愛用のトランクを片手に、彼はその邸宅の玄関の呼び鈴を鳴らした。出てきた執事に用件を伝える。  
一旦奥に入った執事が再び出てきて、深々と頭を下げ重い扉を開いた。  
「アルフォンス・エルリック様。オリヴィエ様がお会いになるそうです。どうぞ」  
無駄足にならなかったことに安堵しながらアルフォンスは召使いたちが両側に立ち並ぶ玄関ホールに足を進める。  
前に通されたのと同じ客間に彼を案内して席を勧め、一礼して執事が出て行く。  
ややあって軍服姿のオリヴィエ・ミラ・アームストロングが現れる。  
アルフォンスは立ち上がり、右手を胸に当て深く頭を下げた。  
「閣下におかれましてはご機嫌うるわしく」  
「ご託は不要だ、アルフォンス・エルリック」  
オリヴィエが視線だけで控える執事とメイドを退室させ、ソファーに腰を下ろして足を組む。  
「首尾を」  
アルフォンスはシン皇帝リン・ヤオ直筆の手紙を取り出し、彼女に渡した。  
「本文はアメストリス語で署名はシン語か。本物のようだな」  
「僕との会話も基本はアメストリス語でしたよ」  
「賢明だな」  
読み終わった親書を上着の内ポケットにしまい、オリヴィエは改めてアルフォンスを見据えた。  
「で、おまえはメイ皇女にフラれて逃げ帰ってきたと」  
言い放つ。  
彼女のカンの良さに舌打ちしたい気分になると同時に、さすがに「逃げ帰って」の単語はアルフォンスの疳に障った。  
言い返す。  
「皇帝の婚約者を無理矢理連れてくるわけにはいかないでしょう」  
「ほう」  
確かアメストリスにいるときのメイ・チャンはアルフォンス・エルリックに相当な好意を抱いていたはずだがそれは意外。  
立っているのがやっとだったガリガリの少年が、2年を経て目の前の容姿端麗かつ優雅な身のこなし、  
そつのない言動を持ちあわせた魅力的な青年に成長したと知りこれはいけると踏んだのだが。  
オリヴィエの唇に挑発的な笑みが浮かぶ。  
「それはあっちの男がいいのか、お前に魅力が足りなかったのかどっちだろうな?」  
アルフォンスは淡々と答える。  
「敗因は時間と距離だと思います」  
約2年半の時の流れはかつて抱いた愛しさを遠く淡い思い出に変えてはいたものの、  
だからといって彼女がずっと側にいた他の男を選んだという結果に全く傷ついていないわけではないわけで。  
そのへんをつつくのはそろそろかんべんしていただきたいんですが、女王様。  
「まあ皇女でなくとも、同等の錬丹術師を入手できるなら構わん」  
…意外にもあっさり言い、オリヴィエが立ち上がった。  
「部屋を用意する。泊っていけ」  
「いえ、それは」  
「シンの話を聞きたい。皇帝周辺の生の情報は貴重だからな。…それとも、私との食事は気が進まんか?」  
「是非、ご一緒させていただきます」  
 
