「なぁー、兄ちゃんクーラー入れようぜー」  
濃紫色の長い髪の毛を鬱陶しそうに払いながら、ソファで踏ん反り返った少女が言う。  
その言葉遣いと、薄手のTシャツにサロペットパンツという格好からは、随分と男勝りな内面が見てとれる。  
少女の名前はキヤル、この家の末っ子だ。  
 
「ダァーメだ、クーラーは夜だけってんだろォーが」  
「兄ちゃん、こういうところはしっかりしてるっていうーか、ケチっていうーか」  
洗面所のほうから返ってきた答えに、キヤルは先ほどよりも乱暴な口調でそう漏らし、口を尖らせた。  
 
「文句言わないの…それより、準備はできてるの?」  
リビングに隣接したキッチンから金色の髪をした少女が言った。  
下着かと思わすようなベアトップに窮屈そうに収められた胸や、  
色褪せたデニム生地のショートパンツから見える太股にかけてのラインなどは、  
男の食欲かきたてる女としての色気があった。  
 
「それなら心配ねぇよ、キノンねーちゃんがまとめてくれたから」  
そう言ってキヤルはソファにから身体を起き上がらせると、  
テーブルに置かれた自分の携帯電話へと手を伸ばした。  
そして、慣れた手つきで操作をし、窓際で読みものにふける少女へとそれを向ける。  
 
ジーィ…ピロンッ♪  
 
ピント調整のアナログ音に続いて、小気味の良い電子音が響く。  
すると、キヤルが手にした携帯電話の画面に、先ほどの少女の姿が表示された。  
最近の携帯電話は通話という本来の機能以外に、電子メールやデジタルカメラ、  
テレビも観賞できれば、宇宙に打ち上げられた衛星から位置情報を取得するといった機能まで備わっている。  
その便利さ故に、総人口を上回る数が世に出回っているというのだから、まったくもって不思議である。  
 
「苦労したんですよ?四人分の荷物をひとつにまとめるのって」  
静止画になってしまったディスプレイの向こうで、読みものを中断した少女が、  
ワンピースの裾をおさえ、眼鏡をかけなおしながらそう返した。  
少女の名前はキノン、この家の次女で一番の勉強家だ。  
実際、キヤルの言葉に少し膨れた顔を見せた今も、  
数秒後には手にした"何かのパンフレット"から情報を収集する作業へと戻っていた。  
 
暫くして、キッチンから流行の音楽が流れた。  
すると、キヨウがどちらが本体かと問いたくなるような、  
ジャラジャラとしたストラップをぶら下げた携帯電話を手に取り、耳に当て、何かを吹き込む。  
暫く何かを談笑し通話をやめたキヨウが、リビングの方へと振り返る。  
 
「着いたのか?キヨウねーちゃん」  
待ちきれないといった様子で、キヤルが八重歯を輝かせながらそういうと、  
キヨウは濡れた手をタオルで拭きながら、少し大きな声で答えた。  
「おにーちゃーん、先生来たわよーっ」  
「来やがったか、以外とはえぇーじゃねェかよ?」  
必要以上の抑揚つけた声とともに、頭頂部のみ長く伸ばした金髪をピンと尖らせた男が、  
薄いカーキ色のツナギを胸元まで肌蹴させリビングルームへと現れた。  
 
「それじゃぁ、行くぜッテメェら!このキタン様主催のスペシャル日帰り旅行になァア!」  
 
自らをキタンと名乗った男の手には、"ドッカナイ・ジャンボ海水プール招待券"と書かれた、  
五枚のチケットが握り締められていた。  
 
--*--  
 
路上に停めたRV車に近づいては、また距離をとるといった行動を繰り返す怪しげな男の姿があった。  
どうやら、サイドミラーを手鏡代わりに自分の服装をチェックしているのだろう。  
 
(言われるがままに買ったは良いが…似合ってるのか?これは)  
 
家を出てから既に何度目にかになる"疑問"に囚われた男は、  
後頭部に手を当て、何時ものように眉の皺をぐっと寄せていた。  
そして、白いシャツのボタンを"閉じるべき"なのか"開くべき"なのかを一頻り悩んだ末に、  
上から三つ目のボタンまでをとめてサイドミラーから顔を離した。  
決断に至った理由は簡単で、シャツの下に着ているタンクトップが恥ずかしかったからだ。  
とは言え、普段であれば勤務先にすらタンクトップにジャージ姿で現れる男にとって、  
恥ずかしさの原因となったのは、その形状ではないということを補足しておこう。  
そう、男が普段着ているのは柄のない白いタンクトップだが、  
今日はピンク地に赤いハイビスカスがプリントされたタンクトップだったのだ。  
 
自分の中の疑問に一応の決着をつけた男は、  
ハーフパンツから飾りっ気のない携帯を取り出し、メモリーから呼び出した番号へ発信をする。  
すると、呼び出し音が暫く流れた後、女の声が耳に飛び込んできた。  
「ああ、今着いた…すまん、少し早かったか?」  
インパネに備え付けられたデジタル時計に目をやり、男は言った。  
 
男の名前はダヤッカ。  
紅蓮大学付属羅巌学園で高等部三年C組の担任と、  
中高等部の地理科目教員、そして水泳部の顧問をするしがない新米教師だ。  
そんな新米教師が、安月給から大枚をはたいて借りたレンタカーに乗り、  
ここまでやってきたのは理由があった。  
自身が担任をするクラスの女子生徒に夏休みの思い出作りへと誘われたというのがそれにあたる。  
厳密に言うのであれば、教え子の家族に誘われたというのが適当だろう。  
 
ダヤッカが教え子と家族ぐるみでの付き合いになったのは、今年のはじめに遡る。  
当時、都市を震撼させた"連続婦女暴行事件"の標的になってしまった教え子を救うため、  
愛車の"マウンテンバイク"で追走劇を繰り広げ、全治一週間という怪我と引き換えに、  
事件を解決に導いたのがそのきっかけだ。  
 
 
「分かった…キタンには冷房もガンガンにしてるからって伝えといてくれ」  
そう言って会話を終えたダヤッカは、路上に設置された古びた自動販売機気付くと、  
汗まみれになった携帯電話をハーフパンツで拭いつつ、尻ポケットから小銭を取り出した。  
 
