腹の底で、正体不明の化け物が俺を狙ってる。
一人になって黙り込むと、俺の心を乗っ取って所構わず人に当り散らそうとする。
抑えれば抑えるほど獰猛になって、日に日に大きさを増していく。
いずれは俺もこの螺旋の怪物に乗っ取られるのかと思うと、ラガンを降りたくなった。
だけど、自分の居場所はラガンの中にしかないと気付いたとき、そんなくだらない考えは止めた。
だけど、今も俺の心を化け物が乗っ取ろうとしている。
アニキ――。俺、恐いよ。
一人の男が、神経質そうな表情で廊下を走っている。
男の目の下には墨を塗ったようなクマが浮き上がり、親指の爪を血がにじむほど強く噛んでいる。
その姿はまるで、地上に這い上がったモグラのように滑稽であり、また哀しかった。
「恐い……」
と男は呟く。
そのまま更に歩調を速め、男は滑り込むようにして温室に入った。
贋物の太陽が照らし出す温室に、贋物の仮面をはがれた男が、臆面無く叫んだ。
「ロン! ロン! どこだよぉ、ロン!」
その声には普段の力強さは無く、まるで少年のように弱々しい響きを含んでいた。
まるで地上に出たばっかりの頃のようだ。
と、その叫びを聞いたリーロンは感じた。
息せき切らしながら温室に駆け込んでくる彼は、七年前のそのままだ。
リーロンは深く溜息をつき、彼の元へと歩みを進めた。
「どうしたの、シモン」
「ロン! どこにいたんだよぉ!」
ずっとそこにいたわ……と、溜息交じりに返してリーロンは男の挙動を観察した。
男はまるで何かに怯えるようにコートに包まり、芝生にうずくまっている。
「恐いよぉ、ロン。
また、またアニキが夢に出てきたんだ。
哀しい目つきでずっと俺のことを見つめて、いつの間にかいなくなってるんだ。
そしたら、上からおっきなコンテナが降ってきて、俺のことを押しつぶすんだ」
それっきり、また男はコートに顔を埋めて黙った。
ここ最近は、ずっとこうである。
一言で言い表せば情緒不安定。
その上、艦長というプレッシャーが彼を押しつぶそうとしている。
彼は自己犠牲の権化だと、リーロンは感じた。
「恐いよぉ、なんとかしてよぉ」
と、くぐもった声で男はささやく。
リーロンはまた一つ溜息をつき、男の耳元でいつもと同じことをささやく。
「そればっかりは、どうしようもないわ」と。
それだけいうと男は幽鬼のように立ち上がり、一層眼のクマを浮き上がらせて帰っていく。
それを見るのは、堪らなく心が痛んだ。
「悪いな、ロン。世話になった」
強がりのようにそう呟いて、また男は廊下を神経質に歩く。
彼の中には二人の人間がいる。
十四歳のままのシモンと――、あの時彼の身体を奪ったカミナの二人が。
部屋に戻ると、一目散に布団に包まった。
腰の辺りから這い上がってくる怖気に怯えながら朝を待つ。
――恐い。
眠るのが恐い。
眠ったらまた夢の中でアニキに会わなきゃいけない、それだけはイヤだ。
不意に、部屋のドアが開かれた。
俺は一層強く布団を抱きしめ、強く眼を瞑った。
足音がゆっくり近づいてくるのがやたらと生々しくて、俺は転げるように後ずさった。
「シモンさん……」
足音が俺を呼ぶ。――恐い。
俺の背中をさするようにして足音は俺のことを抱きしめる。
俺が布団を強く握り締めるたび、耳元で励ましの言葉をささやく。
だけど――、恐い。
「俺は、カミナだ」
ぼそりと呟く。
まるで自分に対する自己暗示のように。
「俺はカミナだ。
アニキが死んだときから、俺はずっとカミナだ」
足音はまた強く俺のことを抱きしめた。
心の中でも、そう自己暗示を掛け続ける。
俺は、カミナだ。
夢うつつに、女を抱いた。
まるであの女を抱くように荒々しく。
相手のことを何も考えず、ただただ肉を使った自慰行為を繰り返した。
女は何も抵抗せず、ただただ俺の暴行を全身で受け止めている。
それは――。
「……ダリィ?」
