目覚めたばかりの朦朧とした意識の中でも、いつもと違う腕の感触ははっきりと判った。  
 
いつも私を抱いている上官の逞しい腕とは違う、金属の冷たい感触。  
その腕の持ち主は今目の前ですやすやと吐息をたてているのに、この腕だけはまるで生きていないかの様に思えた。…事実生きているとは言えないかもしれないが…。  
ふと不安に思ってしまったリザは、そっとその腕に触れててみた。自分が彼の「生きている」腕の中にいることを確かめたかった。  
 
 
 
「ん…おはよ」  
 
 
驚いた。自分が触れたせいで起きたわけではないはずだ…彼の腕に感覚は無いのだから…。なのになぜこの子は…  
 
「どうしたの?驚いた顔して」  
「…」  
「さっき起こしてくれたんだよね?」  
「え…」  
「わかるよ。中尉が触れた所、なんかあったかいし」  
「…」  
「おかしいよな、感覚無いはずなのに…。好きな人の感触はわかるんだよな」  
 
 
ああ、この子はなぜこんなに暖かいのだろう…。  
青年までいかない少年の、純粋な心と言葉。いつも冷静で毅然としていなければならない自分は、甘えられる存在が欲しかったのかもしれない。  
 
甘えられる存在ならとうに漆黒の髪を持つ上司がいるはずだ。  
だがエドワードのもつ純粋さは、私を捕らえて離さなかった。いけないと知っていても私はあの人の腕を離れここに来てしまう…。  
 
「中尉」  
 
執務室の窓から入る夕日が眩しかった。  
カーテンを引く私の背後から聞き慣れた上官の声がしたが、私は聞こえないふりをした。  
すぐ近くで呼ばれて聞こえないはずなんてないのに。  
 
…それは彼の声が、若干甘さを帯びていたから…。  
 
「無視とはつれないな。せっかく食事に誘おうと思ったのに」  
 
言いながら腕を腰に回す。食事というよりその先のことを考えているとしか思えないその行為を私は拒絶する。  
 
「勤務中です」  
「関係ない」  
 
一度は彼から離れたものの、今度は窓辺に追いやられ逃げ場を失ってしまった。  
 
「最近やけに私に冷たいが」  
「…そんなことはありません」  
「ん?男のにおいが…」  
ビクッ…  
 
「はは、冗談だ。君が浮気なんてするはず無いのにな」  
「…はい」  
「…今夜ホテルのレストランを予約しておいた。来るかね」  
「…はい」  
 
そう言わざるを得なかった。  
睨まれるように見つめられた彼の瞳には夕日の赤が映り、焔を灯していた。彼の内に潜む怒りを表すかのように…。  
 
今夜私は彼にどんな仕置きを受けるのだろう。  
今すぐにでもあの子の所へ逃げだしたかった。  
 
私の上官、ロイ・マスタング大佐。  
彼に出会って私は引き込まれるかのように恋に落ちた。どれほど憧れ、恋い焦がれただろうか…。初めて彼に抱かれた夜は愛しくて涙が止まらなかった。  
 
なのに…  
何故今こんなことになってしまったのだろう。原因はとうに解っている…  
私のせい  
 
私があの子の中に居場所を見つけてしまったから……。  
 
 
仕事を終え、私たち二人は予定通りレストランで食事をとっていた。最高級のコースメニューも、今の私には何も感じない。ただこれからホテルの部屋で行われるであろう恐怖を覚悟していた。  
 
しかし彼は違った。  
 
「もう遅いから君の家まで送るよ」  
 
あまりにもさらりと言われた彼の言葉。  
 
…やっと解放される…  
 
少しの疑いをもちながらも、私はその彼の言葉に安堵を覚えた。無意識にそれが表情に出てしまったのだろう。  
 
 
それが彼の引金を引いていたとは知らなかった…  
 
 
「では。今日はご馳走様でした」  
 
家の前で車が止まり、私は彼に別れの挨拶をした。これで今日は終わる…。これで彼から解放される…  
 
…はずだった。  
玄関のドアを開けたその時、彼は車から降り、私を押し退け無言で家の中に上がり込んできたのだ。  
 
「た、大佐!?」  
 
彼が何を考えているのかは解らなかったが、いつもの甘い雰囲気でないことは確かで。  
 
追いかけて部屋に入った私を、彼はベッドへと勢いよく突き落とした。  
 
…怖い…  
 
全身が危険信号を出しているのがわかる。  
 
「今夜はもうお別れだなんて誰が言った?」  
「……っ」  
「君はやはり私のことを避けているらしい」  
「そんな…」  
「そして君は私に言えない卑しい事をしているらしい。…このベッドで」  
「!」  
 