そして、小銭を投入すると一斉に赤いランプが点灯したボタンの中から、  
麦茶のボタンを押して、販売機の中央に設けられたディスプレイに目を凝らす。  
こういったものに大した期待は寄せてはならないと判りつつも、  
"7"が二つ並んだその後ろでランダムに動く数値の行方というものは、どうしても見届けたくなるのだろう。  
そうして何時もの歯痒さに喉を五回も鳴らす頃には、ダヤッカの両手はペットボトルで溢れそうになっていた。  
 
「オイッ、待たせたナァッ!ダヤ公!!」  
ふいに自分の名を呼ばれ、ダヤッカが中腰のまま振り返ると、  
そこには二本の指を額にかざしたキタンと、その"家族"の姿があった。  
 
キタンたち家族は四人で生活をしていた。  
十六歳から十八歳の未成年がたった四人でだ。  
 
学園側からは彼らの生活環境を危惧する声が幾つもあったが、  
その家族構成自体は"学園にとって"珍しいものではなかった。  
なぜなら、あの学園自体に様々な理由で親を失った孤児たちを集め、  
様々な方法でそれぞれの生活を支援しつつ、初等部、中・高等部の教育を一貫して行うという目的があったからだ。  
支援の一部には中等部までは全寮制を基本とし、高等部に関しては希望者に限って、  
学園指定のアパートを紹介し生活支援金を支給するものまであるのだから、  
理事長であるロージェノムという男の御心の深さというのは計り知れない。  
 
では、学園側がキタンたち家族の何を危惧しているのか。  
それは長兄であるキタン自身に問題があった。  
 
キタンは自身が高等部にあがると同時に、所定の手続きを行い寮を出た。  
これ自体には何の問題もなかったのだが、中等部に在籍する三人の妹たちを半ば強引に連れ帰ったのだ。  
当然、学園側からの支援金は高等部に在籍しているキタン一人分の支給しか行われなかった。  
当時十六歳の少年は、突然三人分の生活費を稼がなくてはならなくなったのだから、  
生活の全てがその捻出にのみ宛がわれることになるのは、想像に易い。  
そして、主に睡眠時間に当てられた学業の成績というものは、  
いうまでもなく下の下を彷徨い、最終的には進級すら危ぶまれたほどであった。  
 
そう、学園側はこんな世間一般で"不良"と称される兄の下で、  
年端も行かない妹たちを同居させるということを危険と判断したのだ。  
しかし、三人の妹たちに言わせれば、学園側の危惧するところなど、甚だ見当違いだと言うだろう。  
"家族"という絆を教えてくれる存在が兄を除いてどこにいるのかと。  
杓子定規な大人からすれば、お世辞にも出来た兄だとはいえないかもしれないだろうが、  
血の繋がりのないお前たちがどれだけ詭弁を振りかざそうが、それは変わらないのだと。  
 
 
「――で、それでどうなったんだよ?」  
信号につかまった車内で、運転席の後ろから身を乗り出しながらキヤルが言った。  
「どうなったって、今のでオチはついただろ?」  
すると、キヨウの作ってくれた握り飯の粒にまみれた指をしゃぶりながら、  
道路標識に目を向けたダヤッカがそう返した。  
キタンたちの家からインターチェンジまでは、どうしても都心部を経由しなくてはならなかったが、  
平日の午前中ということもあり、道路状況は良好であった。  
 
「つまり、幽霊はドアを内側から叩いていたので、一晩中部屋の中にいた…って、ことですよね?」  
「なんか、後からくるわね…アタシ苦手なのよ、この手の話し」  
信号が青に切り替わり、左折した車の後部座席でキノンが話しのオチを解説すると、  
キヨウは人差し指を唇に当て少し考えた後、身震いをしながらそう言った。  
車内では夏にはつき物である怪談話が行われていたのだが、話し手としては怖がる者が一人でもいると大いに助かる。  
だがそれも予想範囲内の怖がり方をしてくれる場合に限っての話しだ。  
 
ダヤッカはバックミラーに写る聞き手の反応に、満足げな笑みを浮かべつつ、あることに気付いた。  
それは助手席のキタンが先ほどからやけに大人しくなってしまったことだ。  
カーブを曲がり終え、ハンドルを戻しながらダヤッカが横目で様子を伺うと、  
そこには両手で耳を塞ぎ、目をぎゅっと瞑ったキタンの姿があった。  
 
「おい、キタン?ひょっとしてお前…」  
「あ゛ー!聞こえねぇッ!俺にはさっぱり聞こえネェッ!!」  
両足をばたばたとダッシュボードに打ちつけながら、キタンが周りの声を掻き消すように叫ぶ。  
 
「わっわかったから、な…落ち着け、俺が悪かったから暴れんでくれ!」  
「まぁ、幽霊なんてホントにいるわけないんですから…ねぇ?」  
「そっそーよねぇ、やだ、お兄ちゃんったらわざと怖がって見せたりして」  
 
キタンの意外な一面を知った面々は、即座に彼の尊厳を守るように話しを合わせる中、  
唯一キヤルだけが、その様子に笑いを堪えるのに必死であった。  
 
--*--  
 
高速道路に入ってからも道路状況は良好だったが、  
区間ごとに設けられた料金所での停止だけはどうしようもなかった。  
借りてきた車にもETCといわれる自動料金収受システムの端末が設置されてはいたが、  
肝心のICカードを借主がもっていなかったからだ。  
そう、車の借主であるダヤッカという男は、世の中が至る所でデジタルへと対応していく中、  
未だにレンタルビデオ屋でVHSのテープを探すほど、アナログが似合う男なのだ。  
キヨウはダヤッカのこういうところも、なんとなく好きだった。  
 
暫く車を走らせたところで、一つ目の山を抜けるためのトンネルへと差し掛かる。  
トンネルというのは実に不思議なもので、入る前と抜けた後での風景の変化は、  
テンポの良い映画の場面転換と同じで飽きを感じさせない。  
風景が切り替わるための"カチンコ"でしかないトンネル自体にも、これはこれで楽しみ方があり、  
トンネル内での息を止め大会などは、誰もが経験したことがあるだろう。  
例に漏れず、キタンが言いだしっぺで開催された車内での大会は、水泳部の顧問でもあるダヤッカの連勝だった。  
 
