ふう、とニアは一息ついた。  
心地よい疲労感が彼女の身体に残る。自室にちょこんと座る彼女の前には、いくつかの箱が置かれていた。  
中に入っているものは衣類やアクセサリーなどの小物、好きな本、アルバムなど様々だ。  
シモンと共に歩んだ七年間の思い出の欠片を整理するのは、なかなか骨の折れる作業だった。まだまだ終わりそうにない。  
 
 
あと数日後には、自分はシモンの花嫁になれる。あの日交わした約束を、果たすことが出来る。  
そして、その日が多分、自分がニアとしてこの世に存在できる最後の日になるだろう。  
 
自分が生きた証を、あえてそのままの形にしておくこともできた。  
家も家具も日用品もそのままに、ずっとそのまま残しておくこともできた。  
だが、ニアはあえてそれを拒み、こうして最後の仕事に取り掛かっている。  
 
地上でシモンたちと暮らした七年間。その思い出を整理することは、自分の人生を整理することにも等しいとニアは思う。  
生の幕引きの形を自分の意思で選べるのは、ヒトだけに与えられた特権だ。ならば、自分は潔くありたい。  
死の直前まで生活していた有様を、そのまま残して逝くのも一つの選択だろう。  
だが、それは残された人にとって、あまりに残酷なのではないかと思うのだ。  
 
書きかけの買い物メモ、椅子にかけられた上着、使っていた歯ブラシ。中途半端な生活感を残して自分が逝ってしまったら。  
(きっと、シモンを縛り付けてしまう)  
今にもニアが帰ってくるのではないか。中途半端に開いたドアから、ひょっこり顔を出してシモンに笑いかけるのではないか。  
彼にそんな思いをさせたくはなかった。  
自分が消えたあと、自分の残滓に囲まれて、彼がそこから動けなくなるのは嫌だった。  
 
 
忘れられたいわけじゃない。むしろ、いつまでもいつまでも、彼の最期のときまで自分のことを覚えていてほしいとさえ思っている。  
(でも私は、シモンの傷になるのは嫌)  
彼が、悲しみや苦しみを伴って自分のことを思い返すようになるのは絶対に嫌だった。  
思い返すとき、ニアを愛してよかった、ニアと結婚してよかった、と心から思ってもらえるようになりたい。  
彼が自分のことを思い返すたびに、彼の胸に温かい幸福感と愛情が灯ればいい。  
とても贅沢なことを言っているのはわかっている。  
死んでしまった女を思い出して悲しむな、逆に幸せになれ、なんて。  
 
 
「……あ」  
部屋の整頓を再開したニアが見つけたのは、クローゼットの奥にしまい込んでいたボロボロの服だった。  
「テッペリン攻略戦のときの……」  
薄汚れてあちこち擦り切れたパーカー。背には大グレン団のマークが入っている。  
七年前に自分が愛用していたものだ。  
 
こんなに薄汚れてしまう原因となった戦いを思い出して、ニアはくすりと笑う。  
あのとき倒すべき敵として立ちはだかった父と何の因果か宇宙の果てで再会し、最後には通じ合うことができた。  
それだけで僥倖というものだ。  
 
「……お父様。不出来な娘でしたが、近いうちにお傍に参ります。そのときは親孝行をさせてくださいね」  
パーカーを撫で、微笑みながらつぶやく。悲しくはなかった。むしろ、不思議なくらい満たされていた。  
 
 
 
夕日が室内に差し込む頃、ようやく部屋の整理は一段落ついた。  
どうしても処分するに忍びないもの、シモンに持っていてほしいもの、二人の共通の思い出のもの。  
偉そうなことを言って、自分もやはり執着を捨て切れなかったらしい。ニアの前には大きめの箱が七つも山となって積まれている。  
(でも、七箱なんだ)  
たった七箱。  
その中に、ニアがニアであった証たちが詰められている。  
(箱に入れられた思い出たち。なんだか、箱に入れられて捨てられた私みたい)  
コンテナに入れられた自分をシモンは救ってくれた。あのときシモンに出会えなかったら、自分は自分が誰なのかもわからずに静かに朽ちていた。  
(シモンに出会えたから、私は私になれた)  
 
