めずらしいな、と彼は思った。  
 彼女が自分よりも早くに起きていないなんてことは長いこと一緒にいるが殆どなかったから。  
 彼の名前はニケという。職業は盗賊。実際はプー同然。何故かと言えば平和な世界で彼の技術が役に立つことと言えば、鍵を忘れて困っている人の家に行って鍵を開けるという様なことくらいだからだ。  
 それでも生活できているのはひとえにここが人々の言う理想郷だから。  
 食べ物は豊富で、争いもなく、温暖な理想郷。  
 退屈な天国。  
 ニケは刺激がないと生きていけないタイプではないから、その場に合わせてのらりくらりとやっていた。  
 それに、刺激なら一応あるし。  
 なんともいえない表情でニケがドアを見る。ドアにはプレートが掛かっていて、ククリ、とファンシーな文字で書かれている。  
 一年前に“下界”へ旅行に行ったときに旅先で3枚作ったうちの一つだ。  
 もう一枚はニケの部屋のドアにメタリックカラーで『NIKE』と記されていた。  
 ……あともう一枚は……  
 この家の玄関に『ニケとククリのおうち』と彩られてぶら下がってたりする。  
 「もうじき一年になるな」  
 ダイニングテーブルに頭を預けて呟いた。  
 彼女と暮らし始めて一年が経つ。いわゆる結婚つーものをしたのではない。もっと幼くて、ままごとの延長みたいな、そういう生活。自分たちがしてきた冒険の続きをしてるみたいな。  
 この関係がいいものかどうかはニケにはよくわからない。友人に何故そうするのか?と幾度となく尋ねられたが、明確に答えることはついぞ出来なかった。  
 ククリが寂しがるから。これが自然だから。何かあったらすぐに二人で動けるから。  
 頭の中でわだかまる言い訳じみた答えが浮かんでは消えて胸を悪くする。  
 なんだろう、嫌な感じ。  
 ときどき顔を出すレイドが彼女を連れてどこかへ行くのを見てるような。  
 あんなに彼女の身体を抱きしめたのに、まだ足りないような飢えた感覚が残っている。  
 
 彼女はてくてく歩いている。  
 気付いたときにはもう既に道を歩いていた。よく知った帰り道、自分たちの住む家への道。  
 彼女の名前はククリという。職業は魔法使い。実際は見習い。今まで使えていた魔法は封印されてしまったので、新しく闇魔法を習得せんと目下修行中の毎日だ。  
 平和極まるこの世界で攻撃を主とした闇魔法を習得することに違和感はあったが、光魔法は系統が違うので使えないし、占いなんかの基礎になっている理論は同じなので特に気にしないことにした。  
 それに火の魔法とか、お料理に便利だし。  
 にこにこしながら自分の手を見る。呪文を唱えて炎を具現化させた。  
 安定した火がちろちろと数秒だけ現れて消える。  
 「今日の夕ご飯はなににしようかなぁ」  
 次第に見えてきた自分の家。レンガの家の玄関先には色とりどりの文字がちりばめられたプレートが下がっている。  
 『ククリのおうち』  
 ククリはそれを見てそのまま家に入ったが、数呼吸置いてどたばたと玄関先に戻ってきた。  
 「勇者様の名前がない!」  
 プレートは二人で作った。自分の名前を自分で貼って。なのに彼の名前の部分の空間さえなかった。  
 嫌な予感がしたのか、ククリは家に戻って自分の部屋のプレートを確認する。『ククリ』。ちゃんとある。  
 振り返ってダイニングの突き当たりにある彼の部屋にゆっくり視線を移す。  
 そこにはドアさえなかった。  
 「ゆーしゃさまが消えたー!!」  
 ダイコンランですダイコンランです。耳元で妖精が大根を持って踊っているのにも構ってられない。  
 「いやー!食器があたしのだけー!勇者様のお風呂アヒルがないー!歯ブラシもないー!」  
 部屋中をかき回してククリが混乱したまま片手にスリッパ、片手にエプロン、頭に伝説の鍋、とよく分からない格好で走り回っていると、ククリは何かに足を取られてけつまづいた。  
 ごん!  
 頭にかぶっていた伝説の鍋と床が大きな音を立て、ククリはその音に気を失った。  
 
