机の向こうから伸ばされた掌がオリヴィエの額に張り付いた。
目ざとい男だ。この執務室に入って来てすぐ異変に気がついたのだろう、
肌の温度を確かめるように角度を変えては触れる冷ややかな手からは
確かな意思が感じられた。触れるごとに深まる眉間の皺が、物言わぬ男の心情
を如実に表しているようだった。
「触るな馬鹿者」
「……少将、こんなに熱がある状態だと仕事にならないでしょう?お休みになって下さい」
「それは私が決めることだ。もう用がないなら帰れ、マスタング」
「体調が優れないあなたを置いて帰れる訳がないでしょう」
上官に対して一切引こうとしないロイの真摯な眼差しを、オリヴィエは熱を
孕み潤んだ瞳で受け止める。未だ額に置かれたままの掌は熱い肌には心地よく、
瞼を閉じてその冷ややかさに浸りたくなる誘惑に駆られた。
意識している以上に己の体調は悪く休息を求めているらしい。触るなと
言いながらも振り払えない矛盾さに溜息を漏らしつつ、せめてもの意思表示と
ばかりにオリヴィエは黒の瞳を睨みつけた。
「……仕事が押しているんだ、帰れ」
「今なら少し休めば済む程度の体調を、更に悪化させるつもりですか?」
強い口調で退室を促すもロイの態度は揺るがなかった。本気で身を案じている
事が判る様子を前にして、ふとオリヴィエの頭に疑問がよぎった。
――目の前の男は少将としての自分、女としての自分のどちらを選択するのか、と。
普段の己ならば仕事と自分を天秤にかけて問うなど愚かしいと斬り捨てているだろう愚問。
だが、熱に浮かれた頭は理性を置いて先走る。この我が城で、大佐という称号
を背負うロイ・マスタングがどのような判断をするのか……その想像は
たまらない愉悦を呼び起こし、紅の唇が弧を描いた。
「……マスタングよ。熱の時にするセックスは大層気持ちがいいらしいな?」
「は? ……何を、言ってるんですか?」
唐突に投げられた言葉を耳にしたロイは目を見開いた。
訝しげに真意を伺うロイの、中心へと寄せられた眉が心底可笑しい。
「額はもういい。ここはどうだ?」
額に添えられたままの手を掴み、きっちりと閉じられた軍服の首元へと誘う。
隠されている白い首筋に掌を貼り付ければ、ゾクリと背中に見知った感覚が
走った。目が眩みそうな衝撃に首を竦めつつ、男の手首に甘えるよう顔を寄せる。
そうして初めて、最後に肌を重ねた記憶が大分前の物であることをオリヴィエは知った。
「熱いだろう?」
男を煽る為に問いかけた言葉は熱かった。
どうして今まで離れていて平気だったのかと、込み上げる焦燥感が責め立てる。
二人を形作る境界線がただ不快でだった。
もっと深く交じり合ってしまいたい……猛烈な欲求がオリヴィエの身体に渦巻く。
言葉よりも正直な身体が雄弁に男へ語りかけているのだろう、遥か頭上にある
男の喉仏が上下に揺れた。
「ッ……熱い、ですね……」
呟く男の理知的な双眸にちらりと顔を出した、欲の焔。上官を案じる表情を
しながらも瞬きをするたびに黒の瞳が淫靡な色を帯びてゆく鮮やかな変化に、
オリヴィエは魅入られる。同時に、その瞳で愛を囁く男が脳裏に蘇った。
組み敷きながら「愛している」と極上の声音で囁くロイの、強く疑う余地の
ない情愛を肢体で受け止めた夜を思い出して芯が深く疼いた。
オリヴィエはロイの心を一度も疑ったことがない。真摯な言葉で、熱い瞳で、
柔らかな唇で、器用に蠢く指先で、何よりも欲情を訴える雄の象徴で
たっぷりと心と身体に刻み込まれてきた。この身体にはもうロイの知らぬ場所はない。
