真山がアパートを引き払う日がやってきた。
「さ、ちゃっちゃとやっちゃうよ!先生と真山はダンボールを下に運んで、はぐちゃんと私で
雑巾がけ。いい?手際よくやりましょう」
空は抜けるような青空。絶好の引越し日和だ。
竹本くんと森田さんがいなくなってたった一人残った真山。スペインに行ったり
仕事場で寝泊りしたりして、ほとんど帰っていなかったのに、それでも出て行かなかった真山。
なのに、急に引っ越すことを決めた。
引越し先は、リカさんの部屋の隣。
二人がどういう道をたどってきたかは分からないけれど、やっと二人で生きていくことを
決めたのだろう。
辛いかと聞かれれば、まだ辛いと答えるだろう。
まだ心のどこかで真山を思っている。
だけどそれは昔のような暗く重く、先の見えないドロドロとした感情ではなくて。
小さい頃憧れていた、イトコのお兄ちゃんが結婚すると聞かされるような甘い痛み。
そんなふうに自分を冷静に見つめることができるようになったのは、きっとあの人のおかげだと思う。
「おーい真山!手伝いに来たぞ」
クラクションの音が響き、ドアが開いて山崎さんと野宮さんが顔を見せた。
「あー、申し訳ないっす!休みの日にわざわざ」
真山が軽く頭を下げると、野宮さんは軽く肩を叩いてから腕まくりをした。
視線が合う。
野宮さんは、なに、また泣いちゃってるの?という顔をする。
私は、泣いてませんっ!という顔をする。
二人にしか分からない、秘密の合図。なんだかくすぐったい。
「それにしても、ストーカーからパートナーに見事な出世だな」
手馴れた手つきでダンボールを梱包しながら、野宮さんが感慨深げにつぶやいた。
「どうせなら隣の部屋といわず、一緒に暮らせばいいのに」
「ああ、まぁ…。彼女には、まだ触れちゃいけないテリトリーというか、そゆのがあって」
照れながらも訥々と答える真山に、野宮さんが大げさに肩をすくめる。
「二人のペースでやっていけばいいさ。時間はたくさんあるんだから」
先生が笑って額の汗をぬぐう。真山がリカさんの救いになれたことが、本当に嬉しいみたいだ。
自分では救えなかった罪悪感が、きっとあるんだと思う。
荷物を運び出して掃除をして、部屋の中は空っぽになった。真山が七年を過ごした部屋。
結局私は、引き払う時になって初めてそこに足を踏み入れたことになる。
ずっとずっと、見てみたいと思っていたこの人の部屋には、もう何も残っていない。
「このアパート、どうなっちゃうの?」
はぐちゃんが窓からの景色を見ながら聞いてきた。真山が出てしまえば、住人はいなくなる。
こんなぼろアパートじゃ、いまどきの学生は集まらないのかも知れない。
「取り壊して駐車場にでもなるのかなぁ。それかワンルームのマンションとか」
「思い出がなくなっていくのって、寂しいな」
しんみりと、真山が言う。すでに日が翳り始めていた。
外から先生がはぐちゃんを呼んで、彼女が出て行く。がらんとした部屋に、私と真山の二人きり。
長い影が部屋に伸びる。
「…私たちも、行こうか」
二人きりの空気が気まずくて、私は切り出した。と、背後から真山が腕をつかんできた。
「なんか…駄目だな、俺」
「真山?」
「俺は、竹本より森田さんより、先に進んでいるんだと思ってたんだ。卒業して、就職して
一人前になって、二人を待ってやってるんだ、って」
うつむく真山の声が震える。つかまれた手が痛い。
「でも、結局置いていかれたのは、俺のほうだった。二人とも自分の道を見つけて軽々と
この部屋を出て行った。」
「……」
「俺がこのアパートを出なかったのは、いつか二人が駄目になって帰ってきたときに、
帰ってくる場所を残しておいてやりたかっただけなんだ。馬鹿だよな…」
先日届いた竹本くんからの手紙を思い出す。真っ黒に日焼けして、職人さんの顔になっていた。
森田さんは新作映画のCG監督を任されたというニュースを見た。
「一番オトナぶってた俺が、一番この場所に固執してたなんて、お笑いだよな」
かける言葉をなくして、私はただ立ち尽くすしかなかった。
「竹本も森田さんも、いつまでも頼りない後輩と先輩でいて欲しかったんだ。
世の中が変わっても、俺たちが大人になっても、変わらないでいて欲しかったんだ…」
なんだか、分かる気がした。
私たちはもう学生のままじゃいられない。お互いに自分の道を見つけて旅立たなくちゃいけない。
でも、どこかで飛び出すのを怖いと感じる。今までの暖かい場所から出たくないと思う。
誰よりも現実主義者で甘えを許さない真山だけど、その実一番情にもろいことを私は知っている。