 目が覚めるとベッドの中にいた。夢か、とククリは目を擦ってベッドから降りる。ぼんやりする視界はなつかしの我が家。魔法理論の古い教科書と、おばあちゃんの作ってくれたキルト地のベッドカバー。  
 「……ベッドカバー?」  
 振り返ってドアの方を見る。大きな姿見に映る自分の姿は3年前に見慣れていたピンク色の寝巻きを纏っていた。  
 「わ、若返ってる――――――!!」  
 声なき声で引きつっていると、物音を聞きつけたおばばが何事かとドアをあけ顔を出した。  
 「ククリや、起きたなら顔を洗っておいで」  
 懐かしい目線の高さにあるおばばの顔は、いつかと同じように笑っている。  
 どうなってるのどうなってるのわからないわからない。ククリが固まりながらパニックを起こしていると、怪訝な表情でおばばが彼女の顔を覗き込んではっとした表情になった。  
 「お前さま、ククリじゃないね。どこから来たんだい?」  
 「ちっ違う!わたし本物のククリよ!正真正銘のククリなんだけど、中身だけもっと後のククリで、つまり今ここに居るのはククリなんだけど多分おばーちゃんの知ってるククリじゃなくて」  
 頭の中がぐるぐるして気持ち悪い。自分の中に巣食う違和感を他人に説明できない焦燥だけが全身を急かしている。苛立ちが支配して動けないククリの頭をおばばは何度かゆっくり撫で、そうかい、と小声で言った。  
 「わたしにゃよくわからないが、お前さまがそう言うのならそうなのだろう。  
 でも私にはあの子が必要なんだ。どうか返しておくれでないか。お前さまの居るべき場所はここではなかろう」  
 お前さまを待つ人の所へ帰るがいい。  
 おばばにそう言われ、ククリは全身が軋むような音を聞いた。そうだ、帰らなければ。大切なあの人の下へ。あの人の所へ……でも、それはどこ?あの人って誰?  
 体の隅々までくまなく走る焦燥感はどんどん加速してゆくのに、記憶がどんどん断片化して手におえない喪失を実感する。  
 帰らなきゃ、帰らなきゃ……でも、一体どこへ?  
 
 はっと気付くとそこはどこかの町の広場のようで、小さな子供が母親と遊び、野良仕事を一段落させた夫婦が昼食を取っていた。  
 ククリはきょときょとと合点が行かない様子であたりを見回していたが、見慣れぬ風景よりも自分の着ている服に驚いた。  
 「こっこれは……闇魔法結社の教祖さま衣装!!」  
 あの馬鹿馬鹿しい歌が蘇ってくるような気がして身震いすると、不意に背中から誰かに声をかけられる。しかも、聞き慣れた、あの、大好きな、声で。  
 「ククリさまククリさま、どうかお祈りをさせてください」  
 振り向くとそこに居たのは……予想と寸部違わぬ金髪の、よく見知った釣り目の少年だったのだ。  
 「ゆ、ゆーしゃさま!!」  
 思わず声を上げるククリに、少年はきょとんとした顔をしてから少し微笑んで訂正する。  
 「??勇者さま?いえいえそんな大それた方じゃありません。オレはジミナ村のニケといいます。ククリ様の話はオレの村にも伝わっていて、今日はお祈りに来たんですよ」  
 淀みなく使う敬語はククリにとってひどい違和感と絶望をもたらしたが、それに気付く様子もなく、少年は一心に祈りを捧げている。  
 「……ゆ、ゆーしゃさまじゃないの?」  
 「へ?……えーと……オレは魔法使いになる修行をしながら旅をしているだけで……大体勇者ってガラじゃないですよ」  
 あはははと声を上げて笑って、お探しの方と早く会えるといいですねと言葉を残して少年は一礼の後にすたすたとどこかへ向かって歩き出した。  
 呆然とその背中を見送るククリが放心から立ち直った時には、既にその姿はなかった。  
 「ゆ…ゆーしゃさ…ま…ぁ………」  
 ……置いてかないでよ…置いてかないで、ククリのこと、知らないなんて言わないで……ククリ様なんて呼ばないでよぉ……  
 拭き取る間もなく次から次に涙が溢れ出てくる。止まらない熱い雫が教祖の衣装を濡らして、地面には丸い水滴の跡がいくつも砕けていた。  
 ククリはそれを見て、こんなに悲しい水玉模様はないと思った。  
 
