駐車場を歩いていると、エントランスから美和子さんと山崎さんが走ってくるのが見えた。
二人とも、私に気づいて一瞬立ち止まり、困ったような顔を浮かべる。今日は美和子さんと
三時に約束をしていたのだ。
「山田さん、ごめんね。急なトラブル発生でフォローに行かなくちゃいけないの。せっかく
新作持ってきてくれたのに、悪いわね」
「いいですよ、事務所のどなたかに渡しておきますから」
「野宮がいるから、彼に渡してくれる?話もしてあるから」
ドキン…。心臓が跳ねる音がした。普段の美和子さんならそんな私の表情をすばやく読み
取ってからかうのだけれど、今日はそんな余裕もないようで時計と私を見比べ、しきりに謝り
ながらもヒールも音も高らかに、車に乗り込んでいってしまった。
エレベータに乗ると、ますます心臓の音が大きくなって、気が滅入る。野宮さんに会うのが
イヤなのだ。イヤというのは語弊があるかもしれないけれど、とにかく、野宮さんは会うたび
に私をからかったり、考えていることを見透かしたり、心を抉ったりするのだ。
自分でも見ないようにして隠していた秘密の場所までこじ開ける勢いで。
「こんにちは、山田です。頼まれていた花器をお持ちしました」
「ああ山田さん、美和子さんから聞いてるよ、ごくろうさん」
私がドアを開けるのを待ち構えていたように野宮さんは立っていて、ごく自然な動作で私の
持っていた花器の入った箱を持ってくれた。
「下で美和子さんと山崎に会った?さっき業者から届いた見積もりが全然違っててさ、もう
パニックになっちゃって」
見ると、応接スペースには食べかけのケーキと、まだ飲んでもいない湯気の立ち上る紅茶が
置いてあって、二人の慌しさが目に浮んだ。
「大変なんですね。野宮さんは行かなくていいんですか?」
「ああ、オレは今回別のプロジェクトだからね。なに山田さん、オレもいない方がよかった?」
「そ、そういうことじゃなくて…」
「なら、お茶飲んでいかない?ケーキもたくさん余ってるし」
「でも…」
断る口実を探してみたけど、野宮さんに背中を押されてそのまま椅子に座ってしまった。
野宮さんは不思議な人だ。強引なのに、押し付けがましくない。私より年齢も上で人生
経験も豊富な大人なのに、笑うと子供みたいにくしゃくしゃになる。それを見ると、仕方
ないな、って負けてしまう。
部屋に紅茶のいい香りが漂う。向き合って何を話すでもなく、二人で黙々とケーキを食べる。
何を話していいのか分からない。野宮さんの方から話を振ってくれてもいいのに。最近どう?
とか。大人のクセにこうして私をおもちゃにして遊ぶんだ。
「あの、リーダーは?」
沈黙に耐えかねて、ついに私のほうから口を開いてしまった。野宮さんは勝ったとでも
言いたげに満足そうに笑う。
「リーダーね、今入院中なんだ。昨日割れたガラスの上を歩いちゃってね、ザックリと」
「えっ!大丈夫なんですか?」
「今日一日病院で安静にしてるよ。明日迎えに行かなくちゃな」
リーダーまでいないとなると、ますます話の接ぎ穂が見当たらない。どうしよう。残る
なんて言わなきゃよかった。相変わらず野宮さんはニヤニヤ笑ってこっちをみている。
と、その時だった。
「ちーす。美和子さんいますか?」
沈黙を破るように真山の声がした。ここを辞めてずいぶんたつのに、まるで自分の会社に
戻ってきたかのような気楽さで真山はやってきた。私と野宮さんを見て、一瞬ギョッとする。
「山田…きてたのか」
「ああ、前から頼んでいたヤツを届けてくれたんだ。美和子さんならさっき出て行ったぞ」
真山の闖入で、ようやく静まり返っていた事務所に活気が訪れた。二人が仕事の話を
始めたのを幸い、私は荷物を持って立ち上がった。
「じゃあ、私帰ります。ご馳走さまでした」
