久しぶりの、日が落ちる前の帰宅。
待つ者のいない自室の扉を開けたリザは、口の中でのみ小さく帰宅の挨拶を呟いた。
連日の疲労を振り落とすように、髪留めを外して首を振る。ふわりと髪が自由になる。
と同時に、先ほどまでの町の視察で身体にまとわりついた埃が空気にちらついた。
東部の砂塵とは違う、くすんだ埃。
シャワーで手早く洗い流そうと、一人暮らしの特権で服をソファに脱ぎ捨てる。
黒のインナーまでを脱いで下着のみになったところで、彼女は無言のまま動きを止めた。
「………」
整えられた眉が、不意に痛みをこらえるように歪んだ。
一度だけ玄関の外に視線をすべらせる。音もなく、脱ぎ捨てたばかりの軍服をまさぐる。
「邪魔をするよ」
玄関前から能天気な声が響くのと、ノックもなく扉が開くのと、そして彼女が玄関に
向かって銃を構えるのはほぼ同時だった。
扉を開けた先に現れたのは、黒髪黒目の若作りの青年。
「……どうしたんだ? いや、そんな格好の時に入ったのは心から謝罪するが」
小さな驚きを含んで、後ろめたそうにもごもごと口を動かしてロイは目をそらした。
照準を真っ直ぐに合わせたまま、彼女は鋭く断言した。
「つまらないことはやめてください」
「どういう意味だ?」
降伏の証に両腕を上げたまま困り果てて笑い、不可解そうにロイが問い返してくる。
だが彼女は腕を下ろさなかった。
「それはこちらの台詞です。大佐は、そんな笑い方はしません」
きょとんと見開かれたロイの漆黒の瞳が、不意にぐるりと表情を変えた。
「……なんだ、つまんないの。でも驚かないってことは案外日常茶飯事なわけ?」
そぐわぬ口調で呟き、あっさりと、ロイは全面肯定とばかりに肩をすくめた。その指先が
自らの全身に触れる。
パリッと静電気が薄く大気を撫でるような音を発し、触れた場所からほころぶように
肉体が作り替えられ、存在が置換されていく。
再構築と呼ぶには短すぎる時間で、華奢とさえ形容できる小柄で中性的な肉体と、
軽やかな残虐さを内にたたえた面差しが具現した。
片目を閉じ、居丈高に彼――エンヴィーと呼ばれる名を持つ者は、笑う。
「忠告に来たんだよ。最近のアンタ、自分の目的を忘れてそうだからさ」
「忘れてなど……」
顔をしかめて彼女はうめいた。
「ああ。それは分かってる。でもちょっとほだされすぎなんじゃないの? こいつにさ」
言いざま、眼前の存在が再び目まぐるしくその姿を変えた。先刻までと同じ、リザに
とって見慣れすぎた上官の姿に。
そしてそのままゆっくりと近づいてくる。
「止まってください!」
内から、息をするのと同じほど当たり前に湧き上がってくる恐怖におされて、
銃を構えてリザは叫んだ。
だがその銃身を逆に掴まれ、あろうことかエンヴィーは自らの――つまりロイの
顔の――額に押しつけた。にいっとその口元が不気味に引き上げられる。
「撃ってみなよ。っていうか撃てなきゃダメだろ? いつかの為の予行演習にさあ」
「……――!」
突きつけられた言葉に、愕然とリザは目を見開いた。
引き金にかけていたはずの指が凍りついた。力を失った手から、拳銃が鈍い音を
立てて床に転がり落ちる。
エンヴィーはリザの剥き出しの右肩をつかみ、激しい音をたてて壁に押し付けた。
「アンタさ、できそこないだからって、自分も化け物だってこと忘れてんじゃないの?」
ぎりぎりと容赦ない力で押し潰される。
人外の膂力にさらされ、苦痛と圧迫感にホークアイは歯を食いしばった。喉の奥から
苦悶の喘ぎがこぼれる。
「気に入らないんだよ」
表情を歪め、エンヴィーは苛立たしげに舌打ちした。
白い肌も、整った顔も。
自分にとっては仮初めにしかならないその姿を確かに持ちながら――このできそこないは、
それが与えられたものだという恩に欠け過ぎている。
見上げてくる鳶色の瞳にあるのは、化け物への言い知れぬ嫌悪で。
憎しみの入り混じった低い声で彼は吐き捨てた。
「粗悪品の分際で、そんな目で見るな」
吐息が絡むほどの間近、瞳の中に互いの感情すら映せそうな距離。
どんな人間に変化してもそれだけは変化しきれない、光を否定した魔物の瞳が、リザを
射抜いた。人間に似て非なる、不気味な虹彩。
喉が干上がる。
無条件で言葉が奪われる。逆らえない。逆らえるはずがない。自分は彼らに対して、そう
造られたのだから。
伸びてきた指が、リザの顔の上半分を覆った。
「! 手を離してくだ――」
「いやだ」