彼は気付いていた。  
 
「…っあ」  
「…んんっ!」  
 
執拗に彼は私を責めたてた。私は苦しそうな声をただ出すだけ…  
 
こうなった原因は大佐、あなたにもある…といったらあなたは怒るだろうか…  
 
『リザ…私は弱い人間だな…』  
以前あなたが私に言った言葉。軍人という異様な環境に置かれ、精神的に不安定になることもあるだろう。  
 
でも…  
『大丈夫です…私がついていますから』  
――私は強い女にならなくてはいけなかった…  
 
あなたに頼られることは素直に嬉しかったし、あなたを守る者として、これでいいのだと思っていた  
 
私は次第に「人に甘える」ということを忘れていった。いや、抑え込んでいたのかもしれない。  
 
 
そこに「あの子」が現れたのだ。あの子は私を何の隔てもなく包みこんでくれる。唯一ただの女に帰れる…「甘える」ことができる場所を私は見つけてしまった  
 
 
「んんっ!んっ!」  
 
いくら私が苦しがっても構わず彼は口唇を貪った。  
 
ふと気付けば身体じゅうに紅い痕がついてる。いつもの彼なら絶対にしない行為だったが。  
 
「ああっ…はぁ…」  
「…」  
 
普段では考えられないほど乱暴な愛撫に彼の怒りが痛いほど伝わってくる。彼が終始無言なのもそのせいだろう  
 
「あ…もう…もう」  
 
「あああっ…!」  
 
私がひとり果てた後も彼は構わず行為を続けた。  
 
ぐったりと放心している私を更に責め立てながら彼はこう言った。  
 
「愛しているよ、リザ」  
微笑みながら言われた、状況に不釣り合いなその言葉。恋人同士の甘ったるい意味は無く、私を決して渡さないという束縛と怒りを含んでいた。  
 
 
朦朧とした意識の中、彼がたてる卑猥な水音が耳に響き、この状況に泣きたくなってくる。  
 
 
結局その夜彼は私を解放することはなかった  
 
 
 
次の日目覚めると上官の姿はもうなくて。  
 
『先に行ってるよ』  
という置き手紙がベット脇のテーブルに置かれているだけだった。  
 
それは私への出勤を促す意を込めていたが、極度な疲労感と彼に会うことへの抵抗が重たくのしかかり、全く動く気にはなれなかった。  
…今日は一人でいよう…。  
 
…―  
日が大分昇ってきた頃、私は未だシーツにくるまったままだった。  
 
考えることはただひとつ、  
 
漆黒の上官と私…と黄金色の少年のこと…。  
 
 
私の相手がエドワードだということを上官に知られないうちに離れなければ…  
 
 
『中尉!』  
ニカッと笑うあの子の無邪気な笑顔が浮かぶ…。  
 
 
だがもう私はあの子に近づいてはいけない。単なる軍人と少年の関係に戻らなければならないのだ。  
――そう、単なる軍人と少年に…  
 
 
…エドワードの笑顔が頭から離れない。  
 
嫌…  
 
そんなの嫌…!  
 
愛しくて愛しくてたまらなかった。涙があふれて止まらなかった。  
涙で体中の水分がなくなってしまうのかと思った。  
 
 
…コンコン  
…コンコン  
 
『いけない、客人だ…』  
頬についた涙を無理矢理拭いとり、リザは玄関へと急いだ。  
 
 
…ガチャ  
 
!!  
 
 
「おはよ、中尉。寝坊?」  
 
今一番会いたくない人。  
…今一番会いたかった人。  
 
目の前にはエドワードが立っていた。  
 
「軍に顔出してきたんだけど中尉来てないって言われてさー」  
 
「…ええ」  
 
「大丈夫?顔色悪いけど…」  
 
「大丈夫よ…」  
 
 
今すぐ抱きしめたいと思った。  
だが自分の中の冷静な部分が何とか働いて抑えることができた。  
 
 
「家ん中入っていい?」  
 
「…」  
 
なぜこの時彼を突き放さなかったのか。「もう私に構うな」と…。でもやはり側にいたい気持ちが強すぎて…。  
ただ頷くことしかできなかった。  
 
 
 
私の体調が優れていないと思ったのだろう、彼は紅茶をいれてくれた。  
いつも通りのたわいもない会話。今日は天気が良いとか、弟のこととか…。少し私の口数が少ないことを除けばいつもと変わらない甘い時間。  
 
 
ふと彼は呟いた。  
 
「大佐…来てたんだ…」  
 
ビクッ…  
ソファーを掴む手に力が入る  
 
「な、何言ってるの?大佐は来てないわ」  
 
「気使わないくていいよ」  
 
「え…?」  
 
「泊まってたんでしょ?黒い髪の毛、ベッドに落ちてた。白地に黒だからつい目に入っちゃってさ」  
 
「…」  
 
「そんな顔するなよ。大丈夫だって。中尉と大佐のこと判っててこういう関係になるって決めたのは俺の方なんだから」  
 
「…」  
 
「中尉の側にいられるだけで俺幸せなんだよ?」  
 
「エドワード君…」  
 
「ごめん、変に気ぃ使わせちゃったな!」  
 
「ううん、いいの。…ありがとう」  
 
「う…ん?」  
 
なぜ私が感謝の言葉を述べたのか、彼はよくわからないといった顔をしていたけど  
 
…側にいてくれてありがとう…  
 
もうこの子を手放すことなんて無理だとこの時思った。私には彼がいなければ駄目なのだと。  
 
「ねぇエドワード君…」  
 
「何?」  
 
「抱きしめても…いい?」  
 
「もちろん」  
 
 
エドワードは私を優しく包み込んでくれた。慈しむようにずっと頭を撫でていてくれた。  
 
ああ…なぜこんなに落ち着くのだろう。今まで胸の中を支配していた不安や重圧がスーと溶けていく…。  
―ここが私の居場所。  
 
 
 
―…  
それからどのくらいこうしていただろうか。  
 
…わんっ わんっ  
わんっ  
 
 
嫌な予感がした。愛犬が鳴いて歓迎する相手はそういない。私と「あの人」くらい…  
 
 
まさか…!  
予想は的中した。  

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