人肌の温もりが気持ちのいいものだと知ってから、しばらくの時が流れた。  
 
 
 
いつもの時間、いつもの部屋。いつものように全ての他人を拒むかのような重苦しい空気を纏い、彼はニアの元を訪れた。  
いつもと同じようにあまり意味の無い他愛ない会話をぽつりぽつりとし、その後に関してもいつもと同じ。  
豪奢な天蓋のついた寝床にニアを引き倒し、自分の欲が満たされるまで好きなように身体を貪る。  
 
今までと何も変わらない、同じような絶望の日々が繰り返されている――はずだった。  
だが、同じではなかった。明らかに変化はおこっていた。  
 
 
変わったのは、彼のニアに対する接し方だった。  
相変わらず粗野で強引で、こちらの話を聞こうともしないような不遜な態度には変わりない。  
――しかし、荒っぽいは荒っぽいが、本当の意味での乱暴さは影を潜めたような気がするのだ。  
 
 
彼に監禁された初めのころは、ニアの身体には生傷が絶えなかった。  
憎しみに瞳を燃やす彼に首を絞められたこともある。抵抗するたびに腕を捻り上げられ、あちこちに鬱血の痕が残った。  
言葉での罵倒も酷いものだった。ニアの父にぶつけられなかったものをそのままニアにぶつけるかのように、連日二度と思い出したくもないような言葉でなじられ続けた。  
 
「自害などと馬鹿なことを考えるなよ。そんなことをしたら、お前の世話をさせている女達まとめて後追いさせてやるからな」  
 
怒りに支配されて彼を睨みつけると、嘲るようにそう告げられた。  
殺してやりたいほど憎い、という感覚をニアはあのとき初めて味わったのだ。  
もっとも、それを実行することはニアの誇りが許さなかったが。  
憎しみに任せて命を奪えば、あの男と同じになってしまう。獣以下の所業だ。それこそ、死ぬより嫌だった。  
 
――たとえ殺されたって、決して殺してやるものか。  
その代わり、死ぬまで憎んでやる。  
 
男に抱いた感情は、今までニアが知ることがなかった、他者への初めての負の感情だった。  
 
ニアが憎んだその乱暴さが――消えつつあった。  
暴力も罵倒も以前から大分減りはしていたが、最近それが特に顕著だ。  
とくに変わったといえるのが、彼がニアを抱くとき。  
強引な態度は相変わらずだが、最低限のニアへの気遣いらしきものが見えるようになった。  
痕が残るような強い力で押さえつけることもなくなったし、ニアが「本当に駄目なとき」は、何も言わずに部屋を去ることすらあった。  
どれも最初のころでは考えられないことだ。以前であれば、欲を満たすためならニアが泣こうが喚こうが眉一つ動かさなかったあの男が。  
いつだったか、月の障りで本当に無理なのだと屈辱と羞恥に耐えて泣きながら告げたら、風呂場に連れて行かれたことがあった。  
 
――あれは本当に最低だった。思い出すだけで胸が悪くなるようだ。  
 
 
そんな男が、今はニアのことを少なからず慮っている。  
新しい花を携えて、ニアの元を訪れる。  
花を受け取るニアの表情を、どうでもよさそうな素振りで――しかし実際には注意深く窺うように見つめる。  
食らいつくような激しい口付けの合間、何か言いたげな切ない視線をニアに向けてくる。  
 
 
 
 
本当は酷い人なのよ。いくら変わったといっても。  
そんな人の胸に、どうして私は甘えているの?  
彼にされたことを忘れたの?  
 
 
ニアは自問する。  
変わったのは彼だけではない。ニアもそうだった。  
毎日毎日、ニアの元を訪れる彼。話題などそうあるはずもないのに、それでも何かを話そうとする彼。  
とうとう会話が途切れて気まずい沈黙が部屋を支配すると、少し困ったように視線を泳がせて――ニアの肩を抱き寄せる彼。  
 
 
ああ、私はどうして彼の一挙手一投足をこんなにもはっきり覚えているんだろう。  
抱き寄せられて、好きなようにされて。全てが終わった後、それでも彼が私の身体を離さずに引き寄せる。  
それを心地良く感じるようになってしまったのはいつからだろう。  
 
