――俺は獣のように盛っていた。  
彼女が好きなのに、愛しているのに残酷なことを平気でしているんだ。  
愛情とか、恍惚とか…大佐だけが持てることに我慢がきかなかったんだ。  
その夜、ハボックは、ひとつ上の階級の上官を好きなだけ蹂躙していた。  
「…っ…あ…」  
愛してるとか好きだとか行為に無駄な言葉をいくつも飾って、自分に酔った彼…  
傷ひとつなく美しかったリザの体中には、愛撫の痕が散りばめられていた。  
「んぅ…ッ…」  
あと少しで薬が切れて、完全に意識と体の調子が戻るだろう…  
彼は手を徐々に動かしているリザを垣間見た。  
離れがたいほどに結合を深め、中を幾度も突き押していたハボック…  
彼女の中で昂じた快楽が、彼を魅了し深みにはまらせる。  
放したくない。もっと抱きたい。  
無残に破られた下着、組み臥された体にのしかかる男の重み、  
苦痛と激しい息遣いの零れる様…うつ伏せに体を変えて、  
再び犯された時、リザの涙はもう枯れていた。  
「い、やぁ…あぁ…」  
「中尉、…中尉!」  
誰もいない宿直室、彼はそこでリザを陵辱してしまった。  
 
 
――嫌だ…体が痛い  
開放されてもリザは、なかなか体の調子が整わなかった。  
無理に開かれて傷のついた秘部に走る違和感と、血の流れていた部分が  
疼いて起き上がれなかった。  
逞しい体を持ち、日々鍛えている男の体力で捻じ伏せられ、貪られた。  
避妊具はかろうじて施されていたが、あまりの仕打ちとその激しさに  
彼女の体は悲鳴をあげていたのだ。  
睡眠薬か何かがコーヒーの中に含まれていたのは推測できた。  
帰り際、手渡された飲み物を飲んでから意識がおぼろげだったのだから…今は理解できる。  
何より、横たわる全裸の自分の前で頭を下げ、馬鹿の一つ覚えみたいに  
謝りだしている男の姿で彼一人が暴走していたことは明白だった。  
「すみません…ごめんなさい」  
――帰りたい。もう消えたい…早く目の前から消えて  
朦朧とした意識の中、体が蝕まれていったのを彼女は覚えている。  
はじめは息も浅く、瞼が重くてなかなか開かなかった。  
だが、せかすように服がびりびりと破られて、好きでもない男に  
重ねられていったのを薄い意識の中で感じ取っていた。  
抵抗しようにも、体が動かなくて、何の力も入らなかった。  
零してしまった、声にもならない半覚醒状態の弱々しい喘ぎ、  
溶かすように動かされた腰への刺激…一方的に強姦された。  
 
男の相手を強要されたことなんて過去にも幾度かあった。  
銃のおかげか、自衛で切り抜け未遂にいたったことが殆どだったが、  
それの適わなかった状態で犯されたのはこれで二度目だ。  
あの内戦の時、同じ場所にいた心身衰弱状態の兵士のひとりが  
不意に襲い掛かってきたのを彼女は思い出した。  
戦闘薬を過度に服用しすぎたためか、自我を失いかけたあの兵士は  
自分を銃で脅しながら強姦していた。  
――あの後、彼は目の前で自殺して死んでたわね  
忌々しい記憶だと彼女は思い返してしまった。  
だが、今回はどうだろう。  
戦争のない安穏な日々に自分の感覚が鈍ってしまったのだろうか。  
よもや信頼している同僚が引き起こすなんて思っていなかった。  
相手がハボックだからこそ、油断したと思う。  
薬で弱らされて犯されると、自分ではもう手の打ちようがなかった。  
早く終わって欲しい…その望みだけで切り抜け、堪えるしかなかったのだ。  
無防備に剥かれた体はさぞかし彼の貪欲さを満たしていただろう。  
思うが侭に抱けるのだから、飽きることなく夢中になっていただろう。  
あの身勝手な振る舞いの数々を取り出し、ハボックは常日頃みられない蒼白な面持ちで  
重い声を発していた。  
「中尉、本当に…俺は…」  
「……」  
「ごめん、なさい…っ…勝手すぎて、本当にすみません」  
何で貴方がそんなに泣きそうな顔してるのよ  
泣きたいのはこっちだわ  
行為の最中に流れた涙で、彼女の涙腺は既に乾いていた。  
 
罪をあがなう言葉を連呼し、喉を濡らしながら、口を押さえたハボックが呻いていた。  
リザに服をかけ、彼は冷たい床に共に平伏している。  
不毛な状態が数分間、そこに流れる。  
――やめて欲しい、惨めになるからこれ以上は何も言わないでほしい  
自分を陵辱した男を無言で見つめていた彼女は、やがて調子を失い、  
途切れ途切れに発されるハボックの陳謝を遮るように寝返りを打った。  
かけられた服がずれ落ちて、荒らされた肌が露わになる。  
それを隠すようにハボックが手を伸ばすと、  
「やめて…」  
「中尉…」  
「触らないで…」  
拒絶の入った力ない返事を彼は聞いた。  
薬の作用がようやく消えだし、四肢の自由を取り戻しかけたリザ…  
事態を自分で収拾しようとしてのろのろと彼女は動き出した。  
ハボックは両手を持て余し、何もできない状態で言葉もかけれず座っていた。  
それでも瞬きをしながら、彼女の美しく白い肌に時々、目は行ってしまう。  
しかし、そんな邪念を振り解いて彼は視線をやがてそらしだしていた。  
あの綺麗な体を踏みにじったのは自分だと、彼は思い起こして更に暗い表情になる。  
謝ることしかできない自分…それ以上のものが今の彼には出てこなかった。  
息をきらしながら、身に纏える物をかき集めて体を隠し、彼女は去ろうとした。  
「…ッ」  
「中尉…」  
リザは立ち上がるとふらついて、倒れ掛かった。  
ハボックが抱き起こしたが、悔しそうな顔で彼女はその手を振り払い無言で出て行った。  
残された彼は、そこで施すべき手段を得ることもなくずっと立ちすくんで  
闇の中に漂っていた。  
 