 ゆっくり目を覚ますとそこは何かの乗り物の中だった。次第に冴えてくる頭の中とは別に、ぼんやりする視界はなかなか拓けない。  
 自分の手元を見るとプラトー教の十字架を握り締めていて、着ている服は真っ黒で上等なビロードのワンピース。  
 「……今度は何の夢なの……」  
 独りごちてククリが顔を上げると、そこにはたくさんの見知った顔が同じように俯いて並んでいた。  
 ジュジュやトマはもちろん、魔法おばばやニケの両親までいて、遠くにはあのキタキタ親父さえ仕立てのいい黒いスーツを着て座っている。  
 何事かと声を上げようとしたら、後ろの席から声をかけられた。  
 「ククリちゃん、もうじきお墓に着くわ。危ないから座ってなさいな」  
 振り向くと蛇のおねーさんがエキゾチックでオリエンタルな切れ長の瞳で優しく笑っている。  
 「……お墓?」  
 「そうよ、ニケくんが眠る場所」  
 それだけ言うとルンルンは口を噤んでまた俯いてしまう。乗り物の中の雰囲気はずーんと重くておまけにじっとり湿っぽくて、とてもそれ以上声を出すことなど出来そうもない。  
 『勇者様のお墓ですって?どうして?ここはどこ?どうしてヘンなことばかり起こるの?』  
 大混乱したククリが頭を抱えていると、乗り物は目的の場所に到着したようで、みんながゾロゾロと乗り物の外に出てゆく。ククリはそれを放心の表情のまま目で追っていると、乗り物の窓から皆が集まる光景が見えた。  
 “勇者ニケに永遠の安らかなる休息を与えたまえ”  
 誰かの甲高く耳障りな声が聞こえ、大勢の人の声がそれに続く。誰もククリがその場に居ないことさえ気付いていないかのように。  
 ククリはそれをぼんやりぼんやり眺めながら、きっとみんなの足元には大きな穴があって、そこには勇者様の入っている黒い棺桶があって、最後はみんなでそこに土をかけるのだろうなと痺れる頭の端っこで思っていた。  
 
 「どうしてこんな悲しいことばかり起こるの?」  
 そんな自分の声に驚いて目を覚ますと、そこは彼と住む自分の家の自分の部屋だった。頭がうまく働かない。体がだるい。口の中が塩辛い。顔が痛い。手で頬を拭うとべったりと塩水で手の甲がびしょぬれになった。  
 泣いていたのか。ククリがそう理解するまでに数秒を要する。ようやく納得したところでふと隣をみると、くすんだ金髪の少年が大口を開けて寝ていた。  
 「……今度はどんないやな夢?」  
 沈みきったその声が部屋中に細かく乱反響して砕け散ったのを最後に、少年のいびきだけが聞こえるだけになった。  
 「今度は勇者様は生きてちゃんと隣に居るのね」  
 ほっとしながらも揺り起こそうとするククリの手が止まる。触れたら消えてしまわないだろうか、果たして起きるのだろうか、もしかしたら別人ではなかろうか。  
 もし、もしそんなことが起こったら――――――もう立ち直れないかもしれないな、とククリは手を引っ込めて彼の幸せそうな寝顔を凝視する。  
 自分はきっとこの人が居なきゃダメだ。ダメなのだ。  
 ずっと先送りにしていた答えの殻がククリの中で弾け飛んだ。面白おかしい冒険の延長じゃもうダメなんだ、自分の心が決着をつけなければいけないと言ってる。ぬるま湯の先にあるのは悪夢だと。  
 でも怖いの、でも勇気が出ないの。グルグルを封印されて、もうあたし普通の女の子だから……嫌われたらどうしよう!  
 零れた落涙がニケの手に降る。ぱらぱら、ぽとぽと、たくさん落ちる。  
 不意に彼の手がぬっと持ち上がって彼女の頬に触れた。  
 「――――――何―――泣いてんだ?」  
 驚いて声のするほうを見ると、あの声で、あの声で、あの顔で、ニケが億劫そうにククリを見ている。まだ眠気が残っているのか、ぼーっとした調子でククリの頬に流れる涙を拭った。  
 「……ゆ…ゆうしゃさまぁ……」  
 ふえーん、と泣き出したククリが寝そべるニケを押し倒すような格好で彼の胸に飛び込んだ。ニケはなんだなんだと内心多少は動揺したが、寸分もそんな素振りは見せない。  
 「さては怖い夢でも見たな。」  
 