そして、七つ目のトンネルを抜けたところで、海が彼らを迎えてくれた。  
 
ドッカナイ村はツェッペリンシティから、約70kmほど南下した位置にある小さな村だ。  
主に漁業とビニールハウス製のトウモロコシで成り立っていた海辺の小さな村に、  
室外を売りとした、大型海水プールが誕生したのは昨年の夏のことだった。  
全国を的にもおおよそ最大規模の施設であるということもあって、  
その建設に出資された金額というのも、またそれに見合うだけのものであった。  
もともと人口の少ない上に、近年では過疎化が急速に進むドッカナイ村にとっては、  
まさに村の存続をかけた計画だったが、来年には遊園地とホテルを開業する計画があがっているというのだから、  
村の大きな収入源になっていることは間違いないと言えるだろう。  
 
80,000m2という敷地の総面積は、ツェッペリンシティのドーム球場のおよそ二倍に匹敵し、  
中には大小様々なプールや水をテーマにした遊具が設けられており、  
シーズン中は一日あたり最大五万人にもおよぶ利用者で溢れかえっていた。  
 
一般道路へ降りると、まずは村が総出で歓迎するかのような巨大な看板が一行を向かえてくれた。  
そして施設が近くなると、今度は警備員の案内に従い、三十分をけてようやく立体式の駐車場へと辿り付いた。  
プール自体が立体施設ではないので、駐車場は下の階ほど人気が高く、  
開園から二時間も経過していたこともあって、五階まで上がったところでようやく駐車スペースを見つけることができた。  
ダヤッカがギアをバックに入れ、助手席へ腕を回すと、顔を後方へ向けて駐車を試みる。  
いつもであれば、後退駐車など一発で決めてみせるというのに、この日のダヤッカはミスを連発した。  
理由はいたって簡単で、後方へ向けた自分の顔と、  
後部座席中央に座ったキヨウの顔が、あまりにも近い位置にあったからだ。  
落ち着くために深呼吸をしてみても、キヨウの香りを深く吸い込むだけで、  
高鳴る鼓動がハンドルを持つ手を震えさせ…まあ、つまりはそういうわけだ。  
 
「よし、ついたぞ、忘れ物のないようにな」  
なんとかスペースに車を収めたダヤッカは、  
まるで恋する女子高生のように耳まで赤くした顔でそう言った。  
 
--*--  
 
「よぉーっしッ!!しっかり身体ほぐしとけよォオッ!」  
 
黒いビキニに着替えたキタンが、他の四人を一列に並ばせ、  
ラジオ体操よろしく身体を横にまげる側屈運動をしながら声をあげた。  
「…恥ずかしい、です」  
腰まわりにフリルのついた薄い緑色のワンピース水着を着用したキノンが、  
小ぶりな動きで兄に従いつつも、正直な感想を漏らす。  
「兄ちゃん、やめようぜー」  
続いて前屈運動をはじめたキタンの正面で、青と白のストライプ柄をしたスポーツ向けのタンキニという、  
色気の欠ける格好でキヤルがぼやいた。  
 
「グダグダ言ってんじゃねェッ、ちゃんとなァ身体解しとかねーといけネェんだよッ」  
キタンは相変わらずの大声で撒き散らしながら、体操を続ける。  
すると、次第に周囲には人だかりができ、見世物になるのにそう時間はかからなかった。  
最初は"好奇"の目を向けた観客たちは、やはりといっていいのか、  
最終的にはキヨウに対する"好意"の視線へと変えていくのは、滑稽ですらある。  
仮にここに真の意味での"観客"がいるのであれば…それが燦々と照りつける太陽だとしたならば、  
こいつはまったくもって良い見世物だと笑うだろう。  
 
キヨウは周囲のそんな熱い眼差しに軽いサービスで応えてやると、視線を横へと向けた。  
そこには"catch me,if you can"とプリントされた白いサーフパンツ姿で、  
リズミカルに両腕を太もも付け根に当てては、戦隊者のヒーローのようにポーズを決めるダヤッカの姿があった。  
その口が律義にリズムを刻んでいたのには、さすがのキヨウも呆気にとられたが、  
それでも予想の範疇を超えていないと思い返してから、苦笑いを浮かべた。  
 
(なんていうか、ギャップかな…脱ぐとワイルドなんだよね)  
 
キヨウがそう思ったとおり、ダヤッカという男は普段こそ控え目で、  
物腰の柔らかいのだが、その身体はまるでレスラーのように鍛え上げられている。  
褐色の肌を考慮すれば、海の男というのがしっくりくるかもしれない。  
勿論、服を着ていたからといってその体系が変わるわけではないのだが、  
発達した筋肉を惜しむことなく披露している今の姿は、普段の"困り顔"からくるイメージとは異なるものだった。  
 
キヨウはそんな思考を巡らせた後、やきもきする自分の感情に口先を尖らせた。  
それもそのはず、服を着ていたときよりも露出度を上げているにも拘らず、  
それに対するめぼしい反応を、ダヤッカがいまだによこさないからだ。  
今日のためにキヨウが新調したビキニは、白を基調にラインストーンを散りばめ、  
トップスは胸をこれでもかとアピールできるトライアングル型のものをチョイスした。  
なのにだ、着替えを終えここに集まってからというもの、幾らアピールポーズをとってみても、  
相手は競泳用のゴーグルのベルトを締めなおしたりで、一向に自分を見ようとはしてくれない。  
 
(アタシを見てごらん!ほら、早く!!)  
キヨウが念仏のように心の中で唱える。  
(おい、コラ!オッパイ好きって知ってんだぞ!)  
体操を続けながら、じっとダヤッカを見つめる。  
 
その時だ、ダヤッカがとうとう観念したように目だけをキヨウに向けた。  
そして、遅れて顔自体も向けると、ついつい胸元へと向かってしまう視線をキヨウの鼻頭に固定し、こう言った。  
「よ、よかったな、天気にも恵まれたみたいで」  
まったく、実にクールな男だ…と、賞賛を送ってやりたいところだが、  
鼻血を垂れ流しながら言ったのでは様になるわけはなかった。  
 
