俺って、若いなぁ、と思った日だった。
「中尉ー?」
コンコン、と執務室をノックする男。
口には煙を立てる煙草を銜え、たれ気味の眠たげな眼がトレードマークといったところか。
東方支部所属、ハボック少尉。
「ホークアイ中尉?居ないんスかー?」
普段はマスタング大佐、と呼ぶところだが、彼は現在市街へ出向いている。
傷の男―――による国家錬金術師に限定した殺人事件。
身の毛もよだつような恐ろしい男が現れてから、水面下でこの街はあわただしくなっている。
まぁそんなとこは今は関係ないのだが。
「中尉?電話が入って―――」
ガチャ。
…すー。
あぁ。
机に突っ伏して寝ている姿は、まるでいつもはここに居る誰かさんを想像してしまった。
今は傷の男による殺人事件云々の問題で、市街へ出向いているマスタング大佐。
ホークアイがその人と重なることは全くといってないのだが、
ついこの部屋の雰囲気とポーズで、その二人をダブらせてしまった。
「…まぁ、疲れてますよね、中尉も」
今は取り込み中です、と入れておこうか、と身を翻そうと思った瞬間のことだった。
「ん……」
まるで鈴のように、うららかな日差しの下で昼寝をする猫のように。
甘く、静かに漏れた吐息が、廊下とは逆の方向にハボックの足を動かしていた。
ポケットから慣れた手つきで携帯灰皿を取り出し、親指で弾いて蓋を開ける。
押し付ける動作から蓋をしめてポケットに入れる動作はとても素早い。
重なった両腕を枕に眠っているホークアイと、床に膝をついて高さを同じにする。
日の下の仕事も決して少なくはないというのに、雪のように白くきめの細かい肌。
普段は吊り上げている眉も、ゆるりと降りていて。
数年前に自然消滅したはずの僅かな心が再燃した気もした。
「…中尉…起きないでくださいね。いや、なるべくおきて欲しいんスけど」
優しい、手つきで。
手袋につつまれた手で、眠る姫の顎をすくう。
普段の彼女なら、飛び起きて銃をつきつけるだろう。だけれど、何故か。
「…ちゃんと寝ないと、理性も危うくなるんだな」
自嘲気味にそう呟く。
煙草臭い唇は、その可憐な唇に落ちることはなく、僅かに横にそれて、白い雪に着地した。
新しい煙草から漏れる煙を揺らして、ばたんとドアを閉めた。
「…俺、凄い卑怯者だな…」
全く自分に呆れてしまう、何でここまで心臓が早く鳴っているのか。
彼女へ、自分より愛というものを注いでる者が、居るというのに。こんな、自分のすぐ隣に。
あれ?
「全くだな。ハボック少尉。」
ずざざざざざっ、と音を立て、数歩高速で後ずさるハボック。
目の前には、今最もあってはいけない人物が、満面の笑みを浮かべて立っていた。
「まさか眠っている無防備な女性に…しかも中尉にそういう行為を働くとはな。
全く、君の上司として私は情けないよ。まぁ減給は流石にひどいからこれで勘弁してあげようじゃな
いか」
最後のほうは棒読みであった。そして、眼が笑わなくなった。
「げ、減給でいいッス…や、やめてください大…ギャーーーーッ!!!」
「マスタング大佐」
「…あぁ、どうしたんだい?中尉」
山積みになった資料から顔を上げると、少し首をかしげて問う。
「ハボック少尉の姿が見えないのですが」
ピク。と、一瞬だけ肩眉がつりあがった。それを見逃す中尉ではないが、流石に理由までは読み取れな
い。
「彼は、沸騰したヤカンに、転んだせいか顔から突っ込んでしまってね」
沈痛な面持ちで話しはじめるロイ。心の中では僅かに悪魔の微笑が浮かんだ。
「そして跳ね上がったヤカンから溢れた熱湯が、彼の体中に…」
「全身火傷で入院ですか、それではお見舞いに花でも届けましょう」
「え、あ、中尉」
私は、こんな時何もできない、どうしたら…と哀しげな表情で問いかけて、
そのまま職務中だというのに、ああいう展開に流れ込むはずだった。
だが、中尉は間髪いれずに背中を向け、さっさと執務室から姿を消してしまう。
「………やれやれ、減給だな、ハボック少尉」
いつものように笑顔を見せて資料に眼を落とす。
そして、涙が一粒紙に落ちて、しみ込んでいった。