とうに陽は落ちていた。  
あたりがうっそうとした闇に包まれると、途端にそれまで気にもとめなかった小さな音が  
騒がしく感じられるものだ。  
ざわざわと木々の葉擦れ音に、風に煽られて窓ガラスがびりびりと振動している音。  
かすかな衣擦れ、己の呼吸に妻の吐息。それらが、やけに大きくシグの耳を打っていた。  
闇は音をも吸い取ると、昔片手間に読んだどこぞの詩人が書いたという本にあったな、と  
シグはそんなことを思った。  
次から次へと生まれては吸い取られていくから、闇のなかではひとつひとつの音が目立つのだという。  
読んだ頃はさっぱりだったそのいち文も、今のような状況だと妙に納得してしまう。  
眠りに落ちる前に本を読むのは、シグの日課になっていた。  
本棚から適当に選ばれた本は、大抵錬金術関連のものばかりだった。妻の持ちものである。  
たまに物語めいたものもあるが、それは錬金研究書が暗号化されたものらしく、錬金術の奥の深さに  
ひどく驚いた覚えがあった。もちろん書いてあることはチンプンカンプンだったが。  
何が楽しくて読んでるの? と妻に問われたのは、結婚する前のことだったか。  
初めは妻のやっている錬金術が自分にもわかればと思ったのだが、得手不得手だろう、  
頭に入ってくるのだがさっぱり理解できなかった。  
それでも羅列された文字を眺めていると、漠然とした考えがほどよくまとまるのだ。  
そう言うと、何よそれ、と妻はさも可笑しそうに声をあげて笑った。  
輝くような、少女のような笑顔だった。  
「ねえあんた、そっちに行ってもいい?」  
床についてしばらくだった。隣りで眠っていたと思っていた妻が、ふとそう言ってきたのだ。  
シグは読みかけの本から顔をあげて妻のほうを向く。すると、こちらを見ていた妻のイズミと目が合った。  
イズミのベッドはすぐ隣りだというのに、サイドランプの弱々しい明かりでは、  
妻がどんな表情をしているのかよくわからなかった。そのせいだろうか、なぜだか妻がひどく遠い。  
妻のほうからそう言ってくるのは、別段珍しいことではなかった。  
それこそイズミの体調が悪くなる前は、健全な夫婦の営みは多いほうだったと思う。  
以前と同じよう、というわけにはいかないが、それでも愛し合うのはごくごく日常的だった。  
 
だが今晩に限り、妻のほうから言ってくるとは思ってなかったから、シグは少し戸惑いを覚えた。  
そんなシグの瞼裏を、今朝、汽車の窓から転げ落ちそうなほど身を乗り出して、手を振り遠ざかっていった  
あの兄弟の姿がちらりと掠める。  
今朝のことだった。妻のもとに錬金術の弟子入りした幼い兄弟が、その修行を終えて出て行った。  
ここ5ヶ月ほど毎日繰り返されていた賑やかな食事を終えると、兄弟は妻と自分とに深く頭を下げて、  
故郷行きの汽車へと乗り込んだ。青い空に白の上気煙がたなびくもと、  
遠ざかっていく好奇心でいっぱいの澄んだ目が、今でも瞼に焼きついている。  
それから今日いち日というもの、イズミの様子は少しおかしかった。  
いつだってきびきびと行動する彼女らしからない、気の抜けたような面持ちで、  
にわかに淋しくなった我が家を見、ふとため息を洩らしていたのだ。  
あの子たちの部屋、片付けなくちゃね――だが、幼い笑顔も温もりもなくなった部屋を、  
掃除道具を床に置くことも忘れて、イズミはしばらく立ち尽くして眺めていた。  
5ヶ月前の準備のときは、人様の子供を預かるんだもの、とそれははりきっていた。  
その目は嬉しそうに輝いていたものだった。  
そのときとは打って変わった様子で、ぼんやりと、だが眩しそうに細められたその目線は、  
思わず話しかけるのを躊躇するほど淋しげだった。  
俺がやろうか。やっと出た声はひどく掠れていて、自分でも驚くほどに不安が滲んでいた。  
だがいつもは聡い妻はそれにも気づかずに、ただ小さく笑っただけだった。  
私がとった弟子だもの、自分でするよ。大丈夫――そうやはり淋しそうに、無理やりに笑いながら。  
妻は、本当に駄目だったら自分から言える女だ。ひとりで抱え込んで、だがそこで自分で答えを出す。  
そして行動に移る。本当に頼りたかったら自分から言える性格なのだ。  
それをよく知っていたから、シグはそれ以上何も言わなかった。  
結局兄弟の部屋は片付けられることなく、掃除は明日に持ち越しになったのだったのだが。  
「だめなの? …お願い」  
いつになく真剣に乞いてくる妻に、シグは読みかけの本をサイドテーブルに置くと、  
身体をずらして毛布をめくった。  
 