 
彼の肌の温もりが気持ちいい。  
寝顔の彼は普段の険が取れて、どこにでもいるごく普通の若者に見えた。彼の年齢がいくつなのかは知らないが、少年のあどけなさすら残っている。  
しかし閉じられた目元には、彼が経験した憎悪と絶望、そして倦怠による疲れが色濃く影を落としているように思えた。  
この目が父のものと似ていることに気づいたのは、最近のことだった。  
 
 
 
仇を父に似ていると感じるなど、父への冒涜以外のなにものでもない。  
それ以前に、こんな穏やかな気持ちでこの男の寝顔を見つめていること自体が父への裏切り行為だ。  
忘れてはいけない。自分はこの男に酷いことをされた。何度も、何度も、何度も。  
 
ニアは彼の寝顔を見つめ、必死に憎悪の念を思い起こそうとした。  
思い起こさないと憎めないという時点で、すでに憎しみは氷解し始めているのだということには気づけなかった。  
 
 
※※※※※  
 
 
「脱げ」  
 
冷酷に告げられた言葉の意味が最初わからず、しかし次の瞬間には理解し――ニアは絶句した。  
唇を噛み、ぎゅtっと握り締めた手元を見つめる。  
身体が小刻みに震えるのは彼への恐れからか、それとも屈辱に対する怒りからか。  
――おそらくは、両方だ。  
 
「い、やです」  
小さな声で、それでもはっきりと拒否の言葉を口にする。  
どうして彼がそんなことを言ったのか、その経緯も動揺した頭ではよく思い返せない。  
ニアの態度が気に入らなかったのか、何気ない一言が気に入らなかったのか。  
しかし、そんなことはどうでもいいことだった。彼は常に、ニアにとっての暴君として君臨するのだから。  
 
いつもならば力でニアを屈服させるのが彼のやり方だった。  
それはニアにとって酷く辛いことではあったが、初めから勝ち目がないという事実は逆にニアの心を気丈に奮い立たせた。  
力では絶対に勝てないけれど、心は絶対に負けない。屈しない。  
そう思うことができたから、彼と出会ってから今日までの日々を生きることができた。  
 
それなのに。  
 
自分から脱ぐなんて、絶対に嫌だった。まるで自分から彼に抱かれようとする女のようではないか。  
 
 
目を逸らして俯いてしまったニアの顎をぐいと持ち上げ、男はニアの顔を覗き込んだ。  
そしてゆっくりと、ニアに絶望を突きつける。  
「控えの部屋に使用人の女がいたな」  
びく、とニアの肩が震える。  
「耳から削いでやろうか。それとも鼻からか」  
 
ぱん、という乾いた音が部屋に響く。後のことをまったく考えず、ニアは感情のままに男の左頬を思い切り引っ叩いた。  
人を視線で殺せるのなら、間違いなくニアの瞳に映る男は死んでいる。  
しかし瞳の中の男は殴られたにもかかわらず、どこか余裕すら感じさせる態度でニアを見つめ返した。  
ニアに選択肢が残されていないことを理解しているからだろう。  
「あなた、最低です」  
震える声でそれだけ言うと、ニアは勢い任せに髪飾りをはずした。  
男は、嘲るような笑いを浮かべてその動作を見つめていた。  
 
 
 
髪飾りをはずし、ピアスをはずし、腕や腰を飾る宝飾具をはずす。ついには靴も脱いだ。  
すべての動作は、服を脱ぐまでの時間稼ぎだった。  
こうしている間に彼の気が変わってくれれば、まだニアの心は楽になれた。彼に屈服したことを、自分で認めなくて済むのだから。  
 
しかし、その淡い期待は叶えられそうにもなかった。長椅子に身を沈めた彼は、獲物を嬲る獣のような視線をこちらに向けてくる。  
ニアはぐっと唇を噛むと、ゆっくりと首元を彩る首飾りに手をかけた。――これを取ってしまえば、終わりだ。  
 
かちりという小さい音と共に首飾りがはずされると同時に、ニアが身に纏っていた薄桃色のドレスはするりと白い身体を伝い、落ちた。  
足元に丸く広がるそれを恨めしく睨む。どうしてこんなに着脱が簡単なドレスを、今日に限って着てしまったのだろう。  
 
