学園祭を明日に控え、中・高等部は午前中で授業を切り上げ、最後の仕上げにかかっていた。
羅顔学園の文化祭は一般客も招待され、中等部3年がその案内を勤めることになる。
1・2年はというと、初等部の学生たちを連れ、会場を案内する役割を担っており、
実際に出し物を主催するのは高等部のみである。
高等部についても、それぞれの学年には役割が決められており、
1年生は展示物、2年生は演劇か中庭や運動場でのイベント、3年生は校内を使った出店を担当している。
もちろんクラスでの出し物の他に、顧問が希望届けを出せば、部活単位での催し物を行うこともできた。
出店などでの販売は、現金での清算が行われているが、
生徒会の監査によって採算を取らない価格設定が義務付けられている。
それでも、やはり『すずめの涙』ほどではあるが、発生してしまった利益は、
学園の端に設けられ学校菜園で使用される、肥料や苗木などの資金として使われているようだ。
デッキブラシに身体を預けたまま、じっと一点を見つめ、水泳部の顧問がプールサイドに佇んでいる。
寝不足なのか、顔にはクマをつくり、濡れたシャツが張り付いた身体は、呼吸する腹部以外はピクリとして動かない。
「――先生?先生ってば――水の入れ替え終わったみたいですよ?」
顔にあたる水飛沫で現実へ引き戻されると、目の前には緑色のホースをこちらに向けた男子部員が立っていた。
「あ・・・あぁ、そうだな、そろそろいいだろう」
顧問が視線を向けた先には、1.5m程度の深さがあるプールに半分ほど張られた水が、
キラキラと西へ沈みかけた太陽の光を辺りに散らしていた。
水泳部の出し物は、毎年恒例になった『釣堀』である。
地域との交流もスローガンとして上げている文化祭だけあって、
顧問が行きつけにしている『ガバル亭』という居酒屋の亭主が、特別ゲストとしてやってきてくれる事になっている。
釣ったサカナダカナンダカを、その場で捌き、馳走してくれるという趣向だ。
プールの眩しさに目を細めた顧問は、そこから見える自分の教室へ視線を仰ぐ。
10日前の一件以来、ダヤッカは自分の教室から足が遠ざかっていた・・・いや、遠ざけているというのが正解だろう。
キヨウはあの翌日から、何事も無かったかのように登校を続けており、
傍目では落ち込んだ素振りさえ感じさせず、生徒として話しかけてさえくる。
逆にヨーコは、こちらから話しかけたとしても、相手にしないか、
睨み返してくるといった感じで、アディーネ先生もそれは同じだった。
では、自分は・・・というと、綺麗に洗われた弁当箱が、10日前と変わらず職員室に置かれたままになっていた。
「玉無し野郎か・・・確かに、その通りだな」
プールの外にガンカーが横付けしたのを耳で確かめると、
そうひとりごちて約束していた居酒屋の亭主との挨拶へと向かう。
こちらも最後の追い上げが始まっていた。
日が変わり、天気にも恵まれた文化祭当日。
グラウンドではクイズ大会、中庭ではライブといった催し物が行われており、
学園のそここから溢れる売り子の声が、秋空の下に響いていた。
校舎のいたるところに展示された高等部1年生の出し物の中では、
机とダンボールで仕切られた『巨大迷路』なるものが、南館の屋上で人気を集めている。
ちなみに、学園側から危惧されていた『赤いサングラスの問題児』は、
『カミナの鬼ライブ』という題目で中庭のライブ会場に殴りこみを行っていたが、これはこれで大盛況を収めている。
中でも、観客の中から引きずり出されたゴーグル姿の少年が、
無理やり相方を勤めさせられた歌は、翌週の『シベラのoh!My mind』で取り上げられるほどの人気ぶりであった。
一般客の来館も正午前から始まり、中・高等学校の校舎が人で埋め尽くされていく中、
校内放送で召集された『高2-C』の面々が、体育館の2階にある控え室へと到着した時には、
マッケン先生が担任をしているクラスの演目、『遠山の金さん銀さん』が開演したところであった。
1演目に許された時間は30分、その後10分の休憩時間をとって、次の演目が始まる。
せいぜい3クラス分の人数しか収容できない控え室では、他のクラスが準備をしており、
キヨウたちの演目が始まるまでは、自分たちを含め残り2クラスまで迫っていた。
配役をもらっていないキヨウは、役者たちを送り出すため、衣装の着付けなどで忙しく立ち回っている。
「先生まだこないの?」
「どうだろ、部活の方じゃないの?」
そう口にしたクラスメイトに、背後で衣装の仮止めをしながらキヨウが答える。
10日前、学校を早退したキヨウが1日かけて辿り着いた答えは、
『自分は生徒なのだ』という至極簡単な現実であった。
だから、その現実に忠実であるよう、振舞ってきたし、生徒と教師の関係を崩さぬよう、そう演じてきた。