 
――なんて、なんて言おう…  
大佐に言わなきゃ駄目なのかしら  
言いたくない、知られたくない  
君が誘ったんじゃないのかとか言われそう  
だって私は…  
「ホークアイ中尉!」  
自宅の前までたどり着くと、彼女はある人物を見て安心したように崩れ落ちた。  
良かった、あの人じゃない。  
それに、今日は彼女と約束してたんだわ  
ハボックとの事件の衝撃で、リザはすっかり“彼女”との約束を忘れていた。  
「どうしたんですか…一体、何があったんです?」  
「騒がないで…何でもないわ」  
よろめく自分を支える相手…心配そうな顔をしていたマリア・ロスの  
優しさに彼女は労わられる。  
深夜だというのに、なかなか帰宅してこない自分を待っていたのだろうか…  
マリアの手は冷え切っていた。  
だが、リザのやつれた姿を見て、彼女の手には力が入り、  
熱さがこみあがってしまった。  
コートを脱いで、浴室で着替えを行うリザの体を見ると、  
マリアは悲愴な面持ちになっていった。  
手渡そうとしていた着替えとタオルを持ってきた彼女は、  
我を失ったままそれらをあっけなく落としてしまった。  
「着替え、そこに置いててちょうだい…」  
「……」  
「ロス少尉?」  
返事が返ってこなかった。  
顔をひきつらせて彼女は自分を見ている。  
 
――そんなに私、酷いのかしら  
驚愕や沈痛さが、あれからずっと冷静だったリザを補うかのように  
マリアの顔に現れていた。  
リザは説明を省いてシャワーを浴びに行くために、そのまま戸を閉めた。  
栓を捻って湯を浴びると、気持ちがいい。  
つけられた雄の匂いをようやく洗い流せる。  
髪を洗ってから、体に手を伸ばすと刻まれたハボックの愛撫の印があちこちにあった。  
「…っ…」  
洗剤が染みて、弾くように皮膚が痛む。  
何箇所も肌に痕がつけられていた。  
力の入らない状態だったので殆ど無抵抗だったが、この痕のつけられ方の凄まじさだと  
内戦時に強姦され、抵抗した有様と同じようなものだとリザは思った。  
俯いて脚に手を伸ばすと、陰部に酷い痛みが走った。  
歩いてここまで帰ってくるのにこすれて痛かったので、中にも走る激痛に徐々に  
慣れてはいたが、湯と洗剤が染みてかかったせいか余計に強みを帯びてくる。  
下腹部を押さえて彼女は浴室に座り込んだ。  
「痛……」  
女として受けた痛みだ。  
ずくずくと刺激は引いていくが、強姦された傷などおぞましい感触以外の何者でもない。  
「大、佐…」  
ふっと小さな呟きが漏れた。  
前のめりに壁にもたれた彼女は、額を冷たいタイルにあてた。  
背に受けるシャワーの流れがぼたぼたと額に降りかかってくる。  
本当は、黒い髪の、柔らかでいて本当は激しい気性の持ち主である彼に知られるのが恐ろしい。  
ロイ・マスタングは自分のこの体を愛している。  
彼はやや子供じみた部分もあるが、兄のように今まで頼りに接してきた自分と、  
半年前から恋人になって関係を持ってからはしっかり男として接してくる。  
ロイが、この体がハボックに暴行されたなど知ったら彼に命はないだろう。  
上司だからとか、望まれたからだと解釈してはじめはリザも恋人として  
ロイを認識していた。  
 
恋人同士になるまで、ニアミスも何度もあったが、性別を超えた信頼関係が  
あったためにそれほど彼女も女である自覚を募らせようとはしなかった。  
しかし、ロイに抱かれると愛情が日に日に強まっていた。  
この3週間、ロイが出張で不在の間、電話でやりとりをするにつれて寂しさが  
募っていた自分の気持ちがそれを証明していたのだ…  
だから、好きな男に抱かれるためにあるこの体が  
ロイの愛情に反しているのを今、強く実感する。  
――私、私は…  
汚された…  
数時間前の、恥辱を強要させられたことを彼女は思い返した。  
ハボックの手が伸びてきたとき、心の底から脅えていた。  
朦朧とした意識のせいで、無抵抗でしかいられなかった自分の姿がいやでたまらなかった。男の息がかかって、中で蠢く物体に限りない嫌悪と悲しみを覚えた。  
獣のようにハボックが自分を陵辱し、体がだんだんと快楽と共に  
死んでいくような錯覚さえ感じてしまった。  
「…っ…ぅ」  
流れたシャワーに隠れて彼女は泣き出した。  
――なんで今頃、泣くのよ…  
ずっとここにくるまで泣かないようにこらえていた。  
溢れてくる苦しさで目が霞む。水滴が瞼に溢れて前が見えない。  
体が震えて悲しい気持ちだけがあがってくる。  
嗚咽ともむせび泣きとも思えるような呼吸音が、涙と共に痙攣していった。  
扉越しに、長い入浴はかえって体に障るとマリアが伝えていたが、  
リザはそれも聞かずに泣いていた。  
 
「もうそろそろあがってください。…中尉、開けますよ?」  
訝しんだマリアが、扉を開けた。  
「――…っ」  
そして切なげに泣き崩れるリザを見て、彼女は胸が締め付けられるような気持ちになった。  
これがあの美しく勇ましい憧れの女性…?  
なんてむごい仕打ちだろうか  
同じ女だからこそ、強姦された痛みが刺さるようにこみあげてくる。  
彼女は今のリザの苦しさが、手に取るように理解できた。  
同情でもなんでもいい…見るのが辛すぎて自分の目頭も濡れてきた。  
「中尉、中尉…なんて可哀想に…どうして、こんな酷いことに…」  
「…少…尉」  
「はやくあがりましょう。手当て、…しなきゃ…」  
支えたいのに、言葉が続かない。  
身を抱えて倒れこむリザのあまりの泣き姿に、痛々しすぎて思いが潰される。  
マリアが目を潤ませながら、リザを抱擁しようとした。  
「……っ…」  
「中尉」  
手を差し伸べてきたマリアにリザは寄り添った。  
目の前に現れた柔らかい手、暖かい肌…母のように抱擁してくれるマリアの心配りに、  
彼女は思わず縋り付いてしまった。  
自分一人で今は動けない。体が弱音を吐いている。  
何かを支えにしなければ、気を失いそうだった。  
リザにとって彼女は不意に獲得した存在だ。  
恋人でもなく、ただの友人でもない。  
同じ女性なのだから、男がするような抱き方に至るような関係でもない。  
 