アームストロング家の晩餐は豪華かつ美味なはずだったが、実際舌に感じられた味は半分以下だったと思う。  
いや、全く楽しくなかったというわけではないのだ。  
その瞳と同じ色のイブニングドレスを纏ったオリヴィエの姿は珍しくも目の保養だったし、  
威圧的な口調と単語の辛辣さにさえ慣れれば、頭の良い相手なので会話自体は楽しかったし。  
しかし…緊張してどっと疲れたことに変わりはない。  
浴室から出たアルフォンスはそのままベッドに倒れ込んだ。  
すみからすみまでアイロンをかけられ、清潔でほどよく糊がきいたシーツ。ちょうどいい堅さのマットレス。  
顔を付けた枕からは懐かしい甘い香り。  
(ああ、これカモミールだ)  
「よく眠れる魔法の草よ」と母がよく匂い袋を作り枕の中に入れていたハーブ。  
意外なそれが誰の気遣いなのか、本当に仕込んであるのかどうか枕を分解して確認する気力も、もうない。  
旅と緊張が相まって疲れ切った心と体にはすべてがあまりにも快く。  
深呼吸しきった時には、アルフォンスはすぐに深い眠りに落ちていた。  
そしてその眠りはひさしぶりにあまりにも深かったため、すぐには気づけなかった。  
息苦しい。体が重くて、上に、何か、…誰か、乗ってる…?  
「!」  
はっと目を覚ましたアルフォンスはそこに信じられないものを見た。  
明るい照明の下、惜しげもなくさらされた白い裸身。  
豊かな胸のふくらみと引き締まった腰とまろやかな臀部が作る曲線から目が離せない。  
「やっと目を覚ましたか」  
一糸まとわぬ姿で彼の腹の上に馬乗りになったオリヴィエ・ミラ・アームストロングが嫣然と笑う。  
「あまりに手応えがなさすぎるからたたきおこそうと思っていたところだ」  
…今、自分が置かれている状況を理解してアルフォンスは息を呑んだ。  
「何の、御用でしょうか」  
混乱の中からやっと引っ張り出した言葉に、  
彼女はまだ彼が目を覚まさないうちにはだけさせた胸元に指を這わせながら平然と答える。  
「ベッドの上で男と女がやることと言えば、一つしかないだろう」  
「それは、そうでしょうけど」  
「アルフォンス」  
かすれるささやき声で呼ばれ、その凄艶さにアルフォンスは言葉を失った。  
身をかがめてくるオリヴィエの背から滑り顔の両側に落ちた髪が、黄金のヴェールのように視界を奪う。  
「私では不満か?」  
薄氷色の瞳に射止められ。  
下りてきたつややかな桃色の唇はしっとりと熱かった。  
 
吸い上げられてゆるんだ間に舌がするりと侵入する。うわ、と思う間もなく自分の舌を絡め取られ、摺り合わせられ、  
いったん離して息をして、すぐに戻ってきた舌が今度はほおの内側を、上あごを、歯列をなぞっていく。  
…口腔の粘膜がこんなに敏感なものだとは知らなかった。ぞくぞくする。  
すり寄せられ、密着してくるオリヴィエの胸のふくらみのやわらかな感触に体の芯が熱くなり、  
その熱が下半身の一点に集まって高ぶっていく。  
やがて離れた二つの唇の間に唾液が透明な糸を引いた。  
濡れた己の唇を親指で拭い、すっと体を下にずらしたオリヴィエが  
実に見事な手際でアルフォンスの下半身からパジャマのズボンと下着をはぎ取った。  
彼の脚の間に体を割り込ませ、血液が流れ込み張りつめた牡をつかむ。  
さすがに跳ね起きて肩を押し、相手を退けようとしたアルフォンスだったが。  
「楽しませてやるからおとなしくしていろ」  
青い瞳に見据えられれば、魅入られた獲物にもうなすすべはない。  
自分のそれに、彼女の顔が近づいていくのを信じられない思いで見ているしかなく。  
厚い、肉感的なオリヴィエの唇が幹に口づけた。  
びくん、と跳ねあがる相手を逃すまいと吸い付き、根本の方からゆっくりと舌を這わせる。  
上げた視線が金色の瞳とぶつかった。  
眉を寄せ、快感に耐えるアルフォンスの表情にオリヴィエはほくそ笑む。  
女が口で手で牡を直接愛撫する行為はよく「奉仕」と称されるが、違う。  
本当は男の快楽の根元をつかみ、意のままにあしらい操る征服行為だ。楽しくてたまらない。  
内腿のさらに奥が熱くとろけてくるのを感じながら、わざと挑発的に舌を伸ばしてくびれた部分をなぞる。  
目が離せなくなっている相手の様子を確認して、濡れた先端に音を立ててキスしてそのまま唇を開いてくわえ込む。  
飴を転がすときのように舌を使うと、肩にかかったままのアルフォンスの指に痛いほどの力がこもった。  
最初はややおとなしかったそれだが、彼の下腹部にくっつきそうなほどの勢いになってしまうと口ではやりにくい。  
顔を離す。  
魅力的な気持ちのいい唇が離れたのを少し惜しく思いながら、アルフォンスは続いて行われた行為に息を呑んだ。  
充血してそそり立つ自分にオリヴィエの白く長い指がからみつく光景はとても淫らで、  
しかもぐいぐいとしごきあげられると容赦のない快感が送り込まれてくる。  
自分の手で気持ちよさを調整しながら行ういつもの行為とは違い、他人の手は遠慮も手加減もない。  
視覚と触覚両方から与えられる強烈な刺激に奥歯を食いしばって耐えていたアルフォンスだったが、  
どうしようもなく限界はやってくる。  
「っ!」  
押し殺した呻きとともに牡が大きく脈打った。  
飛び散った白濁がアルフォンスの下腹部を、オリヴィエの手を濡らす。  
 
