【ある日の月戦艦、とある通路でのクルーたちの会話】  
「お前聞いたことあるか?お姫様の話」  
「あるある。艦長がこの艦にどっかの姫様を連れ込んでるって話だろ」  
「やたら美人だって話じゃないか」  
「どうせただの噂だろう?」  
「それがよ、休憩中の連中が遂にさっき見たんだと」  
「何を?」  
「姫様を」  
「姫様って、女性クルーの見間違えなんじゃないか?」  
「それが、ピンク色のドレスに淡い金髪、白い肌にルビーの首飾りなんだと」  
「うへぁwww」  
「きたぁwww」  
「それで、とてもこの世のものとは思えないほど綺麗な声で、道を尋ねるそうだ」  
「あのう…」  
「そうそうこんな感じで……」  
「道をお尋ねしたいのですが」  
「え?」  
 クルー達は、一同目を見開いた。  
 
・ニアの日記  
11月20日 お天気:部屋に窓が無いからわからなかったけれど、宇宙に天気なんてないのね、  
        知らなかった。でも宇宙に天気が無いのならどうしてこんな項目があるのかしら?  
今日は、昨日とは全く違う出来事がありました。遂にお部屋を抜け出したのです!  
抜け出そうと試みたのは、今日が初めてでした。この艦が宇宙に飛び立っていて  
私に逃げ場が無い以上、ここから抜け出すのは意味がないと思っていたからです。  
でも今回は、はっきりとした目的がありました。  
あのひとと、話をしたい。  
結局昨日は日付が変わっても彼は現れることはありませんでした。会いたくは…  
ありません。けれど、私には会って訊かなければならないことがあるのです。そしてそれは、  
今行動に動かさないと確信が揺らいでしまいそうな、とてもとても不安定なものでした。  
どうして私を殺さないのか。憎い筈の私の部屋にどうして毎日来るのか。  
どうしても尋ねずにはいられません。私は彼の返事(それは言葉でなく、ただの暴力かもしれないけれど)  
を、今知りたいのです。  
そうと決まればまず部屋を出なくてはなりません。きっと扉には鍵がかかっているのでしょう。  
叩き壊してでも外に出るつもりだったのだけれど、  
なんと、鍵がかかっていなかったのです!  
外に見張りの方がいらっしゃるかと思いきや、そのような方もおられませんでした。  
囚われの私が言うのもなんだけれど、なんだかこの艦とっても無用心。泥棒が入ったら  
どうするのでしょう。あ、でも宇宙にいるから空き巣に入られることもないのですね。  
クルーの方にも何名か会いましたが、驚いたことに皆さんとっても親切でした。  
私が囚われの身だってことをご存知でないのかしら。私が裸足と見るや靴を貸してくれたり、  
コーヒーを飲ませてくれたり。でも私を見るたび皆さん口々に「mgdk」とか「ktkr」とか  
仰っていたのですが、一体どこの言葉なんでしょう?  
けれど皆さんにあのひとの居場所を尋ねると、皆さん口を揃えて「わからない」或いは  
「早く自分の部屋に戻ったほうがいいんじゃ」の一点張り。仕方が無いのでひとりで歩いて  
探していたところ、あの人の居場所は分からなかったけれど代わりにとっても素敵な場所を見つけました。  
 
そこは広い広い植物園。気持ちの良い暖かさで、季節は春のようでした。あたり一面に  
桃色の花びらを散らしていたのはきっと桜ね。花壇には色んなお花が咲いていて、手を  
伸ばすとうっかり尖った葉で指をちょっと切ってしまいました。でも、そんな風に  
手を切る感覚すらとっても懐かしい気がする。  
私は幸せでいっぱいでした。だって生きたお花を見るなんてすっごく久しぶりだもの。  
夢中で色んなお花を見て回って、そうして一際背の高い植物の一団を抜けて、そこで―――…  
 