マリアは以前、真剣に告白してきた。  
憧れていて、大事にしたくて傍にいたい…自分は女だから  
ロイのような存在と役目はできない。  
だが、二番目でも三番目でもいいので気が向いたときだけ、  
傍にいさせてほしいとリザは望まれたのだ。  
遊びと冗談のつもりで受け取ったリザは、その時、  
友人として親交を深めるために彼女の侵入を許容した。  
だが、それから…マリアのひたむきな態度にいやらしいものがまったく感じられず、  
むしろ気持ちがいい関係だということに気づいてからはこうして時々だけ、  
会うことが続いている。  
彼女は自分がロイと過ごしていることで必ず一線を引く潔さがあり、  
それを気にするそぶりも見せない。  
それにロイの放つリザへの慈愛の深さに、かなわないとマリア自身は認識している。  
割り込んだ自分を申し訳なく感じさせないように、できるだけリザの控えにいるよう  
細心の注意を払いながら接してきている。  
いつもなら、彼女が作った夕食を一緒にとりながら、楽しく女同士の話が  
弾んでいっただろう。  
密かな逢瀬で、今夜もそれができると思っていた。  
こんなことになるとは想像もしなかった。  
リザにとって、マリアはロイとは別の意味で、安心して抱擁されることの  
できるただひとりの女性だ。  
共に入浴してリザの髪を洗うことの好きだったマリアだが、寝るといっても、  
ただ寄り添いあって本当に眠ることだけがあり、リザはそれで安らぐことも多かった。  
リザの体を柔らかく包み込んで、朝まで一緒に眠りにつく。  
それだけでいいと望んでいた彼女なのに…  
今は自分が何の役に立てるのだろうと局地に立たされる。  
 
苦楽を一緒に分かち合える存在でありたいが、今のリザの、  
女ならではの苦しみだけを最も認識できるのはマリアだけではないだろうか…  
それとも、彼女の上司に、彼女に最もふさわしいロイに早く知らせたほうが  
いいのだろうか…  
シャワーの栓を閉めて、マリアは徐々に力なく泣いているリザにタオルをかけた。  
髪を乾かし、バスローブで体から水滴を払いながら、彼女は言った。  
「中尉…あなたの服についていた煙草の香り、私が思うにあれは」  
「駄目よ!」  
続く言葉を遮るリザ…鋭い目がそこにあった。  
「だけど…」  
「言っては駄目…大佐に言わないで!」  
部下との不和でロイを煩わせたくなかった。  
彼を大総統に持っていくのが自分の目標で、彼の目標でもあった。  
そのためにこれまで苦心して司令部を作り上げてきたのだ。  
戦闘力のある貴重な駒を失うのは状況から見て、損失ではないかとリザは思う。  
ハボックはあれでいて有能だ。  
自分を強姦したことは許せないが、別の兵士達との連携において戦力としては  
はずしたくない。  
事件を告げて、ハボックを処罰するくらいロイならやるだろうが、  
私情を挟んでハボックをこれから扱いだすことで冷静な判断力と  
彼の野望への覇気が余計に消費されそうになるのをリザは懸念していた。  
「今は誰にも言っては駄目よ」  
マリアに寄りかかって、リザは体を震わせながら立ち上がる。  
そして、手当てを施され、癒えない傷のまま、食事も取らずに彼女は眠っていった。  
 
 
「どうした?君がうたた寝するなんて珍しい」  
「――あ…」  
いつの間にか隣の椅子にロイは座っていたらしい。  
左肩が斜めになってよりかかっていたリザは、髪留めが崩れ落ちるほどになっていた。  
落ちかける髪を整えて、慌てて彼女は立ち上がる。  
そして出迎えの挨拶と敬礼で上司を迎えた。  
「いつ、到着されたんですか?」  
「30分ほど前だ。20分は君の横で座ってた」  
「すみません…気づかなくて」  
正午の駅、平日のせいか人ごみはまばらだった。  
定刻通りに到着したロイは、待合所で居眠りをしていたリザを見つけ、  
起きるまで横に座っていたらしい。  
車を回して上官の出迎えに赴くこととはいえ、職務遂行中の怠慢だと  
彼女は恥じ入るように詫びていたが、  
「留守をまかせっきりで忙しくさせてるからな。気にするな」  
屈託のない笑顔でロイは答えた。  
――まぶしい顔…ほっとする  
駅の待合所で座っていたリザは首を幾度ももたげて眠りかかっていた。  
車の中で落ち着かなかった彼女は、自分の上司の到着を睡魔と  
闘いながらも待っていたのだ。  
早く声が聞きたくて、会いたかったという気持ちはあった。  
しかし、先日の事件による精神的な疲労や不眠のために居眠りを防げなかったらしい。  
出張先から戻ってきたばかりのロイのスケジュールは慌しく、  
これから査定についての別の研究者との打ち合わせ等で再度司令部を離れる予定である。  
30分もこんなところで時間を費やさせたのは自分の責任だ。  
送り届ける場所に車を回すので、急ぐように告げて彼女は動こうとしたが彼は首を振った。  
「え…行かないって…と、おっしゃいますと?」  
「大体の用事は済ませてきた。あとは査定にむけて書面作成に没頭するだけだよ」  
どうにも離れていた間、ロイも落ち着かなかったらしい。  
 
彼女に会いたくてその力の源を彼は全力で仕事に注ぎ、リザの元に返ってきた様子だった。  
ただいまと言いながら、前髪に触ろうとしたロイだったがリザは人目を気にして  
顔を横に背けてしまう。  
こういうときの照れ隠しの仕草がなんとも言えずにかわいらしいものだとロイは  
肩をすくめて笑ったが、  
「ふざけないでください。職務遂行中なんですから」  
「居眠りもか?」  
言われてかっとなり、頬を染めてばつの悪そうな顔をしたリザだった。  
普段、居眠りをするような自分ではない。  
だが、ここのところ眠れないでいるのは確かだったのだから…  
そんな気分でいる彼女も知らず、ロイは荷物を持ち上げようとして屈んできた彼女に、  
別の軽いほうの鞄を頼むと言い渡す。  
「では、司令部にお送りするだけでいいんですね?」  
「さっき電話で緊急の閣議にでるように言われてね。  
まだ時間があるし、昼食を一緒に食べにいこう」  
「仕事中です…それに」  
待ち焦がれた相手…  
なのに彼女は寂しく感じる。  
言うべきか、言わざるべきか…壁ができたような気分になる。  
その考えが一瞬頭をよぎった。しかし、仕事の話を持ち出して無理に思考を切り替えた。  
「査定で当分、忙しくなる。論文や報告書の作成で司令部を  
また頻繁に開けるかもしれないが、すまない…」  
「いいえ、存分に打ち込んでください。大佐の勤めなのですからお気になさらずに」  
「だから、久しぶりに一緒に食事できるのが密かな楽しみなんだ。  
昼飯くらいつきあってくれ」  
荷物を持って立ち上がった彼女は薄く微笑んで、承諾した。  
自分が笑うと彼はとても嬉しそうに微笑み返してくれる。  
――やはり、どうかこのまま知らないでいて下さい  
心に響く悲鳴を無理に押し戻した。  
 