思いどおりの結果に満足の笑みを浮かべながらオリヴィエはナイトテーブルに手を伸ばし、  
ティッシュで肌を濡らした液体をぬぐい取ってから再びアルフォンスをつかみあげた。  
絶頂を迎えたばかりで過敏になっているところを刺激され、苦痛にも似た快楽に彼はく、と喉を鳴らし、  
それでも若い体に潜む欲望は萎えることなく再び勢いを取り戻す。  
とりあえず責めがやんだことに安心して目を開けたアルフォンスに、  
しなやかに背を反らして伸び上がってくるオリヴィエの姿は彼がこよなく愛する猫、科の猛獣のように見えた。  
オリヴィエが自分の肩からアルフォンスの手を外し、その形の良い長い指に口づけを送って笑う。  
「自分だけいい思いをして終わるつもりじゃないだろうな」  
したたかに淫蕩に光る青い瞳。  
ベッドにその身を横たえて、アルフォンスの手を自分の胸に誘う。  
目の前に投げ出された成熟した裸身と、手のひらに吸いつくような肌とふくらみの感触に思わず息を呑んで、  
喉が大きく鳴ったことに赤面しながらアルフォンスはおそるおそる指を動かした。  
どこまでも沈み込むかと思われた指先は、途中で弾力に押し返される。  
触れる片手は両手になり、ゆっくりだった指と手のひらの動きがせわしくなり力がこもる。  
「痛い」  
思わず夢中になってもみしだいていたアルフォンスの耳にオリヴィエの抗議の声が届いた。  
「女の体は繊細だ、もう少し丁寧に扱え」  
苦笑を浮かべて注意され、恐縮しながら手の力をゆるめて再度動かす。  
目を閉じているオリヴィエの吐息が少し早くなってくるのが分かった。  
読んだことがあるそういう本からの知識を総動員して、  
手のひらに硬い感触で存在を主張している乳首に吸いついてみる。  
「っ」  
小さく声があがり、彼女の体がびくん、と動いた。  
好感触だったから今度は強く吸い上げてみる。  
舌先で転がしながらもう片方を指でつまんでこねるようにしてみたり、  
指の間に挟み込んでおいて手のひらでふくらみをもみあげたりすると、  
オリヴィエの吐息が乱れて甘い喘ぎが混ざってくるのが分かる。  
…胸への愛撫を堪能したら、今度はもっと下の秘められた部分を試してみたくなって体を起こす。  
大きく上下する胸からウエスト、下腹部に手のひらを滑らせて行くと、  
やわらかい肌と脂肪の下にしっかりと鍛えられた筋肉が息づき、引き締まっているのが分かる。  
太ももに手を置いたアルフォンスの訴える視線を受けたオリヴィエが誘うようにひざを立てて両脚を開いた。  
その間に体を割り込ませて、最奥に手を伸ばし顔を近づける。  
ふっくらとした秘肉の合わせ目を開かせる指先がとろりとした潤みで濡れる。  
 
そこの構造を目で確認したアルフォンスは、女性が一番感じる場所だと聞いている秘花上方の突起に吸いついてみた。  
「ひ、ぁっ」  
不意をつかれたオリヴィエの唇から甲高い声が上がる。  
舌先でつつき、唇にはさんで押しつぶすようにすると彼女の声が跳ね上がり、内腿が自分の頭を締め付けてくる。  
ひざをつかんで押し広げてなんとかその拘束から逃れ、今度は折り重なるひだの奥に指を差し込んだ。  
きつく狭いそこを探っているうちに、オリヴィエの喘ぎが変わる場所があるのに気付く。  
強靱な内腿に捕らえられないように注意しながらもう一度、突起に口づけて舌でねぶり回す。  
最初はあんなに強引に自分を思うままにした彼女が、今は自分の指と舌で甘い声を上げているのが楽しい。  
オリヴィエは手を伸ばし、アルフォンスの後頭部に触れた。  
愛撫する指も唇も舌もまだぎこちないが快感を探り出すのはなかなか上手い。将来有望だ。  
しかし慣れていない彼が紡ぎ出す生温い快楽ではもう、足りない。  
顔を上げさせる。  
熱く潤んだ瞳で見つめられ、かすれた声でおまえが欲しい、と訴えられれば彼に拒む理由はない。  
体を起こして、また痛いくらいに高まっている牡の先端を彼女の入り口に押し当てて、一気に腰を押し出す。  
熱くて、柔らかくて、きついそこに根本まで包み込まれて脳裏が白く灼けた。  
同じ粘膜でも、口で愛撫されたときとは全く違う密着してからみつく感触。  
それをじっくり味わう余裕などもちろんなく、本能のままに激しく腰を使う。  
自分の一番弱い部分を深く満たされる感覚にオリヴィエは声を張り上げた。  
弾みがついた相手に勢いのままがむしゃらに突き上げられるのがたまらなくいい。  
そう長いことなくやってきた男の絶頂を最奥で受け止め、  
脱力して重なってくる体を抱きとめて満足の吐息を漏らす――  
 