 「そんでね、次はね、勇者様のお葬式でね……」  
 ククリがしゃくり上げながらニケに細かく話をする。恐怖と悪夢の。  
 うん、うん。頭を撫でながらぼんやりぼんやりニケがククリの話に相槌を打ち、背中をさする。  
 「怖かったの、とっても怖かった」  
 震える声で何度も恐怖を訴える彼女の長い三つ編みを弄びながら、ニケは彼女の口からふっとつい出た言葉に赤面した。  
 「……そういえば勇者様どーしてククリの部屋で寝てるの?」  
 「へぁっ!?……いやっ!そのー……あの!えと!」  
 【ゆうしゃはこんらんしている!】  
 「違うんだよ!なんつーか!ホラ、二度寝とかしようかなって思って!いつもならククリが先に起きてるじゃん?起きてこないから一応起こしてからーと思ったらククリが気持ちよさそーに寝てるからもうなんかめんどくさくなってー」  
 アワアワしながら弁明する彼の身振り手振りが大げさで、ククリはさっきまでの泣き顔もどこへやら。思わず吹き出してしまう。  
 「ヘンな勇者様。  
 一緒に寝るのなんか……初めてじゃないのに」  
 ぽっと染まった頬を両手で覆いながら、少女が伏せ目がちにそんな事を言い出すので、少年は更に赤面が激化してしまった。もう二人でベッドの上で食べごろのトマトのように真っ赤に熟している。  
 「だって、ほら…朝っぱらだし」  
 ニケが言葉を慎重に切って呟くように囁くようにククリの耳に残した。ククリはその消えないセリフがくすぐったくて恥ずかしくて……嬉しい。  
 「……勇者様……朝だけど……えっち、する?」  
 少し首をかしげた上目遣いで囁き返したククリがネグリジェの裾を4センチだけ持ち上げふくらはぎを露出させ、彼女精一杯の“ゆーわく”をする。  
 「――――――――――――する」  
 ニケが4センチだけ持ち上げられたネグリジェの裾から手を滑り込ませてふわふわ温かい太ももに、冷たい手で触れた。  
 「あっ…………やん、もう脱がす気なのぉ?」  
 
 綿の胸元を結んでいる紐の片方をゆっくり引っ張る。しゅるしゅるしゅると布の擦れ合う音が酷く耳につく。  
 その音に急かされるように心臓の鼓動が大きく波打つので、ククリは心臓に鎮まれ静まれと何度も命令をする。どうかこの音が勇者様に聞こえませんように!  
 「……なんかいつもより、緊張してない?」  
 「――――――あ、明るいんだもん」  
 ニケの言葉に素直に答えたククリは更に身を縮めるようにぎゅっと目を閉じて息を止めた。  
 それも無理はないことで、二人がこのような行為をするときはカーテンは愚か雨戸や部屋のドアに鍵まで掛けて、まさしく秘め事という風に行うのが常であった。  
 「一番最初…風呂でしたとき明るかったじゃん。  
 ……実はおれ明るい方がすきなんだよね……ククリのエッチな顔が見れるし、明るい方が……興奮しない?」  
 「しないよッ」  
 「……そうそう、そういう顔が見たいの、おれ」  
 くっくっくっく……忍び笑いが紐を辿ってククリに伝わる。彼女はその振動にさえ戦慄した。  
 「あッ……や、くすぐったい」  
 掠れるささやき声に気をよくしたニケが首筋に手を伸ばして、手入れされた栗色の長い髪の毛を梳く。彼女がそれをくすぐったがることをよく知っていたから。  
 「あっあっあっ…やだ、もう、それしないって約束なのに…ぃ」  
 髪を少し引っ張ったり、地肌を指でなぞったり、耳の後ろに自分の髪を当てたりすると、彼女の体がビクビクと正直に、律儀に、敏感に反応する。ニケはそれを見ているのが好きだった。もしかすると、彼女と一つになるよりも。  
 「あっ……ああっ……はぁ、ぁ…ぁはァァ…!」  
 もしも始めからベッドに横たわっていなければ、もうとっくに腰砕けになって崩れ去っていたに違いない。ぎゅっと少女に握られているシーツのシワが深いことを確かめる彼は満足げだった。  
 「まだネグリジェも脱がしてないのに…ククリはエッチな子だなぁ」  
 嬉しそうで意地悪そうな声を、彼女が一番くすぐったがる耳元に置いてニケはまた笑う。  
 