ダヤッカがあたふたと顔を上に向けて首筋を叩く横で、キヨウは拳を握り締め、小さくガッツポーズをとっていた。  
 
かくしてキタンからの十五分にもおよぶ拷問を乗り越え、  
一行はシャワーを浴びてから総合案内所へと向かった。  
 
パーク内は主に、ジャングルやスペース、ウェスタンといった幾つかのエリアに分かれており、  
中央に設けられた大型スライダーがレストラン以外のエリアに直結する形で伸びていた。  
では、その大型スライダーへ向かい、高い位置から品定めしてみてはと提案したのはキノンだった。  
スライダーの名前は"スパイラルネメシス"。  
複数のレーンがそれぞれ独自の曲線を描き、複雑に絡み合いながら滑り落ちるという、  
このパークでも一番の売り物スライダーだ。  
高さ28メートルから垂れ下がるレーンの数は全部で十二本もあり、  
中には300m超えという世界最長のものまであるのだから、"神"の名を冠するのは伊達ではない。  
 
「しかし、すごいな…これは」  
ダヤッカは大きな身体を階段の手すりから乗り出し、頭上へと続く人の列を見上げた。  
「なんだダヤ公、テメェびびっちまったのか?」  
鼻を鳴らしたキタンの顔が視界に割り込んでくると、  
今度は階段の下に顔を向け、パーク全体を見渡しながらダヤッカが続ける。  
「いったい、何人ぐらいいるんだろうな」  
それを聞いたキノンが眼鏡のふちを押さえながら、その質問に答える。  
「パークの最大収容人数は二万人、シーズン中は日に最大五万人もの利用者がいるみたいですよ」  
勤勉なだけでなく、情報の利用法すらしっかりと心得たキノンは、  
出発前にパンフレットから仕入れた情報の価値を活かしてみせた。  
 
「まだ午前中だってことも考えるとだ、もう一万人ぐらいは居やがるンのか?」  
「あ、はい、おおよそ、それぐらいは…」  
「すっげーな、ウジャウジャいやがるぜ」  
最前列に並んだキタンの変則的な質問に、キノンは少し言葉を詰まらせながら答えると、  
その間でキヤルが八重歯を光らせ、笑いながら言った。  
 
そんなパークの話しで盛り上がる三人を他所に、  
キヨウとダヤッカは最後尾でなにやらひそひそと会話を続けている。  
「教師と生徒だって手ぐらい握るじゃない?」  
「いや、それはそうだが、なんていうか…な」  
どうやら、キヨウが手をつなごうと言い出したのだろう、それをダヤッカが拒み、拗れてしまっているようだ。  
「上手くはいえない?」  
「うーん」  
「ただの生徒じゃないから、この状況で手は握れないってワケね?」  
「…まぁ、そういうことになる…あっいや…違う、今のは違うんだぞ」  
顔は前を向けたまま、後ろに立つダヤッカへ刑事ドラマのような尋問を続けるキヨウ。  
ダヤッカはまんまとその手口に引っかかり、しまったと思ったときには、  
己に引き続けた"教師と生徒という関係"の一線を、容易く超えさせられていた。  
 
もとよりこの二人の関係など、今ではキノンとキヤルでさえ知っている。  
それが証拠に、このひそひそ話が微かに聞こえたのか、  
キノンとキヤルはダヤッカの間抜けっぷりに笑いを堪えるのに必死だった。  
つまり、当人以外にも二人の関係はとっくに"恋人"という認識なのだ。  
ただ一人、自分の妹がまさか担任教師と恋に落ちたなど…いや、  
それを想像に至る経緯などは様々にあるのだが、  
知らされるまでそんなことを考えもしないキタンだけが、その様子に首を傾げていた。  
 
「お兄ちゃん、前…ほら、はやく詰めて」  
キヨウはそう言って、キタンの前が空いたことに注意をそらせつつ、  
片手を自分の腰の後ろに回し、ダヤッカを急かした。  
すると、暫くしてからその手のひらにダヤッカの小指が一本当てられた。  
キヨウはその指を手のひらでぐっと握りると、にこりと微笑んでから階段を上った。  
 
背後からは暫くダヤッカの唸り声が聞こえた。  
 
階段を上り終えると、水を吸った人工芝が独特の感触で五人を迎えてくれた。  
野外プールなのだから、鉄筋むき出しでは足の裏が焼けてしまうのだろう、  
隅に設けられた小さなスプリンクラーは、定間隔で人工芝に水分を補給している。  
 
小麦色の肌に白い歯を輝かせながら、係員が各々の腕に巻きつけたフリーパスをチェックする。  
そして、そのフリーパスに書かれたIDから、五人が同一グループであることを確かめると、  
決まった台詞のように着地希望エリアを聞いてきた。  
これほどまでに大きな施設だ、一度はぐれてしまうと再び落ち合うのがどれだけ困難かは想像する易い。  
フリーパスにはグループ毎にIDが割り振られており、係員の手間を省くのと同時に、  
迷子案内では利用者の"面子"を立てるという役割も担っていた。  
実際、パーク内のスピーカーから聞こえる放送からは"何処に在住する誰が"という個人情報が漏れることはなかった。  
 
一行が選んだジャングルエリアへの降下口には四つのレーンが接続されており、  
キタン、キヤル、キノン、そしてキヨウが既にそれぞれに身体を収めていた。  
 
「んじゃ、先に着いたからって流されてんじゃねぇぞぉっ」  
そういってレーン越しにキヤルとハイタッチをしたかと思うと、  
キタンは手で加速をつけつつ先陣を切って滑り出した。  
「オレも先にいってるぜー」  
そして、キヤルが万歳をしながらその後に続くと、  
キノンが意を決したような震えた声で言った。  
「い、いきますっ」  
胸の上で腕を交差したキノンの身体が水流で徐々に進みだし、  
傾斜部に差し掛かったあたりで、新たなエネルギーがその身体に働きかける。  
 
「ひぃ、い、いっ…いやぁああっ!」  
重力によるエネルギーの転換が進むにつれ、降下の速度は増していき、  
キノンの身体と声が、あっというまに見えなくなってしまった。  
 
「まったく、キノンは怖がりなのよね」  
苦笑いを浮かべたキヨウがダヤッカの方を振り返る。  
「案外、先生も叫んじゃったりして」  
「馬鹿を言うな、たかが滑り台だろ?」  
ダヤッカは何時ものように後頭部に手を当て笑いながらそう返した。  
しかし、古い記憶の中にある公園の滑り台から、随分と様変わりをしてしまったスライダーに、  
その顔は不安に少し引きつっているようにも見てとれる。  
ダヤッカのそんな内心を知ってか知らずか、ビキニの紐を締めなおしたキヨウは、  
ウィンクと投げキッスというベタなことをしてから滑り出した。  
 
四人が滑り出したことで、誰もいなくなった降下口を前にしたダヤッカは、  
迷わずキヨウが滑ったレーンへと自分の腰を沈めた。  
特に何かを期待してというわけではなく、後の話題で共有できるものがあればと考えたのだろう。  
 
待ち時間の間に干上がった身体に、流水が予想以上に冷たく感じられたが、  
水泳部の顧問であるダヤッカにとっては、水中こそフォームグラウンドなのだろう。  
首に下げたままだった競泳用のゴーグルを眉間に押し当て、  
アイカップから空気を抜くと、首の間接を鳴らして大きく息を吸い込む。  
 
「よぉーし!行くぞッ!」  
 
先にキタンがやったように、両手で加速をつけたダヤッカの身体が、  
白いレーンへ消えていった。  
 
足元で弾かれた水しぶきがゴーグルに当たって視界を滑っていく。  
 
(次は右か!?)  
 