シモンは自分が消えた後、この箱たちを開いてくれるだろうか。  
いいや、遺品など処分されたって本当は構わない。  
ただ、シモンにとっての自分が、心の中の箱に閉じ込められて鍵をかけられることが怖かった。  
自分のことを、シモンは時々でもいいから懐かしんでくれるだろうか。  
 
(私が、私であることを忘れてしまっても)  
 
たった七つの箱に収まってしまう思い出しかないけれど。  
共に歩んだ期間は、七年間しかないけれど。  
 
 
(あ……)  
 
ニアの背筋が凍った。指先が僅かに透けている。  
「いやっ……!」  
まだ、まだ消えるわけにはいかない。  
自分をしっかり保たなくてはいけない。ここにいる自分を。シモンを愛しているニアを。シモンの花嫁になるニアを。  
信じていないと、消えてしまう!  
(シモン……!)  
ぎゅっと目を瞑り、愛しい男の名を呼んだ、その瞬間。  
 
 
ニアの身体は、温かく力強い腕に抱きしめられていた。後頭部を安心させるように優しく撫で、もう一度ぎゅう、と抱きしめてくれる。  
「シモン……」  
吐息と共に、愛しい男の名を呼ぶ。  
ニアはゆるゆるとシモンの背に手を回し、自分からもきゅう、と抱きしめ返した。  
感触は、確かにある。シモンは、そしてニアはここにいる。  
 
シモンが、ニアを安心させるかのように囁く。  
「ニアは間違いなくここにいるよ。俺の可愛い奥さんは、ここにいる」  
ニアはきょとんとして、シモンを見つめる。  
「私、奥さん?」  
「ああ。奥さん、嫁さん、カミさん……呼び方はなんでもいいけど。俺の一生の女は、ここにいる」  
 
泣けばいいのか笑えばいいのかわからない。  
自分はなんて幸せなんだろう。  
本当なら、今ここで消えてしまっても悔いなんて全然残らないはずなのに。  
でもまだ消えずにいられるのは、やっぱり結婚式の約束と、あのドレスに未練があるからに違いない。  
(本当、女って業の深い生き物ね……)  
 
「落ち着いたか?」  
「……うん」  
「ごめんな、帰りが遅くなって」  
「ううん、いいの」  
ニアの顔を覗き込むシモンの表情は優しい。  
この微笑みを向けられる対象は、きっと自分だけしかいない。そう思うと、ニアの胸に誇らしい気持ちが湧き上がる。  
自分にとってのシモンが、得難いただ一人の男であるのと同じように、シモンにとってのニアもただ一人の女なのだ。  
自分が自分である証明に、それ以上のものなど必要なかった。  
 
 
 
「まったく、いつまで経っても危なっかしいな、ニアは」  
ニアを抱きしめたまま、呆れたようにシモンが言った。  
「それ、どういう意味なの?」  
心外にも程があるシモンの言葉に目を丸くする。  
「言葉通りの意味だよ。初めて会ったときから今まで、本当の意味でニアを安心して見てられたことってなかったかも。いつだって目が離せないんだ」  
軽口めいた物言いだが、聞き捨てならない言葉でもある。  
まるで自分が落ち着きのない幼児のようではないか。  
 
「初めて会ったときからって……私、どんなふうに危なっかしかった?」  
「そうだな……あ、ほら、閉じ込められてたコンテナを乗り越えて出てきたとき」  
「?」  
シモンは小さく笑って言った。  
「パンツ見えそうだった」  
「っ!?」  
「無防備過ぎるんだよな、ニアは」  
かぁ、と頬が赤く染まる。よりにもよって、今更そんなこと言わなくてもいいのではないか。  
自分の中では、シモンと共に歩んだ時間の第一歩として美しい思い出になっていたのに。  
「シモンのえっち」  
「それはニアがいちばんよく知ってるだろ」  
悔しくて言い返すが、まるで子供の反論だ。いつから自分とシモンの力関係はこうも入れ替わってしまったんだろう。  
昔はもっと自分がシモンを引っ張っていたような気がするのに。  
 
