あの人は何故私を抱くのだろう。  
 
それはニアが以前から抱いていた疑問だった。  
征服者である彼が被征服者であるニアの身体を蹂躙したこと、それ自体はあまり不思議なことではない。  
ニアの疑問は、彼がニアを「抱き続けること」にあった。  
考えるのもおぞましいが――巨大な戦艦を率いてさながら王のように振舞う彼に、自ら身体を差し出そうとする女性はきっといるはずだ。  
なのに、彼の周囲には不思議なほど他の女の影がなかった。  
他の女の影どころか、まるでお前だけだと言わんばかりに毎日ニアの元にやってきては身体を求める。  
 
彼にとって、自分が可愛い女であるとはニアにはとても思えなかった。  
初めて抱かれた日から今日まで、ニアが彼に従順に振舞ったことなど一度もない。  
彼のような傍若無人な男は、何でも素直に言うことをきく女が好きなのではないだろうか。  
飽きもせず悲鳴をあげて無駄な抵抗を繰り返すような女を、何故抱き続けるのだろう。  
 
 
抗う様を見て、楽しんでいるのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎった。  
あの男にとって、ニアは仇の娘だ。仇である当の本人――ロージェノムはもうこの世にいない。  
何度殺しても殺し足りないその憎しみを、娘のニアにぶつけていることは想像に難くない。  
だとすれば、非力なニアが惨めに抵抗する姿は、あの男の目にこの上なく滑稽に映るに違いない。  
 
酷い人。  
 
目尻に涙が浮かんだ。自分の必死の抵抗も、彼の歪んだ悦びにしかならないことにニアは傷ついた。  
無駄だとわかっていても抵抗を続けることで、ニアは自分の誇りを守っている気でいた。  
だが彼は、そんなニアの姿を見てきっと嗤っていたに違いない。  
 
 
酷く腹立たしかった。なんとかして一矢報いる方法はないものだろうかと考える。  
 
 
反抗するのをやめてみたらどうだろうか。  
ふと頭にそんな考えが浮かぶ。  
反抗するのをやめて、他にいくらでもいるであろう彼に従順な女になったふりをしてみたらどうだろうか。  
きっと彼は面白くないに違いない。それどころか、そんな態度を続ければニアに飽きて放り出すかもしれない。  
もしそうなったらニアの勝ちだ。まんまと騙してやったと、心の中で舌を出してやろう。  
 
自分の思いつきに「我ながら名案だ」と頷く彼女は、月戦艦の主の心の内をしかし全く理解していなかった。  
 
 
 
 
 
いつもどおりの時間に、いつもどおりの無愛想な表情で現れた彼を、ニアはいくらか緊張した面持ちで迎えた。  
どんな表情をして彼を迎えればいいのかよくわからなかった。  
普段の自分であれば、憂鬱な思いで目をそらすか、怒りを滲ませた瞳で彼を見据えるかのどちらかだ。  
彼に従順な女なら、彼の寵を乞う女なら、きっと媚びるような瞳で彼を見つめて微笑むのだろう。  
なんとか笑おうとしてみたが、強情な口元はなかなか意に従ってくれない。  
結局ニアは、不自然に強張った無表情のままでいつものように彼に抱き寄せられることになった。  
 
 
 
※※※  
 
おかしい。  
 
柔らかく温かな身体を抱きしめたとき、シモンの違和感は確かなものとなった。  
彼女を傍らに抱き寄せ、他愛ない話をしている最中から感じていた。  
いつものニアの反応ではなかった。  
普段の彼女であれば、シモンが話をしている最中は不機嫌に目を逸らすか――あるいは、わざと彼女の神経を逆撫でするようなことを言ってやれば、気丈にもその美しい双眸でシモンをきっと睨みつけてくる。  
そのニアが、今日は彼を迎えたときから能面のような顔で黙りこくって、こちらの話を聞いているのかいないのかも判然としない。  
妙な緊張感すら孕んでいる態度だった。  
 