 
爽やかに鳴き交わす鳥の声。窓の外が明るい。  
「…」  
微睡みから覚醒したアルフォンスは頭痛を感じ、目を手のひらで覆った。  
未だに信じられないのだが、というか信じたくないというか。  
でも彼女の肌の香りややわらかさや与えられた快楽の記憶は鮮やかで。  
いやあれは夢だ多分夢だきっと夢だそうに違いない、と自分に念じて体を起こす。  
と、首筋から胸元にかけて、細い光がきらりと見えた。  
指でつまみ取ったそれが自分のものではあり得ない長さの金髪であることを確認したアルフォンスは、  
…やっぱり夢じゃなかったー、とその場にがっくりと崩れ落ちた。  
 
 
そう、その夜は気まぐれを起こした彼女と起こされた彼の戯れと初体験で終わるはずだったのだ。  
 
久しぶりに会った旧知の人物から、世間話のついでにその話を聞かされた彼らは唖然とした。  
「オリヴィエ・ミラ・アームストロング大将…が…」  
「産、休…?」  
エドワードが話題の主の名前を確認し、アルフォンスがそのあとの単語を引き取る。  
「えーと、産休っていうとあれだよな、女の人が赤ちゃん産むために仕事休む制度」  
「うむ、そのとおり」  
今日もキラキラぴかぴかつややかに上機嫌なアレックス・ルイ・アームストロングだった、が。  
「しかし困った、これでまた我輩が家督を継ぐ機会が遠くなった」  
「ま、まあそうですね」  
「でさ」  
何故かなんとなく声をひそめ、エドワードは誰もが知りたいと思うだろう核心に迫った。  
「父親、誰?」  
「それがな…姉上はそれをおっしゃらんでな」  
アームストロング家当主の夫なのだから相当の敬意を持ってお迎えする用意があるのだが、  
とアレックスがため息をつく。  
何はともあれ姉上の子だ可愛いにきまっておる、無事生まれたらおまえたちにも写真を見せてやろうと  
スキップしながら帰っていく彼を見送って後エドワードがぼそりとつぶやいた。  
「よく使いもんになったよなー、相手」  
「そ、そうだね…」  
 
 
その夜、アルフォンスは自室で医学書をめくり何度も指折りいろいろと数えて、  
…結局がっくりとくずおれることになった。  
 
数日後、セントラルシティのアームストロング本邸の玄関に花束を抱えたアルフォンスの姿があった。  
通された寝室、ベッドの上のオリヴィエの腹部は記憶の中とは違いまろやかにふくらんでいる。  
花束を受け取り、差し支えのない会話をいくつかして、人払いをした彼女は単刀直入に切り出した。  
「アレックスに聞いたか」  
「はい」  
「まったく、あやつは何も考えずべらべらべらべらとしゃべりおって」  
おかげで見物人が絶えずに困る、と彼女にしてはめずらしいため息をついて。  
「ああそうだ、昨日はイズミが夫君と一緒にダブリスからやってきたぞ」  
まだ男か女かもわからんのに服やらおもちゃやら抱えてな、と机の上に積まれたいくつもの包みを視線で指す。  
そりゃ師匠はこの女性をちゃん付けで呼べる無二の親友だし大喜びだろうなーとその様子を想像し、  
…アルフォンスはここにきた用件を済ます覚悟を決めた。  
「その、貴女のお腹の中の子供の父親は」  
刃のような鋭い視線に負けまいと背筋を伸ばして。  
「僕ですね」  
「さあな」  
決死の問いをあっさりと返され、緊張していた肩がかくんと落ちる。  
大きく膨らんだ腹に手を当て、唇に笑みさえ浮かべてオリヴィエはきっぱりと言い切った。  
「私がこの腹で育て私が産む私の子だ。それ以上の事実は必要ない」  
予想もしなかった冷徹な言葉に、アルフォンスは続ける言葉を失う。  
…しばらく、時計の秒針が動く音だけがその場に響き続けた。  
「もう話すことはない。帰れ」  
「ですが」  
「まだ何を聞きたい」  
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして、一言。  
「女だけに避妊を任せるから慌てることになる。自業自得だ馬鹿者」  
言い放ち、オリヴィエは手元の呼び鈴を鳴らし現れた執事に「お客様はお帰りだ」と告げた。  
 
