嫌な感じだ。
と思う余裕さえ、実際にはなかった。怪しげな倉庫街の怪しげな一角。
たぶんここが、最後の隠れ家になる。そして自分はもう、この国の夜を見ることはないのだろう。
理不尽だった。怒りはとうに過ぎ去っていたにしても、それは変わらない。
こちらのコートの裾を捕らえたままの女が、不意に肩をぽん、と抱いて彼女を驚かせた。驚いて振り向くマリアへ額を寄せ、その金髪の軍人は薄桃の整った唇にいびつな円弧を刻む。
「怖いの?」
嘲りも好奇も含まない問いに、偽りは返せない。無言でうなずいてからその無礼に思い至り、マリアはかすれた囁きを唇から零した。
「怖い、です」
そう。気のない様子で一言を返して、女は腕をほどく。その倉庫のものらしい無骨な鍵束が、がちゃりと音を立ててその骨ばった手からこぼれ落ちた。
懐中電灯とレーションと二枚の毛布、そして何もできない自分の体。それが、だだっぴろい倉庫に許された全てだった。
「これは――」
軍用の無闇とものものしい懐中電灯で軽くその広い闇を一撫でしながら、ホークアイ中尉は呟くように言う。
「余程のことが無い限り使わないでね。怪しまれると厄介だから」
言葉とともに、光も消えた。
月光だけに染まった暗闇で、整った顔が振り向くのがおぼろげに判る。
「暗闇が怖い年でもないでしょう?」
「……ええ」
なまじ気の利いた答えが返せても難がある気がして、彼女は控えめに頷いた。
微かに吐息がかすれて響く。
笑みが、返ってきたのかもしれない。
そう思った瞬間、吐息は不自然なほど間近に吐き出されていた。
「……え」
かすれた呟きが喉から漏れる。それを押し返しさえして、熱い吐息が鼻先をかすめた。
首に腕が回される。先刻肩に回されたときと同じように、それは唐突だった。しなやかな筋肉が首筋を押さえつけて、こちらの体を引き寄せる。
「――中尉?」
間近にあるはずの整った顔を逐一照らせるほど、月光は激しくない。ただそのどことなく凹凸を含んでいる影が何かの表情を含んで歪んだことだけは、はっきりと感じ取れた。
(笑ってる)
直感だが、他にあり得ない気もした。笑ったのだ。自分のえりぐりを捕らえて、この女は。
「ロス少尉――いえ」
不必要なほど間近に顔を近づけたまま、彼女は押し殺した声で囁く。
「違うわ。もう少尉ではないものね」
刺さる言葉だった。絶句するマリアの頬に、意外なほど乾いて冷たいてのひらが添えられる。
続く声は、やはりつくりものじみて優しい。
「マリア」
しっとりした唇が、耳朶を軽く撫でた。びくっとすくめられたマリアの肩を、囚人服の薄い布地の上から、例のたおやかなてのひらが確かめる。
「――あなたに、報酬を求めても良いかしら?」
のしかかった女一人分の意図的な体重を受け止めかねて毛布に転がされ、答えは声にならずに喉の中でたち消えた。
「……え」
かすれた呟きが喉から漏れる。それを押し返しさえして、熱い吐息が鼻先をかすめた。
首に腕が回される。先刻肩に回されたときと同じように、それは唐突だった。しなやかな筋肉が首筋を押さえつけて、こちらの体を引き寄せる。
「――中尉?」
間近にあるはずの整った顔を逐一照らせるほど、月光は激しくない。ただそのどことなく凹凸を含んでいる影が何かの表情を含んで歪んだことだけは、はっきりと感じ取れた。
(笑ってる)
直感だが、他にあり得ない気もした。笑ったのだ。自分のえりぐりを捕らえて、この女は。