 
 そこまで書いてニアはペンを置き、はふうとため息をひとつつくと、複雑そうな顔をして  
ゆっくりと目を伏せた。  
 
                 ***  
 
一際背の高い植物の一団を抜けた先、ニアは予想だにしなかった人物を認め、そこで漸く  
自分が花に夢中になるあまり当初の目的を忘れていたことを思い出した。  
それは、およそ植物園という場所には似つかわしくない風貌だった。  
常日頃彼がまとっている漆黒のコートやブーツは、淡い色彩に包まれたこの春の空間で  
明らかに浮いている。ニアが一瞬身を強張らせたのは、その服、その人物に対する、  
もはや条件反射と言ってもよかった。  
ただ、黒コートの方は様子がおかしかった。ざんばらな藍色の髪の下の顔はまるで豆鉄砲を食らった鳩だ。  
「…ニア?」と口の端で呟いたような気がする。  
驚きすぎてどうにかなっちゃったのかしら、ニアは一瞬自分が所謂「脱獄囚」であることを忘れて手を伸ばし、  
一瞬後にそれを後悔した。伸ばした手を、すごい力で掴まれたのだ。  
 
はっとニアが顔を上げてシモンを見る。目元が暗くて表情がよく見えない。  
彼の口がゆっくりと開き、ニアは、(……怖い!)次の瞬間には、その腕を振り払っていた。  
身に染み付いた恐怖は、自然と彼女の身体をシモンから遠ざける。それを見たシモンの瞳に  
奇妙な光が揺らめき、――…次の瞬間には振り払われた手でニアの頭を強引に掴んでいた。  
「っ…」  
「…ここで、何をしている」  
 冷たい声が上から降りかかる。身体を押し返そうと突っぱねるニアの手をひねりあげ、  
シモンはぎりぎりと力を込めた。  
「外に出ていいとは言っていない」  
「…私は、あなた方に命令される筋合などありません」  
「はっ、いいご身分だな」  
強引に突き飛ばされてニアは「きゃっ」と小さな声をあげて花壇に倒れ込んだ。  
そのニアに歩み寄ろうとし、しかし背後から歩み寄る足音を耳にしてシモンは静かに振り返った。  
「…ブータか」  
「どうかしましたか、何か物音がしたので」  
「…………………………………いや、いい」  
この女を部屋まで連れて行け、そう呟いてシモンはふらふらと歩み去って行く。  
「ああ、また艦の螺旋力が不安定に…」  
「?」  
「いえ、なんでも」  
助け起こされながら疑問符を浮かべるニアに応じつつ、果たしてブータは嘆息した。  
 
 
                ***  
 
・艦長の日記  
11月20日 天気:あああああああ  
もういやだ。しにたい。誰か俺を殺せ。  
 
机に突っ伏して蠢こうとも自分が犯した失態は消えない。  
こんな姿を見て、誰が天を股にかける宇宙戦艦の艦長と思うだろうか。シモンはうつ伏せに  
なったままくぐもった声を出し、ボールペンの先で黒い染みを作った。  
「どうしてあんな心にもないこと言うんですか」  
今流行りのツンデレですか。そう言ってブータは項垂れた主を見つめた。  
敬意もへったくれも無いその台詞にシモンは鬱陶しそうに顔をあげ、しかし忽ち影を落とし、  
枕元のドリルに手を伸ばそうとする。ブータがその前に立ちふさがった。  
「ブータそこをどけ。俺殺せない」  
「自殺を図るのはあなたの勝手ですが、この艦を動かせるのはあなたしかいない以上  
 今死なれると困ります」  
ニア姫を宇宙のど真ん中で飢え死にさせるつもりですか。  
今最も出されたくないであろう名前を出され、シモンの身体がぎくりと固まる。  
そして、大きくため息をついてあらぬ方を見やった。  
「大丈夫か?、って」  
「…?」  
「大丈夫か、って言いたかったんだ。指を怪我してたから。  
 痛くないか、とか。  
 医者を呼んだほうがいいか、とか。  
 …腕を掴んだだけであんなに怖がられるなんて思っていなかった」  
久しぶりに会った彼女はとんでもなく綺麗に見えて妙に緊張して身体が固まった。  
拒絶されたと分かって頭が真っ白になった。  
気が付くと目の前には突き飛ばされて倒れたニアがいた。あんな言葉を言うつもりはなかったのに。  
「日記の中では素直なのに現実に帰ると途端に不器用ですね」  
「…まさかお前俺の日記読んだのか」  
「読んではいませんが内容の想像はつきます」  
昔馴染みの獣人の言葉に、シモンは無感情に、そうか、とだけ応えた。  
そうして天井を見上げてくつくつと喉を鳴らす。  
「花に囲まれてニアは楽しそうだった。あんな風に笑うんだな。俺は知らなかった」  
 なあ俺、どうしたらいいんだろう。  
妙に幼くぽつりと呟く巨大月戦艦冷血無慈悲の鬼艦長を見遣り、その副官はぼそりと  
「素直になったらいいんじゃないですかね」とだけのたまった。  
 