 
「中尉…今、何て…?」  
「二度、言わないわ」  
鞄を持ち上げながら、帰り支度をしていた彼女はこう言った。  
ロイは査定でこの2日間ここに現れることはないだろう。  
あれからずっと何もなかったかのように職場で過ごす彼女を見かねて…  
ハボックは、夜二人だけになった機会を伺ってきた。  
人気のなくなった時刻にリザに詰め寄り、再度彼は真剣な面差しで詫びてきたのだ。  
償うために何でもする、自分で罪を申告し、  
軍法会議で処断される覚悟でいると言ってきた。  
だが、リザは首を振ってそれを制した。  
忘れろと告げてきたのだ。  
何もない、後には何も残っていないという口ぶりでハボックは退けられた。  
あれから10日ほどが経つ。  
未だ、ロイに気づかれていないことにハボックは内心では安心したが、  
リザに対して芽生えたものをそこで彼は蘇らせた。  
――どうしてそこまで自分を抑えてるんだよ。  
そんなに好きなのか…でも、変じゃないか?  
不十分な感覚に、ハボックが怪訝な気持ちを抱いた。  
連日、自分は愚かしくも獣のように彼女を奪い、  
犯してしまった最低な人間だと良心の呵責に苛まれていた。  
そうして、ずっと荒廃していた。  
5日前にロイが戻ってきてからは、いつ殺されるかと覚悟もしていた。  
そんな自分に比べて、恋人が戻ってきて身辺が慌しいというのに、  
何故にそんなに冷静でいられるのかと…  
被害を受けたほうが辛いはずなのに、リザは許容するのだ  
 
奇妙な立場にいることでハボックがくすぐられるように困惑したが、彼はむしろ…  
追い詰めて、本当に自分のものにしたという衝動を込みあげらせてしまった。  
「中尉、大佐に何故、話していないんですか?」  
「――……」  
「俺が貴女にやったこと、どうして何にも訴えないんです!」  
「あなたは私に何かしたかしら?」  
強く吐き出すように彼の上官は答えた。  
なんだよ、それ…  
俺は覚えもない価値ってか  
凍土のように払われた眼差しに、自分を拒む彼女の顔でぞっとするハボック…  
息を呑むほど唾を飲んだが、ここまで拒まれるとかえって崩したくなる。  
どんな男にも媚びないと界隈で噂されていたが、その正体は本当のように見えた。  
言い寄られることの多い彼女に関する種々の噂はいくばくか存在する。  
だが、おそらくきっと…この他人を拒絶する氷のような瞳のせいであろうと  
いうのがなんともなしに理解できた。  
それに今の自分の前だけで、その冷たさは一気に強まるようでいた。  
一方で、この反応が何のためにあるかと思い知った彼は、あえて問う。  
――今更、愚問だな  
「じゃあ…今、あなたに何かしても忘れろっていうことなんですよね。  
俺が行う不始末全てをかばいだてることも、大佐のお守りのうちってことですか」  
「大佐は査定で忙しいの。余計なことで騒がせないで」  
扉に向けて後ろ足で下がり、言い寄るハボックの距離が徐々に  
短くなっているのにリザは顔をしかめた。  
2歩、3歩…近づかれる。  
時計の刻む音が感じられるほど、その足取りが静まった空間で…  
破るようにハボックは動き出した。  
持っていた彼女の鞄を取り上げた彼は、投げ捨てた煙草が落ちる間もないほどの  
勇み足で踏みこんだのだ。  
 
彼女の阻み手を掴むと、もう片方でリザは取り出した銃口を向けて彼を威嚇してきたが…  
「撃っても、誰も来ませんよ。今日は査定でほとんどの人間がここにいない」  
「貴方、また過ちを行うつもり?」  
「言えないんでしょう?隙だらけだ…中尉…」  
――いけない、気づかれてる…  
その隙につけこめたマリア・ロスの存在をひどく羨ましがったハボックだった。  
直接、こんなに愚かな行為をするのは彼は2度目だ。  
気持ちを伝えずに最初は野獣のように強姦した。  
あれから、詫びて処分されるのを覚悟はしたが、今は言える。  
言って彼らを…相愛の中である二人を繋ぐ糸を破りたい。  
「ハボック少尉、離して…手を離しなさい!」  
「大佐の次でも、その次でも何でも良い、命令でも良いから言ってください。  
一言でも俺に何かを…」  
「離してっ!」  
手で払われ落とされた銃の代わりに、もうひとつのホルスターに彼女は手をかけた。  
そして、抜いた銃を撃たせまいとハボックが彼女のその手を引き寄せてはいたが、やがて自分の胸に絞りを定めた。  
引き金に指を動かすだけで、心臓を貫通できる状態に持ってこさせたのだ。  
――何にも返ってこないなら、これでいいさ  
「少尉!」  
「撃てよ、殺して良いから」  
「ハボック、少尉…!」  
「知られたら大佐が俺を殺しに来る。どうせ殺されるならなら中尉にやられるほうがいい」  
リザの手にかかることをあえて望んできた男に、彼女は沈黙していた。  
殺せる、という感覚にリザが慄いた。  
静かに流れる今の空気…何かをハボックが知っているかのようなそぶりで瞳を放ってくる。  
「あなた…どうしてこんなことを」  
「知ってるからです」  
 
悲しげに歪んだリザの表情を読み、ハボックは息を近づけた。  
かき乱したい、鮮明に自分の存在を彼女の記憶に植えつけ、  
拒ませるようなことを言わせたくなかった。  
――言いそうだ…  
「あの時も、貴女は…中尉…」  
そう言いかけたハボックが、堰を切って流れ出した感情で押し迫った。  
――駄目だ…言ったら終わりだって  
「イシュバールでも殺してたんでしょう?俺も同じように扱ってくださいよ」  
「――……っ!」  
虫に噛まれて、その虫を殺してきていた過去の自分…ハボックが知っていた。  
だが、その経験は本当に一度だけだ。  
自殺した相手だと思い込んで忘れようと必死だった彼女だっただけに、動揺は隠せない。  
内戦時に強姦され、同僚に殺されかけた彼女は相手を最後に撃ち殺した。  
正当防衛となったので咎められることはなかったが、ロイはそれで受けたリザの  
精神的損傷を癒すように自殺ですませたと何度も言い聞かせていた。  
次第に時間が経つにつれて記憶に修正がかかり、リザはハボックに言われるまで  
封印していたことなのに…  
――やめて、あれは思い出したくない  
開けられた、この感情の行き所に彼女は苦しみを覚えてくる。  
その闇に、つけこむようにハボックが迫ってくる。  
「付き合っていて、恋人なのに…強姦されたことを言わないなんて、信頼だけで満足してる延長みたいだ。恋愛ごっこじゃないですか」  
「違うわ、…あなたにそんなこと関係ない…」  
弱い部分を見せたくない。  
困らせたくない  
汚れた自分でがっかりさせたくない…  
だって、言えないのは…私が、すくんで前に行くのを拒んでいるからよ  
「ロス少尉みたいに、はべらせてるのはそのせいでしょう」  
瞬間、彼女は目を凝らしてハボックを一発、撃ちぬいた。  
 
