まだ薄暗い夜明け前の部屋。あたりに広がる油のにおい。  
そこにあるひときわ大きな真っ白いカンバスをまっすぐな  
瞳で見つめる少女のような女性がいた。  
 
「……、……。」  
 
目を閉じてひとつ、ふたつ大きな深呼吸。  
小さな掌の中には何かを握りしめている。  
 
ふ、と手を開いてその中身を見つめる。  
 
「………よし。」  
 
ふたたびカンバスをみつめる彼女の瞳に映る  
確かな決意。静かな闘志。  
そして彼女は筆をとる。  
 
あれから3年…。  
私の手は幸運な事に再び筆を執れるようになるまでに回復し、  
描く事を手離さずにすんだ。  
手が動くようになってから今まで、ずっと絵を描いている。  
 
しかし途中、リハビリのあまりの辛さに、思うように動かない  
手に対しての苛立ちに、何度も挫けそうになる事があった。  
慰めも同情もなんの役にも立たなかった。  
 
いっそ死んでしまえたら。  
 
何度そんなことを考えただろう。  
 
そんな時いつも私自身が彼に言ったあの言葉を思い出した。  
 
『ずっと見ててね。私もあなたのこと、ずっと見てる。』  
 
彼が見ている。  
そう思うとへこたれていられない、と思えた。  
彼に格好悪いところは見せたくない。  
だって彼は、たぶん生まれて初めて出会えた私の  
 
同士、なのだから。  
 
それはきっと恋よりも愛よりも強い想い。  
同じ場所にいなくても、違う景色を見ていても私たちは繋がっている。  
素直にそう思えた。  
 
いつのまにかお守りになっていた私の掌の中のものを  
見ていると、あの眩しい日々を思い出す。  
目も眩むようなスピードで過ぎていったあの懐かしい日々。  
 
いつのまにか明るくなっている窓の外には一面の桜。  
今年もまた、あの季節がやってきた。  
 
ざっ。  
 
白いカンバスに描かれてゆく無数の点と線。  
織りあげられていく色鮮やかな景色。  
もう何度、この景色を描いた事だろう。  
 
この景色を描いている私の瞳に映るのは、今目の前にある窓の  
外にある桃色ではなく、いつもあの日の情景だった。  
 
ぐるぐるにまかれた赤。くちびるにふれたあたたかさ。  
優しい眼差し。走り去っていく彼。遠ざかってゆく声。  
呆然とした私に降りそそぐ無数の花びら。  
 
あの時以上に美しい桜を私はまだ見たことがない。  
 
初めて大きな賞を貰ったのも、あの日の桜を描いた時だった。  
修ちゃん喜んでくれったっけなあ……。  
 
修ちゃん。  
 
私のだいじな、だいじなひと。  
 
…………でも。  
 
いつだったか皆で行った動物園で観覧車に乗ろうと歩いている時に  
後ろで聞いた修ちゃんの言葉。  
 
『原田もリカも恋人とも友だちとも違った。』  
『ただ大事だったんだ。オレにとって。』  
 
その言葉はごく自然に私の中に染み込んだ。  
私にとっての修ちゃんが、まさにそうだったからだと思う。  
 
そう。修ちゃんに対する私の想いは『恋』ではなかった。  
でも修ちゃんは違っていた。恋する瞳で私を見ていた。  
私がそれの気付いたのは、修ちゃんに絵を描くためのサポートを  
お願いしてしまったあとのことだった。  
 
私はなにがなんでも絵を描き続けたかった。  
誰かの人生を奪うことになっても。  
それがエゴだとわかっていても。  
 
その代わり、私が持ち得るすべてのものは、なんでも  
修ちゃんにあげようと思った。  
修ちゃんが私を欲しいというなら、すべてを明渡そうと考えた。  
からだも、こころでさえも。  
 
すべてを捧げようと、そう確かに思っていた、のだ。  
 
けれど2年余りの月日が過ぎた頃、修ちゃんは私にこう言った。  
 
「馬鹿だなあ、はぐ。いつまでそうやって頑張ってるつもりだい?」  
 
はじめ私は修ちゃんが何を言っているのかわからなかった。  
けれどやがて理解した。私が修ちゃんにしてきた事の意味を。  
 
「だいぶ前から気付いてたよ。でも言わなかった。言わないあいだは、  
…お前が気付かないうちは、たとえ表面上だけだったとしても、  
お前はオレのものだったから。」  
 
