「遅いな、真山…」  
 
頬杖をついて、ふぅ、と溜息を吐き見上げた古びた掛け時計は、約束の時間よりも30分程進んだ場所を指していた。  
それでも、私は何故だかそわそわと嬉しいような気持ちでいっぱいだった。  
 
私は今日、真山と打ち合わせをする予定だった。  
藤原デザインの新しいプロジェクトで店舗をまるまる企画・設計するらしくて、その店舗に私が作った花器を使いたいのだそうで。  
美和子さんが前に私の作品を見て、是非にと言ってくれたのだ、と真山が話していた。  
自分の作品が誰かの目に留まるって、何だかくすぐったいような、でも、凄く嬉しい。  
本当は、真山との接点が保てるから、って気持ちもある。それは内緒だけどね。  
 
この企画の店内装飾担当は野宮さんなのだけれど、真山は気を遣ってくれたのか、自分が交渉します、と説得した(というかねじ伏せた)らしい。  
 
正直、野宮さんは苦手。あの人は凄く大人で、だからなのかは解らないけれど、私の気持ちを見透かしてくるんだもの。  
だから真山の気遣いは嬉しかった。それだけじゃなくて、久々に真山と二人きりで話せるのも、ね。  
 
「お待たせ。」  
扉が開き、彼の声がした。  
 
──ん?真山の声にしてはやけに穏やかなような…  
 
疑問符で頭の中がいっぱいになった私の前に現れたのは、私の苦手な野宮さんその人だった。  
 
「のっののの…野宮さん…?」  
椅子に座ったままだったのに反射的に思いっ切り後ずさりした私を見て、野宮さんは口元を押さえて苦笑いしている。  
「そんなに警戒しなくたって、流石のオレでもいきなり襲ったりなんかしないよ?」  
余裕の笑みまで浮かべちゃって。あーやだやだっ。  
 
「……、また長野まで連れてかれたら、困りますから」  
精一杯の反撃を試みる。眉根は弱々しくも寄せられ、一応は気丈にしかめっ面しているつもり。  
 
不意に頭にその大きな手のひらを乗せられ、ぽんぽん、と軽く撫でられた。  
「あれはちょっとやりすぎたかな、ごめん。そんな顔しないで」  
穏やかに笑いながらそんな事をさらりという。そんな風に謝られて、許せない訳ないじゃない──やっぱり苦手だ、野宮さん。  
全部計算なのかしら。いくらなんでもそれはないかな。  
いや、野宮さんなら有りうるかも…  
──とうだうだ考えていると、ふと思い出した。  
 
思い出した事を訊ねてみる。あまりの衝撃に本来の目的を忘れる所だったわ。  
 
「……あの。今日は真山が来るはずじゃ…?」  
そう、何で野宮さんが来たの?  
あれだけ野宮さんに近づくなって言ってた真山がそうやすやすと代わったりはしない筈。  
 
「真山?ああ、あいつは今日は出張になったんだ。でもこのプロジェクトはそんなに期日にゆとりもないし、元の担当はオレだからさ。話もスムーズに進むでしょ?」  
野宮さんはそう話しながら私の近くにあった椅子に腰掛けながら、抱えてた書類やら何やらの入った封筒をばさりと置いた。  
何故か笑顔が勝ち誇ったように見えるのは気のせいかしら。それに、少し悔しい気もするけど、言ってる事は的を射ている。  
 
そっか、真山出張なんだ…何か残念。  
「そうですか…じゃ、早く始めましょう?」  
真山来ないんだったら手早く済ませて、はぐちゃんとティーコゼーのプックン2号の仕上げをしよう。と思っていたら。  
 
「分かりやすいなぁ、山田さんって。思ってる事がすぐ顔に出るよね」  
と、不意に左頬に指先の感触。  
野宮さんがあの余裕の笑顔を浮かべながら触れていた。  
思っていたより暖かい野宮さんの指。その温もりに一瞬反撃の思考まで止まった。  
 
「何も本気でぶたなくても…」  
野宮さんの手を振り払った私は、反射的に思いっ切りその手の甲をぶってしまった。  
「すっ…すみません!」  
しまった。かっとなってつい手足が出てしまうのは私の悪い癖だ(でも…悪いのは急に触った野宮さんなんだから!)。  
ぺこんと頭を下げ、恐る恐る顔を上げる。  
そんな事をされても、野宮さんは苦笑いと言えど笑みを絶やさない。  
──この人は怒ったりしないのかしら。にこにこしている野宮さんを少し呆れつつ見遣り、疑問を感じた。  
 
「ごめんごめん。じゃあさ……お詫びにメシでも喰いながら打ち合わせしない?」  
「もうその手には乗りません」  
きっぱり即答、のち、沈黙。  
 
 
暫くすると野宮さんがくつくつと笑い、机に頬杖をついて眼鏡の奥の瞳を細めてこう言った。  
「やっぱ山田さん面白いわ。そんなに真山に釘刺されてんの?」  
「違っ…います、別にそんなんじゃあ…」半分図星を突かれて、とっさに言葉が出てこない。  
だめだめっ、ちゃんと断らなきゃだめ!真山だって気をつけろって言ってたし、  
しっかりしなきゃ…と思えば思う程、言葉がどんどん思考の奥に吸い込まれてく。  
 
「…じゃ、いいじゃん。行こうよ、メシ喰いながら打ち合わせするだけだしさ」  
──この人、私の思考回路を読めてるんじゃないかしら。  
じゃなきゃこんなに答える余裕を与えてくれない話し方する筈ないもの。  
 
野宮さんは置いた書類を纏めて立ち上がると、私の手を誘うようにその大きな手を差し出した。  
「ね、真山じゃなくて悪いけどさ。」  
 
…今回だけ、打ち合わせなんだし仕方ないもん。  
お仕事なんだしゴネたって仕方ないし。私も大人になって割り切らなきゃ。  
そう自分に言い聞かせながら、しかめっ面の私は野宮さんの差し出した手を無視して立ち上がった。  
所在無げに漂う手をすっと引いたかと思えば、やっぱりにこにこしながら  
「美味しい店知ってるんだ」  
とか言いながら颯爽と歩いていく野宮さん。  
そんな彼の後を付いて行くしか、今の私には思いつかなかった。  
 

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