わざと彼女は急所を外して撃ってきたがハボックはその甘さに苦笑してしまう。  
これほど感情をむき出しにして接してきている彼女の表情を、  
ようやく…初めて見れたと意識の奥で悦んだ。  
よもや本当に撃つとも自分でも思っていなかったリザだったが、衝動的にやってしまった。  
「…馬鹿だ、俺―――」  
流れる血液を手のひらで塞いだ。寸での所で避けたせいか、  
撃たれた部分は浅く左腕をかすった程度だった。  
言わなければよかったと悔いたハボックの表情を、苦悶に満ちた顔でいたリザは見ていた。  
怪我を負わせるなど、酷なことをしたかと省みたが、マリアを引き合いに出されるとかっとなってしまったのだ。  
「…あなたは2番目も3番目でもない…彼女の同列に並ぶ価値もない。  
見逃すつもりも許すつもりもないわ」  
親しい友人の一人を侮辱されたようにリザが答えた。  
そして、  
「だけど、大佐にはあなたのことは言わない…私が忘れることで切り抜けられるわ。  
私は同じことでくじけたりはしないもの…」  
「だから隙だらけでいるんでしょうに…」  
抱いた時に、彼女はずっと泣いていた。  
酷く衝撃的で痛かったことだろうに…どうしてそこでロイに助けを請わないで、  
そんなふうに切り抜けられるんだとハボックは思ってしまったのだ。  
そのおぼつかなさが隙間として現れ、自分を煽るに十分だと彼は感じ取った。  
恋愛している自分が成長していない証拠だと言い当てられたリザはびくついた。  
互いの仲は上司と部下でそれ以上に愛し合う関係に踏み切れていない自分を悟られて、  
彼女は涙する。  
顔を抑えてぐらつく心で漏れ出す吐息を、何度も懸命に抑えようとしている姿が痛ましい。  
 
「いや…わかっているわよ…なんであなたが言うのよ」  
「中尉」  
「あなたなんかに言われたくない」  
自分でもわかっているわ、私が一番、何よりも…  
好きで、愛しているという気持ちを、なかなかロイに表せないでいる自分を今、  
まざまざと感じてしまった。  
「中尉…俺といてくださいよ」  
「――……っ」  
「俺はあなたが欲しい…」  
彼にとってこんな傷などかすった程度である。  
遠ざかっていたハボックはリザに詰め寄った。  
――来ないでほしい、また撃ってしまう  
その時、苦々しい顔で辛そうに…本当に狙いを定めてしまったリザは唇を噛んだ…  
正直、人を…しかも、同僚を撃ち殺すのは避けたい。  
彼を発起させてしまったことで、自分が隠そうとしていた落ち度も問われて、  
誤解されるかもしれない。  
何よりも、こんなことで人を殺すのは嫌だった。  
再び、近づくなと述べてもハボックは解けた自分の髪に触ろうとする。  
――殺してしまう、本当に…あの時みたいに  
けだものという生き物に対峙していた昔の記憶が重なった。  
「駄目、殺す前に下がってちょうだい!」  
「いやだ…」  
「お願いよ、来ては駄目…私…私は!」  
撃ち殺すしかないと両手で銃を返した彼女だったが…  
「―――やめるんだ」  
今まさに引き金を引こうというその瞬間、リザの背中が包まれた。  
びくりとする彼女の後ろから来る気配…ロイが片腕を、  
彼女の首を覆うように背後からそっと回してきていた。  
そして、後ろに彼女を引き寄せていたのだ。  
 
続けて、その手で涙を零しているリザの目を彼は上手に隠していった。  
見なくていい…落ち着くように、彼女にもっともふさわしい彼が言い放つ。  
不意に現れたロイの気配にハボックは驚いて止まってしまった。  
心音があがってくる。脈が高鳴り、今にも血管が破裂しそうな気分である。  
どこから聞かれたのだろうか  
このまま本当に、殺されるとハボックが完全に予見した時、  
望んだ彼女の動作は震えだす弱々しい肩だけで置き換わった。  
「もういい、下ろせ」  
上官命令だと改めて告げると、ようやくリザは両手を下げていった。  
息を荒げてくすんだ声を詰まらせて彼女は泣いている。  
そして、ロイが隠したリザの両目を片手でそのままに、  
後ろから自分の頬をよせて諌めようとしていた。  
そのまま目線だけを、彼はハボックに向けた。  
「ハボック少尉、退出したまえ」  
「大佐、俺は…中尉に…」  
「私は今、無性に君を殺したくてたまらないんだよ。  
焼き殺す衝動にかられてはいるが…あえてしない」  
それも何のためかは、彼は心で確信している。  
「ホークアイ中尉の名誉のために、公にしたくない…  
前例を知ってる第二、第三のお前が出てくるからな」  
「……」  
「今後、私の手足となって死ぬまでつくせ。それで終わりだ、わかったな?」  
言い訳すら、謝罪すらさせてくれなかった。  
圧倒的な勢いで同意させるように、ハボックは凝視されている。  
怒りというよりはむしろ自分を束縛し、にらみ殺すといった迫力に  
抗う選択肢は他にはなかった。  
拾い救われた命を報いる方法に、彼は敬礼で未来を返した。  
本当の狗になろうと  
 
ハボックが去ると、辺りは急に静かになった。  
今は誰もいない。ただここに、彼と彼女の二人だけが取り残されている。  
予定よりはやく査定を終えて戻ったロイは、言い聞かせるような目をして、  
椅子にリザを座らせた。  
「冷たい男だと思わないでくれ」  
濡れる両頬を指でなぞり、彼はこちらを向かせるようにしゃがんだまま彼女に向き合った。  
「私は怒ってるんだぞ、理由はわかるな?」  
なぜすぐに告げなかったのかとロイは責め立てるような険しい顔をしていた。  
そして、左右の頬を手で包んで、泣き腫れる彼女の眼前に迫った。  
厳しい瞳で、淡々と彼は喋ろうとする。  
だが、どこか…紙一重で苦し気だった。  
「ひとつは職場でハボックを殺そうとしていたこと、もうひとつはその原因を…」  
「――…」  
「…くそっ…」  
続きを言いかけてロイは頭を振って止めた。  
怒っているといった彼の様子が、がらりと変わっているのをリザはその時感じてしまった。  
押し黙ったことを繋げるかのような気配で、そのままロイは俯いてしまったのだ。  
やがて、覆いかぶさるように椅子を両手で掴み、彼女の膝に額をあててうなだれた。  
顔つきが変わっていくのを悟られて彼は表情を曇らせるが、リザの受けた痛みを考えると認めざるを得ない。  
十分に頼られる存在でいられない男である自分自身を…  
封じていた忌々しい記憶まで辿ってしまった状態の彼女の気分を考えると、  
責めることなどできなかった。  
 