ニアの身体を覆うものは、レースで飾り立てられた白いブラとショーツだけになった。  
下着姿のまま何もされず、何も言われず、ただ彼の前にニアは立っている。しかし彼の視線は痛いほど感じた。ニアの身体を舐めるように見つめている。  
首筋から鎖骨、その下の乳房の丸みを這い、白くなだらかな腹とくびれた腰のラインを伝って脚へと至る。  
 
耐えられず、せめて両腕で身体を覆い隠しながら言った。  
「……ぬ、脱ぎました。これで満足、なんでしょ?」  
しかし、目の前の男は長椅子に寝そべったまま無慈悲に告げた。  
 
「下着」  
「……っ!」  
 
かあ、と顔が怒りで赤く染まるのがニアにはわかった。  
 
どうしてこんなことをするの。抱きたいんならさっさと好きにすればいいでしょ。一体人をどこまで馬鹿にすれば気が済むの。  
大声で罵倒してやりたかったが、しかし怒りのあまり口元が震えてろくに言葉が出てこなかった。  
結局そのまま黙り込んでしまったニアに対して、男はあざ笑うように追い討ちをかけた。  
 
「なんだ、お前、俺に脱がせて欲しいのか?」  
「じょ、冗談を言わないで!」  
 
涙を滲ませて男を睨む。ああ、本当に憎らしい。きっと自分の人生で、後にも先にもこれほど憎める人間は他にいないだろう。  
 
ニアは怒りに震える指先で、ブラジャーのホックへと指をかける。  
ぷつん、という小さな感触の後、胸に解放感が訪れる。  
白くたわわな乳房がこぼれると、長椅子の男の口元が一瞬緩んだような気がした。  
 
足元にブラジャーを落とし、ショーツに指をかけるとゆっくりとずり下げた。  
尻と秘所が外気に晒される感覚に、目尻に涙が滲んだ。  
人として最も他人に見られたくない瞬間のうちの一つを、最初から最後まで舐るように見つめられた。しかも、最も嫌いな男に。  
 
 
脚を伝わらせて下着を脱ぎ捨てると、今度こそニアは一糸纏わぬ姿となって男の前に立っていた。  
いや、立っていられたのは最初の数秒だけだった。  
羞恥と屈辱と、そして男の視線に耐えられなくなったニアは、細い二本の腕だけで自分の身体を守るようにして、その場に崩れ落ちた。  
今もまだ、王のように長椅子に座りながらニアを視姦する男と、その前に跪いたニア。  
彼の視線がニアを嬲る。恥ずかしさに歪む顔を、腕で隠されて柔らかく形を変えた乳房を、同じく腕で頼りなく隠された秘所を、外気に晒された脚を。  
 
裸は何度も見られている。明かりが煌々と点いた場所で、何も身に着けていない姿で抱かれたことだって何度もある。  
だが、だからといって羞恥を感じなくなるわけではなかった。むしろ、何もされずにただ見られているだけの今のほうが、何倍も恥ずかしかった。  
 
「もう、いいでしょう?」  
それはニアの、男への敗北宣言だった。  
 
「早くあなたの好きにしてください」  
何もされず、ただ見られていることに耐えられなかった。そんなことなら、さっさと暴力に呑まれてしまいたかった。  
 
ニアの言葉に男は口元に歪んだ笑いを浮かべ、ニアの腕をぐいと掴むと、引きずるようにその身体をベッドに放った。  
 
ベッドの柔らかさがニアの心に安堵をもたらす。  
いつも通りの絶望の時間が始まる。いつも通り耐えればそれでいい。そのことがただありがたかった。  
それが敗者の思考だということに気がついていても、だ。  
 
 
ベッドに腰掛け、コートを脱いだ男はニアに目をやり――しばらく何かを考えた後に言った。  
「いつもと同じようにただ抱くのも、飽きたな」  
「……え?」  
言いようの無い不安を感じて、普段はまともに見つめたりしない男の目を、ニアは覗き込んだ。  
 
 
「自分でしてみろ」  
 
 
男の言うことが理解できず、ニアはきょとんとし――次の瞬間、今度こそ耳まで真っ赤にして悲鳴をあげた。  
「い、嫌ですっ!」  
「したことないのか」  
「あっ、当たり前でしょう!? そ、そんなの――できるわけありません!」  
 
