新政府の長たるシモン総司令の補佐官であるロシウ・アダイには、常々抱いている疑問がある。
その疑問の種は、シモンの机――サイン待ちの書類がカミナシティのビル群のように積まれている――の片隅、主以外の誰の目にもとまらないような場所に置かれた卓上カレンダーにあった。
シモンが席をはずしているのを確認して、ロシウはそれを手に取り確認する。
(やはり……印がついている)
何の予定も書き込まれず、ただ日付と曜日を確認するためだけに使われているようなカレンダーに、いやに赤々と書き込まれた赤い丸。七日間連続でマークされている。
(一体これは何なんだ……?)
ロシウにはシモンのプライベートまで詮索する気は毛頭なかった。
例えばこれが、シモンの恋人であるニアとのデートの予定を表すものだったとしてもだ。
総司令としての責務さえきちんと果たしてくれさえすれば、シモンとニアの仲が睦まじいことは彼らの友人であるロシウにとっても喜ばしいことなのだ。
(そう、責務さえきちんと果たしてくれれば、だ)
ロシウの眉間にぴくりと皺が寄る。
しかしこの謎の七つの赤丸は、そのシモンの果たすべき責務に密接な関係を持っている可能性がある。だからこそロシウは悩んでいるのだ。
ロシウがこの赤丸の存在に気づいてからそろそろ半年が過ぎようとしている。
最初に気づいたときには、やはりニアとの予定に関係があるのだろうかなどと思った程度で、特に詮索もしなかった。
しかし、卓上カレンダーの印に気づいてから二ヶ月の後、その七日間の最終日にシモンの様子が明らかにおかしいことに気づいたのだ。
仕事をするのだ。真面目に。
いや、普段とて決して不真面目というわけではない。
が、マークされた七日間の最終日に関しては、それまで溜め込んでいた仕事を全て片付け、ロシウがぐうの音も出ないほどに完璧に仕上げて定時通りに総司令室を後にする。
いつもこうであれば、自分はどんなに楽でいられることだろう。謎の七日間の最終日が訪れるたびに、ロシウはため息をついてそう思うのだ。
なにはともあれ、仕事を真面目にこなしてくれるのは良いことだ。シモンのやる気を奮い立たせる何かが「七日目」にはある。
(つまりその謎さえ突き止めれば、普段から責務に対して真摯な態度で臨んでくれるようになるかもしれないということだ……!)
「あっ、ロシウ、ここにいたんですね」
総司令室の入口から声をかけてきたのはキノンだった。眼鏡の奥に覗く優しい瞳を確認すると、ロシウの握り締めた拳から自然と力が抜けた。
「頼まれていた書類、まとまりましたので」
「ああ、ありがとう」
彼女から書類を受け取り、ふと思いつく。卓上カレンダーの件について、キノンに相談してみるのはどうだろうか。
このまま自分ひとりで考えたところで、シモンの真実にはたどり着けそうにもない。
「キノン、実は相談があるんだ」
「は、はい?」
「言われてみれば確かにシモンさん、毎月必ず一日、すっごく早くに仕事を終わらせる日がありますね」
「その日がこの赤い印をつけられた七日間の、最終日にあたるんだ。半年間、一度も例外はなかった」
「うーん……」
キノンは卓上カレンダーを一月から順繰りにパラパラとめくってみる。
確かに毎月七日間、同じような時期に七つの赤丸がついている。
(ううん、でも全く同じ日ってわけじゃないわ。少しずつずれていってる)
「………………あ」
「わかったのか、キノン」
何かに気づいたような声を出したキノンに、ロシウは期待を込めた視線を向ける。
しかし、キノンは何故か頬を赤くして声をあげた。
「わ、わかりましたけど、ロシウはわからなくていいです!」
「な、なんだって?」
「もう、シモンさんったら、やだ……!」
顔を赤く染めてそう小さく呟くと、キノンはそのままぱたぱたと小走りに総司令室を出て行ってしまった。
一人残されたロシウは、その後姿を為すすべなく見送る。
(一体なんなんだ……?)
キノンに「ロシウはわからなくていい」などと言われた上に、置いてけぼりまで食らってしまった。
おまけに彼女はあっという間にシモンの謎に感づいたようでもあった。
キノンがまるで自分を置いてシモンの元へ向かってしまったような錯覚に陥り、ロシウは酷く寂しい心持ちになる。
「あれ、ロシウ? 何やってるんだ、そんなとこに突っ立って」
傷心のロシウにどこか呑気に声をかけたのは、全ての原因たるシモンだった。
「そんなところで監視しなくても、今日中に全部片付けるぞ」
「そうでしょうね」
(今日は件の七日間の最終日ですし)
そう、今月の赤丸の最終日はまさに今日なのだ。シモンは朝早くから机にかじりつき、書類の山と熱心に格闘している。
今この瞬間も、さっさと席についたシモンは仕事を再開している。これでは自分のほうがサボっているようではないか、とロシウは思う。
(ええい、もうこうなったら直接本人に問いただすしかない)
「シモン総司令、この卓上カレンダーですが」
「ん? ああ、それがどうした?」
答えるシモンは顔も上げずにペンを走らせている。補佐官として歓喜すべき上司の姿だ。
「毎月七日間、必ず赤い印がつけられているのを失礼ながら確認しました。この印が一体なんなのか、教えていただきたい」
「えぇ? いやー……それはちょっとなぁ。ニアに怒られるかもしれないし」
(ニアさんに怒られる? やはり彼女絡みなのか?)
「俺にとっては毎月必ず訪れる苦行の七日間だよ」
(苦行?)
「ある意味ではテッペリン攻略戦の七日間より辛いっていうか」
(机に向かうシモンさんの頭から、ロージェノムばりの闘気が見えるような気がするのはそのせいなのか!?)