ダヤッカは何度目かのカーブに差し掛かったところで、身体が感覚を掴んだのか、  
両手と両足をレーンから離し、水流に接する面を小さくしてみせた。  
すると、水に流されていた身体が遠心力で大きく外回りをはじめる。  
 
続いて左に急旋回したレーンに身体を躍らせたダヤッカが、  
両手両足を大きく広げながら、年甲斐もなくはしゃぎ声を上げる。  
そして、遠心力から開放された身体が再びレーンの中央へと戻ろうとした時、  
軽い衝撃とともに柔らかい感触が、自分の右側にぴったり張り付いて邪魔をした。  
白く細い腕、そして金色の髪を水流に逆立てながら、よりそうようにして滑るもう一つの人影。  
 
そう、そこには先に滑っていたキヨウがいたのだ。  
 
「捕まえたっ」  
レーンの上でダヤッカの身体に抱きつくようにしてキヨウが言った。  
その声を聞いて、一度キヨウの顔をまじまじと見たかと思うと、  
ダヤッカのなけなしの頭脳が現状分析の処理を開始する。  
 
キヨウがスタートしてから係員の指示に従い、十分に距離を開けてスタートした。  
昔、何かのマンガで"重いものほど早く落ちる"というのを読んだことがあるが、  
あれは全くのデタラメで、万物は等しく同じスピードで落ちるというのも知っている。  
だがしかし、それはあくまで落ちるという行為であって、滑るという行為ではなく、  
今こうして自分の身体に添えられたキヨウの若い肌が、自分以上の摩擦力で滑降速度を緩めていたのではないか…と。  
 
言い遅れたが、このダヤッカという男の特徴の一つに、  
"難しいことを考えると瞳孔が開く"というのがある。  
普段はごま粒程度しかないそれが、数倍にも膨張するのだ。  
 
「追いつい、ちゃった…」  
どこか茶目っ気のある口調でそう言ったダヤッカは、  
ゴーグルの下で眼球の殆どを黒く染めながらどこか遠くを見つめていた。  
対するキヨウはというと、そんなハプニングに瞳を輝かせ、  
思考回路をショートさせた相手の頬に自分の唇を重ねる余裕さえあった。  
 
兄や妹たちの前では、ましてや学校では周りの目があるのに付け加え、  
せっかく二人きりになった場合も、普段であれば相手がそれをよしとはしてくれない。  
この際、個人が抱く葛藤というものは度外視するのならば、  
この恋愛の成就が困難であるのは、キヨウにしても同じことというわけだ。  
ならばこのパニックに陥っている隙を見計らって、少しでも距離を縮めれば良い。  
もとより、待てといわれたあの文化祭のときから、  
待つだけでは自分が持ちはしないことは、度々思い知らされてきた。  
だから、部屋に押しかけたりもしたし、休みとあればショッピングに連れ出したりもした。  
そして、その都度困るダヤッカの顔を見て充足を覚える自分は、  
とことんサディストなのだろうと思うこともあった。  
だが、なんてことはない。  
そんなことはそこららの男女が日常的に行う駆け引きと同じで、  
相手が好いていてくれているという確たる自信があるから行える一種の戯れに過ぎない。  
 
キヨウはダヤッカの身体を強く抱きしめた。  
 
対照的な二人が滑るレーンは、半分を過ぎたところで直線コースへ転じていた。  
遊園地のアトラクションなどでも良く見られる手法だが、  
静から動へと一変させるための布石なのだろう。  
 
もっともこれはスライダーなのだから、ジェットコースターや急流滑りのように、  
ベルトで再度引き上げられるということはない。  
ただ上から下へと滑り続けるしかない二人の身体は、  
何時の間にか大の字になったダヤッカの上に、キヨウが寝そべる体勢になっていた。  
 
キヨウの楽しそうなはしゃぎ声だけが響く中、レーン急旋回をはじめると、  
遠心力でキヨウの身体がダヤッカの身体から転げ落ち、次の瞬間にはレーンの外へ押し出されていた。  
 
無重力に放り出された身体を一瞬硬直させたキヨウが、ダヤッカへと手を伸ばす。  
 
「先生ッ!」  
 
その声で我に返ったダヤッカは、開ききった瞳孔をきゅっと引き締め、  
あの事件のときのように、頭で考えるより先に身体を動かした。  
レーン上で身体を起し、キヨウの腕を掴んで自分の方へ一気に引き寄せる。  
すると、再び下向きの力を加えられたキヨウの身体は、  
空中で身体を捻るように反転させ、ダヤッカの腹の上に跨るように着地をした。  
流石はチアリーダー部副キャプテン…その肩書きは伊達ではないのだ。  
 
急旋回を終えたレーンが今度は激しいスラロームゾーンへ突入すると、  
ダヤッカは再び飛んでいきそうになるキヨウの腰に手を宛がい、自分の身体にしっかりと押さえつけた。  
一方、ダヤッカの腹の上に跨ったままのキヨウは、  
不安定な上半身をなんとか安定させようと、"支えになるモノ"を探した。  
そして、股の間に当たる異物を見つけ、自分にはないその膨らみをじっと見つめる。  
 
(…これは、流石に良いの…かな)  
 
「キヨウッ!もう大丈夫だ、しっかり掴まってろ!!」  
 
(ほら…ねぇ、本人も言ってるし…ねぇ)  
 
キヨウはごくりと喉元を鳴らしてから、まずは右手をその膨らみに伸ばした。  
それから、ぎゅっと棒状の根元部分を握り締め、更に左手を余った部分へ添え、力を込めた。  
 
「はぅ…ん」  
ダヤッカから気の抜けた声が漏れた。  
 
それもそのはず、キヨウが握り締めているのはダヤッカのナニなのだ。  
軟体生物のようにブヨブヨとしているが、それでいて中心に硬い芯のあるそれは、  
"支え"と呼ぶには十分な働きをしているようだった。  
キヨウは男兄弟こそ居るものの、だからといって男のナニに触れた経験などはなく、  
ダヤッカの部屋に押しかけたあの夜でさえ、寝こみにしたことはキス程度のものだった。  
そして、未知との遭遇を果たしたキヨウの表情は、先ほどと打って変わって明らかに動揺していた。  
 
(…両手でも余るこれが…入ってくる…の?アソコに??)  
 