「え?まだいいじゃん。ケーキも全然食べてないじゃん」
横で真山が困ったような顔をしている。私以上に気まずいんだろう。帰ってくれ、という
視線を送っているのが分かる。
私は荷物を置いて座った。何よ。真山一人困ったような顔しちゃって。アンタは困る
だろうけど、私は…会えて嬉しいんだから。
「じゃ、真山の分のちゃーも入れてやるか」
野宮さんが席を立って給湯室に向かうと、真山は私の耳に顔を寄せてきた。
「なんで帰らないんだよ!また野宮さんに振り回されてもしらないぞ」
「…!」
顔が。声が。息が。真山の顔が近い。お腹に響く声が、タバコとコーヒーの香りの混じった
息が、私の目の前に降り注ぐ。
「なによ…真山のバカッ!」
私は逃げるように立ち上がり、給湯室に走った。
真山のバカッ。私のこと好きでもないくせに、心配なんてしないでよ。優しくされると
諦められなくなるじゃない。
イヤだ。なんで私はこんなに醜いんだろう。
「野宮さん、お茶は私が入れるから戻って下さい」
私は給湯室でお湯を沸かしている野宮さんから、強引にカップを奪い取った。
「なに、どしたの山田さん」
無言でカップを水で洗い、悲鳴を上げ始めたヤカンを止め、ポットに移し変える。
野宮さんは戻らずに、狭い給湯室の出入り口に寄りかかって、私の事を見てる。ああ、
またきっと全部見透かされてしまうのだろう。でも、もう隠すのも疲れてしまった。
「…山田さんてさぁ、ホント諦め悪いよね」
言わないで。
「まだ希望を捨ててないの?」
お願いだから、私の心を抉らないで。
「でもさあ、真山はリカさんのこと諦めないよ。山田さんが真山のこと諦めないのと一緒」
堪えきれずにしゃがみこんだ。
分かってる。真山がどれだけリカさんを想っているか。真山が困ってること知っていて、
気持ちが向かないことも知っていて、それでも諦められなくて遠くから見ている私。
醜くて情けない私。
分かっているの。なのに、どうしても止められないの。
「山田さん…」
野宮さんが労わるかのように私の肩に手を置いた。いけないとは分かっていて、私は
その手にすがってしまった。
「ごめんなさい、今だけ、お願い…」
「…うん」
私は野宮さんにしがみつき、音を立てずに泣いた。野宮さんはまるで子供をあやすように
背中をさすってくれた。どれだけそうしていただろうか、時間にすれば一分もなかったかも
知れない。私はゆっくりと顔を上げた。野宮さんがぷっと笑う。
「…涙と鼻水でグシャグシャ」
「分かってますっ。こんなひどい顔、誰にも見せられない」
「オレには見せてくれたじゃん。真山じゃなくて、オレに」
ゆっくりと野宮さんの顔が近づき、頬に唇が軽く触れた。頬から鼻のてっぺん、こめかみ
とキスをされ、まぶたに吐息がかかったとき、おっかなびっくり目を閉じた。熱を感じたのは
目ではなくて唇だった。
初めてのキスは、紅茶とタバコの香りが混じったキスだった。男の人と手を繋いだことすら
ない私は、ひたすら唇をかみ締めたまま野宮さんの腕を掴む。目だって、閉じてると言えば
聞こえはいいけれど、注射される寸前に目をギュッとつぶる子供と同じだった。
野宮さんは少し唇をずらしたりしながら、私の背を撫ぜたり指に髪を絡ませたりしている。
多分ガキだなぁ、と思っているんだろうな。
やがて、野宮さんの方から唇を離した。
「キスは初めて?」
「きっ、聞かないで下さい」
「もし初めてだったら、最初からイロイロハードにしたら驚くかなって」
「こ、子供扱いしないで下さい」
「じゃあ、いいの?」
野宮さんの顔が変わった。今までの優しそうな顔から、一転して真面目な表情になる。
よけいなこと言っちゃったと思っても、今更後には引けない。私は頷いた。
私が頷いたのをみて、野宮さんはメガネを外して流し台の上に置いた。メガネのない野宮
