ふらふらと歩く人影。心なしか乱れた金髪。
長い廊下を風紀委員ヴィラルが歩いている。
この問題児の多い学園を取り締まるべく日々精力的に駆け回る彼の疲労の溜り具合は、
最早限界を超えていると言っても過言ではなかった。
視界がぐらりと揺れて思わず壁に片手をつく。
今は午後四時前。
いつもなら授業が終わってひと段落つき、校内見回りを始めているところだ。
朝早く学園へ赴き、授業を真面目にこなし、
下校時間まで学園内にて問題案件の解決、家へ帰れば予習復習の日々。
そんな毎日の無理がとうとう現れたのだろう、今日のヴィラルはすこぶる調子が悪かった。
今にも倒れそうでキンキン耳鳴りがしているし、心なしか頭も痛い。
明らかに過労だ。
本当はそれでも見回りを続行しようとしたが、あまりの視界の回転振りに、
この有様では執務をこなすより一度休息を取った方が効率がいい、と判断せざるを得なかった。
チミルフ先生に一言添え、向かうは保健室。
「失礼する……」
がらがらと力なくヴィラルは扉を開いた。しかし、応答はなかった。
見ればホワイトボードには赤い字で大きく「外出中(はあと) リーロン」とのこと。
少しだけ期待していた例のあの寡黙な女子生徒もいない。思わず小さくため息をついた。
しかし、この体の言うことの聞かなさには耐えがたい物がある。
(仕方ない、無断になってしまうが、ベッドを借りよう…)
後でこの不調を話せばなんとかなるだろうと一人結論付け、
ヴィラルはよろよろと奥へ向かい、やっとの思いでベッドを隠していたカーテンを開けた。
中に滑り込むように入り、ざっくばらんにカーテンを閉める。
満身創痍のヴィラルの目には、そのベッドの足元にきちんと揃えられた上履きが入らなかった。
ヴィラルはそのまま力尽きたようにばたんとベッドに倒れこんだ。
「きゃっ…!」
(きゃ……?)
何か固いけれど柔らかい物がヴィラルの胸にぶつかった。
予想外の衝撃に、意識を離そうとしていた頭で朦朧と手の平を走らせる。
手をつき上半身を上げて視線を下へと走らせた。
掛布の下から少し出ている金色の長い髪。
自分の身体の下には、横向きに寝ている人。
(!!?)
(だ、誰か寝ていたのか!?)
疲れに摩擦しきった頭と身体が一気に動揺する。
倒れたときに自分の胸がぶつかったのは恐らく肩だったのだろう。
思わず身体が弓のようにしなり上がったが、その途端に意識がぐらりと宙に飛んで行こうとする。
そのままその上に倒れこみそうになるのを、両腕で必死で留めた。
余りの疲れとはいえベッドの先客を見逃したという失敗ももちろんヴィラルを動揺させた。
けれど、動揺にはもっと他の理由があった。
自分の下の身体は、頭まですっぽりと掛布に覆われていたものの、
明らかに女子生徒のものだった。
だて、その身体の大きさ、形、感触、そして先ほどの声……。
(声…?)
どこかで聞いた事のある声だったと気が付いた。
(あ……)
ヴィラルの頭が瞬時に理解する。
この声は、たまにこの保健室で会う……、ここに来るとき自分が期待していた……。
(……ッ!)
はっと体勢に気付けば、自分は彼女に馬乗りになっている。
うろたえた腕が掛布を引っ張ってしまい、その下から見えた彼女に間違いはなかった。
(うわぁあああああっ!)