口元を引きつらせたキヨウの下で、ダヤッカは大事なナニがもがれそうになる痛みに悲鳴も上げず、  
再び開ききった瞳孔でただただ晴天の空を見つめていた。  
何度もいうようだが、難しいことを考えると瞳孔が開くのが、  
このダヤッカという男の一つの特徴なのである。  
 
盛大に水しぶきを上げプールへ突入したダヤッカとキヨウが、絡み合った身体を解いて水面へ顔を上げると、  
先に滑り終えたキタンたちが次の準備を万端に整えて待っていた。  
一行が選んだジャングルエリアは、全長800メートルにもおよぶコースを、  
分速20メートルの速さで"ただ流される"だけなのだが、周囲を作り物の森林で覆い、  
野鳥の声を響かせるといった工夫が施されていた。  
 
「よーし、んじゃイックぜー!」  
バナナの形をした二人乗りのビニールボートに跨り、キタンとキヤルが号令を出すと、  
キヨウとキノンもそれぞれ浮き輪に尻だけを突っ込んだ形でその後に続いた。  
 
「それにしても、凝ってるな」  
「先生ったらさっきから感心ばっかりじゃない」  
ばらけそうになる三艘の舵を、水中から取っていたダヤッカが呟くと、  
それを聞いたキヨウが可笑しそうに笑った。  
「こういう場所にはあまりこんから、つい珍しくてな」  
顔は水面にはつけず、ダヤッカが平泳ぎでキヨウの浮き輪へと近づく。  
 
「独身のオッサンがプールってのも確かに笑えるもんな」  
「キヤルゥッ…仮にもテメェの姉妹の命の恩人だろぉが」  
バナナボートの上で足をばたつかせながら言ったキヤルに、キタンが軽く拳骨をくれてやった。  
「ッてーなぁ」  
「そういえば、警察からは感謝状てましたよね」  
大袈裟に頭を抱えるキヤルを横目に、キノンは手のひらで水面を漕ぎながら、  
会話の趣旨から少しずれた事実を付け足した。  
その後ろから、何時の間にか水中に姿を消していたダヤッカが水面に現れると、  
キノンの浮き輪をキタンたちのところへ連れて行ってやった。  
そして、自身もバナナボートに掴まり、少し照れくさそうに顔をする。  
 
「でもよ、実際スゲーんだゼ?学校での人気」  
「なんだ、そうなのか?」  
既に学校を卒業してしまったキタンが、自分の知らない世界での出来事なだけに、  
不思議そうな顔をキヤルに向けた。  
とは言え、彼自身が学園を卒業したのは春先の話しで、  
一連の事件が起こったのはそれよりも三ヶ月も前の話しだ。  
当然、学校でも当事者の周りに人が集まるといった状況は目にしてきたが、  
それも数週間の話であって、若者の興味は直ぐに別のものに挿げ替えられていった。  
当時のことを思い出しながらキタンが指折りで何かを数えたかと思うと、  
大きく身体を仰け反らせながら、ダヤッカを指差した。  
そして、やや神妙な面持ちをしながら、一つの疑惑を問いただす。  
 
「テメェ!まさか…その勢いでチョコとか貰ったんじゃねぇだろーなッ!?」  
「チョコ?…なんの話しだ?」  
要領を得ない会話の流れにいつもの困り顔をしたダヤッカに対して、  
キタンはまくし立てるような口調で続けた。  
「なにって、バレンタインだよバァレンタィイン!」  
それを聞いたダヤッカは、相手が何を問いただそうとしているのかを理解し、  
今度は呆れた様子で口をぽかんと開けた。  
それもそのはず、今は夏も終わろうかという八月の末だというのに、  
冬の終わりにチョコを幾つ貰ったかかという質問を急にされたのだ。  
 
ダヤッカは夏の日差しに首筋がじりじりと焼ける中、冬の記憶を探し始めた。  
 
「…まぁ、その…三個だけな」  
「三個だぁァア!」  
「生徒からだぞ?義理ってやつじゃないか」  
「義理…三個、ひょっとして…」  
キタンは再び身体を激しく動かしながら、自分の背後、  
そして左右にいる妹たちに疑いの目を向けた。  
 
「オレ、兄ちゃんにしかあげてねぇーヨ」  
「私も、その…お兄ちゃんにあげたやつしか」  
「ワタシは、先生とお兄ちゃんにあげたから、イーブンね」  
キヤル、キノン、キヨウが順に片手を挙げながら応えていくと、  
キタンは再び指折り何かを数え、どこか納得のいかない表情で両腕を組んだ。  
そして、暫く考えた末に、自分の中で"折り合い"がついたのか、  
腕を組んだままの姿勢で再びダヤッカの方へと向き直った。  
 
「ヘッ…テメェも隅に置けねぇじゃねぇか、ダヤ公」  
 
年頃の男にとって、バレンタインデーというのもは聖戦だといっても過言ではない。  
放課後、誰も居なくなった教室に用事もないのに残ってみたり、  
ふらりと公園に立ち寄っては時間を潰すなどして、目的のものを貰うための努力を欠かさない。  
そして、涙ぐましい努力の末に収集してきたチョコの数を競う。  
女の気持ちとはまた別の次元で渦巻く、男の誇りをかけた戦いは、  
まさに男という"性"の略図のようなものだ。  
「は…ははっ、そ、そうだなキタンも隅に置けんな」  
幾分乾いた笑みを顔に張り付けたダヤッカが応えると、キタンは満足げに鼻を鳴らした。  
 
突然巻き込まれた嵐が過ぎ去り、やれやれと思ったダヤッカの視界に、  
こちらをじっと見つめるキヨウの姿が飛び込んできた。  
 
(あ!しまったッ!)  
 