声が響く。
全身にさっきまでとは別の恐怖に襲われ、ホークアイは震えを押し隠す為に両のこぶしを
握りこんだ。
恐ろしかったのは眼前の彼の残虐さと、それにも増して自分の心弱さだった。
目の前にいるのが自分の上官ではないことを知っている。
(大佐)
それでも覆われた視界が作り上げる目の前の存在は、どこまでも彼だった。けして彼が
口にしない言葉を発していると分かっていながら、その声もまた、まぎれもなく彼だった。
たったそれだけのことに、植え付けられた恐怖以上に揺さぶられる。
「なんて呼ばれてたんだっけ、あんた」
耳元で、馴染んだ低い声が音をなす。
掴まれていた肩がはずされる。だが安堵はつかの間だった。剥き出しの太腿をなで上げ
られる。リザの中に怒りが渦巻いた。
なぜ、こう触れてくるのだ。優しい――彼のような手つきで。
「ホークアイ? リザ?」
冗談まじりの穏やかな声が、吐息をともなって首筋に触れる。
違う。そんな風に彼は呼ばない。どんなに焦がれても、そうは呼ばれない。
必死で否定した。目の前の存在は違うと。誰のためとも思いつかぬまま、何度も心の中で
繰り返して固める。
だが。
「中尉」
次いで彼の口を彩った確信と自信に満ちた単語は、一旦は感情を塞き止めることに
成功したリザの決意を、いとも見事に崩し去った。
覆われたままの両目に、涙が滲んだ。
ひそやかな嘲笑が聞こえ、脇腹をなでていた彼のてのひらが下腹部へと移動した。
全身を強張らせたリザの下着の中へと、ためらいなく。
抵抗するべき本能は、今回ばかりは役立たずだった。触れてくる指の感覚が
ロイ・マスタングと同様のものである――それだけで彼女の身体は反応していた。
「あーあ。この男だからいいの?」
いともたやすく鼻を抜けるような声がこぼれたことにエンヴィーは呆れる。
「ったく、せっかく昔いろいろ教えてあげたんだからさぁ。ほだされるんじゃなくてさ、
人間の男一人ぐらいしっかり咥えこんでなよね」
わざと淫靡な音をたてて指先で弄ぶ。
顔の上半分を隠しているせいか、彼女の、羞恥に染まった頬と薄く開いた唇の中に
見える赤い舌がひどくなまめかしい。
グラトニーが人を美味しそうだと思うのは、この感覚と似ているのだろうか。
思いながらエンヴィーは何かに惹かれるようにその唇を唇で塞いだ。
花芯を弄ぶ指は緩ませていないため、もどかしく喘いでは顔を背けようとするリザを
押さえつける形で、その唇を味わう。
唾液は想像のままに、甘いと思えた。抵抗されるとばかり思っていたのだが、そうする
うちに逆に彼女から舌を絡めてこられて困惑する。
なぜ――と自問と同時に、閃くように気づく。
浮いた意識の中で、今目の前にいるのを本当に愛しい男と思っているのか――あるいは、
思いこもうとすることで救われようとしているではないのか。
「……ほんと、ムカつくよ」
指を引き抜き、濡れた透明な蜜を、上気した白い肌に厭わしげになすりつける。
そして、床に置かれた拳銃を持ち上げた。矮小な人間のささやかな武器。それを彼女の
首元に突きつける。
撃ち抜けば、このできそこないの命は四散して終わる。
視界を取り戻して現実に直面したリザの様子に、エンヴィーは肩をそびやかした。
蒼白な顔で唇を引き結んでいた。悲鳴の一つもあげないところがらしいと言えばらしい。
その瞳の奥に、熱に浮かされたような一縷の喜びが垣間見える。
彼女の瞳に映っているのが未だ「ロイ・マスタング」であるがゆえに。
己の命を奪うのがあの男ならば――こんな場所で死のうと本望だというのか。
(バカにも程があるよ)
救いようのなさに、ぎりっと歯を軋ませ、エンヴィーは衝動的に引き金にかけた指に
力を込め――
「やめなさい、エンヴィー」
冷えた声が、響いた。
「……ラスト?」
闖入者に、呆然と呟く。
振り向けば、見慣れた、ぞっとするほど美しい女がいた。
いつからそこにいたのか、閉じられた出入り口の扉に背中をもたれさせて、腕を組んで
自分たちを見ていた。
結局撃ちそびれた銃をもてあますエンヴィーに一瞥すらくれずにつかつかと歩み寄り、
そしてリザの細い顎をラストは掴み上げた。
禍々しいほどに濡れた漆黒の瞳で睨み据える。
「次はないわよ。せいぜい、あの男を見張っていてちょうだい」
最後通告となって、それは大気を冷たく揺らした。
支配されているという屈辱に唇を噛み締めながら、リザは初めて、子供のように泣いて
