「……生きていてくれればそれでいい」
そう言って彼はあたしを抱き締めた。
不意にいつかのキスを思い出す。花びら舞う春、あたしは彼とキスをした。
ずっと忘れられなかったの。あの感触。口唇の温度。
「描かなくても……いい……?」
「お前の全ては描くことだけか?そんなの違うだろ」
「あたし……」
「描くだけの人生が意味あるものだとか、そんなの俺は認めない」
彼の瞳があたしを射る。真っ直ぐな黒い瞳があたしを縛る。
ずっと待っていたのかもしれない。いまのこの瞬間を。
彼があたしを捕らえるその瞬間を。
ねぇ、あなたが欲しいのはあたし?
それともあたしの失いかけている、この才能なの?
「あ、あたしっ……、もう全部なくなっちゃったんだよ?
いまのあたしじゃ、あなたと世界を見ることが出来ないの……!」
「俺が見せてやるよ」
「っ……」
「お前が見てきたもの、これから見るもの、全部。俺が見せてやる」
好きだ。
搾り出すような声が、耳元で聞こえた気がした。
気がつくとあたしは無機質なこの部屋の床に押し倒されていた。背中が冷たい。
目を開けると、変わらぬ視線があたしを求めている。
「好きだ」
「初めて逢った時から、ずっと」
「お前が描けないなら、俺が描く。お前が描きたいものを」
その言葉に、あたしはようやく微笑むことが出来た。
うまく笑えたかどうか、わからないけれど。
もしかしたら涙がこぼれていたかもしれないけれど、とにかく。
「うん……、ありがとう……」
この気持ちを伝えたい。感謝、憧憬、思慕、あなたのその才能への嫉妬、全部。
眩暈すら錯覚する。その、言葉では言い尽くせない感情に。
これほど筆を持ちたいと思わせる感情を、あたしは他に知らない。
いままで知らなかった想いを、彼はあたしに与えてくれた。
あの日以来、再度重なる口唇。
あの時とは違う、ただ触れ合うだけのキスじゃない。
深く、互いを絡めとるようなキス。求めて、求めて、ただあなたを感じたかった。
瞳を閉じて、全身に彼のキスを受ける。
「っんん、ん、……」
息をすることすら許してもらえない。執拗に繰り返されるキス。
次第に彼の手はあたしの衣服に伸びた。
あたしはまったく抵抗しなかった。誰かと肌を触れ合うなんて、初めてなのにあたしの頭の中は酷く冷静だった。
「はぐみ」
初めて名前で呼ばれたことに、驚いて目を開く。なんだかくすぐったくて面白くて、クスリと笑うと、彼は照れくさそうにまた口付けた。
「……お前も俺の名前呼べよ」「やだ」「このやろコロボックル」
他愛のない会話がこんなにも愛おしい、あなたの声があたしを呼ぶ、ただそれだけがこんなにも嬉しい。
自分の気持ちに素直に向き合うということがこんなに幸せだとは知らなかった。
あたしは彼とこうなることを望んでいたのだろうか。
だから、ただ導かれるままにこの部屋についてきたのだろうか。
信じていたものを失って、男に縋ろうとしているの?
違う、そんなのじゃない。あたしはこの人を愛している。
自問自答を繰り返しながら、彼があたしの中に入ってくるのを待った。
「ん、ふあっ、……ぅっ」
自分の口から卑猥な喘ぎが出たことに少し驚いた。人間の本能なのかしら。
彼の手があたしの乳房に、腰に、女の子の大切な場所に、伸びる。あたしの全てを彼が知っていく。
「やっ、ダメっ、っあ、」「いいよ、もっと声聞かせろよ」「や、だ、そんなっ…」
意地悪なその声がすきよ。おかしいね、最初はあんなに嫌なひとだと思っていたのに。
彼の指先の動きひとつで押しては寄せる快楽の波。その度に聞こえる淫猥な音。
指が入る、抜ける、その繰り返し。足につたう蜜を感じ、身体が徐々に彼を受け入れる準備を始めているのを知った。
ふと脳裏に浮かぶ、2人の大切なひと。
1人は竹本くん。あたしのことをすきだと言ってくれたひと。
竹本くんの気持ちはすごく嬉しかったけど、それと同じくらいあたしは戸惑った。
急に『男の子』として意識してしまって、避けて、彼を傷つけてしまった。それでも今もあたしの傍にいてくれる。
彼に抱かれて喘ぎながら、竹本くんを思い出すだなんて、2人に対して酷いことだと思う。
もう1人は修ちゃん。いつもあたしを守ってくれるひと。
きっと今もあたしを探しているだろう。ごめんね、修ちゃん。あたし……
「なに、考えてる?」息切れとともに、彼の低い声が聞こえてあたしは我に返った。
「なにも……っん……」彼の指先の力が強くなり、蜜が溢れ出す。彼はその蜜を指先ですくって舐めた。
「上の空だったぞ」「そんなこと……」「誰のこと考えてた?」どうやら全てお見通しらしい。
「お前さ、こういう時くらい俺だけを見てくれてもいいんじゃないの」そう言って、彼は一気にあたしの中に入った。
「やあああっ………!!!」あまりに突然の快楽にあたしは仰け反った。痛みに我慢出来ず、彼にしがみつく。
「……お前見てると滅茶苦茶に犯したくなる」脳裏に響くその言葉もいまは意味など考えられない。
彼はぐいとあたしの足を開いた。彼との繋がりを目の辺りにして、あたしは興奮した。「こ、んな風になるんだね……っ」
「へぇ、そんなこと言えんのか、まだ余裕じゃん」「よ、ゆうなんて」「まだいけるんだ?」「ちがっ……」
彼があたしの中に一気に吐き出す。熱い。あんまりだ。こんな時まで苛めるなんて。あたしは快楽のあまり意識を無くした。
「おい」
「コロボックル」
「……いい加減機嫌直してくれよ」
あたしはそっぽを向いたまま。知らない振りをしてみせる。
目を覚ました頃には既に日は落ちかけていた。夜が始まろうとしている。
「おーい、マウスちゃん」「悪かったってば」「こっち向けよ」
あたし達は裸のまま、攻防を続けていた。無言のままつーんと顔を背けるあたしに彼はひたすら謝り続ける。
心の中で考えるのはこれからのこと。さて、どうやってやり返してやろう。先手は打たれてしまったけれど、でも、次はあたしの番だ。
「はぐみ」
優しい声色にあたしはときめく。こういう時に名前を呼ぶのはずるい。ホントにずるいひとだ。
「こっち向けって、……もうしないから」
「……嘘ばっかり」
あたしは笑って彼に向き直った。夜が始まる。あたし達も、まだまだこれからなのだ。