逆に、ロイの身体で知らない場所もないという自負もオリヴィエにはあった。
目に見えない心すらも――男は知っている。
「ッ、くそッ……」
「少将?」
舌打ちした途端、何事だと心配の色を濃くした目の前の男が腹立たしかった。
誰でも出来る心配など求めていない。求めているのはお前だというのに。
顔を寄せこちらを伺うロイの瞳を睨みつけながら、オリヴィエは内心で
毒づいた。身体を交えた後の、冷えた瞬間の空しさすら恋しくなるほど
魘されているのは熱のせいだろう。数え切れないほどに身体を重ねても尚、
貪欲に男を求めて火照る身体は熱だけのせいではないのだろう。
(こいつを貶めるつもりだったのに……)
いつからなのか、こんなにも男を愛し欲するようになったのは。
男の存在を刷り込むように幾度も抱かれて、もう側になくてはならない人に。
「……ッ、……熱くて、たまらないんだ……マスタング……ッ、ロイ……!」
女として甘えたくなる。軍人だと知らしめる軍服を脱ぎ捨てて、貪欲に
愛を快楽を求める淫女のように振舞ってしまいたくなる。
プラチナブロンドの合間から覗くブルーアイに情愛を秘めたオリヴィエは
ロイを見上げ手首を掴むと肌へ口付けた。冷ややかなその感触に、
唇がわななく。
「……熱があるのに誘うとは、とんだ淫乱女ですね……オリヴィエ。あなたはこの部屋に入ってきたのが私以外でも、男と見れば淫らに誘うのですか?」
艶かしい低音の響きにあわせ、首筋にある指先が僅かに肌をかく。
愛撫めいたタッチに熟れた肢体が悦びにうち震える。
「ふ……ぅッ、……つまらん、冗談を……ッ」
「こう言われると興奮するのはどなたですか?」
「そういう風にしたのは、どこのどいつだ……」
「……あなたはズルい人だ、オリヴィエ。こうして私を求めても、明日には熱のせいだと一笑するのだろう?」
机を迂回する間も惜しいとばかりに、机へ乗り上がって来たロイがオリヴィエの
額に額を重ねてくる。「熱いな」と案じながらも瞳は欲を諫めようとしない。
上司の机に土足で上がるという無礼な行為に拘るなど、今のオリヴィエには
どうでもよかった。間近で望む瞳の表面で揺らぐ淫情を見つけた悦びに、
悪寒とは違うもので打ち震える。我が城で職務中にも関わらず愛しい男が
女としての自分を取ったことに、味わった事のない悦楽を催していた。
「……展開次第だ」
「それでは、頑張らせて頂きましょうか……体調がすぐれないとはいえ、手加減はしませんよ」
「言葉はいい。行動で示せ、ノロマ」
挑むような視線を投げるオリヴィエの軍服の襟元がロイの指先によって開かれる。
熱を帯びた肌がひやりとした空気に晒される震えは、まさしく興奮だった。
「愛しています、オリヴィエ」
囁いた唇が降りて間もなく、渇望を共有する。
太い首元へ腕を回して更なる密着を望みながら、互いを食わんとする勢いで
唇を貪ってゆく。気遣わしげだった黒い瞳には淫情を滾らせていた。
今後の展開は言葉どおり容赦のないものであるだろうことを予感させ、
オリヴィエは重ねていた唇を持ち上げる。
「愛している」と音もなく唇を動かせば、薄い唇もまた笑みに彩られた。
「一言くらい、素直に言えないんですか?」
「それはお前の腕次第だろう、ロイ?」
「……そんなプレイをお望みだと言う事は判りました」
危うい眼差しの男を挑発するように瞳を細めたオリヴィエは濡れた唇で再び距離を埋めた。
身体はついていくのかと、一抹の不安を胸に隠して。
終わり