──夢を見た、一人の何も持たない男の。  
 
 
 じっさい、彼は何も持っていなかった。  
 故郷も、家族も、友達も──自分の好きなようにできる生命も、心すらも、何一つ。  
 
 その世界には一人の、偉大だけど孤独な王様がいた。  
 長い長い間、大きな塔の天辺に独りいて、世界が壊れないよう見張り続けていた。  
 
 男はそんな王様が、世界を安寧に保つために作った兵隊の一人に過ぎなかった。  
 親もなく生み出され、生まれつき与えられた役目を果たす以外の生き方も知らず、  
自分がどうしてそういう風に生きなければならないのかと考える事も許されない。  
 
 だがある時、男は気が付いてしまった。  
 
 自分が、自分の仲間たちがとてもいびつな命だという事を。  
 王様が、自分達の目から本当の世界を隠している事を。  
 
 
 その男の仕事はある生き物を狩る事だった。  
 
 狩るといっても食べたり毛皮を取ったりするために殺すのじゃない。  
 「ニンゲン」という、この世界には存在しないけれど、そう、姿形は自分たちとそれほど変わらない、  
話をしようと思えば言葉だって通じる生き物を、王様が殺せと命じるからそうするだけ。  
 
 可哀想だとは思わないのかって?  
 長いこと、そんな風には考えもしなかったよ。  
 生まれた時からそれは狩らなければならない生き物だと教えられていたから。  
 彼らが狩りに使う道具は大きくて、彼らを厚く硬い殻にすっぽりと包んでしまって、  
狩られる者の声や温度を彼らに届かせることは滅多に無かったから。  
 
 だがある時、男が狩ろうとしたニンゲンは今までとは様子が違った。  
 
 風変わりなそのニンゲンは男の耳に言葉を届かせ、男の皮膚に痛みを教えた。  
 そればかりでなく、男が王様から賜った大切な道具の一部を壊して奪い取っていった。  
 
 もちろん男は驚いたし、とても腹を立てたよ。  
 相手は自分たちよりも劣っていて、ただ一方的に命を奪われるだけの、それこそ野山で食べるために  
狩る獣とそれほど変わりはないものだと思っていたのにこれではまったく同等の存在みたいじゃないか。  
 
 それから男は、必死にそのニンゲンを追い、戦いを挑み続けた。  
 いつの間にか、その不思議なニンゲンは狩りの獲物などではなく対等の戦いを求める相手に変わっていて、  
男ももはやそれを不思議には思わなかった。  
 
 いつでも、どこにいてもそのニンゲンの事を考えない時はないほどに追い求める間に男は何度も傷付き、  
更に色々なものを失っていったけれどそれでも彼は止まらない、いや、止まれなかった。  
 必死に地を駆け、水に潜り、空を飛びもしてようやく望む相手に手が届きそうになったその時、  
男は世界の全てがひっくり返るような事実を知ってしまった。  
 
 自分が今までずっと追い求めていたニンゲンはとうの昔に死んでいて、これまで自分が戦い、  
破れ続けていたのは全く別の、もっと小さなニンゲンだったことを。  
 あのニンゲンだけが特別だったのじゃない、ニンゲンという生き物は全て自分たちと対等な、  
いや、もしかするとそれ以上の存在なのかもしれないということを。  
 
 何もかもがわからなくなった男は禁を犯して王様に問いかけた。  
 ニンゲンとはいったい何なのか、自分たちは何なのか。  
 自分たちはどうしてニンゲンを狩らなければいけないのか。  
   
 生まれつき逆らわないよう、疑わないように作られていたはずの男のその行いに、王様は質問の答えと、  
そして重い罰を与えた。  
 
 男はそれまで自分が信じてきた世界の全てと、それまで自分がただ一つ持っていた、  
生命の終わりを迎える自由すら失った。  
 
「──そのあと王様も、王様の国もニンゲンに滅ぼされて無くなってしまったけれど、彼はたった独りで、  
死ぬことも老いることもできない体を抱えて旅に出て──長い長い旅の途中で、少しだけ俺の中にいて、  
また遠くへ行ってしまった」  
 
 眠りにつく前のほの暗い部屋の中で、枕に肘をついてそんな話をしていた夫の瞳が、  
そろそろ消えそうな蝋燭の灯りを映して綺麗な黄金色にゆらめいた。  
 さっきまで寝物語をねだっていた娘は彼の腕の中、とうにすやすやと寝息を立てている。  
 その小さな肩が冷えないよう毛布を打ちかけて宝物のように抱き寄せた大きな手に触れ、  
腕に、肩にまで滑らせた手で綺麗な黄金色の髪を撫でると、くすぐったそうに眼を細めて小さく笑った。  
 
 夫の語った、今日の夕方まで彼の中にいた「別の世界の彼」の話は途方もないものだったけれど  
それがけしてただの夢や物語でないことは何故だか信じられる。  
 
 あの夕空を過ぎる光を見上げた焦がれるような横顔。  
 この世界を、私たちを、甘い夢だと呟いた声。  
 
 その姿が眩い緑色の光と変わって空の光へ吸い込まれていったように見えたのは一瞬のことで、  
目を開ければそこにはいつも通りの夫がいて穏やかな表情で空を見上げていたのだけど、  
確かに誰か、同じだけれど全く違う彼があの時そこにいたのだと。  
 
「……そんなに辛い生なら、捨ててしまおうとは思わなかったのかしら」  
 
「さあ、どうだろうか。だけど彼は自分を哀れんだりはしていなかったと思う。とても誇り高い人だったよ。  
それに、きっともう、彼は手に入れているはずだ」  
 
 故郷と言える場所も、友も、生き続けるに足る理由も。  
 ここにあるものは何一つ持っていなくても、ここには無いものを沢山得たのだと、  
なんだか自分のことのように言う夫の頬をそろりと撫でて、娘の頭越しにそっとキスをする。  
 
「あなたは別の世界に行ってしまったりはしないわね? ヴィラル」  
 
 当たり前だと優しく笑った彼の手が私の体を抱き寄せるのとほぼ同時に、燃え尽きた蝋燭がふわりと消えた。  
 

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