「仕方がないってわかってるから我慢するけど」
(七日間、何を我慢しているというんだ?)
「まあ、我慢した分のご褒美は七日目にもらえるからいいんだけどな」
(ご褒美? 誰から? ニアさんなのか?)
「こなかったらこなかったで一大事だし」
(来客でもあるのか?)
「あー、でもそれはそれで結果オーライでいいかもしれないなぁ」
(客が来ないことが喜ばしい?)
「いや、でもそれだと男としてだらしないよな。やっぱりきちんとけじめをつけないと」
(普段から仕事に対するけじめもつけていただきたいんですが。今はいいですけど)
「って、そんなことを話してる間に仕事が終わってしまったぞロシウくん」
「早ッ!!」
言葉に偽りはなかった。あれだけあったはずの未処理の書類が、きっちりかっちり一枚も残らずサインされ、あまつさえ案件ごとに分類すらされている。
(こ、この実務能力をなぜ普段から発揮してくれないんだ……)
処理済の書類の山相手に、なぜこんなに絶望的な気持ちにならなくてはならないんだろう。ロシウはがっくりと肩を落とした。
「じゃ、俺帰るなー」
ふと見遣れば、シモンはすでにいそいそと帰り支度を始めている。帰り支度とは言っても、向かう先はどうせニアの家なのだろうが。
こちらとしても、業務をここまで完璧に終えられてしまっては引き止める理由もない。
「ああ、ロシウ。カレンダーの件だけどな」
振り返り様にシモンはこう言い残す。
「恋をすればたぶん謎はとけるぞ」
これ以上ないほどの爽やかな笑顔でそう告げると、シモンは足どり軽やかに通路の奥へと消えていった。
その後姿をロシウは呆然と見送る。
(恋……? 恋だと?)
あそこまで堂々と色ボケた発言をされると、もはや怒る気にもなれない。
それ以前に、結局その「恋」とやらと赤丸の七日間の因果関係の真相にも自分はたどりつけそうにない。
(ロージェノムの遺した言葉の謎も解明できていないというのに、僕が恋などしていられるわけないだろう!)
だから、眼鏡をかけた栗色の髪の女性の姿が脳裡に浮かんだのは気のせいだ。絶対に気のせいだ。
カレンダーの謎は解明できなかった。
さしあたって、自分が今後のためにすべきことは。
「ギンブレー!」
「はっ! お呼びでしょうか」
ロシウが叫ぶと、眼鏡をかけた神経質そうな顔つきの青年がすぐさま駆けつけた。……どこに控えていたのかはあまり考えたことがない。
「シモン総司令のスケジュールを組み立て直すぞ。この半年間のデータをもとに赤マーク七日目にあたる日を推測するんだ。そして」
一呼吸おいてロシウは言った。
「その日に重要業務をすべてぶち込め」
「すべて、ですか」
「問題ない。あの人は不可能を可能にする男だ」
ギンブレーにそれだけ告げると、ロシウは彼を残して総司令室を後にした。
これは断じてシモンに対する嫌がらせなどではない。最も効率のいい手段をとっただけだ。
キノンとシモンにだけわかって、自分には赤丸の謎が皆目見当がつかないことに対する嫉妬などでは、断じてない。
「来月の七日目が楽しみですね、シモン総司令」
ロシウはそう呟いて窓越しに空を見上げる。彼を照らす満月がやや呆れたような表情に見えたのも、やはり気のせいに違いない。
七日目! 七日目! 七日目だ!
足どり軽く――しかし気づけば自然に全力疾走になっていた――シモンはニアの家へと向かう。
毎月のこととはいえ、実に長い一週間だった。一日が終わるのがこんなに長く感じられる日など他にはない。
書類に目を通してはため息をつき、遠い目をしてニアに思いを馳せてはロシウに小言をくらう辛い日々。
この七日間ニアに会えなかったわけではない。が、彼女の優しい笑顔や何気ない仕草を目にすること自体が苦行だったように思う。
まさに生殺し。ロージェノムに半殺しにされるほうがまだ楽だったような気がする。
ロシウに「テッペリン攻略戦より辛い」と語ったのは、半分冗談で半分本気だ。
「ニア、ただいま!」
彼女の自宅なのに「ただいま」はどうだろう、などと野暮なツッコミをする者はここにはいない。
いるのはブータと、音もなく現れてはシモンのジャケットを受け取り、また音もなく消えるココ爺。
そして。
「おかえりなさい、シモン!」
ぱたぱたと足音を立てながら、お玉片手にシモンを出迎えるニア。白いフリルのついたエプロンがなんとも愛らしい。
キッチンから彼の食欲をそそる匂いが漂う。なんだか新婚さんみたいだな、とシモンは頬を緩めた。
「お夕飯、もう少しでできるわ。お風呂ももう入れるからね」
「ああ」
しかし、シモンが望む言葉はそれではない。ニアもそれを心得ているのか、頬を赤らめてシモンに囁いた。
「あと、ね。その……今日で、終わったから」
「!」
「だから、今夜は…………たくさん愛してね」
小さく小さくそう囁くと、恥ずかしくなったのかニアは踵を返してキッチンに駆け込んでしまった。
玄関に一人取り残されたシモンは、拳をぎゅっと握り締めて幸福を噛みしめる。天井のライトが天から降り注ぐ祝福の光のようにすら思えた。
さようなら一人寝の日々よ。そしてこんにちは愛欲の日々よ。
女の子の日なんて大っ嫌いだ。
とはいえ、まずは腹ごしらえをしてからだな。
そう考えると、シモンは長い夜への期待を胸に、恥ずかしそうにこちらを見つめるニアが待つキッチンへと向かったのだった。
終