修司はモンゴルの地平線に浮かぶ朝日を眺めながら、日本に置いてきた自分の娘とも言える少女のことを考えていた。  
日本を飛び立ってから、想うのはずっとあの子の事ばかりだ。  
 いま何をしているのか、元気でやっているのか、そして――寂しくは、ないか。  
 
「俺はさみしいよ、はぐ」  
 
 遥か彼方、海の向こうにいる少女に向かってつぶやくと、吐き出した空気が白く染まった。  
薄緑色の草に付いた霜が太陽の光によって溶けるのには、まだ時間がかかりそうだ。  
気化していく蒸気の中で、彼は自分のいるべき道を見失ってしまったかのように感じた。  
けれど彼の途方に暮れたような気持ちとは関係なく、草原の朝はいつもと変わらず厳しい寒さに包まれていた。  
 体の芯まで凍り付くような冷気。  
だがそれとは違う。自分でも説明付かないほど心が寒くて、修司はごわごわしたジーンズのポケットに手を突っ込んだ。  
 カサリ、とまるで彼の心のように乾いた音が小さく鳴った。  
修司はそれを掴むと、自らの皮膚を再び冷気の元へと晒す。  
その僅かに震えた、乾燥によってひび割れた手に握られていたのは、一枚の写真だった。  
 
「はぐ……」  
 
 まるで恋煩いのようだ、と苦笑しつつ、儀式のようにそっと両手で包み込む。  
何度も見ているうちに四方の端がよれてしまった笑顔は、彼の冷え切った心にあたたかな光をもたらした。  
 抜群の性能を誇る保温剤にほっと息をつきながら、修司はなぜこれほどまでに彼女のことが気になるのだろうか、と思った。  
一緒に暮らし始めてから、こんなに長く離れたのは初めてだから?  
 娘を持つ父親も、出張先でこんな気持ちを味わうのだろうか。  
魂を切り取られたかのように切なく、さみしく、やりきれない気持ちを。  
 こうやって寝付かれずにパオを抜け出し、はぐみの写真を見つめるのも初めてではない。  
 まるで消化不良に陥ってしまったような自分の心が掴めず、修司は考え込むように眉を顰めた。  
 
「たしかに自分の娘のように大切に思ってるけど……」  
 
 全てをさらけ出すような広い大地の上では、うむやまなままにしておけなくて。  
修司は瞳を閉じて、全ての光景を視界からシャットアウトすると、セピア色の世界の中で自分の心を見つめ直した。  
 
 うねった迷路を進んだあとに現れた、白いドア。  
彼がゆっくりと心の扉に手をかける。  
と、突然それが内側からはじけ飛んだ。  
 
笑い顔のはぐ。  
泣き顔のはぐ。  
少し困ったような。  
怒ったような。  
はぐみの顔。  
 
 ぽんぽんと勢いよく飛び出して来た立体映像の世界は、全てはぐみで造られていて。  
平原を渡る風の音に混じって「修ちゃん」と呼ぶ甘い響きが耳に届いた。  
 さっき自分の気持ちを恋煩いのようだと表したけれど、それは……。  
 
「くっあぁ〜、バカだね、俺も」  
 
 何故今まで気づかなかったのか。  
修司は地面にしゃがみ込んで、大きく頭を抱えた。  
そして何より、たぶん全くと言っていいほど望みのない自分の恋に、頭を抱えた。  
 いま、だれよりも少女の側にいるのは自分だろう。  
だがいつかきっと、竹本が、森田が――その素朴な優しさで、共通の才能で――彼女を攫っていってしまうだろう。  
 何て損な役回りだと、きっと人は言うだろう。自分でも少しそう思う。  
一生懸命育てて、守って、愛して。他の男にくれてやるなんて。  
本当は嫌だ。  
 自分だけがはぐみをみて、はぐみにも自分だけを見て欲しい。  
互いの傷口を舐め合うようだった理花との関係とは違って、  
突如ハッキリとした形になった恋心には、独占欲が一緒になってくっついてきた。  
でも――……。  
 修司はかぶりを振ると、膝を伸ばして起ち上がった。  
そして、すっかり顔を覗かせた太陽に向かって、大きく伸びをする。  
   
はぐみが誰を選んでも、笑って祝福してやろう。  
修司は少女の笑顔のように明るい日差しに、目を細めた。  
 人を愛することなど出来そうにないと思っていた自分の心を、いつの間にかその小さな手のひらで治してくれた、大切な、存在。   
 だがそれまで、その日がついにやってくるまで――彼女の翼となって彼女を優しく守ろう。  
煩く求愛の歌を叫ぶ若鳥ではなく、以前と変わらない、親鳥のような立場で。  
男を感じさせず、ただ包み込むように。  
 修司は少女の笑顔をもう一度見ると、何事もなかったかのように、それを再びポケットの中にしまった。  
 
「よし、そうと決まればこんな所とっとと離れて、はぐの元に帰国、だな」  
 
 彼はわざと父親のような口ぶりで道化るように言った。  
 別れるときが来ると分かっていても。分かっているから、それまで、1秒でも長く、一緒にいたい。離れたくない。  
 一番側にいるから、愛を告げることも許されないのだ。  
自分は彼女にとって失うにはあまりに大きな存在になりすぎた。  
 けれど誰のものでもない彼女と、今のこのひとときを一緒に過ごすくらい。それくらいの振る舞いなら、許されるだろう。  
もちろん、どこかの馬の骨が恋人役に収まっても、はぐの過保護な保護者役は一生誰にも手渡すつもりが無いのだけれど。  
 
「大人も辛いな……」  
 
 捨てると決意した想いに、惨めに縋り付きそうになる。  
やっと見つけた自分だけの幸せ、やすらぎ。  
でも、守りたいものがある。だからきっと強くなれる。  
 
「若者達の青春パワーに当てられたかな」  
 
 自分が考えたとは思えない、思わず赤面してしまうほど恥ずかしい科白に、修司は苦く笑った。  
 くしゃくしゃと髪をかき混ぜると、立ち上る若草の香りを胸一杯に吸い込む。  
 ……はぐに会いたかった。  
会って、笑い合って、また一緒に暮らして。  
そしていつか、はぐの手がいよいよ自分の手から離れるときが来たら。  
 修司は自分の手のひらを見ると、それをぐっと握りしめた。  
 この草原を思いだそう。  
青く萌える再生の大地を、はじまりの、広原を。  
 
 そうすればきっと……。  
 
 彼はしばらくそこに佇んで、温かな太陽が照らす平原を見つめると。  
再少女の元に帰る支度をするため、その場所からそっときびすを返した。  
 
 
 
<<End>>  
 

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