私の心は遂に修ちゃんのものにはならなかった。  
いや、なれなかったのだ、と。  
 
「オレはそれで嬉しかった。それでいいと思ってた。…それに、さ。」  
 
修ちゃんは私を背後から抱きしめて、言葉を繋げた。  
 
「オレはいつかお前が泣きついて来ると信じてた。  
『修ちゃん、ごめんね。もう無理だよ。』…ってさ。  
でもお前はそうしなかった。」  
 
私の肩にあたたかいしずくが流れ落ちた。  
 
「ずうっと必死で、一生懸命オレのものになろうとしてた。  
その健気さが痛々しくて、もう見ていられなくなっちまった。」  
 
ぎゅう、と私を抱きしめる手に力が入る。  
でも苦しいのはきっとそのせいではないだろう。  
 
「お前の手が治るまで…もう大丈夫だと思えるようになるまで…。  
そんなふうにお前のそばにいる事に理由をつけてごまかし続けて  
きたけど、本当はそんな事に意味はないんだって、わかってたんだ。」  
 
机の上に置かれた美術雑誌の表紙をかざっているのは、  
復帰第一作目の私の作品だった。  
 
「お前はもう、オレがいなくてもやっていけるさ。  
…このまま一緒に居たら二人とも駄目になる。」  
 
学習能力ねえな、オレ。  
と、自嘲気味に修ちゃんがつぶやく声が聞こえた。  
 
「……さよならだ。はぐ……。」  
 
そっとほどかれる修ちゃんの手。  
声が出ない。  
 
ああ、ごめんなさい。ごめんなさい修ちゃん。  
私はあなたに、とてもひどい事をしていたんだね。  
 
去ってゆく修ちゃんの背中。  
追いかけてすがりつきたい衝動を必死でこらえた。  
声をかけられない。かけてはいけない。  
 
ごめんね。ごめんね。だいすきなのに。  
あんなにいろいろしてくれたのに。  
修ちゃんは全部を私にくれたのに。  
あのひとを忘れられなくてごめんなさい。  
さよなら。さよなら。私のだいじなひと。  
 
 
そうして私は、生まれてはじめて、ひとりぼっちになったのだ。  
 
それから今に至る一年間。  
 
おぼつかない足取りだけど、私はなんとかひとりで立てている。  
自分の足で、歩いて行けている。  
 
生まれて初めてひとりになって、自分ひとりを立たせる事ですら  
こんなに大変なのだという事を思い知った私は、あらためて  
修ちゃんに対する罪をかみしめる。  
 
一番近くに居て、何よりも私を大切にしてくれた修ちゃん。  
優しい雨のように、私をまるごと包んで癒してくれたひと。  
自分の人生を惜しげもなく、まるごと私にくれたひと。  
 
あんなにも私の事だけを想ってくれる人は他にいないだろう。  
わかっているつもりだ。  
それなのに。  
 
どうして私の心は修ちゃんのものになる事を拒んだのだろう。  
たぶん、それがきっと一番幸せになれる道だったろうに。  
 
でもそれももうわかっている。答えは簡単だ。  
 
私の心はとうの昔にあのひとのものだったのだ。  
私がそれに気付いていなかっただけで。  
だからこそ、修ちゃんの傍に居続けるなんて真似ができたのだ。  
 
どうしようもなく、愚鈍で、幼稚で、残酷だった私。  
 
修ちゃんは私の元を去った後、どうやら世界中を放浪している  
らしい事を、色々な土地から送られてくる絵葉書が教えてくれていた。  
 
さまざまな景色と短いメッセージ。  
あんなに酷い事をした私をそれでも気遣ってくれている優しい言葉が  
書かれていて、その優しさに、私はまた打ちのめされる。  
 
しかし、つい先日アメリカから届いたその絵葉書は、  
少し様子が違っていた。  
 
いつも私を気遣う言葉が記してあるそのスペースには  
その描写はなく、たった一行こう書いてあった。  
 
『もう許してやる。幸せになれ』  
 
その一行が何を示しているのかが、私には数日経っても解らなかった。  
筆を走らせる手を止め、傍に置いてあった絵葉書を手に取り、  
繰り返し、繰り返しその一行に目をやる。  
 