散らすように最後に声を出していた彼の様子から、こみ上げてきたものは  
怒りというよりもむしろ悔しさと辛さだったのだ。  
感情的な言葉をだすのは冷静な自分ではない。  
酷く自分のスタンスに反する。  
だが、彼女のことに関しては、そこまで彼は自分を戒めることなどできなかった。  
「――どうして言わないんだ?」  
膝の上で、青の肩が揺れる。  
「……――」  
「頼むから、何でも言ってくれ…自分のことも考えてくれ…」  
それだけ大事にしている存在なのだと彼は付け加えた。  
「ただの部下で、軍での役目を果たすだけの存在なら望みはしない。  
生きてる意味がわかるように傍においてるんだぞ」  
「私が守ります。守りに入る私は…苦しくなんかありません」  
「勇ましくて強いよ、君は。だが、時々は自分の背中も振り返れ…  
信頼している私以外のものをもっと見てくれ」  
「見てます、ちゃんと…私は…」  
――辛そうにしている貴方の、今の姿を…  
その原因を、その状態を不安な形で作ってしまったのは自分である。  
十分にロイの心に答えきれていなかった自分が彼の差し迫った状況までも  
を強めてしまった。  
「いいや、大佐としての私じゃない。君だけの男を知ってくれ…  
支えが必要なら私を使え……そのために望んだんだぞ…―――」  
悲鳴を溶かすような、そして嘆くような調子にロイの声は変わっていた。  
見上げた彼は自分にしか見せない表情をしている…  
感情のこもったその顔つきにリザが胸を詰まらせる。  
込みあがった思いでまた目が濡れていく。  
 
「…すみ…ません……っ…」  
「謝ることじゃない…泣かれると弱いんだ。言いたいことの半分も伝えられ  
なくなってしまう。この感情が…愛してるんだって本当に思うよ」  
「大佐…」  
椅子から降り、彼女はゆっくりと大きなロイの胸の中へと抱き着いてしまった…  
そして、離れることはもうできないとその時、実感した。  
相手の服に涙が映り、それを吸い取ってくれるかのような優しさを覚える。  
彼女はしっかりと抱きすくめられ、大切な宝物を手に入れたかのように  
ロイは抱え込んでいった。  
頭を撫でられて、存分に泣いても足りないくらいに涙する自分を取り巻く腕が力強い…  
リザはそう思った。  
この瞬間は初めて覚える。慰めるという感じ方だけでない。  
守り、支えてくれるという…本当に力強いいつくしみの気持ちに囲まれたようだった。  
常に自分だけが意識して放っていた守るべき思いの行き先が、  
実りを持ってここに跳ね返ってくる。  
ロイがいなければ、彼女の心は満たされない。  
「…ずっと、いると…言えなくなるんです。自分がわからなくなって…」  
「愛している」  
「守りたいから、…私よりも、貴方には優先してほしいものがあるならなおさら」  
「傷つかせて、大事なものを失いながらも優先できるものなどあるか。  
先に君の全てを獲得してから守られるほうが落ち着いて突き進めるよ」  
「大佐、…駄目です…私が先になってしまう」  
「いないより、いるほうが私は安心できる…我侭なんだ、君の事だけは」  
共通の目標に向けて、互いに役目を持ち合いこれまでたどってきた。  
全力をつくす部下として失うものをどこかで感じながら、孤独に囲まれているリザの  
周囲を、ロイは必死で埋めようとしていたのだ。  
安定していた信頼関係を保ってきた彼らだったが、完全な調和などロイ自身が貫けなかった。  
近づいて満たしたい。支えられ続けるよりも互いにそうありたい。  
真っ直ぐに突き進む自分の姿だけを見せるだけで終わらせたくない…  
だから、彼女を望んでしまった。先に均衡を破ったのは彼のほうだったのだから…  
自分が見渡す世界を背後から見つめさせ、心も重ねたい…  
そんな一体感まで欲する自分が愚かではないかと幾度もためらった。  
 
だが、それでも慈しむことのほうが人間らしく生きていける。  
その答えに辿り着かせたリザに、どこまでも囲まれたいと彼は願ってしまった。  
恋人同士になれるまで、そんな気持ちに彼はずっと焦っていたのだ。  
「すれ違うのはもうたくさんだ」  
イシュバールでリザを知りえたときに走った感情を埋めてきた彼であっただけに、  
長い夢から目覚めたようだった。  
出世してのし上がるために、謀略と野心に塗れ、他人を陥れた苦い経験も多かった。  
自分のことで必死な状況が殆どであったために、人間的な温もりをどこかで  
欲していたのかもしれない。  
以前は、リザとの間柄にも恋愛というものを離して、信頼を通し、築きあって進んでいた。  
そうして、上司と部下でいることで達成できると置き換えて彼はこれまでやってきたが、  
思慕だけは止められなかった。  
仕事から離れるとリザに向けて、与えてくれる力に対して何かできるものが  
ないかと思うと、感情が日増しにこみ上げていったらしい。  
だから、愛情に溢れている人間らしい自分を否定しながらも、  
彼女を置き去りにすることに我慢ができなかった。  
「私の在り処はここにあるんだ…」  
「大佐」  
「一生、誓うよ…だから、ついて来い」  
「はい」  
愛していると言われたリザは、より強い力で抱擁された。  
 