そこをぽんぽんと軽く叩く。  
「おいで」  
そして妻を呼んだ。嬉しそうに笑うと、イズミはベッドから降りてきて、シグのところへと潜り込む。  
見詰め合った黒の瞳に小さく笑いかけると、シグはイズミの身体を抱きしめて、サイドランプの明かりを消し去った。  
闇が広まり、ますます些細な音が大きくシグの耳を打つ。  
ちょうどよいというのには語弊があるけれど、それでも妻の誘いは、正直ありがたかった。  
妻の髪に顔を埋め、その小さな頭を撫ぜながらシグは思う。  
妻はおそらく、研ぎ澄まされたような夜の空気に、にわかに淋しさを覚えたのだろう。  
いくら耳を澄ませてもそのなかに、あの柔らかなふたつの寝息はもう聞こえないのだ。  
その事実に、シグ自身も寂しさを感じていたからのだから。  
「身体は大丈夫か?」  
「平気」  
短くそう応えると、半ば不意打ちのようにイズミは口唇を寄せてきた。  
そのまままるで身をぶつけるように、夫の太い首筋に腕を回してしがみつく。  
密着するように押しつけられた豊かな胸の感触に、自然と息があがってくるのは、悲しいかなやはり男の性か。  
重なった口唇に舌を差し入れ、吐く息を吸い取るほどに深く口づけながら、  
シグは薄い寝着に被われたイズミの双丘に手を当てた。豊満で、だがしっかりとした張りと弾力が、  
揉みしだくシグの手の平を押し戻そうとする。ぎゅっとひと際きつく、手の平全体で鷲掴むように揉みあげる。  
ん、とイズミの喉から甘い声が洩れて、その柔らかな胸の中心が、にわかに硬さを帯びて尖っていくのがわかった。  
互いの口唇を噛むように重ね、ぴちゃりぴちゃりと音を立てて舌と唾液とが絡み合う。  
ふ、ん、と苦しげに妻が喘ぐ声がして、シグはうっすらと目を開けた。  
すぐ鼻先にはやはり、目の閉じられたイズミの顔がある。  
薄闇のなかでも上気した頬と、眉間に深く皺を刻んでいるのがよくわかった。  
苦しげに、だが恍惚と歪んだ妻の表情は、何度見ても色っぽくてきれいだと感じる。  
今すぐにでも全裸にして、とうに熱と硬さを募らせた下半身のもので貫いてやりたいと、  
そんな衝動をなんとか堪え、シグは口唇を離した。  
闇のなかで、つうっとお互いの口唇を繋ぐ銀の糸が光った。  
 
きゅっと、尖った胸の先端を無骨な指先で摘まんでみると、その表情はさらに苦しげそうに歪む。  
硬さを帯びていく胸の芯をのの字を描くように弄ると、それに合わせてイズミの口唇から洩れる  
息遣いも荒く、熱くなっていく。  
シグはイズミの胸を揉みしだきながら頭を下へとずらし、彼女の首筋に、鎖骨に、  
丁寧に口づけていった。ほんのりと桜色に火照った肌の上に、薄紅の花弁が散っていく。  
シグはそのまま、頭をイズミの胸もとへと下げていく。そこはまだ寝着に被われていたが、  
それにもかまわずにその上から口づける。薄い寝着は唾液にじっとりと濡れて密着し、肌に色がくっきりと透けた。  
途端に、シグのなかに悪戯心がむくりと湧いた。硬く尖った胸の先端に口づけ、それを口に含む。  
味わうように吸い、舌を這わせて、か細く喘ぐイズミの声にかわいいなあと耳を傾けながらも  
充分にそこを濡らし、ついと顔を離した。  
寝着が唾液でじっとり濡れて肌に吸いつき、イズミの胸の尖りがくっきりと浮かび上がっていた。  
「も、っもう! 何してんの!」  
頭上から弾かれたような罵声が飛んできて、ぽかりと頭を小突かれる。  
顔を上げると、耳まで真っ赤に茹であがり、鬼のように目を吊り上げるイズミと目が合った。  
「ったくもう、子供みたいなことして…!」  
「ついな」  
「ついじゃないでしょ!」  
ぽかぽかとさらに殴られて、悪かった、もう降参だ、と手を上げたシグのその手をイズミが掴んだ。  
目を凝らすシグに構わず、イズミはその手を再び自分の乳房に押しつけた。  
豊かな感触、そしてさらに硬さを増した先端の下で、イズミの心臓がどきんどきんと大きく脈打っているのがわかった。  
「…イズミ?」  
「…そんなばかなことしてないで…」  
シグから顔を反らし、イズミは軽く目を伏せた。きゅうと口唇をきつく噛んだかと思うと、  
「もっと…直に触って…」  
か細い声に、恥らう響きが絶妙だった。  
俺の嫁さんはなんて可愛いんだろうと、シグはいそいそとイズミの寝着をめくり上げた。  
 

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