読んでいるうちに頭がぼうっとしてきて、私は無意識に  
お守りを握りしめた。  
 
 
その時。  
 
 
「発見!」  
 
 
ふいに背後から聞き覚えのある声がした。  
寸前までぼうっとしていた私は、白昼夢のなかにいるような  
感覚に陥った。唐突にあの眩い日々に引き戻されたような。  
 
まさか。そんなはずはないでしょう?  
 
本当にこれが現実の事なのかわからないまま、声のしたほうへ  
ふりむこうとする私の視界の端で、ふわりと揺れる赤色。  
やわらかく首に巻きついてくるウールの感触。  
ゆっくりと、声の主に引き寄せられてゆく私のからだ。  
 
そして。  
 
くちびるにふれた、やわらかなあたたかさ。  
 
ああ、私はこの感触を知っている。  
 
見開いた私の目に映るのは、やさしい目をしてほほえむあのひと。  
 
びっくりして声も出せずに固まる私を見て、苦笑いを見せたそのひとは、  
私が手の中に何かを握りしめている事に気付き、それが何かを理解した  
途端にとても嬉しそうな表情になった。  
 
「ずっと持っててくれたんだな。……それ。」  
 
それは、白っぽい木で作られた小さな小鳥のブローチ。  
手にしてからずっと、私の大事なお守りだったもの。  
 
彼に再び逢えたら言いたかった事がたくさんあったような  
気がするのに、声が出ない。  
胸が苦しい。  
色んな言葉が泡のように、浮かんでは消え、生まれては弾けていった。  
 
ああでも。  
 
これは、これだけは。  
 
伝えたい。  
 
「…すき。だいすき。逢いたかった。ずっと。ずっと……」  
 
そこまで一気に言い終わると涙があとからあとからあふれてきた。  
彼は赤いマフラーを巻いたままぐちゃぐちゃに泣いている私を  
やさしく、そして強く抱きしめ、耳元で「うん。オレも。」と囁いた。  
 
「でも、どうし、て、急に…?」  
しばらくしてようやく涙が止まった私は、しゃくりあげながらそう聞いた。  
涙でびしょびしょの私の顔を自分の服の袖で拭いながら、彼は  
「オレはいつだってずっと、ずっと、ずーっと、オマエに逢いたかったんだぞ!?  
でも逢っちまったらオレはもうたぶん、きっと、絶対!!オマエの事攫って  
閉じ込めちまいそうだったから我慢してたんだよ!!」  
と言った。彼の顔は真っ赤だった。  
 
「オレが望んだのはオマエの幸せだったから、オレは…それならもう  
逢わないほうがいいと思ってて…そしたらこの間急に…アイツが」  
 
……アイツ?  
 
「これまでずっと邪魔してきたくせに…」  
 
そして私はやっと気付いたのだ。  
修ちゃんの絵葉書に書かれた言葉の意味を。  
ああ、これはたぶんきっと、修ちゃんの最後のやさしさ。  
 
頼って、甘えてばかりいた私を許してくれてありがとう。  
ごめんなさい。  
だいすき。  
 
………さよなら。  
 
もう、間違えないね。  
 
 
私は彼の手を握った。  
彼は少し驚いて、それからゆっくり私の手を握り返してきた。  
視線が繋がる。  
 
そして、私たちは再びキスをした。  
いたわりあうような、やさしい、やわらかいキス。  
 
「アイツには負けっぱなしみたいで悔しいけど……」  
苦しい程に抱きしめられた。  
「…もう、どうでもいい…。」  
私はおずおずと彼の背中に手をまわし、片方の手で彼の頭を撫でた。  
 
傷付く事が怖くて、触れ合えずにいた私たちだけど、今、ようやく。  
 
「…もう逃げない。」  
 
「…うん。」  
 
あの日病室で繋がれたのに離してしまって以来、  
再び繋がれた私たちの手。  
 
そしてまたキス。まるで誓いのように。  
 
繋いだ手と手は、もう二度と離れることはないだろう。  
 

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