「ロス少尉――いえ」
不必要なほど間近に顔を近づけたまま、彼女は押し殺した声で囁く。
「違うわ。もう少尉ではないものね」
刺さる言葉だった。絶句するマリアの頬に、意外なほど乾いて冷たいてのひらが添えられる。
続く声は、やはりつくりものじみて優しい。
「マリア」
しっとりした唇が、耳朶を軽く撫でた。びくっとすくめられたマリアの肩を、囚人服の薄い布地の上から、例のたおやかなてのひらが確かめる。
「――あなたに、報酬を求めても良いかしら?」
のしかかった女一人分の意図的な体重を受け止めかねて毛布に転がされ、答えは声にならずに喉の中でたち消えた。
肩口を掴まれる。薄い毛布に背を押さえつけられる。深く熱い吐息に鼻先を打たれ、マリアはようやく声を絞り出せた。
「何のこと、でしょうか、中尉」
「判っているでしょう?」
報酬。その言葉は少し不似合いな気もした。自分が雇い入れたわけでも何でもないのだから。
それでも、事実がある。命を救われたのだという事実。信じてもらえたという事実。
「お礼、ですか」
間近な顔につきまとう無言が、慎重な問いに返事をする。
「おっしゃられなくたって――」
唾液を喉に通す。全く二心のない言葉でも、この状況では緊張を伴った。
「私に出来ることなら何でも、ご奉仕するつもりでいます」
微笑みの気配。体温が近づき、頬に押し当てられる。
ごく軽いキスだった。それでも、緊張しきっていたマリアを混乱させるには十分なものだった。
「あ――」
唇が耳元に滑る。弾んだ吐息が耳朶を温めた。肩を掴む指に力が込められ、囁きはいっそうかすれて優しげに吹き込まれる。
「なら、話が早いわね。私は」
小さく悲鳴を上げる。冷たい指先が素肌に触れていた。マリアのシャツを胸元までたくしあげながら、それは月光を受けて、妖しい蜘蛛のように腹の上を這い回る。
「――あなたが、欲しいの」
目の色だけが、一瞬見て取れた。焼き煉瓦の色をした、猛禽の光。
それにたぎっている熱は、ぞっとするほど判りやすかった。
すぐに唇が重ねられた。浅かったそれはすぐ舌先を割り込ませて、楽しむようにマリアの唇をねぶった。
宥めるように首筋が撫でられる。犬か猫でもあやすように優しく、幾度も。
中尉の舌は奇妙に熱く、自分の肌が冷たく感じられる。舌先のぬめりやざらつきと一緒に、体温までが唇へまとわりつく。
頬にてのひらが添えられた。指が力を加え、マリアの顔をわずかに上げさせる。
「ん、っ……う」
舌先は抵抗なく口腔に滑り込んだ。力んだ舌を手早く根元まで絡ませて、ざらつく粘膜が擦り合わされる。
溢れだした唾液のいくらかは、中尉のものなのだろう。頬に為すすべもなくねっとりした筋が伝い下りていく。
「ん……っ、ん」
舌が擦れるたびに、短い声が漏れた。間違いなく自分のものの、滲むような喘ぎ。
間近の目が面白がるように歪んだ。角度をわずかに変えて口腔へ吸いつくように貪りながら、中尉の手が不意に頬から外れる。
「ぅ、ん……?」
首筋や頬を撫でていた手が、だらしなくたくしあげられたままの着衣の舌へあてがわれ、乳房を探る。
乾いたてのひらは、思ったより優しくそこを愛撫し始めた。
「ん……ん、や……っ」
やっとかぶりを振ってわずかながら示した意志に、しかし彼女は答えない。しきりに膨らみを探り、撫で回し、指先でくすぐる。次第に周辺から頂点までを絞り出すように力が込められ、乳首に血を集めていく。