どうしよう、どうすれば。
ぶつかったときとっさに守ったのか腕で顔を覆ってはいるが、これは間違いなくあの子だ。
それを認識すると同時に、身体がフリーズしてしまった。
動けない。
体勢が変なことを連想してしまってヴィラルの顔がかっと熱くなる。
早くどかなくては、と思っているのに身体がいうことを聞かない。
「っ……」
目元を隠したままの彼女の腕の下から、くぐもった声が聞こえた。
少し恐れたような震えているような小さな彼女の響き。
故意ではないはずなのに、罪悪感が全身を走った。
「すっ、すまない!疲れていて、気付かなかったッ」
冷静を保とうとしても、声が上ずってしまう。
その声を聞いて、はっとしたように彼女が顔を露にし、こちらを見上げた。
ヴィラルと彼女の目が合い、その綺麗な瞳が大きく見開いたのをヴィラルは見た。
「本当に済まない。今退くから…っ」
くらくらした頭でその場からどこうと片手を浮かす。
なんてことを俺はしているんだ。
まるで、寝込みを襲ったような…!
けれど、慌てた身体は重心の置き所を誤り、却ってバランスを失った。
手を滑らせ、ヴィラルの身体はそのまま彼女の上に落下した。
「「あっ」」
崩れた衝撃は幾ばくもなかった。
けれどヴィラルは硬直した。
勢い余って彼女の肩を押してしまったらしい。
上向きにした彼女の上で、ヴィラルの顔は彼女の胸の合間に(うわああああああああああああああああああ)
ガラガラガラ。
一瞬思考回路が止まり、次に耳に入ってきた音で俺ははっとした。
どこかち遠くから聞こえるような、保健室の扉が開く音だった。
なんというタイミングだろうか。
その音に、俺は金縛りにあってしまったように動けなくなった。
彼女と掛布一枚越しに密着したまま。
こんな姿を人に見られる訳にはいかない。。
変な誤解を招いてしまっては、風紀の乱れとなるし、それに…。
「失礼します、と。あれ、誰もいないのかなあ?」
「あら、珍しいですね」
うるさい心臓の音の上から、声が被って聞こえる。
この声は…。
「どうしよう?戻ろうか?」
「でもシモン、その傷は放っておいてはいけません。
手当てをしてしまいましょう」
シモンとニア!
どうしてこんなときに!
「えっ、でも勝手に触ったりとかまずいんじゃないかな?」
お願いだ、早く向こうへ行ってくれ。
カーテンが一枚あるとはいえ、それも近寄れば容易に中の人間が見えてしまうはず。
こんな状況がもし見つかればただごとではない。
何故なら俺は今彼女の胸いやこれは深く考えるな!
「大丈夫です。後でリーロンさんに言っておきます」
心臓がばくばく騒がしい。
体が、触れているところが熱い。
「う〜ん、まあニアが言うなら…(ニアのパパもいるし)」
彼女の早鐘のような心臓の音も伝わってくる。
身体を合わせたまま、身じろぎ一つ出来ない。
「さあシモン、座って下さい」
薄布ごしとはいえ、彼女の熱と感触がはっきり感じられてしまう。
暖かくて、華奢で、柔らかくて…。
「うん、ありがとうニア」
「ふふっ、どういたしまして。……」
がちゃりと椅子を引く音が聞こえ、それに続いて落ち着いた足音が聞こえてきた。
それはこちらに近づいてくる。
何かに気付いたように俺の頭の上で彼女が息を飲んだ。
(感づかれたのか…!)