 
数時間後、彼らは閨にいた。  
背に流れる彼女の長い髪を梳いて、ロイが首筋に唇を落とした。  
やや性急な彼の仕草だったが、待ちきれなかったようである。  
体を重ねるのに躊躇していたリザが、ベッドに後から行くといってロイは  
待たされ続けたのだ。ようやく手に入れられる温もりに心が弾む。  
「…大佐……」  
リザが微動だに動くに連れて、空気が小さく流れてくる。  
暗い部屋、視野はおぼつかないが、彼女の優しい香りとこの部屋に  
満ちた甘い匂いに酔わされる。  
初めて訪れたリザの部屋、家具以外の不必要なものがなく、  
殺風景でそっけないようだが季節に見合った花が添えられている。  
彼女に花を贈ることは多かったが、こうしてここで自分の贈ったものが  
これまで存在していたことを、寄り添っていたロイは改めて確認して嬉しくなった。  
「花の香り…部屋に伝うんだな」  
「いつも、飾ってるから…でも家を開けるほうが多いので、この香りにまだ慣れません」  
まるで、ここでこうして体を重ねることの心境に似ていると、彼女は感じてしまった。  
ロイが出張で不在の間も、配達で贈られる花が次々ときていた。  
花瓶に生けて漂うかすかな香りを感じながら寝入ることで、  
彼女は寂しさを安心に置き換えて眠っていた。  
だからこうして実際に、ロイ本人と寝ることが適うと彼女の気はいっそう落ち着かない。  
それに自分の部屋でこんなことをするのは初めてだった。  
ベッドに腰を下ろして座ると、ロイはすぐに触れてきた。  
優しく後ろから背中ごと抱きしめてずっと口付けを止めはしない。  
「触れたかった」  
「……っ」  
ハボックに落とされた傷を残してきた自分をロイは気にするのではないだろうかと、  
リザが自然と自分自身を抱きしめるように、前に屈みこむ。  
 
その時を境に、垂れた髪の間から表れたうなじにキスをして、  
開いた首筋をよりひきだすように、滑らかに彼は背中を愛撫しだした。  
そして、なかなかこちらを向こうとしないで座っている彼女の耳元を食んだ。  
「嫌か?」  
「いいえ、…ただ、やっぱり…どうしていいか、わからなくて…」  
相変わらず、こうして真剣に愛し合う行為にリザは不慣れでいた。  
抱きたいと願う男の望みを叶えてやりたいが、自分の体を晒すことに戸惑いがまだ走る。  
愛しているのだから素直に行えばいいのだろうが、二度、別の男達に扱われた経験を  
持つだけに、本当に満足して接していける方法をなかなか掴み取れなかった。  
ただ感じさせるだけでいいのだろうか、と他の男達とした同じ行為で  
ロイを比べてしまうのにも気が進まず…  
だからといってされるがままに、無感動に受け入れるような形で応じるのも奇妙に思う。  
ましてや、作って媚びるような姿も晒したくない。  
剥がれかけた夜着をたぐりよせ、胸を隠していた彼女はぎゅっと力を込めて  
強張ってしまった。  
――どうしたら…  
そんな彼女の心境を察してか、ロイは背中から両手を回して、  
覆うように手のひらを広げ…滑らかな彼女の膝の上に重ねてきた。  
ゆっくりと彼は後ろで呼吸してくる。重なる体の音が、  
彼女に落ち着いた気持ちを伝えてくる。  
「……あ、の…」  
密着してきた彼の温もりに慣れてきたのか、ようやくリザが小さく振り返るが、  
「自然に応じてくれればいいよ」  
そう告げて、肩から覗き込んだ彼がキスをしてきた。  
思いを遂げたい。  
殻のようにかぶさる形を脱ぎ捨てたい…彼女は手を緩める。  
「ん…っあぁ」  
耳を甘く噛まれた。弱い箇所を後ろから遊ばれる。  
だが、抱擁されると安心する。  
今のそんな自分の姿を、彼女は心から大切に感じている。  
 
その状態を好かせてくれたのはマリア・ロスそのものだった。  
人が触れてくるのを苦手とする自分を知っているマリアが、穏やかにしてくれていたのだ。  
彼女と眠る時の感触が、不安で孤独を弄んでいたリザの隙間を埋めてくれるようで  
好きだった。  
だが、本当にその隙間を満たす最後のぬくもりは母のように包んでくれる彼女だけでは  
得られなかった。  
曖昧に感じていたこれまでのロイとの情事で、まだ分からなかったものが  
今ここに感じ取れる。  
抱きしめられるだけでは物足りない。  
自分の中に入ってくるのを…待ち望む自分を表すようにリザが振り向いてロイの上に折り重なった。  
ベッドに落ちた彼はそれを受け止めながら、二人はキスを続けていった。  
「ん、ふぅっ…」  
「リ、ザ…」  
圧し掛かるような姿で落ちてくる彼女だったが、その体は軽いので、  
余るほどにロイは愛撫で返していた。  
互いにすがりつくほどに抱きしめあった二人…  
静かだった体が思いで熱くなっていく。  
本当に欲しいものを求めて、いとしい気持ちがあふれていく。  
「あっ……ぁ…!」  
横に崩れた彼女を仰向けにさせて、ロイが握った片手をそのままに胸を愛した。  
肌蹴ていく布から乳房が開いて下着が取られていく。裸になるのを少し  
恥じ入った彼女だったが、ロイがそれを忘れさせるくらいに撫でてきた。  
重なるロイも同様に、勢いよく全てを脱ぎ去ると、  
リザは頬を染めてそれを見ながら体を捩った。  
「―――……やっ…!」  
「待てない、これ以上…離れたくない」  
放された両手でもう一度前を隠そうとしてしまった彼女だが、  
すぐに彼に絡め取られて一気に互いの生身の感触に合わさっていく。  
こういう時のロイのリードは嫌いではない。むしろ頼りがいを感じてしまう。  
 
「好きだ…」  
「…っ…ん、あぁ」  
こうして辿られて喘ぐのが、浅ましいのではないかと声を漏らしていく彼女は  
押さえ気味でいたが、  
「は、あぁ…アァンッ!」  
体中を撫でまわして、ロイが優しく、だが熱情をこめて口付けしながら  
乱していったために…リザのたどたどしかった嬌声は深まっていった。  
舌でいじると、彼女の肌が湿り、揺れた胸の突起が張り詰めていく。  
ついぞ、指の隙間で膣部を開けようと中で弾くと、リザが頬を染めて体を仰け反らせた。  
再び中で指先を溶かすように動かすと、更に身悶えるような声が返ってくる。  
「大…佐…あっ…や、だ」  
ロイはますます煽られていった。敏感な体が零す痴態をもっと知りたい。  
溺れたいという情欲が篤くほどわきあがってくる。  
「ひっ…あんっ…」  
「本当の気持ちを、上手に言うのは難しいって今わかったよ」  
「大、佐…」  
「こうしていたら…―――飾る言葉がいらない」  
「やっ…あ…ぁ」  
開かれた脚の間に潜む彼女の蕾を手で慰撫しながら、ロイが再び、  
喘ぎを零すリザの唇に口付けした。  
こぼれる吐息、戸惑いの涙で潤っているリザの頬に自分の頬も重なる。  
皮膚に触れて伝わる涙…彼女の全てを、今深く愛そうとしている彼女の体の奥で…  
指先で濡らしているこの部分で早く繋がりたい。  
下肢を開かせて、先端を宛がった彼はリザを掴んで力を込めて進んでいこうとする。  
隙間が塞がれようとするこの瞬間、  
「愛してる」  
大佐……―――――!  
魂から欲せられたような声でロイが自分を愛してきた。  
その声の深さと思いの奥にある焔に、彼女は刹那に魅せられた。  
言われたとうり、その一言だけで飾るものが必要ないと本当に思ってしまったのだ。  
「あ、アァ…ッ…」  
ほぐされていた彼女の入り口から、激しい昂ぶりが繋がってきた。  
 