「んぁ……っ、んんっ」
首を横に振る。今度は、いくらか大きく。
不意に呼吸が楽になった。ズルっ、とむずがゆい感触を残して舌が解かれる。数センチの上から無表情にこちらを見下ろす彼女を必死に見つめ、マリアは詰まったような言葉を紡いだ。
「嫌……駄目です中尉、こんな――アァッ!」
乳房を力一杯掴んだ指へ更に力を込めながら、彼女は暗闇の中で薄い笑みを浮かべる。
「何でもする、と――」
だらしない悲鳴をこぼし続ける唇を、柔らかい指の腹が撫でる。
「言ったのは、どの口だったかしら」
面白がるような口調で囁きながら、中尉の手は一向に止まる気配がない。
痛みと羞恥に涙がこぼれた。冷たい指先に体温を奪われて、唇が震える。
マリアの体温をまとわりつかせて暖まった指先が、不意に乳房の頂点を抓った。
「ひ……っ、ああっ」
思ったより長い爪が、刺激に粒を立てたそこへ浅く突きたつ。異質な痛みに抗議の声を喉に通すより早く、中尉の声がはっきりと満足げな微笑を滲ませた。
「こんなに堅くして」
あからさまな歓喜を含んだ、熱っぽい声。その響きがまとわりつくように鼓膜を舐める。
羞恥に戦慄が勝った。おかしい。何かが、間違いなく、おかしくなっている。
整った指先が丸く膨れ上がった果実を弄び始めた。指の腹に挟み込んで転がしながら、ときおりプツリと乳房の中へそれを押し込む。そのたびに中尉の低い体温が入り込んでくるような感覚に襲われて、マリアは身震いした。
精一杯反らされて震える肩を、白いてのひらが強引に掴んで押さえつける。
「本当に、嫌なの――?」
極端なほどに近づいた唇が無機質な声をこぼして、軽く伸ばした舌先に耳殻をなぞらせた。ぬめりをまとわりつかせた熱い生き物に耳の裏が湿らされる。
その生暖かさと執拗な蠢きに誘われて、背筋を這いあがったのは嫌悪だった。
そのはず、だったのだが。
「あぁ、んっ」
漏れかけた声の甘さに耳を疑い、自分の口を塞ぐ。その手もすぐに掴まれて強引に外され、近すぎる唇が鈍く歪んだ囁きを吹き込んだ。
「恥ずかしがらないで。ここが弱いのね?」
手首を押さえていた手が離れ、マリアの髪を掻きあげる。汗にほつれてこめかみに張りついた髪の束を、彼女は今更のように意識する。
体が熱い。たちの悪い熱に膿んでいるような感触だった。
耳朶に柔らかい唇が吸いつく。どこか偏執的に、粘膜をその皮膚へとけ込ませるかのように、中尉の口腔がそこだけを味わう。
唾液の跳ねる音、皮膚と粘膜の擦れる音、わずかに乱れた中尉の吐息、すべての音が生々しくくぐもって耳に忍び込み、脳のどこか使いなれない部分を刺激した。
「ひぁ、……っや、ふぅんっ」
音を立てて耳朶を吸われるたびに波をつくって声帯を支配しようとする得体の知れない衝動を必死に押し殺しながら、マリアは肩をこわばらせた。耳を食われているような不快とそれを濁らせる疼きが、神経系を不規則に支配する。
乳房に再び下りた手がまた片方の乳房を掴んだ。
「ひあ、あぁっ!」
悪意的なほどに込められた力が、掠れた悲鳴を漏らさせる。漏れる吐息に笑みを含ませて、その指が乳房全体をこねくり始めた。
「やっ、あぁっ――はあ、んっ、んあっ」
悲鳴が次第に艶を帯びて、羞恥を掻き立てる。頬へのぼる血の気を、耳への刺激がいっそう多くした。
ぴちゃ――
「ひっ」
不意に音を立てて、舌先が耳孔へ潜り込んだ。舌先が入るぎりぎりまでをつくじり、芋虫のようにぐねぐねと這って外耳を責めたてる。
