浅い眠りからゆらゆらと意識が戻る。傍らを見遣ると、寄り添って寝ていたはずの恋人の姿がなかった。
温もりが残っていることから、ベッドから抜け出てそう時間は経っていないようだ。
どうしたのだろう、と怪訝に思い――直後に安堵する。彼女は窓辺に立ち、夜空を見上げているようだった。
夜の闇に包まれた部屋の中、浮かび上がるように佇む白い身体は美しかった。
しなやかに伸びた手足、女性的な丸みを帯びた乳房からくびれた腰へと連なる身体のラインは、どこか彫像めいてみえるほどに均整がとれていた。
会ったころは胸もお尻もあんなにぺったんこだったのにな。
いや、ぺったんこはぺったんこで悪くなかったけど。
少女だった彼女の姿を思い出しながら、シモンは身を起こした。
夜明けにはまだ時間がある。部屋の空気は夜の冷たさを孕んでいて、薄い寝巻一枚の彼女の姿は何とも寒々しい。
「ニア」
名を呼ぶと彼女は驚いたような顔で振り向き、そして優しく笑った。
「起きてたの」
「なに見てるんだ?」
問いながらベッドを抜け出し、彼女の傍らに並ぶ。自然に抱き寄せた肩は少し冷え始めていて、温めるように肩をさすった。
「今年はゆっくりお花見できなかったなあって思って」
窓の外に向けられた彼女の視線の先には、闇夜にぼうっと浮かび上がるような桜の木々があった。
舞い落ちる花びらは美しいが、そろそろ若葉が目立ち始める時期だ。
「ああ」
そんなことか、とシモンは笑う。
「来年があるさ」
来年だけじゃない。再来年だって、その次の年だって。桜は逃げたりはしない。
「じゃあ、来年はゆっくりお花見しようね」
「ああ、約束だ」
指きりを交わし、満足したらしいニアを抱き寄せる。視線を宙に逸らし、呟く。
「朝までまだ時間、あるよな」
遠まわしな誘いにニアは恥ずかしそうに微笑むと、甘えるようにシモンの胸に頭をすり寄せた。
――次の桜の季節。
ゆっくり花見をしよう、という約束は果たせなかった。
だけど、もう一つの大切な約束を果たして――彼女は美しい光の粒となって、桜の花びらと共に空に消えた。
―――――――――――
「お前、どうしてこれ持っていかなかったんだ?」
捧げた指輪を手に持ち、妻の前にしゃがみこんで問いかけた。目の前の墓標は何も答えない。
さあ、どうしてかしら。わかるまで考えてみて。
明け方の冷たい風に混じってそんな声が聞こえてきたようで、ばりばりと頭を掻いた。
ドレスもヴェールも一緒に持っていったというのに、自分があげた指輪だけは持っていかなかった。
そのことに何か意味があるような気がしてもう随分長い間答えを探しているのだが、なかなかこれといったものが見つからない。
ひょっとしたら最後の最後でとうとう振られてしまったのか、などと冗談めいて考えてみたりもした。
あるいは「追ってくるな」という彼女の意思だったのか、とも。
「後追いなんかするわけないだろ」
こつん、と墓標を小突く。
十四歳のあの日、カミナの死の絶望から立ち直る力をくれたのは彼女だった。
なのに、あの時と同じようにいじけてうずくまって、立ち止まったら――それは、彼女をそのまま否定することになってしまう。
しかし、彼女が指輪を持っていかなかった理由がそれなのかというと、結局正しい答えなのかはわからなかった。
いつだってそうだ。彼女の言葉は曖昧で、とりとめがなくて、こちらの予想をいつも簡単に裏切る。
共に過ごした七年の間で随分彼女のことをわかった気になっていたけど、結局のところ十四歳の頃と大して変わっていないんじゃないかとすら思う。
桜が美しかったあの最期の日から、二十年を共に生きることができたら少しは違ったのだろうか。
ちらりと脳裡に浮かんだ思いに、苦い笑みを浮かべて頭を振る。……そんなことを考えるのは辛すぎる。
「もし」も、「たら」も、「れば」もないのだから。
「この年にもなって、まだ女のことばっか考えてられるってのも幸せなのかもしれないな」
彼女に恋したばかりの頃、一挙手一投足を目で追って、ふわふわした曖昧な言葉の意味を必死に考えて、自分に向ける表情に一喜一憂した。
彼女と一緒にいると心が温かかった。幸せだった。そして、今でもそれは変わらない。
寄り添う肌の温もりは失われて久しいけれど、彼女のことを思うだけで心はこんなにも温かい。それで十分だった。
ふと空を見ると、稜線との境界が夜の闇から朝の白へと移り変わろうとしていた。薄紫の空の向こうに、天の星が名残惜しそうに消えて行く。
荒野に吹く風はまだ冷たいが、もう何時間もすれば春の息吹を孕んだ風が、妻と、そして仲間たちの墓標を撫でるだろう。
夜の帳から解放されて、妻の墓標を取り囲む花々が嬉しそうに揺れる。可憐な薄いピンクの色は彼女自身と、そしてあの日の桜の色を思わせた。
カミナを失ったときは、世界から全ての色が失われた。