薄っぺらい言葉だけを並べて、何時下ろせるのかも分からない幕の下で、上っ面だけの舞台を演じていた。
そして、新しい恋を見つければ、これもいい思い出になるのだと、そう自分に言い聞かせ続けていた。
失恋の後はいつもこうだと・・・、暫くすれば新しい恋を探す自分が居るのだ・・・、
今回は何時もより、その期間が長いだけだ・・・と。
未熟な恋愛経験から得た保身術で、そう自分に言い聞かせていた。
「はい、できたわよ」
何時もの調子で笑顔を見せるキヨウの姿がそこにあった。
プールの入り口付近に、競パンにジャージの上着を羽織っただけという、
いかにも水泳部といった格好をした顧問の姿があった。
パイプ椅子に腰を掛け、来た客には竿と餌を渡し、帰る客から竿を回収する、
決まった動作を繰り返す顧問とは違い、部員たちは来客の接待に追われるようにプールサイドを走っている。
パンッと目の前で何かが弾けた。
ぼやけた焦点が一人の部員をとらえる。
「先生、あそこ・・・根掛りしちゃったみたいで、お願いできませんか?」
打ち鳴らした両手をパッと広げ、顔を覗かせた部員の傍らには、
バケツに入ったサカナダカナンダカが、水飛沫を上げ不機嫌そうな顔でこちらを見ていた。
どうやら、『ガバル亭』の亭主へ食材を運ぶところなのだろう。
「根掛り、か・・・わかった、あそこのお客さんだな」
「どうしたんです?ボーっとしちゃって、変ですよ、最近」
そういう部員の言葉には答えず、顧問は立ち上がってプールの中へと姿を消していった。
釣堀を再現するため循環ポンプを止めたプールは、昨日掃除を行ったのにも関わらず、
早くも水コケが付着し始め、ヌルっとした感触が足に力をいれさせる。
吸水口にかかった針を見つけ、水中へと手を入れた、その時だ。
「――っ!」
足の裏に走る鋭い痛みに、思わず顔をしかめる。
誰かが落とした――根掛りした糸を、無理に引っ張ったのだろう――別の針を、体重をかけて踏み込んでしまったため、
根元まで完全に刺さってしまった針を力任せに引き抜くと、問題の根掛りした針を外す。
お辞儀をするのに客に会釈で応えると、その隣で頬杖を付いたリーロンが、
釣りをするわけでもなく、こちらに向かって小さく手を振っていた。
濡れた足でプールサイドに足跡を残し、こちらに近づいてきた同僚に、
リーロンはポケットから取り出した絆創膏を手渡す。
「水遊びはお肌の敵よ、ここへは目の保養に来ただけだし、ね」
絆創膏を受け取り、釣りを薦める同僚に、リーロンは日傘の影から顔を覗かせそういうと、
再びプールサイドを走る部員たちへと視線を戻した。
「――教師、って、いったいなんなのかしらね、ダヤッカ先生」
少しの会話をした後、リーロンが切り出した。
その問いに、教師とは、教育者とは、生徒たちの自己実現のために存在し、
価値観が不安定な学生たちを認め、時には叱ってやれる『評価者』であるべきだという想いを、
不器用ながらもまとまりきらない言葉で答えた。
「そうね、それも教師像の1つ、でしょうね・・・」
先に続くであろう言葉は、口にされずとも理解できた。
確かに、ここ数日の自分ときたら、授業にも身が入らず、導いてやるべき存在に背を向けている。
口先だけで立派なことを言ってみたところで、行動が伴っていない、
まるでそこいらに張られた、うそ臭い笑顔で国を語る『ポスターの中の大人たち』と同じではないか――
「――ねぇ」
思考の渦に飲み込まれる既の所で、ダヤッカの意識を引き戻したリーロンは、
部員たちに向けた目を動かさず、続けた。
「アナタはどうしたいの・・・ダヤッカ」
その言葉に、両の頬を叩かれた思いで、リーロンに向けた目を大き見開いたダヤッカは、
何かを発しようとした口をぎゅっと縛り、次の瞬間には時計塔で時刻を確認していた。
自分のクラスの演目開始まで、後30分。
シャワーを頭から被り両手でくせっ毛を後ろにかきあげ、
頬を叩いて、男は裸足のまま職員室へと走り出した。
「・・・まったく、アナタも相当、面倒くさい男ね」
その言いながら、残された絆創膏を拾い上げ、リーロンもプールを後にした。
「さぁ、次のクラス、そろそろ準備して」
先のクラスの演目もそろそろ終盤に近づいたのだろう、
階下から聞こえる歓声に、『高2-C』の面々も緊張が高まる。
誰が言い出したわけでもないが、自然と円陣を組みはじめた時だった。
「ちょ、先っ、先生!?」
円陣の中の1人がそういって、大きな音とともに開かれたドアの向こうに目を丸くする。
つられるようにクラスの面々が顔を向けた先には、
ずぶ濡れのまま、小さな包みを片手に肩で息をしている担任の姿があった。
勿論、プールに居たままの格好に加えてずぶ濡れだ、思わず悲鳴を上げる女子もいたが、