背中が焦りでぞわぞわする。
どうするべきか。自分が一人で先に出るべきか。
そうすれば彼女を隠すことは出来る。
そう思い立ち上がろうと身じろがせたとき、彼女の腕が俺の頭を掴んだ。
まるで抱きしめられるような形になり、俺は心臓が止まりそうになる。
(な、ぜ…)
気配はカーテンを隔ててすぐ横で止まった。
俺の腕は彼女の腰を緩く抱くように、そして彼女の腕は俺の頭を抱いている。
例え不可抗力であったとしても、女子生徒の胸に顔を埋めている男子生徒の図はそれ自体が不埒そのもの。
言い逃れしようともそのその体勢がなかったことにはならない。
これが風評になりでもしたら…その前にカミナやシモンに知られてしまうこと自体が俺にとっては許せない。
いや本当に大事なのはそんなことじゃない。
俺はただ彼女に迷惑をかけたくないのだ。
頼む。開けないでくれ。
そう祈ったき、カーテンの向こうでガラガラと棚を開ける音が耳に入った。
「薬箱ってここでしたよねシモン?」
「うん、確か前ロン先生はそこから出してたと思うけど…」
俺は一気に脱力した。
ニアは薬箱を取りに来ただけ…、だったのか。
ベッドの横の戸棚の中の。
彼女が腕で俺を諌めた理由も理解した。
彼女は保健委員故にニアが薬箱を取りに来ただけだと分かっていたのだろう。
けれどやはり気は抜けなかった。
こんなに近くにいては、いつ間違って見つかるか分からない。
息を潜めようとするけれど、浅く早い呼吸が口から漏れる。
もういいから早くどこかへ行け……。
「ああ、ありましたシモン」
再び棚を閉める音と、遠ざかる気配を感じた。
俺は静かに息を吐いた。
彼女も同じようだった。
「いたたたた…」
「くすくす。我慢して下さい」
和やかな会話が聞こえる。
でも俺は気が気ではなかった。
今、俺は彼女と、……。
意識すればするほど一分一秒が長く感じられた。
早く行け…っ。
「ふぅ、これで終わりましたよ」
薬箱を閉める音と同時にニアの終わりを告げる声が聞こえた。
ようやく、出て行ってくれる…この心臓に悪い時間ももう終わりだ。
いや心臓よりも彼女に悪すぎる。
奴らが行ったら、まず謝らないと…。
ここで、少し妙なことに気がついた。
奴らが動かない。
「ありがとう、ニア。…………」
「…シモン……」
なんだこの空気…?
がたっ。
「んっ、シモン…」
ちょ、
「……な」
ちょっと、
「…ぅん……ちょっとだけ、なら…」
ちょっと待て!
くちゅ。
何の音だ!
サラリ。
こ、これは衣擦れの音!?
ちゅ。
……。
「あっ、ふぅん…ッ」
…………。いやいやいや。
「シモ、ンんぅ…」
ここで少し冷静になってみようじゃないか。
これは俺の思いすごしってやつだ。
ちゅ、ちゅ。
多分まだ傷口がちょっと膿んでいるのだ。その音だこれは。
「ニア、ごめん、ちょっと……お願い……」
何言ってるんだニアならさっきから手当てしているじゃないか。
かちゃかちゃ。
金属の音。ベルト?
いやいや、まさか。これは薬箱を開ける音だ。
ジーッ。
ジッパーのついた薬入れか。多分使い残しだろう。
「あ、…ゴム…」
ゴムで部分止血か、相当出血していたのだな。
心臓より高い位置に持っていけよ。
「ん、ん、」
「あっ、ニア…ッ」
ぐちゅぐちゅ。
「ひおん、、おいひい、よ…」
「ニア、凄く、イイよ…ッ」
(あああああああああああああああああああ!!
もう無理ッ!無理がありすぎるッ!!)
というか。
(鎮まれ俺の下半身!)
この密着具合。しかも聞こえてくるあの音。
反応するのはある意味当然のこと。だがッ!
(あ、あんな奴らのせいでッ、この子との関係がどうにかなって堪るかッ!)
体の位置がずれているお陰で股間が彼女に接していないのがせめてもの救い。だが…!
(耐えろ、耐えろヴィラル。学園の兵士はうろたえない!)
二人が出て行ったのは、どれほど経ったか分からないような長い時間の後だった。
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その後保健室にはベッドの上で正座して謝るヴィラルと困ったように顔を真っ赤にした彼女の姿があった。
いろいろな意味で恥ずかしすぎて顔がまともに見られない。
しどろもどろな会話の中で、彼女から気にしないでと言われ、
それはどういう意味だと追ってベッドから降りようとしたとき、
突如ヴィラルの視界が回転した。
ようやくヴィラルは思い出した。元々倒れる寸前であったことを。
日々の不調と共にそのまま崩れ落ちた彼は、その後数日間寝込むこととなる。
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「シモーーーーン!!!!!貴様という奴はッ!100万回死ねぇぇぇええええいッ!!」
久々に登校してきた病み上がり風紀委員は、
某兄貴曰く手に持った鉈と相俟ってまるで般若の如き恐ろしさだったそうな。