疑問に思いつつも大した問題ではないと考え、当たり前のように彼女のたおやかな身体を抱きすくめる。  
ニアは毎日飽きもせずに腕を突っ張って抵抗するため、シモンが彼女を抱き寄せる力は抵抗を封じるためにいつも強く、乱暴だ。  
 
しかし今日は違った。  
シモンはいつもどおりだが、ニアは違った。  
 
抵抗がなかった。腕の中の彼女は、シモンにされるがままにその身体を預け、むしろ自らしなだれかかっているようにさえ思えた。  
柔らかな乳房が胸に摺り寄せられ、甘い吐息がシモンの耳元を擽る。  
 
おかしい。  
 
 
※※※  
 
どうしよう。すごく反抗したい。叶うことなら頬を引っ叩いてやりたい。  
でも我慢しなくちゃ。彼を騙すために。  
 
シモンに荒っぽく抱きしめられ、腕の中でニアはふる、と身体を戦慄かせた。  
普段であれば、乱暴な彼に声をあげて歯向かい、抵抗叶わずそのままベッドに引き倒され、酷いときにはドレスすら裂かれてそのまま犯される――というのがお決まりだった。  
しかし、もうニアは見抜いたのだ。そんな自分の様が、彼に悦びを与えているということに。  
今夜からは精々彼に従う振りをしてやろう。興を削がれた彼がもっと酷いことをしてくるかもしれないが、絶対に反抗などしてやるものか。  
負けるが勝ちだ。ニアはそう自分に言い聞かせた。  
 
彼はもう態度の異変に気づいただろうか。  
自分は上手く、従順な女の振りをできているだろうか。  
彼の乱暴で、力強く――そして、意外なほど温かな胸に抱かれ、ニアは甘えるような声を出した。普段は温かさなど感じる間もなかった。  
「ん……」  
両手は彼の背にまわされ、黒いコートを優しく撫で回した後にきゅっと掴む。  
その行為は計算ではなく、全くの自然のものだったのだが、ニアはそのことに気がつかなかった。  
 
 
※※※  
 
白魚のような手が背を泳ぎ、柔らかな金糸の髪がふわりとシモンの頬を撫でる。  
例えようもない良い香りに、頭がくらくらする。ニアは香水の類にあまり興味を示さなかった。なら、これは彼女自身の身体から自然に香りたつ匂いなのだろうか。  
なんて、甘い。  
 
今やシモンの頭の中は疑問符だらけだった。  
どういうわけだかニアは全く抵抗をせず、自分の胸の中に納まり――それだけならまだしも、自分から積極的に甘えてすらいるようなのだ。  
さっぱり分からなかった。  
彼女を手に入れてからかなりの月日が流れたが、こんなことはかつて一度たりとてなかった。  
どんなに綺麗な服を用意してやっても、どんなに華麗な装飾の施された宝石を贈っても、彼女はにこりともしなかった。  
それどころか、どこかシモンを哀れむような視線すら投げてよこしたのだ。  
そんな稚拙な方法でしか女の気が引けないのか、と見透かされたようで――結果はいつも同じだった。  
自分の意のままにならない彼女が憎らしくて、悲しくて、傷つけてしまう。乱暴にしてしまう。  
 
それが今はどうだ。相変わらずどこかぎこちないものの、ニアは小鳥のように震えながらシモンの胸に甘えている。  
それどころか、自分からシモンの背に腕を回してすらいる。  
 
何故だ? このあいだ贈った髪飾りを気に入ってくれたのだろうか。それとも、容貌の麗しさを遠まわしに褒めてやったのが嬉しかったのだろうか。  
あるいは、先日持ってきた花が良かったのだろうか。  
 
理由はさっぱりわからなかったが、訊ねることはできなかった。  
聞いた瞬間ニアが我に返って、シモンを拒絶したらと思うと怖くて聞けなかった。この幸福をもっと味わっていたかった。  
 
理由は気になるけれど、後回しでいい。  
ニアが俺に甘えている。拒絶しない。受け入れてくれている!  
 
