先ほどまでの、情交の激しさが嘘のように急に静まり返る室内。壁時計の秒針がやけに響く。
そして、彼女の泣き声も聞こえる。
ハボックは自分の身支度を元に戻す。
だが、リザは服を着る事もせずに俯いていて床に座り込んでいた。
それを看かねて、ハボックはリザの肩に自分の上着を掛けてあげる。頭を撫でつつ優しい声で聞いた。
「中尉…痛かったですか…それとも…嫌でしたか…俺にこうされるの…?」
リザは答えず、頭を横に振る。
間違いなく、彼女は後悔している。きっと、マスタング大佐の事を考えている。とハボックは思った。
ハボックもまた、気を緩めると顔の筋肉が強張り、目頭がカアッと燃えるように熱くなった。
解像度が低いデジカメのように、視野に入るものがどんどん滲んで行く。
「ごめんなさい…」
何回もうわ言のように、意味を成さない、だれに言ってるかも定かではない謝罪。
身体を微動させ、体の水分が出きってしまうのでは…と思う程、リザは泣き続けた。
喚く様な声もあげず、涙が頬を伝うのが過ぎて行った。
そういえば、彼女の涙を見るのは初めてだった。とハボックは気付く。
「中尉…あの、立てますか…?」しばらく泣きやむまで、ずっとそばにいて黙って居てくれたハボック。
リザは身体を引きずるように起こすと、ただ一言。
「ごめんなさい…ひとりに…して…」と小さな声で返事をした。
黙ったまま頷くと、ハボックは廊下に出て壁に凭れ掛る。
彼女の瞳には、ハボックは映っていなかった。どこを見つめているかもわからない。
俯くリザの視線の先はカーペットが敷詰められた床だった。
廊下で煙草を1本取り出す。ポケットを探るが火が見つからない。
困った様に、頭をくしゃりと掻き揚げる。煙草を咥えた口回りには、涙が一筋の道を作っていた。
(私、大佐以外の人と…)
自分で望んだ結果のはずなのに、喪失感が心を締め付けた。
明日から、どんな顔をして会えばいい?どんな顔で話せばいい?
きっと、目線を合わせることすらできないかもしれない。
月明かりが窓際に影を作る、まだ夜が明けるまで数時間。
朝など、来ないで欲しいと。リザは心から思った。
ふらつく足に精一杯の力をこめて、自宅へ向かう一つの影。
普段は一つに結われて、凛々しい印象を与える髪は、解けていた。
何度も、何度も付けられたキスマークを隠すようにタートルネックの肌着は来たままで、
その上には朝に少し着たきりのセーターを重ねていた。
泣きはらした瞳は、暗いからこそ分からないが腫れぼったくなり 熱を持っていた。
そして、身体には全く力が残っていなかった。
先ほどまで、部下と職場で交わっていてのだ…。
こう言えば、ただ淡々といやらしいことをしていただけだが。
コトが終わったあと、「送ります」といってくれたハボックの優しさを振り切って、
ロッカー室へ逃げ込むように入り着替えを済ますと、帰路を辿ってここまで来た。
リザの住む一人暮らしの貸し家。
職場までは徒歩で10分ほどでたどり着くが、今日はやけに遠かった。
吹き付ける北風のせいか、少しづつ意識が冷静に戻ってくる。
(ブラックハヤテはどうしているだろう…。おなか減らして鳴いていないかしら…。)
ぽつりぽつりと、考えながら自宅のドアの前にたどり着く。
首を垂れ、カギをポケットから出すと ふぅ、と小さなため息が漏れた。
しかし、自分の口からではない。
リザは、急いで後ろへ振り向いた。
「おかえり」
目の前にいたのは、
「…大、佐」
「おかえり、ホークアイ中尉」
フッ、小さく微笑む彼。
イキナリ抱きすくめられた身体。
手袋をしていないその手は、凍えるほど冷たかった…−−−。
「やぁ、すまないね」
紅茶を注いだカップが震えるのは、部屋が寒いからではない。
どうしてこの人が、私の家の前にいたか、だ
