二人が結婚すると報告した時  
修の母親は驚愕したが、従兄弟であるはぐみの父はホっとした顔をして  
修に「娘を頼みます」と頭を下げた。彼の心は成人した娘よりも  
新しく生まれた小さな命に占められていて、「それでいい」修はそう思った。  
はぐみは・・・まつげを伏せてただ一言「お父さん、ありがとう」と言った。  
子供の頃から見てきたはぐみの心の内が修には手に取るようにわかったし  
そしてはぐみも、修にどう思われているか知っていた。  
「はぐ、メシでも食いに行くか」  
「ごめん、修ちゃん、戻って描きたいの」  
遠慮勝ちにでもキッパリと自分の意思を伝えるはぐみのいつものやり方も  
修は慣れたものだった。  
「いいよ、戻ろう。食事は俺が作るから」  
新居は畑に囲まれた中にあるあっさりした一軒家で、玄関には「花本」の表札が掲げてある。  
戻ると早速はぐみはアトリエにしてる奥の部屋へと入り  
修は冷蔵庫を空け、使えそうな食材を見繕って  
「よし、今日はシチューだな」とつぶやいた。  
はぐみは創作シフトに入ると、不眠不休になってしまうが  
今はまだ事故の後遺症が癒えておらず、かといって創作を禁止すると  
彼女のメンタリティに影響があるので、修が怪我をしていない手  
左手で描くことを勧めてみたら、はぐみは効き手ではないその手で  
水彩絵の具を使って、明るいパステルの絵をいくつも描いていた。  
鳩・鹿・猿、長野へ帰ってからはぐみは野生動物を題材にして描き  
仕上がった何点かは、義母に、あゆみに、地元の小学校へ贈っていた。  
画商はリハビリで描いたはぐみの絵をぜひビジネスにしたいと持ちかけてきたが  
「練習で描いたものだから嫌」というはぐみの意志を修は尊重した。  
一枚、キリマンジャロの山に豹が横たわる絵があった  
豹の首にはネームプレートがつけられていてそこには「KH」という文字があった。  
カオルとハグミ。  
大学に入った頃、自己の才能の重さに慄然としていたはぐみが  
修の部屋で一冊の小説を見つけ、創作の手を休めて読み感銘を受けたのは  
「キリマンジャロの雪」だった。赤道直下のアフリカで雪が降るほどの標高にあるその山に  
登ってきて凍死してしまった一匹の豹。彼にしか見えない何かに突き動かされたその豹が  
見えない何かを遂に得たのか、得ないまま虚しく凍死したのかはわからないが、  
この描写ははぐみの琴線に触れた。この豹のように、はぐみも森田も何かに突き動かされ  
はるか高い頂を目指して歩みを進める戦いを続ける運命なのだった。  
選ばれたものしか立ち入れない戦場にいるものだけができる相互理解は  
「俺には終生手に入れられないな」その絵をアトリエで初めて見つけたとき  
修は思った。修の目から隠すようにひっそりと大きなキャンパスの後ろに仕舞いはするが  
その絵を森田に贈ろうとはしないはぐみの残酷さを修は知っていた。  
「それでもかわいいから、仕方ないじゃないか」。シチューに添えるサラダを冷蔵庫に入れたところで  
時計を見ると、東京へ戻るのにギリギリの時間だった。  
修は卓上のメモに、来週末彼が戻るまで、創作に没頭はしても食事と睡眠を取ることを書き残し  
アトリエのはぐみには声をかけずに自宅を出た。  
東京で仕事をし、毎週末長野に戻り、はぐみの世話を焼く  
これがはぐみを妻にした修の結婚生活だった。  
世間一般にはない才能のはぐみと結婚した以上  
世間並みの結婚生活は決して求めない、このルールを修は律儀に守っていた。  
遠ざかっていくエンジン音を聞きながら、はぐみはKHのプレートを下げた豹の絵を  
雨をたくさん降らせていた。凍てついた豹も包む雨。修を思いながら。  
 

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