さんは別人みたいに大人っぽくて、思わず息を呑んでしまった。
「なに?惚れた?メガネない方がいい?」
「別に、その…」
もう顔も見れなくて俯く。けれど野宮さんは強引に顎を持ち上げて唇を重ねてきた。
「…っ?」
さっきまでの優しいキスとは全然違い、全てを吸い尽くすかのような激しいキスだった。
振りほどこうにも、ものすごい力で抱きしめられて身動きが取れない。容赦なく野宮さんは
私の唇を吸い、必死で閉じている歯列から、強引に舌を差し入れてきた。
舌の先が触れる。ビクンと、体中に電撃が走る。
「んんッ」
眉を寄せて首を振ったけど、野宮さんは容赦しない。それどころか、舌を絡ませ、唾液を
送り込んでくる。目を閉じているはずなのに、目の前にチカチカと星が見えた。
「逃げないで山田さんも舌、出してよ」
野宮さんの言葉に、私ボンヤリと頷いて舌を伸ばした。蛇のように絡み合い、恥ずかしい
音を立てる。
「ア…ッ、ハァッ、ハァ…」
お腹の底から搾り出すような吐息が耳朶を打つ。自分の吐息なのに、耳障りなほど大きい。
クラクラと眩暈がして、野宮さんの腕を掴む手も緩んでしまう。
激しいキスで呼吸すらままならず、飲み込めない唾液がポタポタと床に零れ落ちる。
ようやく野宮さんが唇を離してくれた。私はまるで呆けたように目と口を半開きにして、
そのまま壁にもたれかかるようにして床にお尻を落とした。
「あ…お茶…真山が、待って…」
呆けた頭で何とか思い出し、壁に手をついて立ち上がろうとした私を、野宮さんが止める。
「そんな顔で真山の前に出るの?いかにもヤッてましたって顔してるよ?顔は赤いし、目も
口元もトロンとしてる。何より、オレの匂いが付いてる」
「ヤッてたワケじゃ…んんっ」
強引に私を壁に押し付けて、野宮さんは首筋に唇を這わせてきた。それだけで体中から
力が抜けてしまう。立ち上がろうとした私は、結局また床に座り込んでしまった。
抵抗しないと分かったのか、野宮さんの手が体中をまさぐり始めた。掌から肩、そして
ゆっくりと胸へと…。
「あ…」
野宮さんの手が、私の胸をまさぐる。まるで初めから決まっていたかのように野宮さんの
掌は、私の胸にあっていた。確かめるように掌で包み込み、そして次第に上下左右に揉んでくる。
今まで全く経験のなかった感触に、私は耐え切れず声を上げた。
「だめぇ…そんな、ア…ンンッ」
「可愛い声で泣くんだね。でもいいの?真山に聞こえるよ」
そうだ。扉一枚向こうには、真山がいる。冷水を浴びせられたかのように、目が覚める。
野宮さんを押しのけようとするけど、力が強くて押し返せない。
「野宮さん、ダメ、やめて下さい」
「ダーメ。今更ハイやめと言われてやめられるわけないよ」
気のせいか、野宮さんの顔がほんのりと上気して、息もいくらか荒くなっている。首筋に
唇を這わせながら、野宮さんの手が、器用にブラウスのボタンを外していく。くすぐったくて
ヘンな感じがして、押しのけようとしたのに、いつの間にか野宮さんの頭を抱きしめていた。
私…おかしくなったのかもしれない。扉一枚向こうに大好きな真山がいるのに、こんな
ところで野宮さんとこんなことしてるなんて…。
ブラウスのボタンを外し、ブラをたくし上げる。誰にも見せたことのない胸が零れ落ちる。
「や…恥ずかしい」
「隠さないで。綺麗だよ」
「あ…ん!」
野宮さんが唇を這わせてきた。外気に触れてぞくりと鳥肌が立つ。膨らみの部分を手で
捏ねながら、徐々に唇を中央の突起に向けて這わせてくる。じらすように、徐々に。
「ああ…っ」
ようやく乳首が野宮さんの唇に収まったとき、私は歓喜の声を上げて野宮さんを掻き
抱いていた。どうしよう。気持ちイイ。止まらない。私どうしちゃったの?