変態! 色情狂! 無表情なその裏で、なんてこと考えるの!?  
大声で思い切りなじってやりたかったが、あまりのことに声が出せない。  
それに、ニアは既に理解してしまった。自分に選択肢などないことに。  
目の前の男の瞳には暗い興奮の炎が宿っており、逃げ出すことなど出来はしない。  
 
 
死んでしまいたい。  
男と出会ってからもう何度思ったかわからない思いを、ニアは今までにない絶望感とともに胸に抱いた。  
 
 
 
 
 
「ぅう……んっ……」  
ベッドに寝そべり脚を開き、身体を洗うとき以外は直に触ったことのなかったそこを、ニアはゆっくりと撫でた。  
自慰など一度もしたことがなかった。どうすればいいのかもわからない。  
男は「自分の気持ちいいようにやればそれでいい」などと言ったが、ただ恥ずかしいばかりで気持ちよくなるどころではなかった。  
 
男がどんな顔をして自分の痴態を見ているのかはわからなかった。想像したくもなかった。  
ぎゅっと目を瞑り、ただこの悪夢のような時間が一刻も早く過ぎ去ってくれることを願って拙く指を動かす。  
割れ目を何度か往復した白い指は、やがて秘烈の上部、小さく膨らんだ芽を恐る恐るなで上げた。  
「んっ……」  
ぴくん、と身体に快感が走る。口から快感に濡れた吐息が漏れた。  
 
――ああ、この様も全部、あの男に見られているんだ。いやだ。いやだ。いやだ。  
いっそ気持ちよくなった振りができるほど、自分が芸達者であればよかったのに。  
 
男への嫌悪感と、羞恥心と快感に頭の中をぐちゃぐちゃにされながら、ニアは何度も肉芽を擦り上げた。  
ぷっくりと膨らんだそこを撫でるたび刺激が伝わり、徐々に呼吸が速くなる。  
身体の奥から何か熱いものがとろりと湧き出る感覚に、どうしようもない嫌悪を抱いた。  
 
「淫乱だな」  
「っ!」  
かけられた言葉に、かっと身体が熱くなる。そして――自分でも信じられないことに、言葉で嬲られると同時にニアの秘所は更に熱く蕩けた。  
内側から愛液が溢れた感覚に身体が震える。  
「も……やぁっ……!」  
「ほら、もうこんなにぐしょぐしょだ」  
「ひぁっ!」  
 
言葉とともに、男の無骨な指がゆっくりとニアの膣内に侵入した。そのままかき回すようにニアの中を弄る。  
「いやあっ、やめっ……! ひゃあ、あああんっ」  
ぐちゅぐちゅと溢れた愛液は男の指を濡らし、肉襞はより深く男の指を飲み込もうときゅうきゅうと締まる。  
差し入れられた指が二本に増やされると、ニアの身体は歓喜に震えた。  
――心は、絶望に沈んだままだった。  
 
はしたなく喘ぐニアの顔を、秘所を弄りながら圧し掛かるように男は見つめている。  
「気持ちいいか?」  
「ひっ、ん……!」  
膣の天井を刺激され、濡れた声があがる。いつの間にかニアの脚は、ニアを弄ぶ男の腕をぎゅうと挟み込んでいた。  
まるで、逃さないとでもいうように。  
 
「答えろ」  
「気持ち、いいです……っ」  
男の熱い吐息を感じ、顔を背けながらニアは答えた。  
このまま男がいつものように、自分を嬲ってくれればいいと願った。もう、これ以上の辱めには耐えられない。  
しかしニアの願いとは裏腹に、男の指はずるりとニアの中から引き抜かれた。  
 
「あぁっ……」  
「なら、続きは自分でやれ」  
「え……」  
「気持ちいいんだろう? 最後まで一人でやってみせろ。見ててやるよ」  
 
残酷に告げられた言葉に、ニアの唇は小さく震え――そしてとうとう小さな嗚咽が漏れた。  
肩を震わせて、ニアはひっくひっくと泣き出した。  
 
「も……もう、やだっ……! どうしてこんな、意地悪なことばかりするの……っ」  
まるで意地悪な男の子に苛められた幼い女の子のように、ニアは泣きじゃくった。  
見下ろす男の表情はわからなかったが、彼は泣くニアに対してゆっくりと告げる。  
 