「はい、シモンさん」
夢か現か、女の声を聞いた。
「――ダリー!」
彼女は怯えて、ただただ布団を握り締めて俯いた。
俺はなにがなんだかわからなくなって、支離滅裂なことを叫んだ。
「なんで! ねぇ、なんで俺に抱かれたの!」
自分の心に張り付いた仮面が取れていく。
いつしかふちが錆付き、仮面と本当の表情の区別がつかなくなっていた贋物の自分である。
「おれ、おれもうなにがなんだかわからないよ。
あにきがしんじゃってから、みんないつもかなしそうなかおしてる。
だからおれがあにきのかわりになって、みんなをはげまそうとしたんだよ。
そしたら、みんなしておれのことこわがって、おれにちかづいてくれなくなっちゃった。
ろしうはおれのこときらいになっちゃって、よぉこはなきそうなかおでおれのことじぃってみつめるんだ。
なんで、なんでおれがみんなにきらわれなきゃならないの。
あにきは、みんなだいすきだったのに。
――なんで、おれじゃだめなの」
ぐしゃぐしゃに割れた仮面の最後の一片がいま、顔から削げ落ちた。
もう限界なんだ。
自分を偽るのにも疲れた、戦いにも疲れた。
銀河の光は俺の眼を潰して復讐しようとしてる。
「なんで……おれじゃ」
苦し紛れに呟くと、体中から力が抜けた。
投げ放たれた身体は最早、他人の物のように動かない。
「シモンさんは、カミナさんじゃありません」
唐突に、静まり返った部屋でダリーが呟いた。
「シモンさんはシモンさんです。
ただ、自分よりも皆の笑顔が大切で、自分を隠してただけです。
その言葉は、驚くほどすんなりと俺の心の底に落ちていった。
「もう、一人で泣かないで下さい。
みんなもう怒っていないから、地球に帰りましょう。
だから、もう一人で泣かないで、一人ぼっちで銀河に心を預けないで。
シモンさん――。わたしがずっと、一緒にいるから」
喉の奥に、真っ赤に焼けた砂利がたまってる。
砂利がこすれるたびに情けない声が漏れ出し、七年間一度としてみることのなかった自分の涙を見た。
「艦首に、出よう」
と、震える声で呟いた。
ダリーはそれをよしとするように俺のすぐ隣に立って、俺を支えた。
艦首は、不思議な光に包まれていた。
緑や青が入り混じった、幾千万年前の星の光の集大成である。
やはりそこに、彼はいた。
ダリーから離れて、艦首に躍り出る。
「よぉ、遅かったじゃねえか。シモン」
あの荒野の日から何も変わらない姿で、彼はそこに悠然と立っていた。
「寄り道、したんだ」
「へぇ、おまえが」
ああ、と俺は呟いて、彼の傍に腰掛けた。
数十秒間の沈黙が流れて、彼もまた俺の隣に腰掛けた。
「いい眺めじゃねえか。月に行きたかった頃とは大違いだな」
――このためだけに、友達を殺したんだ。
「そんなの、関係ねぇよ」
そう言って彼は、マントを翻して立ち上がった。
「立派じゃねぇか、シモン!」
言葉は不思議な抑揚を持って銀河を駆け抜けた。
「ジーハ村から身一つで飛び出して、今じゃ銀河を駆ける英雄だ!
なにを恥ずかしがることがあるんでぇ!
これが、お前の選んだ真実だ!
この宇宙を愛して進む、お前だけの覇道と愛だ!」
それだけ言うと、まるで霞のように彼は消え去った。
「本日の殲滅作戦を持って、我々は一旦地球へ帰還する」
普段より幾分機嫌が良さそうな声でブータが叫ぶ。
銀河は今も不思議な輝きを持って俺を見つめている。
傍らの彼女がささやく。
「天の光は、ただの星です」と。
俺は――。
「そんなこと判ってるさ」
輝かしい天の光を見つめながら、ゆっくりとラガンのコクピットで立ち上がる。
心のもやが吹っ切れたように心は明るく、またくすんでいた眼は澄み切っている。
これからだ。
「天の光は全て星!
幾千万年突破して、心に響くは螺旋の魂!
そうだ、それが螺旋の力、それがグレンラガン!
俺は意を得た! 俺のドリルは――!」
――命をのせて廻るドリルだ!