舌が動かされるたび、おかしいほどに体が熱を増して震えた。異質な疼きがどこか奥深い場所から這い上がり、意識を汚していく。
「もっ、や、嫌、です、中尉っ……ひぅっ!」
その白い指先がさらに血の気を失うほど強く乳首を摘まれ、懇願もすぐ悲鳴に化けた。
しきりに指の間に挟んだ果実を転がして弄びながら、中尉はマリアの耳を味わうことに飽きを見せなかった。舌が蠢くたびにこぼしていた掠れたような悲鳴はもはやねだるような甘さを帯びて、喉を押し開きつつある。
駄目だ。と、思った。逃げないと、とにかく逃げないと――
恐ろしいことになる。
硬くしこって色づいた乳首が、きゅっと擦り上げられた。
「っく、あぁっ」
焦燥の冷や汗に背中を濡らされながらその甘い痺れを享受して、マリアは体を小さく跳ねさせる。浮いた腿へ割り込むように膝が絡みついた。足首とすねが膝の裏にあてがわれて、無意識にこもっていた力さえ奪おうとする。
ちゅぷっ、と音がして舌が耳孔から抜かれた。唇が濡れたみみたぶをすすってから離される。得体の知れない解放と喪失に深い吐息が引きずり出された。息苦しいような圧迫と、異質な質量と、体の芯を甘くゆがませるような疼き。すべてが、一気に遠ざかる。
「……不満?」
耳の下へ唇を滑らせて首筋に唾液の軌跡を描きながら、熱に濡れた女の声が、からかうように囁いた。
震える喉が、無意味な声を通す。
知らず狭まっていた視界に、緩やかに笑んだ顔の下半分が映った。焦燥を意味もなく掻き立てる、面白がるような表情。
「――嫌っ」
迷わず、体が動いた。捻った肩を狭い隙間に押し込んで中尉の上体を半ば突き飛ばし、絡まった膝を乱暴に引き抜く。
「な……!」
抗議じみた声を漏らす彼女の下から必死に這いだし、萎えた膝に無理をさせて立ち上がる。扉までは数歩だ。多少よろけてでも渡りきれない距離ではない。
重く冷たい扉に飛びつき、額を預ける。金属の冷ややかさに、力を失いかけていた膝がさらにがくんと崩れた。薄い月光になんとか浮かび上がるノブを掴んで息を詰め、渾身の力を預けようとして、マリアは不意に愕然とした。
逃げなきゃ。逃げないと。逃げる――
(どこに?)
自分が今こうして逃げ込み、匿われているのが、この倉庫ではないのか。
崩れた膝が床を叩いた。鉄扉に預けた額が凍えて感覚を麻痺させる。
一瞬空白になった思考を埋めたのは、耳慣れた硬い足音だった。
冷たいてのひらがひたと後ろ頭にあてがわれ、髪を掻き分ける。
「あ――」
漏れた声に答えるかのように、不気味なほど上機嫌な声が、ゆっくりと同じ問いを重ねた。
「どこに、逃げるつもりなの?」
答える間もなく、額が鉄扉に叩きつけられ、鈍い衝突音を頭蓋にこもらせた。
視界が暗転し、瞬いた。冷えきった額に激痛が這いのぼる。一拍おいてこぼれた涙は、痛みのせいだけではなかった。
顔をその無神経な鉄の塊に押しつけたまま、頭を押さえる手も一向に緩めずに、中尉は不自然なほど優しい囁きを耳元に流し込む。
「大人しくしていたら、痛くするつもりはなかったのよ」
しどけなくまくれ上がったままのシャツを、背後から回された片手が喉元まで押し上げた。
「さあ、続きをしましょうか、マリア?」
味気なく汚い床に滴る涙を認めたのか、その声は間違いなく笑っていた。長い指が躊躇なく乳房を掴み、解すように形を変えさせながら揉みしだき始める。