昼過ぎに美術館に到着すると、一時間待ちのプラカードを持った職員が立っていた。
やっぱり初日だからだろうな。朝一番に来ればよかったと思いながら、最後尾に並ぶ。
周囲は俺と同じ年くらいの女の子が多い。一人できている男なんて、俺くらいのものだ。
懐から封筒を取り出す。差出人の名前はなく、入っていたのはチケット一枚。
花本はぐみ凱旋記念展示会
チケットの端に、明らかな手書きで、小さな花火の絵が書いてあった。
もう四年前のことなのに、あの人は覚えていてくれたんだ。
あの夏、二人で手を繋いでみた花火を。
列は遅々として進まず、一時間半待って入り口でチケットを出す。
「まあお客さま、招待券をお持ちでしたら並ばずに入れましたのに」
受付の女性は、俺の差し出したチケットを見て気の毒そうに言った。
広い展示スペースは、絵画や彫刻など、ジャンルにとらわれない彼女の世界が広がっている。
芸術性が高いものから、一般に受けそうなものまで幅広い。
ホントに、すごい人だったんだな。
臆病で泣き虫で、大人の癖に子供みたいだったあの人は、もう俺の手の届かないところにいる。
「あの、お客さま?」
振り返ると、受付にいた女性が立っていた。
「こちらのチケット、お客さまがお持ちいただいたものですよね?」
切り取られた箇所に、花火の絵が書いてある。間違いなく俺のだ。
「主催者から、花火の絵の書いてあるチケットをお持ちになった人がいたら、お連れするように
仰せつかっているんです」
心臓が跳ねた。彼女は、俺に会いたがってくれているのか?
「分かりました」
俺はうなずいて、女性のあとについて言った。
関係者以外立ち入り禁止のドアを抜け、主催者控え室と書かれたドアをノックする。
「失礼します。お客さまをお連れしました」
どうぞ、と男の人の声がして、ゆっくりとドアを開けた。タバコをくわえた、30代後半の
男性の姿が目に入った。
「ん?君、どこの子だい?勝手に入ったらだめだよ」
「や、あの、俺…」
「倉持くん!」
仕切りのカーテンがあいて、光とともに一人の少女が飛び込んできた。
「倉持くんだ!うわー懐かしい、来てくれてありがとう」
「は、はぐ…先生」
俺が背が伸びたからだろうか、四年ぶりに会う彼女は、前にもまして小柄だった。
だけど、腕をつかむ手の力強さとか、瞳の奥の澄んだ眼差しは前よりも強い。四年の間に
彼女は自分の世界で戦っていたのだ。
「先生、個展の開催おめでとう」
カバンから花束を渡す。
「うれしい、ありがとう。倉持くんからお花もらうの、二度目よね。覚えてる?私が怪我して
入院したとき。倉持くん、泣きながら来てくれたのよね」
「あ、あの時は…」
カーッと顔が赤くなる。くそっ。
「あの時は、先生の手が使えなくなるって聞いて、それで…。それで、今は大丈夫なんだよね?」
「見て」
彼女が差し出した右手には、まだうっすらと手術の痕が残っていた。白く小さな手に、その傷跡が
痛々しい。
「ちゃんと動くようになるのには一年くらいかかったの。それからヨーロッパを見て回って、
いろいろ絵を描いたりして…」
天才芸術家として、その方面ではすでに有名人だった彼女を襲った四年前の悲劇。
右手を負傷し、芸術家としての道は絶たれたと思われたけれど、本人の強い意志と周りの
サポートで復帰したということを新聞で読んだ。
「はぐ、そんなところで立ち話しないで、座って話せばいいのに」
「あ、そっか。そだね修ちゃん。座って倉持くん。おいしいお菓子もあるよ?」
彼女が無邪気に俺の手を取る小さい手からぬくもりが伝わって、胸が熱くなった。
初恋は12歳の時だった。勉強漬けの毎日の中で出会った彼女。
大人の癖に泣き虫で、小さいけれど暖かい手を持つその人に、打ち明けられるはずもなかった。
会いたいのに会うのが照れくさく、次第に疎遠になっていった。
だけど先生、俺はあなたのことを忘れたことなんてないんだ。
「俺、タバコ買いに行ってくるわ」
修ちゃんと呼ばれた男性は、そういって部屋を出て行き、広い部屋には俺と彼女の
二人きりになった。
「倉持くんは?もう絵は描いていないの?」