「乳首、感じるんだ?」
「ン…ッ、んふぅ…」
声を漏らさぬように唇をかみ締めていても、鼻にかかった吐息は漏れてしまう。
「これでも咥えてて。噛んでもいいから」
そう言って野宮さんが私の口の中に突っ込んだものは、彼の親指だった。
「あう…」
舌先に野宮さんの匂いを感じる。野宮さんの指を丁寧に嘗めしゃぶり、頬をすぼませて
吸い尽くす。こんなこと経験もないし知らなかったのに。なのに野宮さんが顔を切なげに
歪めるのを見て、これが正しいんだって分かる。
野宮さんは片手で胸をまさぐり、唇で乳首を愛撫する。その感触はまるで羽毛に撫ぜられて
いるかのようにとろけそうで、何も考えられずに身を委ねてしまう。
「ん、んんぅ…ッ」
指が喉の奥まで突っ込まれ、激しく前後に出し入れされる。なんだか、野宮さんのアレを
想像させる。口ですることもあるって、誰かから聞いたことある。前の私なら汚いと思った
だろうけど、今ならきっと躊躇いなく口に運べると思う。
私は視線を野宮さんの下腹部に向けた。よく分からないけど、その部分が少し膨らんで
いるような気がする。視線に気づいて、野宮さんが首筋に回されていた私の手を取り、
ゆっくりと下腹部にあてがった。布地越しに、ソレは痛々しいほど存在を主張している。
「興味ある?」
返事をする代わりに、私は野宮さんにキスをした。自ら舌を絡ませていることに驚く。
野宮さんの手が、私の下腹部に手を伸ばそうとする。
と、その時だった。
「山田?お茶入れるのにいつまでかかってるんだよ。野宮さんも、あんまり山田をからかわ
ないでくださいよ」
真山の声が近づいている。私たちは弾かれるように体を離した。
「ヤベッ、つい止まらなくて暴走しちまった」
「ど、ど、どうしよう」
手が震えてブラウスのボタンがしまらないし、立ち上がろうにも腰が抜けて立てない。
ドアの曇りガラスに真山の影が見える。私は野宮さんの手を強く握った。かちりとノブが
回される音が驚くくらい大きい。野宮さんが私を庇うようにして立ち上がる。もうだめだ、
目をつぶったそのとき。
RRR…RRR…
事務所に電話が鳴り響いた。真山の足音が遠ざかり、受話器をとる音がする。
「はいこちら藤原デザイ…、あ、美和子さん。はい、真山です。今野宮さんは席外して…。
え?デスクの上にある紙?FAXすればいいんですね。ちょっと待ってくださいね」
私たちは強く手を握り合ったまま、見詰め合う。
「…ギリギリセーフ?」
「…ですね」
そして小さく噴出した。
「おっと笑ってる場合じゃない。山田さん、今日はもう帰りな。今真山と会ったら、
オレ真山に殺されるわ」
「え?」
野宮さんは私を強引にエレベータ前までひっぱって行く。確かに今、真山と会ったら私は
冷静じゃいられない。でも…。
「今の、どういう意味ですか?」
エレベータに乗り込む前に尋ねてみた。野宮さんは一瞬言葉に詰まり、ソッポ向いた後に
しまり掛けたエレベータを抑えて私の耳元で囁いた。
「フェロモンでまくり。いかにも今ヤッてましたってオーラ全開」
そして短いキスを一つ。
「続きは今度ね」
野宮さんが身を引くとエレベータは閉まり、そのまま下へと動き出した。
一人になっても、体中に野宮さんの匂いが染み付いているような気がした。肌、髪に服に。
不思議なことに、その匂いがなぜか心地よい。
「続き…あるのかな」
体の奥は今まで経験したことのない、不思議な熱さが身を焼いていた。