シモンはもう一度ニアをぎゅう、と抱きしめると、無言でその瞳を覗き込んだ。  
潤んだ瞳に映りこんだ自分の瞳は、あの人がいたころの自分のような優しい光を湛えていた。  
 
 
※※※  
 
「キス、してもいいか」  
投げかけられた言葉に頬は瞬時に赤くなり、ニアは目を伏せた。彼と視線を合わせていられなかった。  
 
やだ……。  
 
 
拒否の言葉が胸に浮かんだが、しかしそれは拒否の意ではなかった。  
 
恥ずかしかったのだ。  
そして、そう感じたことにニアは動揺した。  
 
私、おかしい。どうしてこんなに緊張しているの?  
 
全て演技のはずだ。彼の言うことを素直に聞く、愚かな女の振りをしているだけのはずなのだ。  
なら、この胸の高鳴りは一体なんなのだろう。  
彼に抱きしめられたときの、不思議な充足感。まるで、自分は本来彼にそうされているのが一番正しい姿なのだ、と言われんばかりのものだった。  
そんな馬鹿な、と彼女は否定する。  
しかし、たった今の彼の瞳。初めて見る優しい目をしていた。  
あの瞳に見つめられると切なくなる。全てを許して彼を甘えさせてあげたくなる。そして、自分も彼に甘えたくなる。  
 
馬鹿なことを考えるな、とニアは自分に言い聞かせた。  
これはあくまで演技なのだ。きっとニアが今感じている不思議な胸の高鳴りも、演技に熱が入っているだけ。  
少し優しい目をしたからって、あの男を甘えさせてあげたいだなどと、愚かにもほどがある。  
 
しかし理性とは裏腹に、感情は彼の言葉を追ってしまう。  
 
キスしてもいいかなんて、なんで聞くの。今まで一度もそんなこと聞かずに、何度も、何度も、何度もキスしたくせに。  
いつも乱暴で、私の気持ちなんて全然考えてない。自分のしたいように振舞うだけなのに。  
どうしてそんなこと聞くの。  
 
 
シモンの言葉に答えられず俯いたままでいると、彼の手がくいとニアの顎を持ち上げた。しかしそれは、いつものような荒っぽい動作ではなかった。  
「キスしたい」  
再度告げられると、身体中から火が出るようだった。  
ニアのものより少し固い唇を、まるで口付けも知らない少女のようにニアは見つめた。  
「でも、あっ、や」  
言おうとした拒否の言葉は、重ねられたシモンの唇によって封じられた。しかしそれは、決して強引な口付けではなかった。  
(シモン……)  
心の中で彼の名を呼び、ニアはそのまま彼に身を任せ、優しくベッドに押し倒された。  
 
 
 
何もかもが違った。  
いつも好き勝手にニアの唇をこじ開けて吸いつくはずのシモンの唇は、何かを乞うように優しくニアの唇に重なり、時折甘噛みするように吸う。  
やがて熱い舌がニアの口内へと侵入したが、その動きはひどくおずおずとしたもので、普段の彼のそれとはまるで別人のようだった。  
甘い口付けに酔いながら、ニアは熱っぽい瞳でシモンに問いかける。  
 
どうしてそんなに優しいの。  
 
ニアが今日彼を拒まないのは、彼の興を削ぐための演技だ。だが、何故それに合わせるかのように今夜の彼はこんなにも優しいのだろう。  
唇だけではない。今この瞬間ニアの乳房を弄る指先も、吐息も、重ねられた身体の体温すらも優しい。  
 