「真山…」
私は真山の頭をなぜた。母親が子供をあやすように。
「思い出の場所がなくなったって、私たちが一緒にいた時間は消せないよ」
「山田…」
「私たちはずっと一緒だったし、離れてたって仲間だってことに変わりはないよ」
真山の手が、自然と私の背中に回された。彼は声を殺して泣いているようだった。
この抱擁をなんて表現したらいいのだろう。
あれほど焦がれた真山との抱擁。なのに胸が苦しいほどのときめきもなく、
心の芯が焼けるほどの喜びもない。
同じ思いを分かち合う仲間としての、抱擁。
回された腕から、触れる髪から真山の思いが伝わってくる。
「おーい、真山、そこに山田さ…」
そこに、野宮さんがやってきた。抱き合った私たちを見て息を呑む。われに返った真山が
私を突き飛ばすようにして飛びのいた。
「の、野宮さん、違うんです、俺…」
真山の言葉も聞かず、野宮さんは足早に部屋を出て行った。
私は真山よりも早く、出て行った野宮さんを追いかけた。
嫌だ。誤解して欲しくない。抱き合ったのは事実だけど、違うんだってこと、分かって欲しい。
「……」
そこまで考えて足を止める。
私、いつの間にか本当に野宮さんを…。
駐車場の自分の車に寄りかかって、野宮さんはタバコをふかしていた。
声をかけようと一歩近づいて、近寄りがたいオーラに一歩引く。
怖い。絶対怒ってる。でも駄目だ。言わなくちゃ。分かってもらわなくちゃ。
「の、野宮さん」
「ああ、山田さん。悪いね、邪魔しちゃって。せっかく積年の思いが叶ったっていうのに」
そう言う野宮さんは、ものすごくいやみっぽく口の端を吊り上げて笑う。
「違うんです、今のは、別に私と真山はもう…」
「いいよ、言い訳なんて聞きたくない。君が真山を好きなのは知ってるし、止める権利もない」
「野宮さん、お願い、話を」
「いまさら何を聞くっていうの?のろけ話?そんなの勘弁し…」
「野宮さん!!」
私は野宮さんの胸倉をつかんだ。彼の背中が車に押し付けられ、鈍い音がした。
「話、聞いてください。私、私野宮さんには誤解されたくない…」
泣きそうになった。でも、泣くもんかと鼻をすすって野宮さんを見た。泣くのを我慢しているから、
きっと睨んでいるようなヒドイ顔をしてるだろう。
「今のは、友達同士の抱擁です。野宮さんだって、美和子さんが悲しんでいたら慰めるでしょう?
それと同じです。そりゃ、確かに真山のことは好きだったけど」
「……」
「野宮さん、あなたにとって私は、いつまでたっても真山を好きな女の子でしかないんですか?」
「山田さん…」
「抱き合ってみて分かったんです。私の、真山への思いがもう終わっていたことに」
我慢していたのに、涙がこぼれた。困ったような野宮さんの顔がぼやける。
「私がそんな気持ちになれたのは、野宮さんのおかげなのに…。分かってもらえないんですね」
胸倉をつかむ手を緩めた。私は涙を拭って、その場から離れようとした。
「山田さん」
が、後ろからふわりと抱きしめられた。
「ごめん、意地悪言った…」
振り返って顔を見たら、野宮さんの顔は真っ赤だった。夕日のせいだけじゃないと思う。
「山田さんが俺に夢中なのは俺も分かってたんだけどね」
「む、夢中ではないですっ!普通です普通!」
真っ赤になって反論すると、ようやく野宮さんがいつもの笑顔になった。
「いやでも、俺も焦ったわけよ。年甲斐もなく」
「ふふっ。年甲斐だって。年寄りみたい」
「どうせオッサンだよ。もう、トシなんだからさ、あんまり驚かせないでくれよ」
ぎゅっと手を握る。大きくて暖かい手。私は、この手が大好きだ。
「分かってます。でも、野宮さんも、今度からは私のことを信じてくださいね」
ちょっとためらって、思い切って野宮さんのほっぺたにキスをした。
「山田さ…」
「ええと、これで、伝わらないですか?」
私の今の思いの全てを。私のあなたへの思いを。
野宮さんは私にもたれかかるように体重をかけ、そのまま背中に腕を回してきた。
「ど真ん中に来た…。俺、このまま死ぬかも」
「大げさなんだから」
野宮さん、私の大切な人。イジワルで優しくて、大人ぶっているのに子供っぽくて。
この人のことを、時間をかけて知って行きたい。この人が、私のことを時間をかけて
見守ってくれていたように。
「あゆー!みんな集まってるよー!」
駐車場の向こうから、はぐちゃんの元気な声がした。
野宮さんが手を差し出す。
「行こう、山田さん」
私は頷いて、差し出された手を握り返した。多分ずっと、傍らにあり続けるだろう
暖かいその手を。
おわり