ソファに並んで座ると、彼女は俺の顔をじっと見つめて聞いてきた。
「うん、今は学校の勉強で忙しくて…」
「そっかぁ。倉持くんは夢があったんだよね。宇宙飛行士になるって、今もそのために
がんばってるの?」
「うん、とりあえず英語と理数系を叩き込んで、あとは体力つけるのにマラソンと水泳とか、
とにかくいろいろ」
「そっかぁ、すごいね。宇宙から見た地球って、どんなのなんだろうね。私も見てみたいな」
彼女の頬が上気する。未知の世界に胸を躍らせる彼女の横顔は四年前と変わらず愛らしかった。
あの時俺は12のガキで。今でも16のガキだけど、あのときよりは大人になった。
そして、あのときよりも深く強く、この人を思っている。
「一緒に行こうよ」
手を握る。彼女が不思議そうな顔をして、小首をかしげる。
我慢できず、肩を抱いて引き寄せて、唇を重ねた。
「ん…!」
彼女は驚いて体を離そうと暴れたが、ねじ伏せるように力を込めて抱きしめた。
やがて抵抗はなくなり、彼女の手が俺の背中に回された。
「先生、俺…」
キスなんてしたのも初めてだったが、彼女の唇をなぞり、ついばみ、舌を差し込んで絡ませる。
誰に教わったわけでもなく、体が勝手に動いていた。
彼女の唇は甘く柔らかく、かすかに紅茶の味がした。いったん溢れた思いは止められなくて、
俺は無茶苦茶にキスをしながら強く抱きしめた。
彼女は俺の背中をポカポカと叩く。全く力なんて入っていなくて、笑っちゃうほどだ。
だけど…。
ふと唇を離して目を開けると、目の前の彼女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「そんなに…俺のこといや?」
なんだか幼い子を無理やり乱暴している気分になって、俺は一気に気分が削がれてしまった。
彼女は子供のようにしゃくりあげながら、何度も唇を手の甲で拭った。
「先生、恋人とかいるの?だからいやなの?」
「違うよ。恋人なんていない。私は…」
そのまましばらくヒックヒックと泣き続けた彼女は、五分ほどしてようやく落ち着きを取り戻した。
「私は、絵の神様に約束したの。他の全てを犠牲にしても絵を描かせてくださいって」
相手が彼女以外だったら、俺はその言葉を笑い飛ばしただろう。
だけど、俺は彼女の言葉に打ちのめされてしまった。
若き天才といわれ、一度はその才能を捨てるかもしれない悲劇に見舞われた彼女。
その才能を取り戻すために誓ったこと…。
絵のために、恋とか愛とかそういったものは切り捨てたんだ。
そのくらい、彼女の進む道は険しく細く、果てしないのだ。
…ったく、勝てねえよ。
俺は小さく笑って、ポケットからティッシュを取り出して彼女に渡した。
「先生、鼻、垂れてる」
「ええっ!」
「一応さ、先生は俺の初恋の人なんだからさ、小奇麗なカッコしててよね」
「…ご、ごめん」
廊下から賑やかな声と複数の足音が聞こえてきた。
「はぐちゃん!久しぶり〜!個展開催おめでとう!」
ドアから、花束を持った30歳前後の男女が数人入って来た。彼女の表情がパッと輝く。
「竹本くん、あゆ、みんな来てくれたんだ!」
「当たり前だよ!見たよ、凄かったね」
おそらく昔からの友達なのだろう。ここにはもう、俺の居場所はなかった。
「先生!俺帰るわ」
彼女がビックリしてこっちに向かってくる。
「倉持くん、ごめん、あの、私…」
「先生、俺謝らないよ。俺本気だったし。でも、俺先生と先生の絵が好きだから…」
よく見ると、周囲の人が俺たちを見ている。くそっ、衆人環視で玉砕かよ。
「だから、悔しいけど先生は絵の神様に譲るわ!」
振り返らずに、俺はドアを出た。16歳でこの物分りのよさってどうよ?
まったく、褒めて欲しいくらいだぜ。
「倉持くん!」
階段を駆け下りていると、踊り場から彼女の声がした。
「倉持くん、宇宙、行ってね。私信じてるよ!」
涙のあとが残る、それでも満面の笑顔だった。俺の大好きな、向日葵のような無邪気な笑顔。
俺は大きく頷いて、走り出した。立ち止まっている暇なんてない。俺も、俺ができることを
やらなくちゃ。
いつか宇宙からのメッセージを、彼女に届けるために。
おわり