バンッ、と重い音が、夕闇に染まりつつある校舎に響く。
ガンカーのトランクを閉め、ウィンドウガラス越しに車内の荷物を確かめる男がいる。
ビニールシートが数枚と、それをテント状にする為のポール、
メガホンやストップウォッチ、紙コップといった細々としたものが詰め込まれたダンボールが数個、2ドアのガンカーの中でギチギチにひしめきあっている。
「これで忘れ物は無し、だな」
男が受け持つ水泳部は、シーズン最後の試合――といっても、公式試合ではなく地域の学校で行う記録会だが、
高等部3年生にとっては最後の試合――を明日に控え、借りてきたガンカーへ用具を詰め込んでいるところなのだ。
一通りの確認を終えた男が、積み残した10リットル用のウォータージャグ2つを両脇に抱え、
欠伸をかみ殺しながら職員室へと向かう途中、隣接する建物の3階にある自分の教室へと目をやった。
今日は土曜日で学校は休みだ、夕飯時も近いというのに、まだ明かりがついている。
男は自分の教室へと進路を変え、サンダルを鳴らし始めた。
「そうそう、そのまま・・・くっつけて、あぁ!もう少し左・・・」
明かりのついた教室にいたのは、小太りの男子生徒のグループが担当する大道具係だった。
手にした紙と、教室に配置されたセットを交互に見ながら、右だ、左だ、と指示が出ると、
生徒たちがそれを抱えてズルズルと移動させている。
――ガラガラガラッ
教室のドアが開く音に、一同の視線が集まる。
「誰が残っているんだと思ったら、テツカンたちだったのか?どうしたんだこんな時間まで」
ドアから顔だけを覗かせた担任教師に、テツカンと呼ばれた小太りの男子生徒が言う。
「今日で片付けてしまえば、明日はゆっくり寝れますからね?ダヤッカ先生も見て下さい」
そういって舞台イメージの書かれた紙を担任へと渡すと、
テツカンは自分の肩を叩きながらクマの出来た目を擦り、大きな欠伸をした。
手渡された紙と教室内を見渡す教師の名は、ダヤッカ=リットナー、このクラスの担任だ。
水泳部の顧問ということもあって、色黒でがっちりとした肩幅の筋肉質な身体なのだが、
どこか間の抜けた――眉がないのが理由なのか、そういう顔つきなのかは分からないが――何時も困った顔をしている、締まらない印象がある。
性格はいたって真面目で、『変り種』の多いこの学園の教師陣の中では、
少し『地味に映ってしまうのもこの男の特徴』だろう。
住まいは学園の敷地内に設けられた職員用の寮を利用しており、
山積みにされたカップ麺と、壁に貼られた『イワシタ=シマ』のピンナップ、万年床・・・と、
生活感溢れる部屋を見れば、浮ついた話が皆無なのは誰の目にも一目瞭然だった。
「絵の通りだ、すごいじゃないか・・・体育館へは先生が運んでおくから」
どう見ても『感性』という言葉とは縁遠そうな担任の言葉に、生徒たちがどれだけの期待を持っていたのかは分からない。
しかし、早く家に帰してやろうという想いで、何時もより困った顔で即答する担任に、
生徒たちは思わず苦笑いを浮かべてしまった。
大道具を体育館へと運び入れを終え、ようやく職員室へと辿り着いた頃には、日付が変わるまで3時間を切っていた。
ウォータージャグを下ろし、自席の椅子に腰を落として一息つく。
その視界に、今にも崩れ落ちそうになった山積みの答案用紙が割り込んでくると、
自分の心境を重ねてしまい、今度はため息をついていた。
心に溜まった問題とは、初めて受け持つことになったクラスについて、
明日に試合をひかえたた部活について、赤いサングラスの問題児について、そして――
「あら、帰ってたのね?」
唐突にかけられた声の主を探すため、椅子の背もたれに首を預け、
逆さまになった世界に視線を泳がすと、給湯室から出てきた同僚と目が合った。
「リーロンか、テストの採点が残ってるのを思い出してな」
再び給湯室へと姿を消した彼にそう返すと、ダヤッカは引き出しから赤ペンを取り出し、答案用紙との睨めっこに取り掛かる。
3人ほどの採点が終わったところで、先ほどの彼が近づいてきたことを、空腹で敏感になった鼻が感知すると、
振り向くよりも早く、湯気のたつコーヒーとクッキーがのった小皿が差し出された。
二人の仲は先生同士というより、寧ろ気の合う連れに近い。
年齢こそ違えど、この学園の就任式では肩を並べて歓迎され、
なにより同じ街の出身ということもあってか、暇が合えば酌を交し合う仲なのだ。
「大変ね、地理の教科担当に、部活の顧問、今年はそれに加えてクラスの担任ですものね」
リーロンがどことなく色っぽい、何時もの口調で言う。
保健室を任せられている彼は、ダヤッカのように担当が複数あるわけではなく、
学園内での医者として以外は、2週に1度で配布されている「健康だより」を執筆したり、
放課後は『とある神様』として生徒たちの相談にのっていたりするのが役割だ。
その井出達は、背丈こそダヤッカと同じで長身に部類されるのだが、目の下の泣き黒子、艶のある唇、
紫色のアイシャドウが特徴の――男性なのか女性なのも怪しい――実に謎の多い教師である。
女っ気がない身からすれば、彼の女性にも似た気遣いは、付き合い方さえ間違えなければ、助けられることが多い。
そんな同僚に一言礼を言い、小皿の上からクッキーを1枚口へと放り込むと、
コーヒーをひと啜りし、テストの採点を片付けはじめる。
暫く他愛のない話しをした後、藁半紙を擦るペンの音と、
ダヤッカの口からこぼれる溜息だけが部屋の中を埋め尽くしてた時だった。
「・・・悩み事でもあるのかしら?」
何時の間にか頭を抱え込むような姿勢になったダヤッカに、リーロンは問いかけてみたが、
彼からは生返事しか返ってこない。
「あなたのクラスの、確か・・・チア部に所属してる」
採点をする手が止まる。
「応えてあげないの?」
「っなにを言っているんだ、俺は教師だぞ!?アイツは生徒だ!」
ダヤッカが椅子を跳ね除けながら立ち上がる。
膨らみきった風船に針をさしたように、爆発した男にリーロンは最初と変わらぬ口調で続ける。
「でもアナタは男、彼女は女、あたしみたいにどっちか分からない、なんてことはないじゃない」
「わかるように言ってくれ」
「真面目なのがアナタのいいところだわ――でも、教師だからといって、男でなくなる必要はないって言ってるのよ」
立ち上がった拍子に倒れた椅子が、静まり返る職員室にカタカタと後を引いた。
「俺は、俺は教師・・・なんだ」
「・・・そう、わかった」
漏らすようにそういったダヤッカに、それ以上の言葉はかけずリーロンは職員室をあとにする。
残され職員室で、採点途中の答案用紙には「キヨウ=バチカ」の名が書かれていた。
-つづく-