 「……んもう、こんなときだけいじわるなんだから」  
 くっくっくっく。彼がまた忍び笑いをするので、ククリは溜息を吐き出さずに飲み込んだ。――――――仕方のない人。  
 「ククリはおれのこと好き?」  
 彼の梳かす指が止まることなくゆっくり肌をくすぐっている。ククリは一瞬耳を疑った。なぜなら彼がそんな事を言ったのを生まれて始めて聞いたから。  
 「も―――もちろん!」  
 慌ててそう答えた唇に濃厚なキスが降る。耳の後ろ側をくすぐる指は止まないで、彼の舌が何度も何度も唇とククリの舌に絡んで来た。その執拗さにククリは目を何度も瞬きさせて息を止める。  
 ニケの唇の隙間から強引に送り込まれる唾液と空気が生ぬるくて、熱くて、クラクラする。体が熱を持ち、その熱がまるで更に身体を燃やすかのようだ。  
 勇者様の匂いがする。  
 強引な男の重さが彼女を蹂躙しているのに、少女と来たらまるでそれを楽しむかのようにやすやすと受け入れていた。それは彼女なりの無意識的な決意の現れであったのかもしれない。  
 「ニケくん……強い魔法も使えなくて、ドジでダメなあたしだけど……お嫁さんにしてください。  
 結婚式なんかしなくたっていいの、綺麗なドレスなんか欲しくないの。  
 あたしに必要なのはニケくんだけ」  
 それはまるっきり夢見る少女の言葉であったが、夢だけ見ている人間の目ではなかった。彼女の目に浮かんでいるのは決意と勇気と、すこしの不安。そんなものがニケには見えた。  
 指をククリの栗色の髪の毛から離して彼は彼女から少し距離を置き、重々しく苦々しくため息一つ付いてあとは深く深く黙り込んだ。  
 そんなニケの様子にククリは、跳ね回り大きくなってゆく鼓動の音が嫌な嫌な言葉を連れてくるように思え、恐ろしくて堪らなかった。  
 どうしてそんな顔をするの?どうしてそんな溜息をつくの?どうして何も言わないの?  
 彼女の緊張と恐怖が最高潮に達して微かな震えが訪れ始める頃、ようやく少年がゆっくりゆっくり低い声で唸るように言葉を発した。  
 「……なんでプロポーズくらいおれから言わせてくんないんだよ」  
 
 見つめる先にある彼の握られた手がギリギリとシーツを締め付けている。彼女はそれを見て何故か歓喜よりも恐怖を感じた。こわい、と。  
 「おれはそんなにダメ?待ってられないくらいグズ?それともおれから言われるのはイヤ?」  
 おれだってほかの何も要らないよ。ククリさえ、ククリさえ側に居てくれたらおれはどこへでもいけるんだ。天界だって、魔界だって、地の果てだって。  
 彼の声のテンポが少しずつ速く熱くなってゆく。彼はそれに気付かず、彼女はそれに更なる恐怖を感じ。  
 怒ったの?そんな風に尋ねることさえ不自由な雰囲気が二人の間に立ち込めていた。  
 「でもダメ、もうククリはおれのもんだ。ダメでグズでイヤなおれから逃げられないんだから」  
 引きつって声が出ない。驚いて引きつる顔が彼の目には恐怖に歪んでいるように見える。彼女はなんとかニケに落ち着いてもらおうとベッドから逃げ出そうと足掻いたが徒労に終わった。  
 背中から抱きすくめられ、ネグリジェの裾から彼の指が、手の平が、腕が、無理矢理に侵入してくる。何度もしつこいほど許可を得て、彼女が恥ずかしがる顔を楽しむようにこそこそ体の線を辿るはずの指が。  
 