                 ***  
 
(あの時咄嗟に腕を振り払ったけれど、あれでよかったのかしら)  
さっきからそのことが気にかかっている。ニアはベッドに腰掛けて悶々とした。  
怖かった。だから手を振り払った。いつものパターンから考えて、手を掴まれた後には  
罵声が続くと思っていた。…いや、実際罵られたではないか。手を振り払ったその後に。  
再度身体を捕まれて。でも、もしあの時手を振り払っていなかったら?…妙に頭について離れなかった。  
だって、「連れて行け」と副官に指示を出した後の彼の背中が、妙に寂しそうに見えたの。  
 
彼の中で何かが変わったのだろうか。いやそんな筈はない。だって突き飛ばされたりされたもの。  
でも、でも…  
(変わっていないのは私も同じね。彼のことを知りたいと思っても、やっぱり怖いと思ってる)  
妙に落ち込んだ気分になって、ニアは手元の日記の表紙さする。時刻は夜10時。  
(今日、あの人は来るのかしら)そう思った時だった、ニアの部屋にコンコンというノックの音が響いた。  
ニアは扉を見つける。1秒、2秒、3秒……扉が開く気配は無い。たっぷり1分待って、  
しかし扉は開かなかった。ニアは不思議に思って扉に手をかけ、  
慎重にゆっくりと、  
扉を少しだけ開いてそして  
「…お花?」  
そこには、つまり通路であるが、花束が置いてあった。  
 
や花束などという大層なものではない。花束にしては趣味が悪すぎる。  
色相だとか花の組み合わせだとかを盛大に無視して単に綺麗(と摘み手が思ったのであろう)花が  
強引にまとめられていてとどのつまりがセンスが皆無であった。まるで素肌にボンテージを  
着るようなセンスの人間が作った花束だ。  
 
ニアが花束を持ち上げると、小さな紙が落ちた。ノートの切れ端らしきそれに、  
ボールペンの染みだらけの文字が小さく一言だけ書かれている。『ごめん』  
なぜかニアにはこのプレゼントの贈り手が分かった。妙な確信があった。真っ黒な背中を丸めて、  
一本ずつ花を摘む姿が頭に浮かんだのだ。  
(……)  
ニアは暫くの間それを抱えたまま戸惑った表情を浮かべた。  
誰もいない通路に、カサカサという花束の音だけが響いている。  
昼間、彼に掴まれた手首がヒリヒリと痛い。  
辺りには花の香りが漂っている。  
たっぷり躊躇して、そしてニアは決心した。  
 
 
 
暫くして、静かな通路に扉の閉まる音が響く。  
辺りには甘ったるい花の香り。しかし扉の前に花束の姿はもうなかった。  
代わりに置かれた小さな便箋には、小さな可愛らしい文字が並んでいた。  
『ありがとう』  
 
了.  
 
 

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