奥まで収まったと同時に、それは動き出し、体の芯が交わりを生み出させていく。  
「大佐ぁ…や、あぁっ!」  
おかしなもので、こうして抱くたびに生まれ変わるような気分になる。  
優しさも愛情も、いくら注いでもリザが自分のことで満たされている姿には  
新しい感激が芽生えてくるのだ。  
不十分にしか愛せていなかった自分が、手繰り寄せるように  
それを塗り替えているようだった。  
軍にいて、均衡の取れた関係でいつまでもいようとしていた自分が  
先に破って近づいていった時、彼女は微笑んで応じてくれていた。  
自分の要求には、子供じみた我侭でも扱うかのように彼女はいつも甘えさせてくれる。  
それをどこかでわかっていながらも嬉しいものではあったが、  
本当に対等に愛し合えることができるのか彼も不安だった。  
それゆえ、リザが時々、戸惑っている部分を持つことも薄々感じていたので、  
徐々に距離を埋めていくのは難しいと心のどこかで予想していた。  
体ごと愛を確かめあうことがまだまだ完全ではなかったことを含め、  
全てに対して彼女が怯んでいるのだろうと…  
気遣いあうのはまだ自分の愛し方が十分ではない証であることはよく承知している。  
「リザ…」  
「あっ…大、佐…ア、…ァッ!」  
――つかず離れずの距離でいるのはもうやめてくれ  
近づくことでそれを願い、自分で暖めていくしかないと彼は思い至った。  
愛情を作り上げる。  
代価として得られるものではなく、犠牲や尊さだけの詰まった恋でもないように、  
何の見返りもいらない。慈しむだけ慈しみたい。  
自分からもっと愛して、溝を埋め合いたい。  
そうすれば、きっと彼女はもっと近くに来るだろう。  
 
彼女により愛されたいと…彼は強く願った。  
「あ、…愛しています…私、…私も…っ…んぅ、あ…」  
「……――――」  
「あなたが……――――あなたが、好き…っ…」  
瞳が震えて、たどたどしい声が発せられた。  
腰を動かすと、更なる喘ぎにそれは変わったが、  
眼前で慈しむ言葉を今返されたロイは焦がれる様に抱き始めた。  
愛するという行為が、かつてないほど激しくなった。  
「あ、…アァ…―――ッ!」  
奥に重なる部分でリザが悦んで体を与えてくれる。  
心の中に思い描いた姿そのまま、この目でロイは恵みを獲得していく。  
穿つもので猥らに体をねじり、入り口からこぼれつつある愛液に包まれて  
リザがびくびくと腰を震わせて感じ入る。  
「ひあ、ァ…大、佐…っ!」  
名で呼び返して欲しいと告げられたリザが恍惚としていきつきながら捩れる声を荒げた。  
「リザ…愛してる」  
「大、佐……ッ…ンゥ」  
「ロイだ、言ってくれ」  
「ロ、イ…う、アァ…ッ――!」  
声が近い、温もりが溢れる。  
―――歩ける…もっと手に入れられる。終わらせたくない…  
不安定な世界からようやく羽ばたけたような気分で、二人の魂は震えていった。  
 
 
 
あれから、彼らは飽き足りないほど求め合った。  
そうしてやがて、濡れた体を寄せ合い、覚めやらぬ興奮に漂った彼らは、  
眠る準備を迎えてキスをした。  
腕枕に収まったリザに、ロイは思い起こしたことを正直に言った。  
「ロス少尉…だったか…査定後に聞かされたよ、君のこと…  
心臓が止まるかと本気で思った」  
「あの…大佐…っ…私」  
物憂い体でびくりと反応したリザが、全てを告げようと体を起こしかけた。  
激しい行為でいつになく無理をしたせいか、疼いたように走る痛みで  
崩れ落ちかかるリザの体…  
それを取り戻すように抱擁したロイは発される彼女の呟きに惜しみなく耳を傾けた。  
やがて、優しげに目を細めて見ていた彼は首を振って、それを許した。  
揺れた表情で喉を濡らしていた彼女は、さんざん泣き腫れていた目元を  
彼の胸に押し当て、しだいに息を取り返す。  
マリアに甘えていた自分のこと、彼女を振り払えなかった関係でいたことも何もかも…  
全部、零した。  
「もう泣くな、怒ってないさ」  
「貴方にも、彼女にも悪くて…曖昧すぎた私が嫌です…怒って当然です…」  
「いや、ロス少尉もそんな風には考えていないさ」  
「だけど、…私は…言えなかった」  
「そうじゃない…彼女が言わなければ、私は君をもっと苦しめたかもしれない」  
――助けられたのかもしれない、いろいろと…  
リザの髪を梳いて、彼は柔らかい彼女の体を確かめるように再度、触れて横から温めた。  
あの時、強そうでいて、だがどこか頼りない姉か妹のように大事に思える人だと、  
マリアはリザの下へ駆けつけようとしていた自分に言っていた。  
マリアとリザに何の接点があったのだろうかと、不思議そうな瞳で踵を返していた自分に、  
彼女はこうも付け加えた。  
『―――だから、あなたが大事になさって下さい』  
『ロス少尉…』  
『信じていける豊かさがあるんです。きっと、…もっと歩み寄ることはできるはずです』  
今後、一切近づかないとマリアが告げていたのを聞き、ロイは  
その潔さと優しさの交じり合った女性の感性に驚いたくらいだった。  
 
彼から今、事情を聞いたリザはくぐもった声で喉を揺らしている。  
髪に触れて、彼女を頭ごと撫でるようにロイが引き寄せた。  
「泣かせてばかりだな…」  
「いいえ、…嬉しいです」  
優しい人がいてくれる。そして、今、一番いとしくて優しい人に囲まれている。  
今度、会ったら、彼女にはきちんと礼を言おう。  
そして、友人として対等な関係を望んでみよう。  
リザはそう思って、愛する男の腕の中で目を閉じた。  
柔らかく笑んだロイが寝入る彼女にキスをした。  
慈しむという、大切な思いを抱きながら…  
はじまりに過ぎないこの瞬間、  
これからも多くを埋めていかなければならない二人の門出が今、ここに始まった。  
          
 完  
 

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