 「やだやだやだぁ!」  
 いつもは天使の羽のようにくすぐるニケの性器が、悪魔の槍のように急激に突き立てられる。それは普段の強さとさほど変わったものではなかったが、無言の彼の行為であるということがククリの感情を一層強張らせた。  
 「―――っ!?や、うそっ!やあぁー!」  
 「いや?いやぁ?なんで?おれのこと好きなんだろ?」  
 「やだ!ちがうもん、ちがうの!こんなのイヤなの、だって、いつもとちがうよぉー」  
 「同じだよ、いつもと一緒。ただククリがおれの本性知らなかっただけさ」  
 バカでグズでダメでイヤな本性。背伸びして虚勢張ったところで所詮勇者様なんてガラじゃなかった。だから奪う、夢見てる勇者様からククリをさらってやる。おれしか見られないように、おれからもう逃げられないように。  
 激しく揺すられるのと秘部に伝わる振動にククリが声を上げる事も出来なくなり始めたとき、ニケの動きが一瞬鈍った。ククリはそれがどういうことだか正確には理解できない。だが無神経にも彼の言葉が耳に届く。  
 「……どう、分かる?今、出てるの……」  
 「わ……わかんないけど……ゆーしゃさまのおちんちんがビクビクしてるのはわかる……」  
 上出来じゃん、とニケが声を上げて笑った。  
 
 「もう、ククリはおれのもんだ」  
 自身を引き抜き腹を抱える彼の横顔をぼんやりと見ていたククリは、未だにジンジンと痺れる頭の隅の命令のまま、秘部に指を這わす。いつもとは違う粘液の感触に視線を這わせると、指に絡まっているのは見なれない白濁。  
 「あっ……」  
 「赤ちゃんのもとだよ。それがいっぱいククリのお腹の中に……」  
 ニケが禍々しい笑みでそう言い掛けたとき、彼女の表情はバラ色に輝いていた。  
 「あ、あたしママになるの!?」  
 「……そうだよ、ヤなおれと一生」  
 それにたじろいだ彼が気を取り直してまた低い声で何かを言いかけると、それにまた反応して彼女が声を上げる。  
 「ホントのお母さんになるのね!」  
 「……あの、ククリさん?」  
 両手を組み合わせて神様を仰ぐように感極まるククリは、ニケの言葉にもとどまる事を知らない。  
 「どうしよう!ほんと?お腹一杯に入ってるって間違いない?たくさん入れてくれた?」  
 「…………えーと……イヤじゃないわけ?」  
 その指についてるやつがお腹の中に入ったんだぞ。いっつもはゴムで止めてるやつがそのまま。  
 「どうして?嬉しいことよ!ニケくんとククリの赤ちゃんが出来るんだから!  
 名前!名前を決めなくちゃ!それからお洋服も、お皿も、お部屋も」  
 「待って。その前におれと一生居なくちゃなんないんだぜ。それでもいいのか?」  
 ニケのこわばったセリフに、ククリが乱れたネグリジェを調えてかしこまった風に座りなおした。  
 「勇者様はククリにとって一人だけなの。夢でも想像でも、ましてやグルグルで出したんでもない、今目の前に居るあなただけ。」  
 怖くないよ、二人で居れば。  
 彼女が真面目腐った顔で彼の手を握り、頬に当てる。  
 「ククリのほっぺたあったかいでしょ?」  
 ニケが小さくうん、と返してほっとした顔をするので、ククリは微笑んで言った。  
 「ニケくんの手があったかいから。だからククリはいつも楽しいよ」  
 