 
 
アームストロング邸の前に軍用車から分厚い封筒を手に降り立った褐色の肌、赤い瞳を持つ独特な風貌の軍人が、  
優秀な執事の有無を言わせぬ迫力により丁重かつ強引に玄関から追い出されてしまったばかりのアルフォンスに目を止める。  
「もしかしてアルフォンス・エルリック君かい?」  
「マイルズ大佐」  
見知った顔にほっと息をつき、アルフォンスは差し出された手を握りかえした。  
「お久しぶりです」  
「ああ、珍しい場所で会うものだね」  
「まあ、はい」  
ここに来ている理由を追求されたらどう答えようか、と警戒する彼に何か気付いた様子も見せず、  
マイルズはにこやかな笑みのまま言う。  
「この時間なら今夜はセントラル泊りだろう? 後で酒でも飲もうじゃないか」  
 
薄暗い照明、ジャズが会話の邪魔にならない音量で流れる小さな酒場。  
壁際の二人用テーブルに陣取った彼らの下に、バーテンが透明な液体をなみなみと満たした、  
おもちゃのようなごくごく小さなグラスを運んできた。  
グラスを合わせ、マイルズがしたように一気にあおり飲み干したアルフォンスの喉が灼ける。  
濃厚な酒精が熱の塊になって胃に落ちていく。  
「きついだろう。…ブリッグズの氷酒、懐かしい味だ。新人が古参から受ける洗礼の水だよ」  
同じ酒を飲んだはずなのにけろっとしているマイルズが激しくむせ続けるアルフォンスの背中を軽くたたいてやる。  
バーテンが運んできた水のグラスを渡し、自分は別の蒸留酒をロックで注文した。  
胃の中の熱が全身に染み渡り、特に頭がくらくらしてくるのを感じながらアルフォンスは喉を鳴らして水を飲み干す。  
運ばれてきた酒を大人の余裕で口に運びながらマイルズが口を開いた。  
「彼女の相手は君か」  
いきなり核心をつかれたアルフォンスの動きがぴたりと止まる。  
「な、なんで…」  
「副官だからね、1年ほど前に彼女が君について調べていたことは知ってる。  
で、特に親しくもなかったはずの君がわざわざ見舞いにだけくるというのも不自然だ」  
アルフォンスの水のグラスの縁に自分の酒のグラスを軽く当てて鳴らし、マイルズは彼の耳に唇を寄せた。  
「じゃあ言われただろう?『女だけに避妊を任せるから慌てることになる。』」  
「『自業自得だ馬鹿者』」  
声を揃えて言い、声の抑揚までありありと思い出した二人は揃っていたたまれなさに頭を抱える。  
…そりゃそうですが確かにソノトオリデスガ間違いないですが、と深く激しく自己嫌悪しながら、  
じゃあそのセリフを知ってるということは、と察して顔をあげ見つめるアルフォンスに複雑な笑みを返し、  
マイルズは答えを告げた。  
「相当前の話になるな」  
「その時、の、…は…」  
「…流れたよ」  
「…すみません…でした」  
ぐらりと崩れるように頭を下げ、ふらりと上げるアルフォンスの顔色は白く、額にじっとりと汗が浮いている。  
グラスを握りしめている手に触れ、冷たくなっているのを確認したマイルズはカウンターの方に手を挙げた。  
「顔色が悪い。悪酔いしかけてるな。宿に戻ろう」  
「いえ、まだ大丈夫」  
「酔っぱらいが大丈夫と答えるときはたいてい大丈夫じゃないんだよ坊や」  
 