担任はそんなことには構いもせず、1人の少女を目に据え、1歩づつ距離を近づけていた。
「キヨウ、話があるんだ」
突然の出来事に、キヨウは困惑した顔で担任の男を見上げる。
10日前でこの男のことは終わったのだ。
ずっと演じ続けてこれたのだ。
後は時間がなんとかしてくれるものだと言い聞かせてきたのだ・・・答えることなどできるはずもなかった。
自分だけしか居ないはずの舞台で、行き成りスポットライトを浴びせられたもう1人の自分に戸惑いながら、
強引に引き寄せる手に抵抗することもできず、キヨウは連れられるように控え室を後にした。
残された生徒たちが唖然と互いの顔を見合う中、
ヨーコだけは、小さくエールを送っていた。
北館の屋上へと連れてこられたキヨウは、金色の髪をなびかせ、男の背中を見つめていた。
西に傾いた太陽が、濡れた足跡を乾かし、小さな赤い染みだけを残していく。
グラウンドで行われていたクイズ大会も既に終了しており、
今は一般客と生徒たちがまばらにいる程度である。
「――俺は――っ」
そんな景色を眼下にした男が、小さな声で言う。
そして、自分の頬を叩き、鉄製の柵を握る手に力を込め、
丸めた背中を伸ばして、肺が悲鳴を上げるほど精一杯、空気を吸う。
「俺は!お前が好きだ!!」
「男として、お前を愛してるっ!」
「だから、少しの間待ってくれ!!」
一息にそういい終えた男が女の方へと向き直る。
「・・・卒業するまでは、ダメなんですね」
女の質問に男は答えない。
「待ちますよ・・・私は、キヨウ=バチカは待ってます・・・ダヤッカ=リットナーが迎えに来る日を」
ふっと肩の力を抜き、髪をかきあげながら長い沈黙の末、女は笑顔でそう答えた。
その答えに、男は顔をくしゃくしゃにして、最初は小さな嗚咽を、そして次第に大声をあげて泣いた。
女が顔を覗き込むように近づくと、男は涙やら鼻水やらでグシャグシャになった包みを持ち上げ、
半ば咽び泣くような鳴咽交じりの声で言う。
「弁当、ぅまかっ・・た、ま゛た・・余りものがあっだ・・・ら、作って・・・ィック、欲しい・・・」
「はいはい、余りものがあったらね・・・あぁ、もう、泣かない泣かない」
母親が子供をあやすようにキヨウがダヤッカを抱きしめる。
「――まーったく、どっちが大人で、どっちが子供か分からないね」
突然聞こえたその声は、誰も居ないと思っていた屋上に突然現れた、科学教師のレイテだった。
いや、足元に転がる吸殻の数から、2人がここに来るよりも前に、ここでタバコを吹かしていたのだろう。
「男はどいつもガキさね・・・玉無しじゃないってとこ、しっかり見せてもらったよ」
体育教師チミルフの上で足を組んだもう1人の声の主はアディーネだった。
キヨウとダヤッカがそろって目を丸くする中、何かを言おうとしたチミルフを足蹴りで黙らせたアディーネが、
親指を中指と人差し指で挟むようにして続ける。
「に、してもだ、流石にその格好はネェ・・・ヤル気満々ってところかィ?」
親指をクイクイと動かすアディーネ。
プールを出てからの記憶を1つずつ繋ぎ合わせ、
自分の格好を思い出したダヤッカの顔が、赤ではなく青く変色していく。
キヨウはそんな様子に、ようやく頭がついてきたのか、声を上げて笑い始める。
この男は満足に告白するムードすら作れない、そして自分はそんな男に惹かれている、それが可笑しかった。
「地理教師ダヤッカ先生は一体誰に告白したのか?高等部2年C組みの演目が、もうすぐ開演よー!」
グラウンドから聞き覚えの声が聞こえたのは、その時だった。
柵越しに様子を窺うと、グっと立てた親指をこちらに向けたリーロンが、日傘越しにこちらに視線をおくっていた。
『高2-C』の演目は、舞台変えの時間も利用して、担任が演じる『告白劇』から幕を上げることになった。
誰が録音したのか、突然鳴り響く先ほどの告白が大音量で流れる中、
舞台の袖から押し出されたダヤッカの目の前に、スポットライトに照らされたリーロンが姿を現す。
あたかも自分が告白されたように身を捩るリーロンを前に、ダヤッカが棒読みに近い声で言う。
「ウワーッ、ソノ発想、ナカッタワー」
結局、クラス演目のつかみ程度に行ったこの告白劇のおかげで、
教師と生徒という禁断の恋物語は、人々の前に姿を現すことなく学園祭での笑い話に置き換わった。
翌日、文化祭の2日目に行われた閉会式では、
演劇のクラス順位が発表されたが、『高2-C』は惜しくも2位に終わった。
「こんにちは、ボクの名前はシトマンドラです」
「演劇部部長のシトマンドラです」
そういって舞台に現れた男子生徒からトロフィーと表彰を受け取るヨーコ。
その一方で、キヨウとダヤッカの恋愛劇は幕を開けたばかりであった。
-おわれ-