ヨーコの髪の赤も、ロシウの服の白も、キタンの服の黒も、全部同じ灰だった。
しかし今、自分の目に映る世界はこんなにも美しく色づいて生き生きと輝いている。
この色をくれたのはニアだ。
暗い灰色の雨の中、シモンの世界に色をくれたのはニアだった。
そしてその色は、今も変わらずシモンの中に生きている。ニアは世界のどこにでもいる。色づいている世界の全てがニアなんだ、そう思える。
だから今シモンは生きている。生きていて幸せだと思える。
ニアの心が、ニアがくれた誇りが自分の胸に生きているから眼前に広がる世界はこんなにも美しい。
子供をもって妻と添い遂げる、世間で言うところの平凡な幸せは手に入らなかった。ニアにプロポーズしたあの日に夢見た未来は手に入らなかった。
けれど今の自分だってそう捨てたものではないと、胸を張って言える。
おこがましいかもしれないけれど、今息づいている世界の全てと、今日から続いていく未来の全てが自分とニアの子供なのだと思えるから。
後悔はない。七年間最高の恋をして、彼女を愛し抜いた。それで十分だった。
いつか人生を終えるとき、もしニアが迎えにでも来てくれたら、その時は彼女の瞳をまっすぐ見つめて誇れる。
「俺は生きたぞ」って。
そのときはもう一度この指輪を手渡してやろう。「今度こそずっと持っていてくれよ」って。
手の中の指輪を、墓標の前に再度捧げる。その日がくるまでは、こんな形で持っていてもらうしかない。
「そろそろ行くよ。お前のところばかりにいると、あいつらになに言われるかわからないからな」
戦友たちが眠る無骨な墓を見、笑う。
「また来るよ」と言いかけ――否定する。その言葉は正しくない。胸に手を当て、呟く。
「ずっと一緒にいるもんな」
では、なんと告げるのが相応しいだろう。少し考えて――結局、あの言葉しかないのだな、とシモンは思う。
風に舞った花びらが、あの日のように空に吸い込まれて消えていく。
あの日妻に対して告げた、最後の言葉と一緒に。
―――――――――――
見上げた空から何かがひらりひらりと落ち、シモンの頬を掠めた。
「桜かあ」
辺りには桜の木は見えなかったが、案外すぐ近くにあるのかもしれない。
後でニアと一緒に見に行こう。少女の笑顔を思い浮かべると、シモンの口元にも笑みが浮かんだ。
降り注ぐ日差しは暖かく、全ての命を祝福しているかのように思えた。
空は吸い込まれそうな程に高く、そして青く澄んでいた。
さくら、という名前を知ったのは最近のことだった。桜だけではない。春、夏、秋、冬。
季節の廻りと、それによって表情を変える世界のこと。
地下暮らしのシモンは当然それらを初めて知ったが、ニアも知識としてしか知らなかったという。
十年以上宮殿の中で暮らしていた彼女が、ぬかるむ土や芽吹く緑を見つけるたびに目を輝かせる様は何とも愛らしかった。
戦いの日々の中では微細な移り変わりを意識する間もなかったけれど、これからは違う。
移ろい往く世界を愛でながら日々を生きていくことができる。
仲間たちと、そして、ニアと一緒に。
「シモン」
名を呼ばれ振り返ると、ニアが笑顔で手を振って呼んでいる。また何か見つけたのだろうか。
ヨーコに切ってもらった髪は少し伸び始め、頬にかかって擽ったそうだ。
また切るべきかこのまま伸ばすか悩んでいるようで、「どちらでもいいと思うよ」と答えたら珍しく怒ったような顔をしていた。
「そういうときは『どちらでも君は素敵だよ』って言えばいいのよ」とリーロンが言っていたけれど、そんな台詞気恥ずかしくてとてもじゃないけど言えそうにない。
それに、どちらでもいいというのが本心であることには変わりない。
髪が長くても短くても、ニアはシモンにとってのただ一人の女の子なのだから。
隣に並ぶと、ニアは自然にシモンの手を握り締めた。そしてそのまま歩き出す。
くるくると変わる彼女の表情を見つめながら、シモンは明日を思う。
これからやることは山ほどあった。
地上に解放された人間たちが、日の光の下で笑って暮らしていける明日を作る。ロージェノムが残した言葉の謎も解かなければならない。
問題は次から次へと出てくるに違いない。
でもそれも、仲間たちと、そしてニアが一緒にいてくれれば乗り越えていける。
繋いだ手の温もりがその自信をくれた。
ちゃんと話を聞いているのかと顔を覗き込んでくるニアに応えながら、心の隅でこっそりと願う。
これから二人で、いくつもの季節を共に歩もう。
きっと明日は今日よりも、もっともっと素晴らしい日になる。
明日は俺が作るから、繋いだこの手を離さないで一緒にいこう。
やっぱりちゃんと話を聞いてない、と頬を膨らませるニアに謝りながら、ふと空を見上げる。
広がる青空は、無限の可能性に続いていく。そんな風に思えた。
終