「ロシウ君」
唐突に発せられた上司の声に嫌なものを感じ、ロシウは探るような視線を上司――シモンに向けた。
わざとらしく君付けされて呼ばれるときはろくなことにならない。
一応シモンは席についたままの状態ではあるが、指先でくるくるとペンを回している上に明らかに視線が宙を泳いでいる。
彼が今見つめなければならない現実は、デスクの上に積まれた書類の山であるというのに、だ。
「なんでしょうか、シモン総司令」
「今日って何日だったっけ」
「二月十四日ですが」
「そうだよなあ……」
ふう、とシモンはため息をつき、そのまま黙り込む。黙り込んだから仕事を再開してくれたかというと
決してそうではなく、相変わらずそわそわと落ち着きがない。
(一体何なんだ、この浮つき様は)
質問したら負けのような気がする。というか、ロシウが「どうしたんですか」と訊ねるのを待っているのではないかとすら思える。
(総司令が浮つく原因……最有力候補は、やはりニアさんか)
ロシウの脳裡に、ニアの花のような微笑が浮かび上がる。
そういえば以前シモンが仕事に尋常ならざる集中力を発揮したときも、ニアが全ての原動力だった。
(二月十四日と、ニアさん……なるほど)
全てを理解し、ロシウは深いため息をついた。
世間の浮かれたイベントに総司令ともあろうものが、と一喝したいところだが、シモンとて一人の若い男だ。
ここは気の利いた一言でもかけて、仕事に意識を向けさせるのが得策だろう。
ロシウはこめかみを押さえつつぼそりと言った。
「心配しなくても、ニアさんならきっと渾身の力を込めた手作りチョコレートを用意してくれてますよ」
ぎょっとしてシモンがロシウを見上げる。そんなに自分は色恋沙汰を解しない男だと思われていたのだろうか。
「だから今のところは集中して仕事を――」
「驚いたな、お前の口からチョコレートなんて単語が飛び出すなんて」
シモンは笑い、視線を落として頭を抱え込む。
「違うんだよロシウ、そうじゃないんだ」
「は?」
「ニアは俺のためにチョコを用意してくれてる。そこは心配してないんだ。去年も一昨年もその前も、心のこもった手作りチョコを作ってくれたしな」
「はあ」
ロシウの心中にうっすら殺意を湧き上がらせながら、シモンは真剣な面持ちで更に続けた。
「でもな……俺はだめなんだ」
「は?」
「俺はまだ用意してないんだよ……チョコ」
「……はい?」
ロシウの頭上に疑問符が浮かんだ。なぜ男性であるシモンがチョコレートを用意しなければならないというのだろう。
「ロシウ……逆チョコって知ってるか」
「ぎゃくちょこ……? いえ、初耳です」
「そうか……俺も昨日初めて知ったんだ」
うう、とうめき声を上げてシモンはデスクに突っ伏した。突っ伏したまま、くぐもった声で続ける。
「なんか今年は、男から彼女にチョコをあげるのが流行ってるらしいんだよ」
「はあ……そうですか。製菓メーカーも必死ですね」
「俺ニアに逆チョコまだ用意できてない……」
「一ヵ月後にお返しすればいいんじゃないですか」
この時点でロシウは視線をシモンから外し、手元の書類のチェックを始めていた。
そもそもあなた恋愛イベントをスタイリッシュにこなすような柄じゃないでしょう、という事実を指摘することだけはかろうじて我慢しておく。
「ニア、期待してるんじゃないかな……」
「ニアさんは見返りを期待するような人ではないですよ」
「でも贈ったほうが気持ちは伝わるよな……」
「……まあ、何もないよりは」
「キノンとかも誰かから逆チョコ貰ったりしてな……」
ばさ、とロシウの手元から書類が滑り落ちた。
「どうした、ロシウ」
「い、いえ、なんでもありません」
慌てて書類を拾い集めるロシウ、それを見下ろすきょとんとしたシモンの目。
(まさか総司令、計算して今の台詞を……!?)
そんなはずはない、と思いたい。彼女への気持ちを誰かに話したことなど無論ないし、そもそもロシウ自身
この感情をどう形容したらいいのか未だあやふやな部分があるのだ。
(それすら見越して、キノンの名を出したのだとしたら……この人は恐ろしい人だ!)