思わず口から飛び出しそうになった言葉を飲み込み、ダヤッカは心の中で叫んだ。  
しかし、一度発生した積乱雲は嫉妬という名の降水セルを孕んで、  
キヨウの中で成熟期へと突入するのにそう時間はかからなかった。  
 
ダヤッカは弁明しようにも、キタンたちの存在がそれをさせてはくれず、  
しかも周りの会話にも合わせなければならない状況下で、表情での謝罪しかできなかった。  
すると、キヨウがそれまでの表情とは一転して、  
薄いピンク色の口紅で飾った唇を弓なりにさせ、ピースサインをダヤッカによこした。  
 
(なんだ…怒ってないのか?)  
 
キヨウの変化に怪訝な気持ちも半分、安堵も半分といった心境で、  
ダヤッカは合わせるよう笑顔を作ると、ピースサインで応えようとした。  
しかし、それはできなかった。  
なぜなら、立てたキヨウの指が、ゆっくりと二本から三本へと変化し、  
声には出さずに口だけで問い詰めてきたからだ。  
 
「ど・う・い・う・こ・と」  
 
ダヤッカは自覚と覚悟を決めた。  
自分は既に嵐の中心に足を踏み入れており、  
自分だけでそれをなんとかしなくてはならないのだ、と。  
 
--*--  
 
背後で動く大きな影を無視して、キヨウは空いたスペースを詰めるように歩みを進める。  
大きな影もそれに合わせるように、後ろからぴったりとはりつき、  
手振りを加えながら必死に何かを語りかけていた。  
 
「――な、だから違うんだ」  
眉間を中央で吊り上げたなんとも情けない顔が、不意にキヨウの横にぬっと姿を現した。  
同時にキヨウがそっぽを向くと、大きな影は背後に消え、また小さなうめき声が聞こえた。  
 
ジャングルエリアを堪能した後、様々な売店の集まったレストランエリアで、  
それぞれ自由行動にしてはと提案したのはダヤッカだった。  
そんなことを言い出した理由は言うまでもないが、一人で嵐を鎮めるためだ。  
キヨウがキタンたちと別行動をするかは賭けに近かったが、  
今こうして二人だけで弁明の時間が作れたのだから、作戦は成功したのだろう。  
 
「本当に三つだけ?」  
「あっ…あぁ、本当だ」  
尻の後ろで両手を結び、相変わらずこちらを見ようとはしないキヨウに、  
ダヤッカは嘘偽りのないことを声のトーンで現した。  
「誰から、なんてことは聞かないけど…なに貰ったの?」  
「なにって、こんな…アーモンドチョコと、チコリチョコが詰まった紙コップのやつで…」  
「アタシのは義理になっちゃうの?」  
言葉を途中で遮るように、キヨウは核心とも言える質問をぶつけた。  
ダヤッカにしてみれば、単なるヤキモチだと高を括っていただけに、  
自分の足元に急に姿を現した地雷に、次の言葉は出てはこなかった。  
そう、問題の本質は幾つ貰ったかではなく、彼女からもらったチョコをどう受け止めているのかだったのだ。  
 
「アーモンドチョコにチコリチョコ、アタシの手作りのチョコ…これは全部、義理なの?」  
相手に思考を働かせる余地も与えはしないと、キヨウはもう一度同じことを繰り返し、追い討ちをかける。  
 
教師が教え子からチョコを貰う風景など、キヨウも毎年のように目にしているし、  
それが社交辞令的な意味合いしか持たないことも理解している。  
そして自分のしていることが単なる揚げ足取りでしかないことも自覚はしていた。  
では何故、キヨウがここまでの仕打ちをしてみせたのかというと、半分はキヨウの何時もの"悪戯"なのだ。  
残りの半分は嫉妬以外にも、事件直後で一躍ヒーローであったにも関わらず、  
自分以外から渡されたチョコが"たった二つ"しかなかったという世の中に対する不満が込められていた。  
 
「キヨウのが一番美味かった」  
少しの間を置いてダヤッカはそう答えた。  
質問に対する回答としてはあまりにも見当を外れだが、  
キヨウにとってはやはり予測できる範囲の言葉だった。  
本当は飾った言葉で言い訳をしようものなら平手をくれてやろうとも思ったが、  
どうやらその悪戯はさせてもらえそうにないと分かると、キヨウは肩を小刻みに振るわせ始める。  
そして、その揺れが頂点に達したところで、とうとう堪えきれずなったのか、声を上げて笑い出した。  
 
この男の"らしさ"が、この状況でも変わらなかったこと、  
そして、これこそが自分が惹かれる理由なのだと、今更ながら実感させられたことにキヨウは笑った。  
「…許してくれるのか?」  
一頻り笑い終えたキヨウの背中から、ダヤッカが声をかける。  
すると、キヨウは目尻に溜まった涙を拭いながら振り返り、こう言った。  
「ダメです…罰を与えます」  
なにかのドラマで聞いた台詞を再現するかのように、固い口調でキヨウが言うと、  
ダヤッカの顔は"罰"という単語に、何時も以上の困り顔へと変わった。  
 
「せめて、手ぐらいは握ってもらわないと」  
続いたキヨウの声が、また何時もの調子に戻っていたので、  
すっかり身構えていたダヤッカは、思わず呆気にとられた顔をした。  
そして、キヨウがその手を強引に自分のもとへ引き寄せると、  
ゴツゴツとした手が少し戸惑いながらもぎゅっと握り返してくれた。  
 
--*--  
 
燦々と照りつけた太陽が西へと傾き、東の空を夕闇が包み込んでいく。  
夏の夕暮れは、どうしてこんなにも綺麗なのだろう。  
沈み始めた太陽が雲を少しずつ茜色に染め始めると、  
他の季節では想像できないくらい、様々な色が空を演出し始める。  
完全に停止した車の助手席で背もたれの角度が調節したキタンは、  
サンルーフから覗く住み慣れた街の空に目を細めた。  
 