「ブリッグズの氷酒」の効果は絶大で、マイルズに肩を借り、  
泊っているホテルの部屋にやっとたどりついた時のアルフォンスには完全に酔いが回っていた。  
目の前は真っ暗、体はぐらぐら。手にも足にもろくに力が入らない。  
「酒を飲むの自体が初めてだったか、そりゃ悪かった」  
ベッドに座らされて渡されたミネラルウォーターのボトルを勧められるままに飲み干し、そのままひっくり返る。  
「すみません、マイルズさん…」  
「気持ち悪かったら我慢せずに吐きなさい。あととにかく水分を取ることだ」  
上着を脱がせ、シャツの襟元とズボンのウエストをゆるめてやり、  
マイルズはベッドの側に椅子を引っ張ってきて座り込んだ。  
蒸留酒による悪酔いは体温を予想以上に低下させるおそれがある。しばらく見守っておいてやったほうがいいだろう。  
そのついでに。  
「さっきの話の続きだけどね」  
返事はしなくていい、独り言のようなものだからと前置きしてマイルズは続ける。  
「君とオリヴィエがなんでそうなったのかはだいたい想像がつく。襲われたな」  
すねたように顔を向こうに向けるアルフォンスの肩をたたき、  
恥ずかしがらなくていいぞー私の時と同じだからなと軽く笑い飛ばしてやる。  
そして声音を真剣なものに変えて。  
「だが悪いことは言わない、そのことは隠し通せ」  
男の沽券に関わるとか、そういう問題ではなく。  
「オリヴィエは絶対に君が子供の父親だとは言わない。誰にもだ」  
「どうし、て」  
「彼女が彼女だからだ」  
「ブリッグズの北壁」の二つ名を持ち、将来大総統の座につくのはまちがいないだろうと目されている  
アームストロング家の女当主にははっきり言って隠れた敵の方が多い。  
その彼女と、「約束の日」の英雄「鋼の錬金術師」のまだ年若い弟が通じ、  
子供を作ったという醜聞が知れ渡れば…その威力と影響のすさまじさは想像できない。  
それでもオリヴィエはその地位と家名に守られるだろうが、  
無名の青年でしかないアルフォンスを守るものは何もない。  
「自分が引き起こした事態なら、泥はひとりで被る。それがオリヴィエなりの君への責任の取り方だ」  
「責任なら、僕にも」  
年若い彼の青い潔癖さを好ましく思いながら、マイルズはアルフォンスの額を軽く指で弾いた。  
「そういうセリフは名実共にオリヴィエの側に並び立てるだけの大人になってから言うことだ」  
少なくとも酒に飲まれているようじゃまだ早い。  
 
アルフォンスは唇を噛んだ。言い返そうにも今のていたらくじゃ説得力も何もない。  
肉体を取り戻し、それからはかなり順調かつなかなか有能に成長したと思っていたけれど。  
結局自分はまだ周囲の大人に守られかばわれる子どもでしかないのかという自己嫌悪。  
自分はまだ敬称でしか呼べない女性を、オリヴィエとためらいなく名で呼べる相手の大人の余裕と関係への嫉妬。  
酔いのせいでぐらぐらする頭の中に、いろんな感情が渦巻く。  
アルフォンスが小さく身震いしたのに気付き、マイルズは毛布を彼の胸の上まで引き上げてやった。  
続ける。  
「…私はね、オリヴィエほど利他的な人物を知らない」  
己の意志と姿勢を貫きすぎる姿故にとてもそうは見えないけれど、  
冷酷なまでの実力主義も苛烈で攻撃的な言動も旺盛な上昇志向も、その行動原理はすべて「守るため」だ。  
対象はアメストリス国民であり、その手で育て上げた部下であり、情をかけた相手であり──  
「オリヴィエは自分の誇りも幸福も、己が守ると決めた相手のためにならためらいもせず明け渡す。いつもだ」  
利他的、という意外な単語に引きつけられたアルフォンスの心に、続くマイルズの言葉がすとんと落ちていく。  
「すばらしい信念だけど…あまりにも厳しいね。彼女にも誰かにわがままを言う権利はあるはずだ」  
うなずくアルフォンスの額に手を当て、顔色が普通に戻り体温も上がってきていることを確認した  
マイルズは安心して立ち上がった。  
「というわけで、後は任せた。今の私には妻がいるからもうオリヴィエには応えられないんだ」  
ちょっと待て、そこまで勝手に打ち明けておいて、そして押しつけて帰るんですか。  
反論しようにも、アルコールでぐるんぐるんになった頭と体ではとても追いつくことができるはずもなく。  
ドアが閉まる音を遠く聞きながら、アルフォンスはつぶやいた。  
「大人なんて、嫌いだ…」  
冷酷で傲慢な女王が隠し持つ篤い情。  
それを聞かされ知ってしまったら、このまま忘れて離れて終わってしまえばいいなんて思えない。  
いや、終わらせたくない。  
…これじゃまるで昔話の、氷の女王の鏡の破片を目に受けて彼女しか見えなくなってしまった少年のようだと苦笑する。  
守るなんて不遜なことは言わないしできはしない。それなら、せめて認めてもらいたい。  
そのために、自分はあの女性のために何ができる?  
どうすれば、このまま関係を断ち切らずにいられる?  
必死に考えを巡らせながら、彼はいつのまにか眠りに落ちていった。  
 