いや、それよりも。
(キノンが……逆チョコ……)
本来であれば彼女が誰かにチョコレートをあげるのかどうかを気にするのが先だろう――ちなみに去年も一昨年もその前も、
ロシウはキノンからチョコレートなどは貰っていない。
しかし今年はその逆――つまり、彼女に好意を寄せる男の心配をもしなければならないというのか。
彼女は真面目な人物だが、同時に若い女性でもある。イベント事に乗じた演出に嫌な顔はしないだろう。
(う……なんだか気分が悪くなってきた)
「す、すいません総司令……体調を崩したので一旦席を外させていただきます」
「え? 大丈夫か、ロシウ」
「た、たいしたことはありません……」
ふらふらとよろめきながら退室するロシウを見送った後、シモンはよし、と気合の声をあげた。
ロシウには悪いが、仕事を片付けるための気合――ではない。
(それにしてもロシウ、顔色悪かったな……なんか変なもんでも食べたのかな)
ま、それはそれとして。シモンは総司令室中央の床を見遣った。
「夜までには完成させないとな」
デスクの裏面にあるボタンを押すと、床が音をたてながらゆっくりと開いていく。緊急時のための避難通路およびシェルターだった。
普段はこっそりもちこんだ私物を放り込むのに使用しているのだが。
階段を降りたその先の小部屋、その中央に用意した人の大きさほどもある、茶色に輝く柱のようなものに向き合う。
シモンは電動ドリルを手に持つと、真剣な眼差しで作業を始めた。
――そして、夜。
「……というわけで、これが俺からニアへの逆チョコ」
「すごい、シモン……! 私、感動しました」
頬を染めて「それ」を見つめるニアの表情に安堵し、シモンは己の技巧の全てを注いだ傑作を誇らしげに眺めた。
ただの柱のような塊だったチョコレートは、今やシモンの手によって見事な女神像へと変貌をとげていた。モデルは無論ニアだ。
波打つ髪もたおやかな美貌も、しなやかな肢体も寸分違わず再現されている。大きさもほとんど等身大だ。
唯一違う点といえば、身にまとう服がやや露出の高いローブに変更されているところくらいだろうか。
ロシウが退室してからの二時間で、ここまで完成度を高められたのだから上出来というものだ。
「こんなにすごいチョコ、食べるのがもったいないみたい。どこからいただけばいいでしょうか」
少女のころカミナの像を眺めていたのと同じように目をきらきらさせるニアを、シモンは眩しく見つめる。
「そうだな……俺だったら、ここからいくかな」
「え……? あっ」
驚くニアを無視して、シモンはニア像の唇に自分のそれを重ねた。
「もう、シモン……」
ニアが恥ずかしそうに袖を引っ張るが、シモンは構わずチョコレートの唇を嘗め回す。
てらてらと光り、蕩け始めた像の唇はどこか艶かしい。
「次は、ここかな」
「やっ……」
一度離れたシモンの唇は、ニア像のはだけた胸元へと落ちた。
製作者の好みなのか、半分はだけて露になった乳房の頂点は、やはり実物と変わらぬ造形だ。
小さく尖った可愛らしい先端は、シモンの唾液に塗れ、舌に絡めとられてだんだん丸くなっていく。
「ね、やだ、シモン……」
くいくいと袖を引っ張り抗議するニアの頬は真っ赤だ。
「ごめんごめん。恥ずかしかった?」
「そうじゃなくて……ずるい」
「え?」
「チョコレートの私ばっかり、ずるい」
潤んだ瞳で見上げるニアは、拗ねたような口ぶりで続けた。
「チョコよりも、本物の私のほうが美味しいもん……ね、食べて?」
シモンがチョコレートよりも甘い菓子を味わい始めたのと同時刻。
明かりを落とした部屋で、キノンは可愛らしくラッピングされた箱を手の中で弄んでいた。
「今年も渡せなかったな……」
去年も、一昨年も、その前も。後一歩の勇気が踏み出せなくて。今の関係が変わるのが怖くて。
金色のリボンを引っ張り、包み紙を開ける。手作りのトリュフを一つ口にし、テーブルにうつ伏せる。
頬に伝わるひんやりした感触が心地よく、そして切ない。
「甘いけど……ちょっと、苦い」
小さく呟いた声は、誰に届くこともなく部屋の闇へ溶けた。
終