その部屋のドアには鍵はかかっていない。礼儀として呼び鈴は押すが、返事はない。
いつものように中に入り、後ろ手で鍵を閉める。
いつものように室内は真っ暗で、その闇に目が慣れるまでは少しかかる。
無言で時を待つリザ・ホークアイの足首から濃厚な香水が鮮烈に香り立つ。
薔薇と麝香と白檀とヴァニラ。
男物のくせに不思議に甘く華やかに匂うそれは自分のような小娘にはとても似合わない香りだ。
年上の、辛辣で苛烈だがその気になれば凄艶な色香を放つだろうあの女性にならこのうえなく似合うだろうけど。
彼女は奥に足を進めた。寝室のドアを開く。
窓際のベッドに座って待っている相手に歩み寄り、目を閉じてその腕に身を投げる。
目を閉じていれば、違う髪も肌も瞳も見えないから。
肌をまさぐる硬い手のひらも熱い吐息も乾いた唇も、あの男性のものだと思える。
恋人でも妻でもなく「側近」で居続けること。
望んで、望まれてそうなった自分の立場に後悔はしていないけれど。
…他の女性に向けられる笑顔に叫びたくなる時はある。
触れてはもらえない切なさに、泣きたくなる夜だってある…
誰にも見せないつもりでいたその葛藤を見抜いたのは、違う立場で同じ嘆きを隠し持った赤い瞳。
室内に灯りはなくともおたがいに夜目は利く。ことを為すには問題はない。
代理品の夢に酔いたいなら相違点は決定的に見えない方がいい。
…彼女が似ていないのは、瞳の色。肌の微妙な色合い。消えない絆を刻まれた背中。
彼は自分が贈った香りをまとい腕の中にくずれ落ちる彼女のあごを捕らえて上向かせ、噛むように口づけた。
似ているのは、ほどいた髪。金色と長さと指に腕に絡む感触。
やわらかな肌と脂肪の下に鍛えられたしなやかな筋肉が息づくたおやかなだけではない肉体。
組み敷いて服と下着をたくし上げ、引き下ろし、豊かなふくらみを手のひらいっぱいにつかんで弾力のある感触を楽しむ。
顔を伏せて、硬く存在を主張する乳首を口に含みながら利き手を下半身に伸ばす。
熱い潤みを敏感な場所に塗りつけるように指を使えば乱れた吐息が喘ぎに変わって。
「くぅ…っ、っ、っく、ぅっ」
うわずってとぎれながら快感を訴える彼女の声は、嘆き混じりの嗚咽のようだといつも思う。
体温が上がり、いっそう強く濃くなる香りが彼の記憶を刺激する。
ここからは遠い北の地。凍てつく夜は長く、同じ香りに包まれて何度も交わした情は熱く。
けれど、請われ望んで他人の配下についた自分に、
誇り高いあの女性がその身を許すことはもう二度とないだろう。
離れてみて初めて、これほどまでに恋うていたのかと気付いた愚かさを自嘲するももう遅く、
手に入らないと分かればなお劣情は募る。
…怜悧な鳶色の瞳の奥の、触れられない相手への渇望に気付いたのは立場は違えど同類だからだ。
男のたくましい腰が女の太ももを大きく割った。
一方的に入り込んできた硬い熱さに最奥をぐっと突き上げられ、臍の裏側に重く響く衝撃に彼女は声を上げながら大きくのけぞる。
彼が彼女の耳元に唇を寄せる。
それ以上が欲しければ自分で動くようにとそそのかされ、彼女はかっとほおを熱くして、すぐに自嘲的に思い直す。
どうせ身代わり、ならばせいぜいそれらしく動いてあげる。
太ももで相手の腰を挟み、腰と上半身を持ち上げる。肘を支点にゆるゆると体を揺らす。
男の手が腰骨をつかみ支えてはいるものの、腹筋に力を入れていなければならないため決して楽な姿勢ではない。
だからだろうか。一方的に動かれるより以上に中の存在を強く意識してしまう。
最初はただ揺すっているだけだった腰が、次第により感じる場所への刺激を求める動きに変わっていく。
知らず知らず表情がとろけ、かみしめていた唇がゆるみ熱く乱れた喘ぎがこぼれはじめる。
「──ひぁっ!」
不意に相手に動かれ、彼女は電撃のような快感を得て声を張り上げた。
緊張を強いられていた体が脱力してぐったりとシーツに沈む。
その背を男の手が引き起こし、唇を奪った。舌を絡め吐息をむさぼり唾液を交わす。
腕を伸ばし彼の背中を掻き抱けば厚い胸板にふくらみの先端がこすれて快感を煽る。
欲望と衝動に駆られるまま、彼は激しく腰を使った。彼女の中はとろけてさらなる快感をせがむようにわなないている。
激しく突き上げ、衝撃を受け止め、揃って堕ちる。
暗闇の中、肌を合わせながらいつも肩の向こうに閉じた瞼の裏に違う相手の面影を見ている。
足りないものを借りて埋めて満たされようとするだけの関係。
誘ったのは彼。応じたのは彼女。
止められないのは──彼と彼女。
呼吸が整うと彼女はすぐに体を離した。手早く身支度を整えて部屋を出る。
嘘と裏切りと快楽を重ねた闇が深いほど、事後の自己嫌悪が激しいのはいつものことだ。
足早に自宅への道を行く。
時間を経てなおむせるようにまとわりつくこの香りを浴室で洗い流してしまえば気持ちの切り替えができる。
…とりあえず、だけど。
閉まるドアの音を、横たわり目を閉じたまま彼は聞いていた。
汗に湿ったシーツ。まだむせるように濃い残り香が鼻をくすぐる。
同じ香水を贈り、つけてくるよう強要しているのは幻影に信憑性を与えたいだけの自分のエゴだ。
…だからもう少し、夜闇の間くらいは名残に身を任せていたっていいはずだ…
次の朝が来れば二人とも、「イシュヴァールの英雄」の忠実な部下同士の顔に戻る。
だけど、おたがいに分かっている。
次の約束がなくとも、本物が手に入らない限り、同じ夜は幾度も繰り返されるだろう…