私もおかしい。なんだか、切ない。  
 
説明のできない胸の疼きを押さえ込むかのように、ニアはシモンの身体へとしがみついた。  
 
 
※※※  
 
受け入れられている。拒まれていない。ひょっとしたら、憎からず思ってくれているのかもしれない。  
歓喜と期待、興奮に支配されてシモンは夢中でニアの唇を吸った。  
ひょっとしたら、ベッドではいつものように拒まれるかもしれない――という不安は杞憂だった。  
ニアはシモンを拒むことなく受け入れた。背に回された手は彼の身体にしがみついたままだった。そして、そればかりか。  
「――っ!」  
ニアの口内に侵入したシモンの舌に、おずおずと――しかし、確かに自分から舌を絡めてきたのだ。  
それはシモンにとって、ほとんど感動と言ってもよい出来事だった。  
 
(ニア、ニア、ニア!)  
とても、言葉にできない。  
胸に沸き起こる思いに突き動かされ、シモンの唇は、舌は、指先は、更に性急にニアを求めた。  
首に回された彼女のか細い腕が愛しい。  
自分の身体の下、与えられる愛撫に敏感にしなる白い身体が愛しい。  
舌は首筋を這い、乳房を這い、白い腹を這い、更にその下、彼女の秘所を這う。  
小さな悲鳴が上がると、シモンはびくりと震えて彼女を見遣った。  
普段ならどんなに泣いて叫ぼうとも関係ないと思っていたのに、今この瞬間は、ニアの嫌がることは絶対にしたくなかった。  
この甘い時間を一瞬でも長く味わっていたかった。  
 
声を上げたニアは、羞恥に震えて手で顔を半分覆っていた。  
しかし、紅潮した頬、潤んだ瞳で確かにシモンに向けて、こう言ったのだ。  
「お願い……やめないで。もっと、して」  
 
 
 
 
怒張した己をニアの中に衝き入れながら、身体の下のか細い身体を抱きしめる。  
ニアの切ない喘ぎ声が耳に心地よかった。普段の悲鳴交じりのものではない、快楽に濡れた声。  
 
昨日までの自分たちの関係は、全て悪い夢だったのではないかとすら思えてくる。  
ニアを求めているのに慈しむことが出来ず、傷つけてばかりだった自分。  
そんなものは全部嘘で、こうして愛し合っている姿こそが自分たちの正しい姿だったのではないか、と。  
 
わかっている。それこそ夢だ。  
今ここにいる俺が俺で、ここにいるニアがニアなんだ。  
俺も彼女も、昨日までの生き方を簡単に否定できるような道のりを歩んではこなかった。  
 
だけど今日、そして明日からなら変わることは出来るんじゃないか。  
いや、きっと出来る、変われる。  
少しずつでもいい、変わりたい。変えていきたい。  
 
 
 
ニアと共に、歩んでいきたいんだ。  
 
 
 
※※※  
 
すうすうと寝息をたてる彼の顔をニアは見つめた。  
昨日までであれば、行為が終わって意識を取り戻した後、彼の身体に寄り添うことなどなかった。  
しかし今日は違う。今日は逆に、何故だか彼から離れがたかった。  
 
 
今日の自分はおかしい。  
彼の興を削ぐために抱かれたはずが、演技どころではなかった。  
――そもそも、抗うニアの様を見て彼が喜んでいるというのも考えすぎの可能性が高まってきたのだが。  
 
はしたなく愛撫を乞い、そして今もまだ彼の温もりに甘えている。おかしいと感じているのに、離れたくないと思っている。  
この胸に残る、甘い疼きはなんなのだろう。  
眠る彼の横顔が妙に可愛らしく思えるのも、髪をくしゅくしゅと撫でてやりたくなるのも、きっとこの感情のせいだ。  
嫌な気持ちではない、と思う。でも、何故彼に対してそんな気持ちを抱いているのかがわからなかった。  
 
 
あの優しい瞳を見てしまったから?  
もう一度あの瞳を見せてくれる?  
どうすれば見せてくれるの?  
 
 
寝顔に問いかけてみるが、目覚めた後の彼に再度同じ問いを出来るかどうかはわからなかった。  
彼の胸に甘え、瞳を閉じて睡魔に身を委ねる。  
眠りの闇の中に、全ての答えがあるような気がした。  
 
 
 
 
終  
 

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