのは間違いだったと改めて感じる。  
「来たよ」  
彼は小さくそう微笑んだ。  
屈託のないエドの笑顔、裏をひこうとする自分の感情…  
雨で濡れた身体を、浴室でよく温めるようリザは勧めた。  
そうして、彼のための代えの服を用意している時、  
彼女はますます気を重くしてしまった。  
――この手で、私はあの子を…  
マスタング以外の男を抱いたことがないこの躰…  
他に受け入れたことのない内奥に、  
はじめて別の男が臨むということがこれから…  
 
 
やがて、シャワーを終えてきたエドが、あまり顔色の良くない彼女に気づき、  
「あの、さ…ありがとう。服まで借りちゃって」  
遠慮がちに、礼を伝えた。  
驚いたように振り向いた彼女だったが、目を細めて、すぐに応じてくれた。  
エドはその時、女の艶やかさにドクンと、心音を跳ねさせた。  
室内の照明がやや暗いせいだろうか…時折、彼女が見せる陰りを帯びた表情や、  
しなやかな体のラインの浮かぶ寝着に酷く惹かれてならない。  
「いいえ、ちょっとサイズが大きいわね」  
「服が乾くまで、借りるよ」  
新品で、購入しておいたままだというこの服は、時々泊まり  
にきている“あの”焔の錬金術師のために用意されていたものである。  
どこかやはり、彼女はこの服本来の持ち主に気が引けるのだろうか…  
そんなことを思ううち、椅子に腰掛けるようにエドは招かれた。  
よそよそしく人の家のものを拝借したので、無口になりかけていた彼だが、  
ここでようやく表情を和らげることができた。  
二人だけでいる。しかし、胸躍る距離にあっても  
なかなか手が出せないといった心境だろう。歯がゆいものである。  
「梳かしてあげるわ、じっとしてて」  
「…いいよ。自分でやるって」  
「いいから、前を向いて」  
母親以外の人に、髪を梳いてもらうなど初めてである。  
エドはリザの優しい手つきによって髪を預け、横目で窓を見ることにした。  
そこでは、後ろの彼女の姿を追えるのだ。  
するすると、リザは自分と似た色を持つ少年の髪を梳き始めた。  
 
――…何か、喋らないと  
自分がここへ何をしに、何を思って来たのか、今更のようにエドは思い巡らした。  
部屋に招かれて、リザとは必要意外会話をしていない。  
すべきなのか、寡黙でいるべきなのか…この空気を読むのは難しい。  
窓に映る彼女の姿に再度、目をやった。相変わらず彼女は綺麗で、美しい。  
薄い夜着、おろした髪から香りが漂ってくる。  
職場で見られない女らしい姿がとても魅惑的だった。  
これを知るのはもう一人の男だけなのだろうか…  
――どうして俺を?大佐のことはいいのかって…  
静かに流れる櫛の音を、彼はいくつも見送ってしまった。  
唇を開こうとしても、言いかけてやめてしまうことを何度も繰り返したエド…  
だが、手を止めて、自分と同系色の髪を撫でているリザに彼は呼びかけられた。  
「落ちた時、大丈夫だった?」  
「うん。全然平気」  
「突き落として、ごめんなさいね」  
「大丈夫だって」  
梳かした髪を指で撫でながら、更に彼女は囁いた。  
「でも、耳の所、…これ枝か何かで引っかいたんじゃないの?」  
「大した事無いって、生傷なんてしょっちゅうだし」  
「ごめんね…痛かったでしょう」  
右の耳に、近づく彼女の息がかかる。甘い声が、彼に直に響いてくる。  
細く、柔らかい指が自分に触れた。その部分は特に熱みを催させ、  
エドは何度も瞬きをして誤魔化した。  
だが、今なら…と感じた彼は呼びかけと同時に、  
ケースに櫛をしまおうとする彼女の手を引いた。  
顔を横に向けたままの彼女は、ゆっくりとこちらを向く。  
月に照らされると、彫りの深い端正な顔立ちが表れた。  
 
…本当に、綺麗だ。目を奪われてならない。  
今、自分だけをこうして見ていてくれると考えると、より心が躍る。  
放心に近かった彼だが、随分、彼女の手を握ってしまっていたことに気づいた。  
慌てて、照れくさそうに謝り、さらに同様のことについても触れた。  
「中尉、昼間はごめん…いきなり驚いただろ」  
「…いいのよ」  
「本当に、悪かったって思うよ。困らせたんじゃないかと思ってさ」  
「そんなことないわ」  
何をそんなに謝るのかとリザは瞳を反らした。  
むしろ謝るのはこちらのほうだ。  
意図をして、自分から誘ったのだから…  
落とす瞬間まで、褒美程度に接吻くらいなら、と思い相手になってやるつもりだった。  
そのうちマスタングの足音に観念し、この子のほうが出て行くだろうと思っていた。  
だが、そうではなかった。  
キスの新鮮さに魔笛を覚え、応じてしまった自分も浅はかだったが、  
思わぬ収穫を予想し手放す気にはなれなかったのは事実だ。  
格好の餌…それも向こうから手の内に来ようと自分を望んでくれている。  
意識の底で、その目的も、狙いもはっきり自覚しながら自分がそう仕向けたのだから。  
落とした後に、その巧妙さで我ながら笑みがこぼれたほどだった。  
そんなこちらの渇望も知らずにこの子は自分をありのままにぶつけてくる。  
少年のこの純粋さは、時々彼女に苦しみをもたらす。  
せめて重なることで不毛な考えは昇華されるのだろうか  
いや、はやくどうにでもして欲しいとさえ感じてしまう。  
口付けをしようと、おずおず顔を近づけてきたエドに  
リザも身を近づけていった。  
 
臥した彼らは明かりのない世界を招きいれた。  
「あっ……っ…」  
漏れ聞こえる女の声と同様、ベッドに走る音はまだはじまったばかりだ。  
覆いかぶさるようにリザを寝かせ、正面から  
エドは熟れた年上の女性に接吻を落とした。  
はだけたリザの着衣を徐々に払い、彼女もそれに  
応じながらエドの肌をたぐりよせた。  
唇が触れ合い、やがて啄ばむような仕草から激しいものに変わる。  
「中尉…これ」  
「あ…」  
月明かりで、点々と、見えなかった部分にあるマスタングの  
施した痕が見えてくる。  
――ちくしょう、こんなところにしゃしゃり出るなよ  
ふっと思い浮かんだ男の存在に苛立った。  
歯を食いしばったせいか、その動作を見ていたリザが右手で  
歪んだ少年の頬を撫で始める。  
ふいと、それに視線を反らしたエドは、  
「ごめん」  
と、告げて愛撫する行為を続けた。  
リザの柔肌が弾くように蒸気していく。  
触れると細い声が返り、熟しつつある男の熱を見事に高ぶらせてくれる。  
自ら闇の淵に嵌ろうとする自分、それを触媒するこの子の存在…  
良心という境界性が揺らごうとする。  
真摯な情熱、色あせない恋愛に焦がれ、喜んで夢中に  
なろうとする昔の自分の姿が目の前にある。  
ここへ誘われた目的を素直に行動に移している少年は、  
リザの心を未だに惑わせた。  
身体はあっさりと感応する。だが、愛撫に対するにつれて、  
精神が消耗してくるリザ…  
触られると敏感に何度も反応してしまうのに、心は潤わない。  

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