 好きな人がいつも一緒に居るっていいね。勇気が湧いてくるもの、寂しくないだけじゃないの、新しいこといくらでも見つけられるよ。怖いことも悲しいことも友達になれるわ。  
 ククリが彼の頬にキスをする。彼がいつも彼女にするのと同じように、優しくキスをする。  
 とけてゆく。いたみが、こどくが、いかりが、いらだちが、ゆっくり崩壊してゆく。静かに、確実に、音を立てず実感も知れぬまま、形を無くし蕩けてしまう。  
 幼い頃怖い夢を見て母のベッドにもぐりこんで抱きしめてもらったかのように、道に迷って暗い星空を見上げたとき誰かの家の明かりを見つけたみたいに。安堵しているのに泣きそうになる官能。安心して緊張の糸が切れ漏れる感嘆。  
 「お嫁さんになってくれる?  
 おれ、がんばるよ。今までよりもずっとがんばる。ククリが、君が側に居てくれるなら」  
 怖かったのはおれの方だ。レイドがどうとか、ククリがどうとか、そういう表層的なことじゃなく、もっと根本の……自分が愛されるという事が解らなくて怖かったのだ。それは今も、多分これからもそうなんだろうけれども。  
 『怖いことも悲しいことも友達になれるわ』  
 もしかしたらククリはおれの知らないおれの何か大切な事を誰より知ってるのかもしれない。そんで、おれもククリの知らないククリの何か大切な事を誰より知っているとしたら。  
 
 ニケは頭の中にわだかまって紡げない言葉を丁寧に咀嚼し反芻した。何度も何度も、ゆっくり注意深く、慎重に。それは泣く事に似ていたけれど同じ事ではなかった。少しだけ、反省の色が強い。  
 「はい。」  
 長い長い時間を掛けて彼女が返事をする。ニケがその返事に眉を下げて笑ったので、ククリも同じようにため息代わりに笑った。  
 「……しよう………あの…もっかい、こんどは、ちゃんと。」  
 ククリが三つ編みを解いたあとのゆるくウエーブのかかった髪をかすかに揺らしながらくすくす微笑んで。  
 「うん、ちゃんと“して”」  
 胸元のリボンが魔法みたいに解けて彼女の白い肌が目の前に露になるのを黙って見ていると思う。  
 もしお互いの大切な何かをお互いが知っているとしたら、それをお互いが探すためにこんな事をするのではないだろうか。見えない何かの感触を確かめようとして触れ合うんじゃないか、と。  
 もしそうなら、こんなに“切なくて嬉しい”なんて事は――――――たぶん他にない。  
 
 指は触れず、手の平だけが肌を滑って降りてゆく。鎖骨から胸へ、胸からわき腹へ。  
 背中に絶えず触れている彼の体温が自分の体温と混ざり合って違和感がない。時折感じる鼓動の近さに安心する半面、首筋に掛かる溜息とも吐息ともつかぬ熱っぽい呼吸に興奮する。  
 「綺麗な肌」  
 「……やだっ……なにを言うの」  
 言葉が終わるか終わらぬかの刹那、ぬるく刺激的な動きで首筋を舌が這った。緩慢なナメクジの足跡を真似ているのかのようなリズムで。  
 「あァぁ…っ!」  
 喉から搾り出されるような押し殺された悲鳴が部屋に響く。彼の指がついにぬかるみに侵入したのだ。  
 「…………ぬるぬる…する…」  
 静かで低い彼の声とは違い、侵入している左手の中指と薬指はせわしなく入り口を嬲り、擦り上げている。そのギャップといえば彼女の言葉を奪うことくらい容易なほどであった。  
 ククリもベッドに座らせても貰えずに立ち上がったまま身体を触られたことなどなかったために、力の配分に難儀をしているのか、足はがくがくと頼りなく震えているのにも関わらず、ニケの右手を握り締める両手は精一杯の力で掴んでいる。  
 「お…ねが、座らせて……足、立ってられな……」  
 蚊の鳴く様な声でそうククリが訴えても彼は指を休めることはない。次第にボリュームを増してゆく粘着質な水の音でかき消す意図でもあるのか、指の腹で熱心に秘唇を刺激し続けていた。  
 彼女の太ももにはもう幾筋も雫が滴った跡があって、よく見ると床にはかすかに水溜りさえ出来ている。膝が大きく振動してとても力が入っているようには見えない。  
 「いやぁ…あっいぁあっ……あっひぃん……  
 おねがい…ぃ……ゆーしゃさまぁ……ゆるして、ベッドにちゃん…っああ!…ね…寝かせ………もう…ダメ……!」  
 それでも彼はククリを無理に立たせるように肩を引っ張り上げたまま力を抜かない。  
 重心のコントロールが散漫になっているというのに、彼女は制御するどころかそのゆらぎに身を任せるようについに踏ん張る事をやめてしまった。力尽きたという表現が適切なタイミングで。  
 

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