「今日は無理言っちまったみてぇで、スマネェな」  
「いや、夕飯にまで呼んでもらって、礼を言わなきゃならんのはこっちだよ」  
「キヨウのヤツも残りモンだって言ってんだ、気にすることねぇよ」  
ダヤッカはハンドルに身体を預けながら、そこで一度会話を止めると、  
暫くキタンと同じ空を眺めてから新たな会話を始める。  
「…就職活動、どうなんだ?」  
ダヤッカの選んだ会話は、キタンの進路のことだった。  
在学中にはっきりとした進路を決定しないまま、なんとか卒業に漕ぎ着けたキタンが、  
今もバイトの掛け持ちをして生活費の手助けをしていることは、キヨウに聞かされていた。  
生活費といっても、今では末っ子のキヤルも高等部に進学しているので、  
学園から支援がされていないのは、卒業してしまったキタンだけということになる。  
そのため、キタンの稼いだバイト代は、主に今日のような"家族サービス"や、  
将来のための貯蓄がその主な用途であった。  
自分の妹たちに大学まで行けと強制する気はさらさらなかったが、  
金銭的に無理だと言うまねだけは、キタンはしたくなかった。  
勿論、大学への進学だけでなく、妹たちの意思が生まれた境遇で断念せざるを得ないことだけは、  
あってはならないことだとキタンはそう自分に言い聞かせてきた。  
 
キタンが答える。  
「っへ、俺はなァ…ポリ公になるって決めたんだよ」  
「警察官?なんでまた??」  
意外な答えが返ってきたことで、ダヤッカは思わず身体を起し、  
瞬きをしながらキタンの方へと向き直る。  
 
「ンなもん、決まってんじゃねぇか、この街の平和の為に決まってんだろ?」  
相手が臆面もなくそう言ったので、思わず噴出しそうにるを堪えつつ、ダヤッカはキタンの顔に目をやった。  
そして、その表情から意思のようなものを汲取ると、数秒前の自分の浅墓さを恥じた。  
「それで、順調なのか?」  
「ま、テメェに心配されるまでもねぇよ」  
また、空を見上げる姿勢をとったダヤッカに、キタンが鼻で笑いながら答えた。  
 
そして、車内に再び沈黙が訪れると、今度はキタンが新たな会話を始めた。  
「あのよ、テメェを男と見込んでだ…聞きてぇことがあるんだがよ」  
そこまで言ったキタンは、座席の横に取り付けられたレバーを引き、  
後方に倒したシートを元の位置に戻した。  
そして、先ほどの様子から一変して、まるで小動物のように辺り見渡し、  
目だけをこちらに向けたダヤッカの顔をじっと見据える。  
その瞬間、ダヤッカに嫌な予感が過ぎった。  
 
(まさか、キヨウとのことが…)  
 
「あの、なんだァ…テメェはだな、その…」  
 
(…バッバレた!?)  
 
「その…なんだ…ヨーコのこと、なんだがよ」  
「ヨーコォッ?!」  
予感が外れたとに安堵するのを通り越して、結末を決め付けていた頭が展開についていけず、  
ダヤッカは思わずキタンが口にした教え子の名前を復唱していた。  
その瞬間ダヤッカの頬目掛けて、キタンの拳が繰り出される。  
 
「バッ、バァアッカかテメェはッ!こ、声がでけェンだよッ!!」  
「すっすまん、つい…」  
ダヤッカは拳で頬を押し潰され不明瞭な発音でそう言うと、キタンの拳がゆっくりと元の位置へと戻された。  
 
「その、ヨーコはテッ…テメェのクラスなんだろ…?」  
「高等部は二年と三年がクラスが持ち上がりだからな」  
「だろ?…それでだ、どうなんだよ?」  
「どうって、なにがだ?」  
「いや、その…アイツ、おっ男とかよ、いっ、い、居るのかよ」  
「男?…あ、あぁ、彼氏がいるかどうかを聞きたいのか?」  
そこまで言ったところでキタンの拳が再びダヤッカの頬をとらえたが、  
今度はダヤッカ自身も首に力を込めてそれに逆らった。  
 
「オイ、今のはなんで殴ったんだ」  
「スマン、ついだ…つい」  
そう言いながらも、なぜか負けず根性に火のついたキタンは、  
ダヤッカの首と暫くの間押し相撲をやってみせた。  
そして、話しの腰を折っているのが自分だと気付くと、  
もう一度ぶっきらぼうな謝り方をしてから、その手を離した。  
その後、告げられたキタンの話しはこうだ。  
 
例の事件の後、謝礼という面目で行われたキタン家での食事会には、  
当事者であるヨーコも当然呼ばれていた。  
キタンは高等部にあがってから、学園生活のほとんどを寝て過ごしていたので、  
妹であるキヨウのクラスメイトに顔を合わせるのも、その時がはじめだった。  
結論を言おう…キタンはそこで、ヨーコに一目惚れをしてしまったのだ。  
 
話しを聞き終えたダヤッカは、こちらを見つめる真剣なキタン眼差しに、  
開いたままになっていた口を閉じ、別の嫌な予感が的中しないことを祈りつつ恐る恐る聞いてみた。  
「…その、まさかとは思うが、それは紹介をしろってことじゃないよな?」  
キタンが深々と頷くのを見て、ダヤッカは"やはりそうきたか"と、ため息をついた。  
 
「あのな、俺はヨーコの担任で友達じゃないんだ…それはわかるな?」  
今度はキタンがボビングヘッドのように数回首をたて続けに縦に振った。  
「だから…その、だな…つまりだ」  
ダヤッカの真面目な性格はそこで大きな矛盾にぶち当たり、続く言葉の一切を失ってしまった。  
ヨーコと同じ教え子であるキヨウに、特別な感情を抱いてしまった自分が、  
一体どんな顔をしてその続きを言えばいいのかと。  
口をつぐんでしまったダヤッカに、キタンは更に緊迫した表情で追い討ちをかける。  
「頼むッ!このとーりだッ!!」  
 
「…わかった、だがあまり期待はせんでくれよ」  
ダヤッカは暫く悩んだ末に、もう一度大きなため息をついてからそう返した。  
そして、話が終わるのを見計らったかのようにキタンの携帯が鳴った。  
キタンは密談の内容が悟られないよう、一度大きく咳払いをしてから、  
普段通りの声で会話を始めると、電話の向こうでキヨウが夕食の準備が整ったことを告げた。  
 
その日の食卓には、あり合わせの食材で作ったキヨウ特性のオリジナルパスタと、  
ドッカナイ村で買ったトウモロコシが出された。  
 
 
-おしまい-  
 

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