「…いつから…、あそこにいらしたんですか…?」
ためらいがちにリザは問う。
リザは、怖かった。
もしかしたら、ロイに知られているのではないかと。
自分の今の態度は、尋常ではないと自身でも分かる。
「あぁ、予定より早く終わってね。一本早い汽車乗れたんだよ。」
だとしたら、何時間待っていたのか…。そして、その間自分は何をしていたのか…。
そう考えるとリザは、心がズキリと痛んだ錯覚を覚えた。
居間のテーブルにある、萌黄色のソファに腰を落ち着けながらロイは新聞に目を通していた。
別になんてことの無い、いつもの光景だった。
彼は、度々家に来るし、今日は単に私の帰りが遅かっただけ。
(大丈夫。知られたわけではない。)
リザは幾度も心中で唱えて、トレイにカップを乗せた。
「風邪を召されては困ります…。あの、飲んだら入ってきてください」
白いバスタオルをロイの傍らに置く。
「明日からの業務に差し支えが出るから…かい?」新聞紙を閉じて4つ折にすると、紅茶に口を付けた。
「…はい…」
普段の気迫が明らかに足りない彼女をじっくりと見つめると、席を立ちリザの向かいへと近づく。
「あ、あの…大佐…」
「随分、元気がないようだが」
間近に顔を見つめられる。
視線を合わせようとしない、リザの顎を掬い取った。
「…っ」
そのまま、唇へと口付ける。
いつものような抵抗の無いことに驚きつつも、彼女をフローリングへと押し倒していく。
息継ぎの間に、リザは唇を開いた。
「た…大佐…止めて下さい…」
とろんとした声が、紅潮した頬が。そして、何より全く無抵抗の身体。
どう見ても、誘っているようにしかロイには映らなかった。
しかし、本当に力が入らないリザはただ「 止めて欲しい 」と言葉にするしかできなくて。
「本当に嫌なら、抵抗したまえ。」
身体を組み敷いて、逃げられないように手首を押さえつけた。
「本当に…っ…や…め…」
声がだんだんと弱弱しい泣き声に変わっていく。
それに気付いたロイは、掴んでいた手首を解放した。
「いや…です」
「どうしてかね…?」
リザは泣きそうな顔をして言った。
「あなたは…私のことを…愛してるのですか…?」
聞きたいのに…。
怖い、聞ききたくない。
でも、愛しているから、私と同じ感情を共有させたい。
気がおかしくなりそうなくらいに、嫉妬して欲しい。
これは私の我侭。誰にも言えはしない。
「どうしたんだね…?」
言葉の意図が掴みきれず、ロイは困った表情を隠せなかった。
リザは無言のまま、赤いセーターを脱いだ。床に倒されたままの為、少し時間がかかったが。
「君…どうし…」
「私は…最低の人間です、あなたが…二日いないだけでこんなことするような女なんですよ…?」
たくしあげた馴染みの黒いハイネックの下は、まるで紅で化粧をしたかの様に痣が無数に存在していた。
ロイも大人だ。それがなにかはすぐに察した。
「私は…、あなた以外の男性と寝ました」
震える声を絞り出す。
黙ったままのロイ。それが悲しかった。
殴ったり、詰ったりしてくれればその方がどんなに楽か。
私を愛しているなら、私を殴って縛り付けて閉じ込めてでも…他の事を考えれなくして欲しかったのに…。
そう、私もまた 狂っているだろう。
狂わせたのは他でもない、目の前の男性。
こんなにも、あなたに依存してしまう人間だったなんて…自分でも知らなかった。
暫らくの静寂。そしてロイは立ち上がり、「…すまない。今日は帰るよ」とだけ言った。
視線すら合わせることもできず、そのままロイはリザ宅を去って行った。
部屋にはブラックハヤテの小さな鳴き声が響いていた
リザはどうしていいのか、自分でも分からず。
出て行く寸前のロイの掠れ声が切なすぎて、涙さえも出なかった…。