逃げたいと情けないことを願った。
逃げる場所など、ないと分かっていながら。
「なんで止めたのさ」
いつもの敏捷な身体に戻ったエンヴィーは、照らしてくる夕焼けに向かって不平を
こぼした。軍宿舎の屋上からの眺めは、夕陽というスパイスがなければ地上よりは
多少マシといった程度だ。
隣で同じく夕陽にその身を預けたラストが、ばかね、と呟いたのが聞こえてくる。
「リスクが高いからよ。あんなのでも、今、消すのはね」
エンヴィーは肩を竦めて鼻で笑った。
「はん。気づいたところで焔の錬金術師ごときに何ができるっていうのさ」
「無為に敵を増やすのは得策ではないということよ。ただでさえ私たちに手札は
少ないんだから、有用に活用しなさい」
「はいはい。分かりましたよ」
半眼のまま受け流し、鉄柵にだらしなくもたれかかる。
茜色に照らされた世界に感動することに、自分たちは興味がない。しかし、美しい
とは確かに思った。
そのままで美しい世界というものは、確かに貴重だ。父の手によって生まれ変わる
ことになれば、いったいどんな美しさを誇るのだろう。
しかし大別すれば、大半のものは美しい側に入るのだろうとも思う。
苦笑が自然とこぼれ落ちる。
世界中から忌み嫌われるほどの醜さなど、そうそうない。
自分の本当の姿を見た時、あのできそこないも、きっと喚き叫んで否定するだろう。
あの男に縋るのだろう。
人間に肩入れする、愚かな。とても、愚かな。
「昔っから、ラストだけだ」
「何が?」
隣の美女から、心底どうでもよさそうな、気だるげな声が返ってくる。
「本当の姿を見て、何も言わなかったのは」
「化け物が化け物を嗤って何になるというの。くだらない」
豊かな髪をかきあげ、そのままの声音でラストはあっさりと言いのけた。
その静かな口ぶりに、エンヴィーは顔を上げた。
細められたラストの漆黒の瞳は、自分たちを赤く染め上げる夕陽を無感動に映している。
そこに、自らを哀れむ感情はかけらも存在しない。当たり前のことを今さら悲壮ぶる
など、愚の骨頂だとばかりに。
「ねえエンヴィー。あの娘」
端的な一言が風に乗る。
続く言葉を期待して見上げ続けていたエンヴィーの視界の中で、ラストの表情に
酷薄な笑みが広がった。
「人間ごときに焦がれて――いつか自分が化け物だと本当に自覚した時が楽しみね」
「焔の大佐は間抜けっぽいから、平気で受け入れそうじゃない? どうするのさ」
「それに甘えるような愚か者を、お父様が作ると思って?」
「まあ、それもそうか。化け物が人間になれるわけもないしねぇ」
立ち上がり、ようやく気を取り直したエンヴィーは首をこきこきと鳴らした。
やはりこの姿が一番しっくりと馴染む。
身軽く、その姿を翻す。
「ラスト」
「何よ」
「誰かを好きになるって、どういうことだっけ」
ラストが答えるよりも先に、エンヴィーはそのまま屋根から飛び降り、そうして
かき消えた。答えなど期待しない、ただの呟きだったらしい。
エンヴィーが消えた屋根の先を一瞬見やり、それからラストは視線を空に戻した。
手前勝手さには慣れている。小さく眉をそびやかし、別段怒りも感じない。
「さあ。知らないわ」
取り残された屋上で、小さく、同じく独りごちる。
その時、ふいに脳裏に一つの面影が去来した。
一瞬それを消し去ろうかどうか考え、結局そのままに任せた。
かつて自分と双璧をなした男。不遜な眼差しで世界を見据え、自分たちと袂を分かった、
冠する二つ名が最も相応しい男だった。
最後に口づけた日は、もう数十年――あるいは百年単位の過去。
甘い睦言の為ではなく、暇つぶしに駆け引きで肌を重ねたこともあった。背徳的で、
甘美で、だがそれだけで。幸せという言葉には当てはまらなかったが。愛して
いると思ったこともないが。
ただ、誰かの肌を熱いと思ったのは、後にも先にもあの時だけだ。
「そういえばあいつ、形見の一つも、残していかなかったわね」
両腕を組んだまま、不意に強く吹きつけてくる風にラストは目を細めた。長い髪が
風を含んでうねる。
今ごろは地獄で悠々と豪遊しているのだろう。
いつか自分もそこへ行く。自嘲ではない。ただの決定事項だ。
再会の時、自分たちの会話が憎まれ口で始まることがたやすく想像できる。馬鹿げて
いると分かっていながら、それでもその想像は少しばかり楽しかった。
紅を刷かずとも赤い唇を、彼女は嫣然と歪めた。
「焦らず、地獄で待ってなさいな」