 
そして彼は旅に出ることを選ぶ。  
自分が、彼女が最も必要としているものを得るために。  
 
アメストリスに戻ったら、いつも最初に彼女の下に赴くことにしている。  
オリヴィエ・ミラ・アームストロング。  
「ブリッグズの北壁」「氷の女王」の異名を他国にまで響かせるアメストリス国最高最強の守護女神。  
自分が見て、入手してきた他国の最新の情報や知識、技術を手みやげに晩餐を楽しんだあとは、  
やっとご褒美の時間だ。  
 
 
飲み干した酒のグラスを起き、立ち上がってこっちにきたオリヴィエが、  
椅子にかけたままのアルフォンスのふとももに腰を下ろした。  
体をひねり、彼の首に腕を絡め顔を寄せる。  
「このまえ、エドワード・エルリックがうちの双子を見てな」  
オリヴィエ・ミラ・アームストロングが未婚のまま産んだ双子は  
金色の髪と薄青の瞳を持つ厳しい眼差しの兄と、栗色の髪と金色の瞳を持つ面差し優しい妹。  
カンのいい人間が見たら、その子たちが誰の遺伝子を持つかはすぐに悟れる事実。  
「何か言われなかったか?」  
彼女の肩を覆う見事な金色の髪に顔を埋め、アルフォンスは苦笑した。  
「泣かれましたよ」  
俺はあの女の餌食にするためにお前の肉体を取り戻したわけじゃないー、と、  
わざわざ苦手な大砂漠を越えて自分がいるシンまでやってきて言うもんだから、  
数年ぶりに殴り合いの兄弟げんかをする羽目になったのだ。勝ったけど。  
聞いたオリヴィエがくっくっと楽しげに喉を鳴らした。  
「私もアレックスを嘆かせた。同じだな」  
…背筋をゆっくりとたどっていたアルフォンスの指がぴたりと止まる。  
「何を考えている」  
「いや、…そういえば貴女アレックス少将とは血がつながった姉弟でしたね、と思い出しまして」  
盛り上がっていた気持ちがちょーっと覚めるというか。  
その答えを聞いたオリヴィエがアルフォンスの耳に歯を立てた。  
「いてて」  
「私の前で他の人間のことを考えるな、馬鹿者」  
胸元に降りかけていたアルフォンスの顔を上げさせ、瞳を合わせてささやく。  
「私だけ見ていろ」  
めったに聞けない彼女のわがままを可愛いな、と思いながらアルフォンスは彼の女神の口づけを受ける。  
 
 
…まあ、他人には理解してもらいがたい関係だ。顔を合わせ、話をして、肌を重ねるのは年に数回。  
しかも親子ほどの年齢差だし、オリヴィエは文句なしに美しいけど威圧的に過ぎるから  
自分たちの関係に気付いた相手、とくに同性からは異口同音に「よくその気になったな」と冷やかし半分呆れ半分で言われるし。  
オリヴィエ本人からも、  
クセルクセス人の血統は珍品だから欲しかったんだとか  
アームストロング家に優秀な錬金術師の血を取り入れたかっただけだとか  
だからお前が私に義理立てする必要は全くないんだとか  
そりゃもういろいろと身も蓋もないことを言われたけど。  
…それでも冷めない気持ちは仕方がない。  
 
 
きっかけはどうあれ、今、アルフォンスが彼女を誰より大切に想っていることは事実なのだから。  
 
 
終  
 

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