わかってる。悪いのはあの人じゃない。
でも――恐怖が拭い去れない……
リザが最近俺を避ける。理由は、判り過ぎるほど判っているけれど……
そっとしておくべきなんだろうか? なにかを言えば傷つけるだろうか?
「リザ」
愛しいあの女が、馬鹿どもの慰みものにならなかっただけが救いだった。
無能、と彼女に言われたこともあるが、それでも仮にも軍人で、男だ。
彼女がかなわなかった数人の男どもでも、俺なら勝てる。
間一髪の時に、リザを救い出せたとき程、自分が強い男であったことを
感謝したことはない。
――だが。気絶した彼女を病院につれていったあと、気がついた彼女が
俺を見たあのときほど、男であったことを恨めしく思ったことはない。
今でも、まぶたに焼きつく怯えた瞳。
拒まれたこの手。
君を愛しているのは他でもないこの俺だというのに。
リザを抱きたいと思ったことは、数え切れない。
同じ雄の欲望が、彼女を傷つけたのだ。
俺はどうしたらいいだろう? 彼女に何かをいう権利が俺にあるか?
かといって、何もしない。それもできない。
できるものなら、俺が彼女を癒してやりたい。
前のように、また同じ時間を、すごしたい。
リザ。外は雨が降っているよ。本当に俺は無能だな。
君一人助けることすら出来ない。
「―――-ッ!」
何者も写さぬ暗い瞳は男に「吸い込まれるのではないか」という奇妙な錯覚を与えた。
皮肉にも、その瞬間彼女と同じ目をしていたことに、彼は気付いていたのであろうか?
一瞬の出来事であった。
体はすぐに反応した。事態ももちろん理解出来た。
大丈夫、全て正常に機能している。
そう思った。一つの誤算を除いては。
心が理解すること全てを拒絶していた。
跳ね除けられた手は空を彷徨い迷子になる。
どこにも行く当てのない迷子。
自力で家に帰る方法など知るはずもない。
彼を迷子にさせた張本人に見つけてもらう以外の手段を知らないからだ。
声も出ない。息苦しくて、今すぐ軍服を脱ぎ捨てたいと意識の端で思った。
全ての時が止まった瞬間であった。
つい、2時間ほど前のことだ。
今は眠る金色の猫の前で。
白い肌に似合わぬ紫色の痣。
体中のところどころに内出血の跡が残る。
閉じられた瞼の中にどんな色が隠されているのかはっきりと思い出せない。
実物がなければ記憶などこんなに危ういものだということを思い知らされる。
ただ、そこに立ち尽くす。
彼女の眠る白い部屋で。彼女の眠る白いベッドの傍らで。
男の背中は何も語らずただその場に存在するのみ。
しかし、それは、それ故全てを語っていた。
ブラインド越しのガラスの向こうから雨の旋律が聞こえた。
あの忌まわしい日から数日が過ぎた。
彼女は普段と変わらず仕事を淡々と進めている。
自分も何事もなかったかのように振る舞うしか出来ない。
だが、ただ一つ変わったのは
今まで常に自分の補佐をしてくれていた彼女の姿は隣にない。
やはり避けられているのだろう。
悲しいが今は仕方がない。
自分の非力さがただ、ただ恨めしだけだった。
日も暮れ皆帰り支度をしている。
たった一人の執務室。他と同じように支度をしているときだった。
コンコン
「失礼します」
開けられたドアの向こうに立つのは、ホークアイ中尉である。
正直、驚いた。
あの日以来まともに顔を合わせることはなかったのだ。
久しぶりとも思える彼女の姿がうれしい反面、
手を振り払った時の彼女の顔が脳裏にちらつき不安を覚える。
そんなこちらの想いなど関係なく彼女は言葉を続けた。
「私情を引きずり公務を妨げてしまい申し訳ありませんでした。
私は軍人として余りに未熟ですが明日からまた一から出直す気で努めます。
お帰りのところお引き留めして済みません。では失礼いたします」
簡素な決意の言葉。それは軍人らしく力強い
そして哀しい声…。
出ていこうとする彼女の腕を掴み引き寄せたい衝動を辛うじて堪えた。
――扉の影に消えようとする細い背中をただ見送ること。
それが今出来る最善のことだ、そう自分に言い聞かせる。
「では、また明日な」
いつも通りの声。いつも通りの顔で。
我ながら上出来と思えるまで「普段通り」だと内心哂ったロイに、
「はい、大佐」
答えた彼女はいつも通りの凛とした雰囲気を持つ、リザ・ホークアイ中尉の顔だった。
次の日。
ロイは通常の時間帯に出勤した。
馬車や車で護衛付きでくる将校も多い中、司令であり大佐のロイは軍から与えられた
自宅から徒歩で通ってきている。
「おはようございます、大佐」
「ああ、おはよう。ご苦労だな」
門番の敬礼に応えながら入るいつもの朝のはずだった。
――騒がしいな。
東方司令部の門の前。そこには人だかりが出来ている。
「あれ、一人なの?」
「ご主人様は一緒じゃないの?」
事務官から食堂のおばちゃんまで女性陣ばかりが円陣になっている中から、黒い塊が飛び出してきた。
「あ、待ってブラハ?!」
高い女性の声。
ロイの足元に駆け寄ってきたのは、ホークアイ中尉の愛犬ブラックハヤテ号だった。