「なら、お願いしてみせろ」  
「……?」  
「自分でできないのなら、俺にどうしてほしいのか言ってみろ」  
 
涙に濡れた瞳でぼんやりと彼の顔を見上げる。  
「どうしてほしいのか」……?  
ニアが彼に一番に望むことを正直に言うとすれば「もう私に構わないでください」ということになるが、そういうことではないだろう。  
この責め苦から解放されるための言葉。彼が望む言葉を、ニアは口にする。  
 
「……抱いてください」  
「もっといやらしい言葉で言ってみろ」  
 
ぐ、と歯を噛みしめ、目の前の男を恨めしく睨む。  
いやらしい言葉なんて、よくわからなかった。それでも懸命に考えて、より直接的であろう台詞を再度言う。  
 
「あなたが、欲しいです……」  
「……俺の、何が?」  
言いながら、男は再度ニアの秘所をくちゅくちゅと弄んだ。  
 
「やっ……!」  
「いやらしく濡れたお前のここに、俺の何が欲しい?」  
「何、って……」  
 
ニアは動揺して視線をさまよわせた。「それ」が何なのか知っている。が、言葉に出して呼んだことなど一度もない。  
そんなはしたない言葉を、この男の歪んだ快楽のために口にせざるを得ない我が身の情けなさに、つくづく涙が出る。  
 
「あ、あなたの……おちんちんが、欲しいです」  
 
小さな小さな声で言うと、目の端に新たな涙が浮かび上がってきた。  
今夜、自分は何度彼に心を折られたんだろう。何故彼はこんなことをするんだろう。  
しゃくりあげながら泣くニアの顔を、満足げな微笑を浮かべて男が覗き込む。  
ニアの髪を撫でる手の動きは優しかったが、ニアにはそれが哀れみとしか思えなかった。  
 
 
「螺旋王第一王女も堕ちたものだな」  
ニアの耳を食み、彼は囁く。  
 
「望み通りにしてやる」  
 
 
 
 
 
※※※※※  
 
 
「何を考えている」  
不意にかけられた声に顔をあげると、いつの間にか目を覚ましたらしい彼がこちらを見つめていた。  
その瞳は穏やか――といえるかどうかはわからなかったが、少なくとも今しがたニアが回想していた彼の瞳とは全く違っていた。  
荒ぶる怒りも憎しみも、その目には映っていない。歪んだ情欲も燃えてはいない。  
 
「少し前のあなたのことを、思い返していました」  
回想を終えて彼の顔を見てもやはり憎悪の念が帰ってこないことに、自分に対する失望と、ほんの少しの安堵を感じながらニアは言った。  
 
「随分酷いことをされたなあって。殴られたり、引きずり回されたり。肩、脱臼したこともありました。  
服を自分で脱げって言われたり、むりやり自慰をさせられたり」  
自分でも驚くくらいの淡々とした声だった。  
されたことを言葉にしてみても、ニアの瞳をどこか傷ついたように見つめてくる彼に対して何の負の感情も浮かんでこなかった。  
 
 
ああ、私もやっぱり変わってしまったんだ。  
憎むことに疲れてしまったのだろうか。心が壊れてしまったんだろうか。  
それとも、もっと他の理由があるのだろうか。彼のことを憎めなくなった、本当の理由が。  
 
「……もう、しない」  
言われた言葉に、ニアは目を瞬かせる。  
顔を覗き込もうとすると、男はふいと顔を逸らした。そしてそのまま寝返りをうち、ニアに背を向けてしまう。  
 
……ひょっとして、拗ねたの?  
 
以前の悪行を掘り起こされて、バツが悪くなったの? 傷ついたの?  
 
 
背を向けた彼に気づかれないよう、ニアは小さく笑った。  
もの言わぬ背中が、妙に縮こまって丸まっているようにすら見える。  
 
なんだか、可愛い。  
 
それは胸に自然に浮かんだ想いだった。かつてあれほど憎んだ相手にこんな感情を抱けることが不思議だったが、不思議と否定する気にはならなかった。  
彼がニアに酷いことをしたことも、ニアが彼が憎んだことも事実だ。否定しようのない過去だし、消すことなどできない。  
だから、今ニアが彼に対して抱いた気持ちも、きっと否定すべきではないのだ。  
 
とはいえ、しばらくこの話題で彼をさりげなくいじめることは出来そうだ。  
沈黙を続ける背中に静かに寄り添って、ニアはくすりと笑った。  
 
 
終  
 

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