自分を抱きしめる男の顔を見上げる。  
(出会った頃は、見上げる必要なんか無かった)  
頭をめぐらせれば自然に視線と視線が出会った。背は自分のほうが高いくらいだった。  
いま見上げる先にあるのは、精悍な顔つきの青年の姿。痛みも悲しみも受け入れて、それでも笑っていられる強い男の顔。  
(かっこいいなあ)  
自然に思ってしまう。胸がきゅう、と締め付けられる。胸の鼓動が早くなる。  
七年も一緒にいたのに、彼のお嫁さんになるというのに、自分は未だにシモンに恋している。  
(出会った頃、シモンはもっと幼くて、アニキさんを亡くしたばかりで沈んでいて、でもとっても優しくて……)  
七年前の彼の姿を回想して、ニアはくすりと笑う。  
なんだ、結局いつだって、自分はシモンに恋していたんじゃないか。  
 
自分より身長が低かった頃から。ぐりぐりした幼い瞳で自分のことを見つめていた頃から。  
(シモンのことが好き。大好き。たとえ私が消えてしまっても、この思いだけは変わらない……)  
それだけは、絶対の絶対だった。だからもう、自分が消えてしまうことなんて怖くない。  
彼を好きになったこと。彼に恋したこと。彼を愛したこと。  
全てを誇って、自分は死んでいける。それは多分、とても幸せなことなのだ。  
 
「じゃあ、そのえっちなシモンにお願いがあるの」  
見上げた男に向けて、ニアは言った。  
「今すぐ私を、あなたの好きなようにしちゃってください」  
悪戯っぽく笑って告げると、視線の先の男はきょとんと自分の顔を見つめ返し――そして笑っていった。  
「ほら、そういう風にニアはいつも俺をびっくりさせるんだ。だから目が離せないんだよ」  
 
 
 
 
 
貫かれ、嬌声をあげながらシモンの身体に縋る。  
翻弄され、頭の中が真っ白になる。力強い腕はか細い身体を離してはくれず、自分に乞われたとおり好きなように嬲る。  
 
初めて抱かれたときは、身体で愛し合うことの本当の意味などわかっていなかった。  
生殖のための行為だということを知識として理解しているだけだった。  
(ただ、あの時のシモンがとても私を求めてくれていることがわかったから。だから、とっても幸せな気持ちだった)  
その気持ちを、今も変わらず持っていることが嬉しい。  
ううん、きっとあのときよりも、何倍も幸せ。  
 
 
「シモン、私ね」  
「うん?」  
「シモンに抱かれてると、女に生まれてきてよかったなあって思うの」  
見上げる彼の頬が赤くなったのを見て、七年前の少年の顔を思い出す。  
あの頃はしょっちゅうこんな表情を見せてくれていたのに、今はすっかり余裕がでちゃって。  
不意を突かれたときにだけしか、そんな顔してくれないんだから。  
「……俺も」  
照れた顔を見られたくないのか、ニアの身体を抱きしめて、耳元で囁くようにシモンは言う。  
「俺も、すごく幸せ。あの時一目ぼれした女の子が俺のことを好きになってくれて、お嫁さんになってくれて。すごく、幸せだ」  
最後の一言は、ニアの瞳をまっすぐ見つめながら優しく告げられた。  
 
ニアはきょとんとして、シモンの瞳を見つめ返す。  
「シモン、私に一目ぼれだったの?」  
「なんだよ、知らなかったのか?」  
可笑しそうに笑う夫の顔を目を瞬かせて見つめ返し――そして、彼の妻もつられてくすくすと笑った。  
 
 
終  
 
 
 
  おまけ 
 
 
事後。  
 
「……シモン」  
「なに?」  
「初めて会ったときの話。『パンツ見えそうだった』じゃなくて……見たんでしょ」  
「ははは」  
「見えたんでしょ、あの時」  
「あー……ええっと」  
「……」  
「……見た。……白だった」  
「……えっち」  
「ごめん」  
 

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