・ニアの日記
11月19日 お天気:お部屋から出してもらえないので分かりませんでした
今日はお部屋があまり揺れませんでした。どうやら今日は戦いが行われなかったみたい。
その他、今日も昨日とあまり変わらない一日でした。
広い宇宙の果ての果て、孤独に漂う月戦艦。その最奥、普段は誰も――そう、ごく少数の
使用人とこの艦の主以外は誰も――近づかない場所に、彼女の部屋はあった。
幽閉されている身である彼女に起こる出来事など、高が知れている。ゆえに彼女の日記には
(それは表紙には美しい宝石が散りばめられ、紙は上質な物を用いた大変高価なものなのであったが)
いつも同じような内容しか並ばない。『今日も何も変わったことは起こりませんでした。』
『昨日とあまり変わらない一日でした。』同じことばかりが繰り返される毎日。
…たとえその『同じこと』に、彼女の望まない行為が含まれていたとしても。
そこまで考えて、はた、と彼女は、ニアは時計を見上げた。時刻は夜の11時をさしている。
おかしい。そうして、少し考えた後ニアは日記を付け足した。
『ひとつだけ今までに無いことが起こりました。今日はあの人が部屋を訪れませんでした。』
シモン、というのが彼の名らしかった。
らしかった、というのは、ニアが実際にその人から名前を聞いたわけではなく、そして
自分が実際にその人をその名で呼んだことがないからである。そしてこれからも呼ぶことは
ないだろう、とニアは思っている。呼びたくなんかない、とも。
彼が今まで彼女にしてきたことを考えれば、それも当然と言える。最初は罵りだった。
男は自分の欲望の赴くまま、彼女の心を踏みにじった。そして二人が男女である以上、
男の、ニアへの仕打ちはある行為に収束する。それがもう随分長い間続いていた。
そうして彼は、毎日彼女の部屋を訪れた。
そう、毎日だ。毎日決まって、夜10時。それ以外の時間に訪れてこないことが無いわけではないが、
少なくともその時間には必ずニアの部屋に彼は訪れた。そして速い時は数十分、長い時は
――つまり、…性交に及ぶ時は――朝まで彼女の部屋に滞在し、そして去って行く。
例外は無い。…今日を除いて。
ニアは妙に落ち着かない心持で扉を見つめた。今にもいつものように、小さくノックする音が
聞こえてきそうだった。そしてその音のきっかり一秒後に男は扉を、こちらの了承も得ず、
また得る必要もないとでも言いたげに、無遠慮に開くのだろう。無愛想な、けれどどこか
影を落とした顔で。真っ黒な、重たげなコートに身を包んで。(一昨日は、どういうことか白かったけれど…)
来て欲しい、などとは彼女は決して思わなかった。むしろこのまま一生来ないのであれば
それがいい、自分にとっても、…そして彼にとっても。
「彼は、私を憎んでいます」
ぽつり、とニアは虚空に向かって呟いた。
そう、間違いなく彼は私を憎んでいる。出会った頃、数え切れないほどの酷い言葉を受けた。
憎しみの滲んだ瞳で睨め付けられた。最近ではそれも稀になったけれど、でも時折
彼の寂しげな瞳に揺らぐ炎は、間違いなく憎しみのそれだ。きっと彼はその憎しみで以て、
私を屈服させたいのだろう、と思う。
「…どうして、諦めないのかしら」
私は絶対にあなたに屈したりしないのに。
ニアは日記帳を閉じ、右手で表紙をゆっくりと撫でた。高価なそれは、掌にしっとりとした
感触をもたらす。随分前に、彼から贈られた品。
私はあなたに屈したりしないのに。たとえ囚われの身であろうと、彼に「生かされている」
存在であろうと、私はあなたに屈しないのに。憎いのなら、そんなに私が憎いのなら、
さっさと殺してしまえば済む話なのに。どうしてそうしないのですか?
どうして諦めないのですか?どうして私が拒絶するたび、そんなに寂しそうな目をするの。
どうして、どうして、どうして
「どうして、毎日私の部屋に来るの?」
それは、当たり前すぎて、今までは一度も彼女に浮かばなかった疑問だった。
ねえ、どうして?
どうして憎い相手の部屋を毎日訪ねるの?あなたは私の心を傷つけるけれど、どうして
あなたの方も傷ついた顔をしているの?
ニアは日記帳の上に置いた右手に、左手を重ねた。じっと、強い意思の宿った瞳でそれを見つめる。
私は、あなたが分かりません。恐ろしい、と思っています。あなたが私のことを憎んでいるように、
私もあなたを憎んでいるのかもしれません。でも。
「シモン。私は、あなたのことを知りたい」
生まれて初めて声に出したその名は、不思議と彼女の喉に馴染んで空気に溶けていった。
一方その頃、男は自室のトイレでうんうん唸っていたりしたわけだが、当然彼女がそれを知る由もない。
・艦長の日記
11月19日 天気:部屋から出れないから分からない
きつい。しんどい。もう嫌だ。
熱は出るし下痢にはなるし何よりニアの部屋に行けないしで、なんという三重苦。
盆と正月とクリスマスが一辺に消滅した気分だぜ。ちくしょう。
きっとニアの部屋に行ったところで嫌な顔をされるだけだろう。嫌な顔をされない日なんて
一度もない。…書いていて、自分で凹んできた。
違う。俺はニアにそんな顔をして欲しいんじゃない。
嫌われたいわけではなかった。ただ、自分が彼女に嫌われたくないと思っているのだと、
そう気付くのがあまりに遅かった。俺は彼女を憎んでいる、筈だ。けれど嫌われたくはないのだ。
あわよくば笑って欲しいと思っている。こんな矛盾がまかり通るのだろうか?
はっきりしないにも程がある。彼女が俺を憎んでいることは、こんなにも明白だというのに。
………文章の途中だが、そろそろ本気で身体が限界だ。眩暈がする。吐き気もする。
俺がこのまま死んだりしたら、彼女は嫌な奴がいなくなったと喜ぶのだろうか。
それとも、少しは悲しんでくれるだろうか。
ニアに、会いたい。